ブラッド・コンタミナント

くすり

第1話 《眷属》

 雨が降っていた。長く続いた戦争の痕跡あとを、そっくり洗い流してしまうような雨だった。

 そこには生きるものはひとつも残されていなかった。人間も、妖種も、例外なく。戦争は平等だった。しかしその中でたったひとつ、ものがあった。

 は、人に非ず──

 は、妖に非ず──

 あまりに多くの命を奪ったそれは、いまだ自らの命が無様に残されていることをひどく悲しんでいた。死にたいと思ったことはない。それでも、死んでいないことは間違っている。生きていることは、許されないことだ。

 しかし、生きてしまっている以上は、帰らなければならない。それには帰る場所があった。それだけが、彼を死から遠ざける唯一のしがらみ。無残にも錆びて朽ちかけた刀を地に刺して、立ち上がる。

 それは涙を流していた。そこにあるすべてのものを、すべての死を悼んで涙を流していた。

 は、一歩ずつ、折れた足を引きずって、たったひとつの帰る場所を目指した。


          ◯


 思うに、女の子の秘密というやつは深淵だ。

 自分でもよくわからない場所に、女の子たちは秘密を抱えている。不意に覗かれると真っ赤になって怒り出すようなものを、わたしたちは誰でもひとつやふたつ、みっつやよっつ、いつつやむっつ──とにかく、たくさん抱えているものなのだ。

 だから、覗いてはダメなのです。怒られても仕方ないことなのです。

「……おい」

 不機嫌そうな、けれど装った中には少しだけ困惑したような声音が混ざった呼びかけが遠慮がちに耳を叩く。わたしは黙ったままいじわるをする。

「なんだ、その、悪かった。怒るのは勝手だが、こうも口を利かないのは不便で困る」

 本当は話し相手が居なくなるのが寂しいくせに、彼はこういう言い訳をする。だけど、素直に言っただけ今日は上出来だ。わたしは許してあげることにした。

「……もうわたしが内丹アレしてるとき、覗かない?」

「覗いたつもりはないが……」

?」

「……金輪際」

「よろしい。許してあげます」

 彼は安堵したのかため息をついた。わたしは彼の黒い布に覆われた顔を想像して、おかしくて少し笑った。

「……あまり、俺をいじめないでくれ」

「しょうがないんですよ。アハトさんがかわいいから」

「…………」

 彼はそれきり黙ってしまった。わたしはそれで少し機嫌を直して、路地を進む歩幅を広くしてずんずん進んでいく。もう少しで──

「あ、見えてきましたよっ!」

 わたしの声に、彼は少しだけ顔を上げる。深いフードの中から隠れた赤い目が覗く。綺麗な目だとわたしは思うけれど、彼は自分の目の色が好きじゃない。

「……《人妖特区》、か」

「なんだか賑々しいところですねえ。わたしはちょっと楽しみになってきましたよ」

「芳乃、遊びに来たんじゃないぞ」

「はいはい。アハトさんはヘンなとこ厳しいんだから」

 先をずんずん行くわたしの後を追う彼は、いつものように深いため息をひとつ吐いた。


「わ、見てくださいよアハトさんっ! こんなに種類がたくさんのかんざしがあるなんて」

 店先に並べられた色とりどりの商品をひとつひとつ手にとって日に翳して矯めつ眇めつ眺めながら、わたしは端的に言ってはしゃいでいた。

「あまり勝手に動き回るなよ。ここは《特区》とは名ばかりの危険地帯だ。人目のある場所は栄えているが、その実はこれまで俺たちがいた紛争地帯とそう変わらん」

「すごーい! これ、綺麗な漆塗……」

「……聞いてるのか」

 アハトさんはさっきからぶつくさ説教しているけれど結局のところわたしが露店を冷やかすのを待ってくれているので、彼なりにリラックスしているらしい。わたしはしばらく商品を眺めた挙句に、ひとつの金細工の簪を手にとった。そのままアハトさんのほうをじっと見た。

「ね、ね、アハトさん」

 呆れた顔でこっちを見返す赤い目は、黒いフードの下で控えめに光っている。

「……アハトさーん?」

「なんだ」

 ようやくわたしの呼びかけに応えた声はまだ硬い。わたしは少し丹田おへそに力を入れた。

「あ、は、と、さん……?」

「おい。そんなもの俺には効かんぞ」

「……ちっ」

 わたしは口端から吐き出し始めていた《錬丹》の吐息を呑み込むと、拗ねたような声を出した。

「べー、だ。アハトさんのケチ」

「なんとでも言え。そんな高いもの買えるか」

 値札を見ると、確かにちょっと手が出ない額が書いてある。わたしたちのお財布事情はけっこう厳しいのだ。せっかくわたしの着物に合う簪を見つけられてもこれではどうしようもない。わたしは冗談めかして抗議する。

「……いい加減、普通のも受ければいいのに。《眷属》がらみの依頼だけ、なんて限定してるから食い扶持まで回らなくなるんですよ」

「俺の仕事は俺が決める。それに、たかだか二人の旅でそこまで生活に困ってもいないだろう。少なくとも食い扶持というなら、食っているのはお前だけだからな」

「うっ……」

 確かに、と唸っていると、さっきの内丹で周りに撒き散らした吐息のせいか集まる視線が熱っぽくなってきたような気がして、わたしはアハトさんに合図した。

「……仕方ない。少し早いが宿に向かう」

「はあい」

 なんだかんだで、優しい人なのである。


          ○


 木造の、よく言えば風情があり悪く言えば朽ちかけて古臭い安宿に辿り着くまでにぐるりと街を廻った結論。この《人妖特区》という場所は確かに危ういバランスで成り立っているように、わたしには思えた。

 路地の裏などを覗き込むと、明らかに妖気の不自然な偏りなどが不意に見つかる。あの量ではごく普通の妖種や人間には気付けないだろうけれど、少しでも気や神を体内で煉っている者なら簡単に気付けるはずだ。

 あれは、たぶん不自然な妖気の移動があった痕跡だ。普通に生きていればまず出てこない人間の中身にある、奥底の何か。それが無理やりに誰かによって引きずり出されたような、そう、それは例えば、のような──

「おい、何ぼうっとしてる」

「ひぇ? あ、な、なんでもないですよっ」

 驚いて変な声が出たわたしを、アハトさんが怪訝そうに眺めていた。本当になんでもないのだと示すためにも席を立って、わたしは買い物に出かけることにした。

 まだ怪訝な顔をしていたけれど、一応許してくれた。


「ふむ……この辺りだったよね。確か」

 結局のところ、わたしは怪しい妖気を感じたところにやって来てしまっていた。仕方ないのだ。わたしという生き物は、好奇心が旺盛にできている。これは血のせいであってわたしのせいじゃないのである。

 さっきは覗いただけだったけれど、今度はじっくり自分の足で歩いてみる。妖気の偏りを感じる場所は肌でわかるから、歩くたびに産毛が逆立った。うっかり、耳も出てしまいそうになる。

「いけないいけない、自制が大切よね」

 手で頭を撫でつけて耳を押さえる。そのまま路地裏を徘徊していると、薄暗く手元もおぼつかないなかで、どこか人当たりの良さそうな男の人が話しかけてきた。

「こんなところで何してるんだい?」

「え、あっ、すみません」

 うっかり謝ってしまう。日本人の悪いところである。まあ厳密にはわたしは育ちが日本なだけなんだけれど。

「別に謝らなくていいんですがね、純粋にこんな危ないところで何してるのかなと思いまして」

「そ、そうですよねーっ? 治安もあんまりよくないっていうし、わたしも気をつけなきゃなー、なんて……」

 あははとか愛想笑いしていると、男の人のほうも朗らかに笑う。なんだか悪い人じゃないみたいだ。わたしはちょっと安心して、気を緩めかけた。

「最近じゃ、人攫いが出るとかなんだか物騒な話も多いんだから、女の子一人で出歩いちゃいけませんよ」

「はいっ……あ、ありがとうございます?」

 なんだか優しい人だ。アハトさんも、これくらいわかりやすく優しくしてくれればいいのにな、なんて。思っていたのだけれど。

「……あれ?」

「どうかしたのかい? よければ僕が安全な大通りまで案内しましょうか」

「は、はい、お言葉に甘えて……」

 紳士然とした彼は服装も実にきっちりしている。白くぱりっとしたスーツに全身を包み、シルクハットをかぶっている。わたしは素直についていくけれど、ごくりと唾を飲み込んだ。

 彼は始終にこやかに話していて、会話も楽しかった。もう少しで大通りだというところで、わたしはごく自然かつ気付かれないレベルで身構えたまま、さっきからを訊いてみることにした。

「あの、お兄さんって……?」

 彼は一瞬だけ目を丸くして、けれどすぐに、さっきと同じような顔で、笑った。

「はは、ここは《人妖特区》だよ? 確かに僕は人間じゃあないが、妖種なんてここでは珍しくないでしょう」

「いえ、そうじゃなくて……」

 紳士の柔らかな顔が、少しずつ鋭くなっていくのを感じていた。わたしは後ずさりながら──

「お兄さんは、妖種とも違うのかな、って、思うんですけど……」

 その一言を発した途端に、彼の視線は突然、何か獲物を見定めた獰猛な肉食動物のような、あるいは敵を前にした軍人のような、鋭く研ぎ澄まされたものに変わってしまった。わたしは迂闊にも、と思った。

「あ、あちゃあ……」

「はは、残念だなあ。君みたいな可愛らしい子は、僕の趣味じゃないんですが……」

 まずいものを刺激した、とわたしの野生の感が告げていた。野生の勘というのもまた、わたしの血の為せる技なのだ。ともあれ──

「せっかく着替えたのに、また汚してしまう。僕もそうそう閑じゃないのだがね」

「あは、あはは……」

 そう言って唇を舐めた彼を前に、わたしは愛想笑いをして──

「三十六計、なんとやら〜っ!」

 脱兎のごとく、逃げ出した。

「逃がすか……っ!」

 大通りのほうへ一気に抜け出すために、残り少ない道を突っ走る──と見せかけて。

「鬼さんこちらっ!」

「……!?」

 わたしは瞬発で足のバネを働かせ、急転回して後ろに向かって駆け出した。つまりは路地を戻る形である。不意を突かれたらしい男の脇をすれすれで抜けて、薄暗い路地の奥の奥まで突き進む。

「何のつもりだ……っ」

 男はそのまま捕まえてやるとばかりにわたしを追いかける。足は人間離れして速いらしい──が、わたしよりは遅い。なんたってわたしは、なのだから。

「ついてこれるかなっ!」

ㅤ身軽に駆け抜ける足のバネは最大限に活用しつつ、いつの間にやら飛び出た長い尻尾で態勢のバランスをとっている。頭から飛び出した猫の耳で風の音を聴き分けて逃げ道を探す。わたしは、文字通り、猫なのだ。

 すっかり男との距離が離れたところで、彼はぼそりと呟いた。しかし猫の耳はハッキリとそれを捉える。

「なるほど……というわけか」

 わたしはにやりと笑って、振り返る。この程度ならアハトさんに頼るまでもない。わたし一人で、十分だ。

「あなた、《眷属》ですよね? 誰につくられたのか、どんな命令を受けてるのか知りませんけど、人が攫われてる事件とも何か関係がありそうですね」

「……はは、それはどうかな」

 わたしがそう言うと、男は不敵に笑う。

「むっ……大人しくここでお縄につくか、わたしと少しか……好きなほうを選ばせてあげますよっ!」

「ふん、半妖ふぜいが僕の邪魔をしようなんておかしな話ですね。仕方ありません、あなたの言う遊びとやらに付き合ってあげましょうか」

 わたしも負けじと笑って、言い返す。

「──身の安全は、保証できないけどねっ!」

 この程度の眷属なら、《猫》の力だけで十分に対応できるはず、と踏んだわたしは息を整える。じっと丹田に意識を集中して、蝶番を解放するように──

「よそ見している場合かねっ!?」

 不意に、どうやってあれだけの距離を詰めてきたのか男が襲いかかってくる。わたしは慌てて身をかわす。

「……くっ」

 調息が不完全だから、まだ妖力が解放しきれていないのだ。髪もなかば朱に変わりつつあるが、まだ黒が残っている。とにかく集中しないと。

「さっきまでの自信はどうしたんだっ!」

 しかし男は図体に見合わない素早さで肉薄してくる。わたしは避けることで精一杯になって集中を乱され、中途半端な妖力で戦うことを強いられていた。

 わたしは苦渋の思いで方策を考えながらも、仕方なくあれを使うことを考えていた。

「ぐぬぬ……高いのに、高いのに……っ」

 拳で迫る男が怪訝な顔をする、そこに──

「っえい!」

 わたしは外丹術で煉り上げた純粋な《水銀》をぶちまけた。とっても高価な品である。実のところ、わたしとアハトさんの稼ぎのほとんどはこれに消えているくらいには。悔しい。本当に悔しいけれど。

「ぐ、あぁ……っ!」

 しかし、これで時間は稼げる。わたしは慌てて飛び退って、改めて丹田に力を込めた。内丹の極意は、一から十までここにある。

 身体の中にある門を解放していくような感覚で、わたしは妖気を取り出していく。向こうでは土煙に隠れて見えないが、男の恨めしげな呻き声が上がっていた。

「はぁ……ふぅ……っ」

 調息の果てに、少しずつ髪が完全な朱色に変わる。獣の耳や尻尾も現れ、わたしの本当の姿が見えてくる。普段は隠しているそれは、わたしの出自の証明アイデンティティだ。

 妖力を完全に解放した今や、わたしの身体能力は人間とは比べ物にならない。脚力も、腕力も、膂力だけではない。妖力を感知する力や操る力も人並みではない。純粋な戦闘力では妖種や《眷属》にも劣らないだろう。

 わたしは、人間と妖怪のハーフ──つまりは要するになのである。

「さあて、ようやくわたしも本気が出せる……

 なかば癖のように手のひらで顔をこする。この姿になるとついやってしまうのだ。瞳孔の形がつくり変わり、鋭い獣の目で敵を見定めていた。

 そうこうしているうちに、水銀を払いのけたのか男が予想以上に早く復帰してくる。わたしは鬱陶しいと思いつつも、相手すると言った以上は、人の被害が出ている以上は戦うと決めた。わたしは猫の構え(猫っぽい構えである。独学オリジナルで特に由緒とかはない)で相対する。

「……手こずらせてくれるじゃないか。君もどうやら、ただの半妖というわけじゃなさそうだね」

 男は額に青筋を浮かべつつ、口調だけは穏やかさを保っている。わたしにはそれがひどく不気味だった。

「……しかし、神は僕を祝福しているらしい」

 わたしはハッと息を呑んだ。というのも、男の後ろから人の影が見えたからだ。

「おい、お前らはここで何をしている!」

 人間の、警邏隊である。どうしてこんなところに、とか、こんなタイミングで、とか、そんな思いが脳裏という脳裏を全速力で駆け巡る中で、気がつけばとにかく、あらん限りの大声で叫んでいた。

「逃げなさい──っ!!」

「遅いッ」

 男は警官の制服を着た男をいとも簡単に捕まえて、その首筋に、鋭く尖った牙を、突き立てた。

「あ"っ……あ"、あ"ぁ"……」

 あっけないくらいに警官は抵抗する力を失った。呻き声を上げながら、なされるがままにされている。肩から血がどくどくと流れ出し、それを男がジュルジュルと、世にも気味が悪いジュルジュルという音を立てて、血を啜っていた。わたしはその光景に、あっけにとられていたのだ。ここで迅速に動きさえすれば、無防備な男を仕留めることもできたやもしれないというのに。

「……ふう。あまり好みの味ではありませんでしたが、なかなか腹の足しにはなりましたよ。ご馳走様でした」

 気がつけば、息も絶え絶えになった警官の男はどさりと音を立てて捨てられて、真っ白い紳士じみたスーツを真っ赤な血で染めた男だけが、上品な笑いをその顔に湛えながら、そこに立っていた。わたしは怖気が走った。

「お前……なんて、ことを」

「おや、《吸血》を見るのは初めてでしたか」

 男は満足げに笑う。口端にはまだ、血が付いている。

「僕たちはでね、そこらの出来損ないの《眷属》とは違うのです。僕を見分けたぐらいだから、君も一度や二度くらいは《眷属》を相手取ったことがあるのでしょうけれど、僕らのようなのは初めてでも仕方ありませんよ。なんといっても──僕は《第三世代》ですから」

「《第三世代》……っ」

 脳裏に浮かんだのはアハトさんの顔で、わたしはその言葉に息を呑んだ。

 そもそも《眷属》というものは、もっと不自由で縛られたものであるはずなのだ。特殊なある一部の妖種──つまりは《吸血鬼》などの、《妖媒ソルヴェント》を用いて妖力を集める人ならざるものたちが、人間を使って作る自らに従順なしもべ。彼らは常に主人あるじの血に飢えていて、それを与えられるためにはどんな命令にでも従わなければならない。命令に背いて血を与えられなければ世にも恐ろしい飢餓による苦痛が待っているし、待っているのは他でもない死である。そのはずが──

 目の前にいるのは、本当にわたしの知っている、アハトさんの追いかけている《眷属》なのか。それに答えるかのように、男はおかしそうに口を開いた。

「あなたの知っている今までの《眷属》とは何もかもが違うんですよ。《第三世代ぼくら》は……」

「……っ!?」

 不意に、男から噴き上がる強烈な妖気がわたしを叩いた。面食らってよろめきかける。

 反則だ。これじゃ、まるで─

「こんなの……」

 《

その通りThat's right! 僕はもはや《眷属》を超越した存在……そろそろ、遊びは終わりにしましょうか」

 男は突如、駆け出したかと思えば、わたしの目前まで迫っている。今までとは速さが比較にならない。受けるしかない。しかし──

「っぐ、うぅ……っ!!」

 腕が、折れるかと思った。ぎりぎりで受け止めた拳は鉄のように硬い。まるで肉とは思えない鉄拳はどうやら何らかの妖力で変性されているらしかった。

 とにかく大きな体から繰り出される質量の大きな攻撃とスピード。その相乗効果は、実に効率的にわたしの体力を削っていった。

「っ、は、っぐ、ぁ、あぁ、っ……!」

「もう限界かァ!? さっさと諦めて、僕の血肉になるがいい……ッ!!」

 それでも拳を受け続けるわたしは、やがてスピードについていけなくなる。高速で繰り出される拳をひとつ取り逃がして、一瞬で死を覚悟した。この男の膂力は、もはや人間どころではない。並の妖種を超えている。

「死ね───ッ!!」

 《眷属》である以上は元・人間であるのだろうが、誰がここまで人間を強化できるのか──せめてそれを知って、アハトさんに伝えられれば。そんなことを考えながら迫りつつある拳をじっと眺める。わたしの意識はどこかスローモーションに感ぜられていた。

 最後に思うのは、アハトさんのことだ。わたしをあの地獄から救い出してくれた人。幼くてまだ何もわからなかったわたしに、すべてを見せてくれた人。乾いて硬いパンと牛乳の味を教えてくれた人。わたしに希望をくれた人のことを──

 せめて、一度くらいは恩返しがしたかったなあ。

 薄暗い路地裏で命を終えることに後悔はない。もとはといえば、あの血に塗れた戦場で落としたはずの命だったのだ。それを拾い上げてくれたのはアハトさんだ。だからわたしの命は、アハトさんのために使うと、小さい頃から決めていた。

 わたしは、アハトさんの力になれたかな──

「おい。ここで勝手に死なれちゃ、困るんだ」

 その声は、何度もなんども思い浮かべた、いとおしい人の声だった。

「な、何だ貴様は……僕の邪魔をするならッ」

「五月蝿い。いま俺は、こいつと喋ってる」

 アハトさんは受け止めた男の拳をねじりあげる。悲鳴をあげて飛び退った男は、警戒しているようだ。わたしは上がった息も絶え絶えに呼びかける。夢じゃないことを確かめるように。

「アハト、さんっ……」

「一人で動き回るなと言ったろうが。馬鹿女」

「ごめん、なさい……へへっ」

 アハトさんはわたしの頭を何度か撫でてくれた。わたしはそれだけで、昔からひどく安心するのだった。

「アハトさん……あいつ、《眷属》です。それもほかのとは違う……自分では《第三世代》って言ってた」

「《第三世代》、だと……」

 わたしは彼の目の色が変わるのを、はっきりと見た。

「……解った。芳乃、お前は下がってろ」

「で、でもっ……」

「いいから。あいつは……」

 アハトさんは、ずっと探していたものを見つけたような、長い間思い続けていた人を目の前にしているような、そんな焦がれた顔をして、言った。

「──俺の、獲物だ」

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