幕間 欧州編

吸血公爵を殺せ

 紅灯のぼんやりと照らす漆飾の中、大扇子や青銅の鳥獣盤、杢板や四神を彩った吊るし細工。そして魔除けのための微細な彫刻を施された銅鐸や大量の爆竹の装飾たち。それらはまるで、ここが東洋のかつて滅んだ古帝国であるかのように、この世の蕩尽を尽くし絢爛豪華に飾り立てられていた。

 思わず、鼻で笑う。

「……愚かですね」

 私の漏らした何気ない言葉に反応したのはすぐ隣を歩く金髪の少女。

「コレで、あたしたちをもてなしてるつもりなんでしょ」

 指差す先にはテーブルの上に山と盛られた料理がある。満族と漢族のすべての贅を尽くした料理を並べたと言われる満漢全席とやらである。中華が滅んだいまでもその言葉は豪勢な食卓を示す意味で使われているが──

「私は……どうも食欲がありません。ヴァネッサは、少しでも頂いたら如何です?」

「あたしもいらないよー。うげえ、これってなんだと思う?」

 ヴァネッサの長く整えられた爪先で摘まみ上げられているのは恐らく、熊の掌だ。滋養強壮にいいとか何処かで聞いたことがある。

 しかし、これはさすがの私も──と思いつつも、いちおう諫言しておく。

「……食べ物をそんなふうに扱っては、いけませんよ」

 白く目立たないようにみえるが、細かい刺繍細工で執拗に飾られたドレスに身を包んだヴァネッサは、その美しい出で立ちに似ない露骨な嫌な顔をする。

「ちぇっ。雪梅シュエメイはこういうところにうるさい。あたしたちだってこの宴席パーティに招かれた賓客なんだから、オードブルに手をつけたってばちはあたらないわ。ねえ、主人あるじさま?」

 そう言って顔を向けたのは、黒いディナーコートに身を包んだ同じく金髪の男。私とヴァネッサの主人である、大領主ドラクリヤ家の当主ヴラド・ドラクリヤである。

「困ったときにヴラド様に助けを求めるのはやめなさい。それからオードブルというのは自由政府フレンチのコースディナーの前菜です。そして、今日のは肉汁スープ主菜メインの区別なく、二日から四日ほどかけて食べる料理。言うなれば、すべてが主菜メインなのですから」

 せっかく丁寧に説明した私の言葉にも耳を傾けず、ヴラドに飛びついてじゃれるヴァネッサに私は目を側めた。

「……ヴラド様もおっしゃってください」

「べーっだ、主人あるじさまはあたしの味方だもんねっ! そうでしょ?」

 ヴァネッサはあからさまな上目遣いをしてヴラドを見つめる。仏頂面のまま応対してはいるが彼も内心では穏やかじゃないだろう。仕方なく助け舟を出す。呉越同舟というやつである。

 私がじっと見つめると、ヴラドはようやくヴァネッサを引き離して言う。

「熊の掌は戻してきなさい。賓客である以前に、君の仕事は私の護衛だろう、ヴァネッサ。そのいかにも食べづらい珍味にとりかかっていたら、仕事に支障が出るんじゃないか」

「うー……わかりました……」

 とぼとぼと摘まんだ熊の掌を誰も手をつけない皿に戻しに行くヴァネッサの背中を見て私は内心で、朱の旗袍マンダリン・ドレスに包んだ薄い胸を撫でおろしていた。


        ◯


 キルステン公国は小公爵の治める小さくて長閑な典型的田舎というやつだ。公爵は気さくで親しみやすい人物で、領民からの支持もそれなりに得られているらしい。豊かな自然の中で送る穏やかな生活。本来であれば権力や政治とは決して関係を持たない場所。

 ──しかし、そこには全欧の権力という権力が、所狭しと集められていた。

「……主宰はどれほど高貴な方だろう……」

 蛮族ひしめく地方の統治を任された力ある辺境伯もいれば、

「……これほどの顔ぶれだ……大領主にも勝るとも劣らない有力者に違いない……」

 教会の権威にあやかって司教座教会とその周囲の都市を実質的に治める宗教諸侯。

「……しかし、何故こんな片田舎で……」

 さらには自由政府フレンチの軍人将校とみえる実力者までもが──

「ずいぶんウワサされてるねえ。この宴席パーティがいったいって」

 顔を上げたヴァネッサのいたずらっぽい声は笑いを堪えるように震えている。私は耳を押さえて顔を顰めた。さっきから個室まで悪趣味な中華装飾に悩まされているのに、脂の乗った権力者の密議を盗み聞きしたくない。

「つまらない話です。聴きたくないわ」

 ヴァネッサはにやりと笑うと、また私の胸に顔をうずめた。仰向けの私には彼女の肩の絹のような純白しか見えない。目を逸らすと彼女が脱ぎ捨てたドレス。あれでは皺になってしまうかもしれない──と案じる間もなくそれを着ていた彼女は私の首筋を舐める。

「んっ……主人を、護らなくても……よいのですか……」

 ぴちゃ、ぴちゃと水音で応える彼女には、仕事をしているように装う気もないらしい。

「……えー、だい、じょぶだよ……雪梅シュエメイの五感なら……万が一、何かあってもすぐ、わかるでしょ……ね?」

「ん、っ……」

 熟れた舌遣いで私を導くヴァネッサは匂い立つ髪を微かに揺らす。それが私の肌を撫でるたびに私は、ぞくり、ぞくりと身体の芯から奮い立たされるような衝動が襲う。

雪梅シュエメイ、だから、いまは……っ」

 まるで私の身体中に、この世で最も甘美な蜜が溢れているような執拗な舌先で、舐る。狂おしい顔は、からからになった喉が砂漠で水を求めるように、私を求めている。

「ヴァー、ニー……っ」

 私が息を漏らさないように喘ぐように応えると、その唇に指をあてて世にも艶美な笑みを浮かべる。

「……二人きりでもその名前では呼ばないって、約束……でしょ?」

「すみませ、んっ……ぁ……!」

 彼女の余裕に満ちた顔と裏腹に、私はもう今にも果てそうなほど、高みへ押し上げられていく。卑怯だ。こうして私を苛めて、楽しんでいるのだ。悪趣味さで言えば、あの中華風の装飾や満漢全席と変わらない。

雪梅シュエメイ……ほら、好きなときに……いいから、ねっ……」

「……っ、は、んぅ……ぁ、ん……っ!」

 嫋やかな指と熟れた舌で瞬く間に導かれてしまう、その、寸前。

「…………おい」

 その刹那の緊張を破ったのは、無粋な男の声だった。

「あ〜あ、冷めちゃった。なんでこういうときに邪魔するんですか主人あるじさまったら! あたしたち、こんなイイところだったのにっ」

 ヴァネッサはすばやく私の上から退くと、投げ捨ててあるドレスを魔法のような手早さで着る。私も遅れて起き上がり、赤くなった肩や胸の肌を隠すように旗袍で覆う。無理やり入れられたスリットのせいで太ももの痣が隠せないことに気がついてヴァネッサを睨むと、彼女は目を逸らし、舌を出して戯けた。

「……失礼を。ヴラド様、私たちに何か御用向きでしょうか」

 喉を整えながらそう訊くと、ヴラドのほうもわざとらしく咳払いしつつ応える。

「どうやら、不穏な気配がする。この宴席には尋常ならざる何かがある……」

 そう言うヴラドの表情は浮かない。よほど危険を感じているのか、額に汗すらしているらしい。ヴァネッサはそんな主人を笑い飛ばすように叫んだ。

「まっさかあ! こんな片田舎ですよお! それに、もし主人さまに何かあっても、あたしたちがきちんと守りますからっ、ね?」

「……うん。そうだが……」

 このままでは埒があかない。私はまた助け舟を出すように提案する。

「ヴラド様、もし具体的に気懸りなことがあるようなら──」

 そのとき、部屋の灯が、すべて、嘘のように掻き消えてしまった。

雪梅シュエメイッ!」

 ヴァネッサの切迫した声で、私は瞬時に五感を研ぎ澄ませる。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚──全身でありとあらゆる存在を視通す。それは、だ。

「……ッ、静かすぎます……! これじゃ、まるで……!」

 ──この無駄に広い洋館に、誰一人として、いなくなってしまったみたいに。

「ヴァネッサ、ヴラド様を!」

「任せてっ!」

 主人の守護を相棒に任せると、私は全身を研ぎ澄ませる。すぐさま与えられた大きな個室の扉の向こうに、二つの影を見出した。

「──ッ!」

 その刹那、行動は迅速に──私は徒手のままで扉を蹴破った。

 廊下に躍り出る。勢いに乗せてまず、一人目の敵に回し蹴りを捩じ込む。右脚が肉に減り込む感触をそのまま軸にして、暗闇に浮かんだもう一人の方向へ大きく跳躍した。

 言葉を発することもなく、そのまま左脚を刃のように突き立てる。鋭く研ぎ澄ませたしなやかな筋は、そのまま敵の腹腔を貫く──はずだった。

「ッ!?」

 脚首を掴まれる。空中で態勢を崩した私はそのまま重力を目一杯に込められ地面に叩きつけられた。背中を強打し、息が詰まる。

 涙の滲む目で敵を睨み付けるも、ようやく暗闇に慣れた目は黒尽めの男の被った仮面しか映さない。何も口にしない男は、そのまま私の頭を踏みつけようとした。

「──ッ!」

 咄嗟に掴まれたままだった脚首を起点に身を起こし、頭のあった床を男の分厚い靴底が踏み抜く。足元を崩した男の不均衡を狙って私は男の顎を膝で強打した。さすがに堪えたのか、男は崩折れた。

 これで、一人──と息つく暇なく、さっきの回し蹴りのダメージを物ともせずに、もう一人が特攻してくる。

「……しつこい、ですねっ!」

 私は廊下に吊るされていた銅鐸に飛び移って態勢を整えると、全身の重さを込めた掌底を男の喉に打ち込んだ。

 普通の人間なら、首が飛んでもおかしくないものを──

「この、《純血主義ラインハイト》の狂信者、がッ!」

 男は激昂したように初めて怒鳴る。今度は手首を掴まれ、私は勝手な男の言い分と厄介な体力にとうとう業を煮やした。

「──鬱陶しいッ!」

 自分の右手首から先を。動揺する男の隙を狙って、私はもう一度掌底を捩じ込んだ。今度は左掌。二度も首を狙われれば、異常なタフさを見せた男も立ってはいなかった。

「……ふぅ、やっと片付きましたね」

 重く肉が崩れ落ちる音。唇を舐める。

 千切れた右手首の付け根を撫でながら、私はようやくひと息ついた。そのまま気絶した男が持っている手首を拾い上げると、切断した手首に。しばらく、ぐりぐりと押し付けていると、しっかり指まで動くようになっている。我ながら気持ち悪いが、便利なことに違いはない。

 私は両掌の自由を確認すると、あっさり男二人に止めを刺した。首を捩じ切ったのである。その首をふたつ、ひょいと抱えて、来た扉を戻る。そこにいたのは、死体がひとつと血塗れのヴァネッサだった。

「や、おかえり雪梅シュエメイ

「面倒な仕事でした。ヴァネッサ、そちらの首尾はどうです?」

「あー、うんとね。なんというか……」

 訊かなくとも、まあ、わかっていた。

主人あるじさま、死んじゃったね」

「…………」

 そこにいたのは、ヴァネッサと、さっきまで元気に、口うるさく私たちに指図していた私たちの主人、ヴラド・ドラクリヤだった。

 ──全身をバラバラに斬り裂かれ、もはや組み立て前の玩具のようになっているそれをそう呼ぶことが正しいのであれば、だが。


        ◯


「……ッ、おい! 報告はまだか!?」

 苛立ちを隠せず、先刻から広い部屋をぐるぐると廻っているのは、階級章を着け白と赤の軍服に身を包んだ士官だった。側付きの衛卒が焦ったように応える。

「もう三十分は経っています……これでは、遅すぎるかと……!」

「そんなことは言われずともわかるッ! おれはと訊いているッ!」

「はっ!! 万が一を考えると、返り討ちにあったということも……」

「馬鹿を言え!!」

 これまでに一番大きな上官の怒鳴り声に、衛卒がわずかに怯える。そんなことにも御構い無しに、尊大な上官は続けた。

「何のために、わざわざ本国からバケモノを連れて来たと思ってる! やつらめ、我らと同じ自由政府の国民であると嘯きながら、帝国の鬼どもと同じ血を流している……クソ、考えただけで腹が立つ!!」

 椅子や壁に当たり散らす上官を宥めるように衛卒は言った。自分の言葉を最も信じられないのが自分であることを知りながら。

「……大尉カピテーヌ、恐れながら! 二名のは少し、ほんの少しだけ仕事に手こずっているだけやもしれません! どうか気をお沈めください! 今にも扉をあけて、すぐにでも、彼らが戻ってくるはず──」

 善かれと思って発したその言葉が、かえって上官を刺激するとは夢にも思わなかったろう。哀れな下士官はなおも叱咤される。

「──貴様ッ! やつらは裏切ったに決まっているだろうッ! 同じ吸血鬼の血に目覚めて、帝国に寝返ったに違いないッ! 下士官の分際で、世迷いごともいい加減に──!」

 そのとき、軋む音を立ててゆっくりと、ゆっくりと扉が開いた。

 それを誰よりも希望の篭った眼差しで見詰めたのは、怒鳴り散らしていた上官だった。いくら口では裏切りを喚いても、心の底では期待を棄て切れずにいたのだ。しかし、数人の下士官と衛卒たちはわかっていた。希望を持ったままではいられないということを、本能的にわからされていた。

 何故なら、そこにいるのが一滴残らず血を吸い尽くす吸血鬼であれば絶対にしないはずの、濃厚なが、幾人の返り血を浴びれば纏えるか解らぬほどのが、その扉を開けた瞬間から流れ込んで来たから。

「大尉ッ! どうかお逃げくだ──」

 首筋を得体の知れないものに組み付かれ、すぐに声を発せなくなる。代わりに空いた穴からひゅーひゅーと寂しい音と、滑稽なほどに溢れ出てくる暗赤色の泥。口をぱくぱくと開け喘ぐそれを目の当たりにしながら、上官は声も出せなかった。

 雪崩れ込んできたのは、大量の屍体。

 ──それも、歩く屍体ウォーキング・デッドなのだから。


        ◯


「えー、とりあえず冷蔵庫いれとく?」

 そう言ったのは、自分の失態など全く気にしていないという顔で、手入れもろくろくしていないのに信じられないほど流麗にさざめく金髪を無造作に掻きながら、皿から調理された熊の掌を摘まみ上げたときとまったく同じしぐさで、ばらばらになったばかりで新しい血がぽたぽたと滴る片腕を、じろじろ見つめている美しい少女。

 私はそのとぼけた頬を、くっついたばかりの右手の人差し指と親指で、きゅっと、抓った。

「……冷蔵庫なんてどこにあるんですか」

ひはひ痛いひはひひょ痛いよひゅええ雪梅

「あ、すみませんつい」

 指を離すとつやつやした頬をさすりながら、ヴァネッサは恨めしそうに私を見た。

「うー……雪梅のいじわるぅ……」

 ぼやきながらもヴァネッサは籐箪笥ラタンに見える大きめの箱に近付いていく。私が首を傾げていると、彼女はおもむろに箪笥を開けた。

「ほら、これ冷蔵庫だよ」

「え……」

 とりあえず、肉片はまとめて冷蔵庫に入れておいた。

「そんなことよりもさー」

 血に塗れた指を舐めながら間抜けな声を出すヴァネッサに、私はまた呆れてため息をついた。どうやらこの子は全く反省していないらしい。

「……いちおう私たちの主人がそんなことになってるんですし、もう少し申し訳なくしていてもよいのでは?」

「さっき襲ってきた二人組って、結局何者だったの?」

 さらっと流すヴァネッサを恨めしく見つつ、質問に答える。

「当然ですが身元がわかるようなものは何も──ですが、これを見てください。ヴァネッサ」

 そう言って片手にまとめて髪を掴んで持っていた男二人の頭を差し出すと、ヴァネッサは整った顔を歪めて露骨にいやな顔をする。

「あたし、かわいい子のじゃないとヤなんだけど」

「いや、そういう意味ではなく……」

 かぷり、と。気がついたときにはもう、ヴァネッサは私の首筋に小さな口でキスしていた。鈍痛が浸透していく。心地よい酩酊感がすぐに全身を支配する。それでも、私は必死に海馬を押さえつけて言った。

「や、ちが……あの、牙、が……」

 んふふ、と淫靡に笑う彼女は、紛れもない魔性で。

「……ん、もう……れ、ちゅ……慣れた、でしょ……?」

「んんっ……ヴァネッサっ、や、だめ……」

「ん、だめ? ふふっ……女の子みたい……」

 ──このままでは、快楽に押し流される。いつものようにヴァネッサのされるがままになってしまう。これではいけない。これではだめなのだ。私は私に鞭を入れて──

「ち、ち、ち……」

「ち?」

「違───う!!」

「ひゃっ!?」

 私は無理やりにヴァネッサを引き剥がして、なんとか話を続ける。体勢を崩したヴァネッサは抗議するような声で尋ねた。

「もぉ……なにさ?」

「牙というのは、この首のことです!」

 首をすくめる私の指し示す二つの転がる首を改めて見て、ヴァネッサは感嘆した。

「うぉーう、こりゃあ吸血鬼だね」

「はい……若い血族ですが、吸血鬼であることは間違いありません」

 ようやく真剣になったらしいヴァネッサは首を持ち上げてじろじろ眺める。

「こうなると、自由政府の工作員か、あるいは派閥争いを狙う帝国貴族の刺客か──」

 私が脅威を列挙すると、ヴァネッサはふむふむと尤もらしく頷きつつ。

「……それで、どうするの? 雪梅シュエメイ

「はい。しかし……」

 そう答えた途端に、私もヴァネッサも反射的に身構えた。

「……どうやら、そんな悠長なことは言っていられないようですね」

 ドアがみしり、みしりとわずかに唸りをあげたと思えば、一瞬で決壊した。そこに押し寄せたのは屍人の群れだった。

雪梅シュエメイッ!」

「わかってます!」

 私は先陣を切って駆け出し、拳と手刀で屍体をぐちゃぐちゃに搔きまわす。大群の歩く屍体たちは、ひとつひとつの動きはどうであれ、狭い廊下に押し込められて機動力を失っていた。そんな相手は、私の敵ではない。

「ひえー、何度みても気色悪い」

「何か言いましたか? ヴァネッサ」

 私がぶちぶちと足を引きちぎって、手っ取り早く敵の行動力を奪うのを見て、どうやらヴァネッサが何か言ったようだ。

「……なんにもないです」

「よろしい」

 私はそのまま屍体を処理して進む。ヴァネッサはそのあとからぷらぷらついてきているようだった。

「何故っ、こんなところに屍人どもが!?」

「見当もつかないよー」

 明らかに気のない返事で誤魔化すヴァネッサは何かを知っているような顔をしていた。私はそんな彼女を守るように、先回りしてすべての死体を片付ける。そうしているうちにグランドホールに出る扉に当たった。

「ひとまずホールに出ましょうっ、狭い廊下ではやりようもありませんから」

「そうだねー。よろしく、雪梅」

 考えごとでぼんやりするヴァネッサに呆れながらも、私がドアを蹴破ると──

「わーお。懐かしい顔だぁ」

 その光景を前にして、ヴァネッサはそう、一言だけ呟いた。

 そこには、大量の死体という死体のうえにちょこんと座る、小さな東洋人の女の子がいる。男の手首をちぎり取って、その親指の付け根に、懐から取り出した嗅ぎ烟草スナッフをぶちまけては、胸いっぱいに吸い込んで、恍惚とした表情を浮かべている。私のと同じほど大胆にスリットを入れられた衣装は、もはやマンダリンドレスというよりも、いわゆるチャイナ・ドレスといったほうが相応しい、年月と伝統を小馬鹿にした意匠デザイン

 私は、その幻想的といっていいほどの、不可思議な景色に、人間という動物としての、根源的な、恐怖とも呼ぶべき危機感を得た。

「……ヴァネッサ」

 名前を呼ぶ。何度も繰り返し、呼んでも彼女は答えない。目の前の人間とも疑われる存在が、一体なんなのか。私はそれを確かめないことには、この筋の緊張を弛緩するわけにはいかないと思ったのだ。

 しかし、求めた答えが返るより先に、それが、口を開いた。誰も望まなかったそれが、音を立てて。

「──よく寝たのう。は、まだ続いておるのか?」

 身体を動かすたびに、ギチリ、ギチリと鳴るようなぎこちなさ。初めて身体を動かした人間の、あるいは何年、何十年、何百年ぶりに身体を動かした人間のような奇妙な不和。

「バカじゃないの? 戦争なんて、とっくに終わってんの。いまは、あの頃からは想像もつかない、世にも平和な時代なのよ。

 後ろから声がした。ヴァネッサが、私の代わりに答えたのだ。彼女は、目の前のどこかおぞましい、人とは思えない存在を、やはり知っているのだ。

嘎嘎ガッガッ! 可笑しい! 可笑しいのう! なんだ、その、名は……」

 嗅ぎ烟草を吸うのをやめて、ようやく、それはこちらを見る。眼。空虚な孔が開いて、ずっと奥まで闇を見通せるような、そんな眼が、ただふたつある。

おれの名だったか、己の……」

 周りの死者が、傅くようにその少女に群がり、平伏し、首を垂れる。

「……お前は、女、女、何者ぞ。われの前に在るのは、うぬは、誰ぞ」

 ──こちらを見ている! そうとわかった瞬間に、肌が総毛立つ。濃厚な死と、それを弄ぶ最悪の享楽の匂いが、鼻につく。

「あたしの顔も忘れたか……妖仙の餓鬼め」

 ヴァネッサの、その恐れを知らぬ一言に、それは突如、激昂した。

「妖仙──! 妖仙と、言ったな!」

 先ほどまで空虚だった眼には、今や煌煌と怒りの炎が宿っている。それは恐らく、長く燃え燻ってきた、どす黒い焔だった。

「お前、お前、お前だけは……赦さぬ。儂を妖仙と──其処らの地仙や天仙より、よほど極めたこの儂を、よもや妖仙とは!」

 そしてその少女は、目を見開いて気付く。

「──そうか、そうか! その、儂を馬鹿にする目付き……わかったぞ、お前はの、じじいであろう! 手前の顔を忘れたかなどと、《無貌》が聞いて呆れる……」

 その一言で、空気が凍った。先ほどまで軽薄だったヴァネッサとは思えない、冷たくて鋭い声だった。さすがの少女も面食らったようで、しかしまだ嗤う。

咯咯ゲッゲッ……そうか、わざわざおれに会いに来たのか。斯様に目出度いこともなかろうよ! お前も、己の戦列に加えてやろうと言うのだからな!」

「僵尸になどなるかよ、愚か者が……あたしは美しくないものにはかけらも興味がない。お前も同然だ、亜涼連」

 ヴァネッサの口調は、少しずつ崩れかけている。それをにやついた少女が揶揄う。

「美しくない? 笑わせるなよ、死体よりも美しいものなどない……第一、何より美しくないのは、お前自身だろう? 《無貌》!」

 その瞬間、弾けたのは私の体だった。

ッ!」

 その一声で、私はその少女の、二本目の、最後の腕を引きちぎるのを、止めた。

 ぶぢ、ずぞ、っ、音を立て、骨ごと体から抜き取る。少女は悲鳴をあげる暇もなく、数瞬を遅れて、ようやく泣き叫んだ。

「──ッ、ひぃ! あ"、ぁ"ぁ"ぁ"!!」

 私は膨大な返り血を浴びつつ、自分の不覚を呪った。思わず──主人を侮辱されたと、そう感じた瞬間に、体が動いていたのだ。

「すみません、ヴァネッサ……私は、っ」

「腕を捨てろ! 馬鹿!」

 その叫びは、一瞬だけ遅かった。

「──!?」

 引きちぎってしまって、もはや無力のはずのその片腕は、少女の小さく華奢な手のひらは、不可解な怪力を発揮して、私の腕をギチギチと締め上げるように掴んでいた。

「な、にを……」

 その腕は振り払おうとしても離れない。腕はみるみるうちに熱く、重くなって、腕が上げられなくなる。

「痛い……いた、イタ、痛い……该死ちくしょう……」

 少女の呪詛が、か細い小さな声が、涙交じりの息が、一節一節に魔力を持っているかのように、死人の腕に圧力を掛ける。

「儂の腕……儂の腕を、よくも……お前の、お前の、腕……くそったれ……」

 細い指が、ナイフのように尖る。

「──寄越せ!」

「雪梅ッ!」

 気付くより先に、信じがたい速さで私の腕が、肘より先が斬り落とされる。否、捻り切られる。ヴァネッサの悲鳴にも似た叫びが、私の脳裏を劈いた。しかし──

……

「──がッ、あぁ"あ"あ"っ"!!」

 私の腕が、黒い靄と化した少女の腕に掠め取られていく。黒い塊が溢れ出て、私は茫然として、捩じ切られた腕のあとを押さえつけるしかなかった。

「これは、これは……何と、趣味の悪い……《原初の泥オリジン》……《神代の遺物アンティーク》め……!」

 痛みに疼く頭を通り過ぎる少女の声は笑っている。私は残った腕で頭を搔き毟る。

「だが……面白い遊びが出来そうだ! 儂ほどに成れば、同じ材料の何かに作り変えることなど造作無い……」

 その瞬間、ぐじゅぐじゅと少女の前で蠢いていた私の腕が、完全に液状化した。そしてまた、ひとつの腕の形を取る。しかしそれは先ほどまでのそれとは、まったく性質を異にしていた。

「──新たな儂の腕だ! もはや地に堕ちた《女媧はは》と《伏羲ちち》の──大いなるかいなだ!」

 私の意識は朦朧としていく。しかし感覚だけは鋭敏になっていった。まるでその腕の、私自身の腕だったはずの肉のを待ち望んでいたかのように。

「……

 その瞬間、私の身体が軽くなった。まるで羽が生えたように。懐かしい声に呼ばれて。

「──戦争が、終わってしまったのなら仕方ない。儂が望むのは、血と、死と、それに纏わる人間の、奏でる美しい音楽のみ。儂にはそれしかないのだ。ならば……」

 私の身体は、凶器。人間という形の、最初に形取られた人間という存在の、凶器に。すべての人類の手本と呼ぶべき、私という形の人形。私こそが、人間だった。私以外に、人間などいなかった。

「……また、戦争を始めるしかなかろうよ」

 血のすべて、肉のすべてを研ぎ澄ませて、目の前の存在に相対する。これは人間としての力だ。群れに還元されて、限界まで希釈される以前の──原始の人間の力。

「馬鹿、雪梅……」

 主人の声を耳にしながら、私は母に、父に与えられた鳳笙ほうしょうに指を当てる。それを合図に、大量の何かが、先ほどまで地面と思われていた肉が、蠢動する。

「──これより儂が始めるは、百鬼夜行の殺戮戦争。おっと失礼、我が軍勢には──」

 創造者おやには、誰も逆らえない。

「──揃い揃って物言わぬ屍人にんぎょうしか、在りはしないがね」


     ◯


「うわ、寒!」

 目が覚めたらとてつもなく寒くて暗い密閉された場所の中だった。思わずくしゃみを二、三零す。これじゃ風邪をひいてしまうというか、風邪どころの話だったっけか。

「ヤバいヤバい、とりあえず出なきゃ……」

 意識が再び朦朧としてきて、慌てて真っ暗な中でドアらしき板を蹴破ると、外は当たり前に暖かかった。

「はあ……またロクでもない目に遭った」

 というか、俺はこんなところで何をしているんだっけ。なぜ意識を失っていたんだ。

「確か、あの性悪真祖にとか、言われて……」

 その刹那、脳裏にあの憎たらしい真祖のニヤついた顔が浮かぶ。

『想定外のハプニングみたい。あなたは起きてても役に立たないし、ちょっと寝てなよ』

 とか勝手なことを言って、俺をバラバラにしたあの女の顔が──

「誰が性悪なの?」

 目の前に迫っていた。

「うわ──っ!?」

「なに。バケモノみるような顔しないで」

「というか……」

 目の前にあったのは、女の顔どころか、本当にバケモノの顔だったのだ。金毛の大狼。神気迸る巨獣の体躯が、俺を見下ろす。

「……また、化けてるのか」

「仕方ないでしょ? あの姿じゃ手に負えない相手なんだから……あたしも気に入ってたのに、どうしようもないの。というか、もういまのあたしじゃどうにもならないところまで、来てるのかもしれない。何百年前のあの惨禍を、あたしたちは繰り返すのかも……」

 普段はふざけきっているそいつの声は、いまに限って真剣だった。俺は覚悟を決めて、尋ねることにする。

「……何が起きてる?」

「つまらない話だよ。あたしの迂闊なミスで大事な眷属あの子を奪われた……」

「敵は、何者なんだよ? お前とあの泥人形で敵わない相手、なんて……」

「泥人形って呼ばないで。あの子は、誰より人間でしょ」

 俺が黙ると、ため息をついて続ける。

「……涼連リョウレン。かつて大陸の半分を人妖の屍で埋め尽くし、屍すら凌辱して兵に作り直す呪詛をぶち撒けた、災厄の妖仙。人妖戦争における最大の悪意──自分で屍体を弄り回して作った僵尸キョンシーを芸術と宣って憚らない、頭がイかれた尸解仙よ」

「……おいおい、人妖戦争は、とっくの昔に終わってるはずだろ? そんなの、あんたが一番よく知って……」

「尸解仙には、年月なんて関係ない。自らの屍を法術で消滅させて、肉体よりひとつ高位の存在へ昇華するのが尸解仙という存在なのよ。しかも、あいつは一度尸解しておきながらいまだに肉の快楽に執着している。何度も他人の肉体を奪っては改造して、自分の身体にしてる。これは転生よりたちの悪い、魂の輪廻に反する悪行なの」

「……そんなバケモンが、どうして野放しにされてるんだよ」

「いいえ……確かに、終戦の折に《悪霊王ヴァルコラキ》たちや、《神の猟犬ティンダロス》に討ち滅ぼされたはずだった。でも、魂の討滅には限界がある」

「まさか、いまになって蘇ったってのか」

 狼は口を歪めて、苦々しい顔をする。

「……そのまさかよ。あいつは、自分の身体どころか魂さえ斬り刻んで、死地に染み込ませていた。それが水や生物によって再び集められて、形を成したんだわ……」

 その瞬間、グルル、と狼が唸った。

「敵が来る。このままじゃあなたも、巻き込まれて死ぬのがオチよ。また冷蔵庫の中で、自分が組み立てられるのを待つのが嫌なら、さっさと逃げなさい……」

「……つっても、お前は」

「あたしのことはどうでもいい。あたしは、《真祖》よ。お前ら人間とは違う。永遠の時間を生きる超越者。定まった形をもたない、《無貌のもの》。生まれたばかりのあたしがどんな顔をしていたのか、あたしはもう知らない……」

 は、そう言って牙を剥いた。そのとき、扉が破られて、雪崩のように屍体が雪崩れ込んでくる。

「逃げなさい、!」

 狼が向かい合うのは、よく見れば屍人だけではない。鳳笙と呼ばれる弦を構え、その音で自在に死者を操るのは──

「──あの泥人形、なんでお前に攻撃してるんだよ!?」

 狼が屍体を食い荒らしながら答える。

「あの子の身体の一部を奪われた! 魂の根幹を成すあの子の両親の……人間の祖先の呼び声を、奪われたのよ!」

「なんて厄介な……」

 俺は呆れ返る。どう考えても最悪の状況だ。敵の姿は未だ見えず、溢れかえる屍人にいまにも押し返されそうだ。こちらの手勢は二人のみ。しかも俺は一介の錬金術師に過ぎないし、真祖は──

「……仕方ねえ、な」

「は? なんなのよ、ウィレム……」

 俺は、震える足に爪を立てる。その痛みに頭を覚ましながら、叫んだ。

「俺が、何とかしてやるよ!」

「……バカじゃないの? あんた程度に、何とかできる相手じゃない」

 それでも、俺はやらなきゃならないのだ。

「黙って、見てろ。クソ真祖」

 こいつが、愛する泥人形と争わなきゃならない今のこいつが──

「──全部まとめて、俺が救ってやる」

 こんなに悲しそうにしてるから。


     ◯


「とにかくお前は時間を稼いでろ! あとのことは俺が、何とかする!」

「はあ……もう、好きにしなよ。あんたが、またバラバラにされても、もうひとまとめにして冷蔵庫にいれといてあげないからね」

 俺は死者の群を避けては、駆けずり回っていた。というのも──

「こんなクソみたいな環境で、霊薬なんかマジで作れるのかよ……!?」

 人間の魂を呼び起こして、死者に命を吹き込むという霊薬。もし敵の軍勢が死者であるならば、それらをみな蘇らせてしまえばいいという無茶苦茶なアイディア。第一、死者蘇生などは祖国ゴイセンでも異端審問レベルの禁忌だし、そんな霊薬など作ったこともない。だが──

なんだ!」

 薬草室を見つける。中華帝国を模したキッチンだけあって、しかも満漢全席なんか作らせているだけあって、薬草の類は豊富だ。古来より薬に使われる薬草と食事に使われるそれは、中華帝国では区別されなかった。

「よし、よしよし! あとは釜だ!」

 クソでかい中華鍋に火を掛けて、水をぶち込んで、古臭い研究書で見たような薬草をとにかく放り込む。こんな作り方で霊薬など出来るわけがない。本来ならば何日もかけて用意しなければならないような大儀式なのだ。

「……クソ!」

 額から汗が滴り落ちる。繊細な作業が永遠と思えるような時間、続く。俺は何日も、何年もかけているような感覚に囚われて──

「嘘だろ……おい……」

 自分でも目の前の光景が、信じられなかった。それこそ、あの日、あのときの──俺が何かの間違いで、の肉体を手にしてしまったのと、同じくらいに。

「まさか、完成するとは……」

 その瞬間、薬草室を守るようにしてギリギリまで堰きとめられていた狼の身体が、押し流された。

「ねえ! まだかかるの、ウィレム!?」

「もう出来てる! 黙ってろッ!」

 俺は慌てて鍋に火をつける。その煙は、まず白く、やがて暗くなり、黒から七筋立ち昇る、七色の煙に──

「──!? あんた、そんなもの作れたの!?」

「知らねえよ、作ったら作れたんだよ!」

 反魂香はみるみるうちに屍人の戦列を包み込んでいく。初めは効果がないように思われたが、やがて──

「……あほらしい。こんな簡単に、古帝国の残した秘術、法術の極意のひとつである僵尸どもが、粉々に粉砕されるなんて……」

 俺自身が信じられなかった。まさか、無茶苦茶な代物を、こんなにもあっさりと作れてしまうとは。砂のように崩れ落ちていく僵尸たちの屍を長い狼の爪で踏みながら、

「ウィレム、あなたって……」

 そう言いかけた狼を遮るように、絶叫が響き渡った。それは耳を劈く断末魔だった。

「──赦さぬ! 赦さぬ! 儂の、儂の芸術品を……大いなる穢れの群れを! よくも、よくもォ……!」

 飛び込んできた涼連は、顔を醜く怒りに歪め、口に大きく瘴気を含むと、どす黒い嵐を吹き出した。反魂香の細い煙はみるみるうちに吹き飛ばされる。

「おいっ、どうすんだよ!?」

「……どうしようもないでしょ!?」

 俺と真祖は慌てて逃げ惑う。屍人を操る雪梅と、それを怒りの形相で追う涼連。俺たちの運命は、決したかに思えた。しかし──

「そう、か。その手があったか……」

「なんだ!? なんでも言ってみろ!」

 真祖がぽろりと零したその言葉に、俺は反応せざるを得なかった。助かることができるなら、なんでもやるつもりだった。

「でも、失敗するかも」

「ダメで元々だろ!」

「間違いなく痛いよ?」

「そんなもん、我慢してやる!」

「……後悔しない?」

「笑わせんな!」

 俺のその答えを皮切りに、またも俺は、意識を失うことになる。バラバラにされ、冷蔵庫にぶち込まれ、起きたと思えば世界の危機だ。なんてロクでもない日だった。夢であればよかったのに。クソったれ。

 意識に残る最後の光景は、憎たらしい金髪の女の顔だった。


     ◯


「道家の日和見主義者どもが煎じた霊薬では儂に、この儂に、傷ひとつ付けられぬわ……僵尸なぞはいくらでも作れる。儂の軍勢は、何度でも蘇り続ける!」

 高らかな笑い声を聴きながら、私はひどく冷静だった。反魂香によって私が従えていた僵尸たちが次々に命を取り戻し、改めて死んでいく。僵尸というのは、死んだ人間の肉に擬魂を植え付けて肉体を縛り付けるものだ。そこに本来の魂が戻れば、擬魂は排斥されてしまう。反魂香は実に効率よく僵尸たちを駆逐していった。

 しかし、私は反魂香などに左右されない。私の肉体は生命の象徴なのだ。私の身体にはそも、死が存在しない。私の身体そのものが人間の生命なのだ。

「──! 其処の、死に損ないの血吸い虫を、屠ってしまえ!」

 その声は私の身体の奥に響く。父と母の声だった。頭では嫌だ、嫌だと思うのに、身体は従っている。やはり私は、人形に過ぎないのかもしれない。

「……雪梅シュエメイ!」

 ああ、私の愛する、主人あるじの声。この声に従えるなら、どんなに幸せか──

 視界がスローになる。飛びかかる私の掲げた腕を、鋭く尖らせた爪をヴァネッサは──

「──ッ」

 そのまま、受け止めた。腸を貫く感触が、虚ろな脳に染み込んだ。

「愚か、愚か! 本当にやりおった、馬鹿め《無貌》よ! 貴様など、儂の軍勢に加えるまでもない、ここで無様に死ぬがいい!」

 ああ、殺してしまった。私は主人を、殺してしまうのだ──

「……雪梅、じっと、してなさい」

 ふと、耳元で、そっと呟いた音がした。

 そのとき、視界が白く抜けた。

「な、何を──!?」

 涼連の狼狽の声が一瞬、そして、それはすぐに嗚咽に変わった。

「ぐ、あ"、该死ちくしょう该死ちくしょう该死ちくしょう该死ちくしょう! なんだ、このは! 貴様、己に、何を、喰わせ──」

 涼連の身体が、弾ける。

「……し、に、たく、ない……なん、で……お、れ……肉、に、くが……くる、し……」

 私の身体に、次第に力が入る。束縛が弱まっていく。私ははっきりしていく意識に、必死にしがみついていた。

「……ヴァー、ニー……」

「雪梅、安心した。無事みたいだね」

 金髪の少女は、にっこりと穏やかに笑っていた。

「どう、やって……」

「無理やりあいつの身体に、ウィレムの心臓をねじ込んだ。あいつの身体が死を超越しているなら、ウィレムの《賢者の石》を混ぜてやれば、いいと思ったの。死からウィレムの肉は、明らかに僵尸の肉と相反するものだから……」

 そう言って、少女は血を吐く。

「ヴァーニー……?」

「大、丈夫……血を使い過ぎた、だけだから……少し眠れば……」

 少女は安らかな寝息を立て始めた。私はその身体を抱きしめる。

「……おの、れ……死に損ない、の……愚か者ども、め……」

 まだ呻いている涼連を睨みつけた。

「死に損ないはお前のほうだ。もはや、立ち上がる力は残っていないでしょう」

「……ゆめ、忘れるな……お、れは……もう一度、蘇る……何度でも、何度でも、だ……お前らをぶち殺して、僵尸にさえ、して、やらない……跡形も、なく……」

 最後まで言えず、涼連は息絶えた。

 私はそのあともずっと、愛しい主人が目を覚ますまで、そっとその身体を抱いていた。このあとにどれほどの困難や面倒ごとがあるとしても、いまはまだ、ただこうしていたいと思ったのだ。

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ブラッド・コンタミナント くすり @9sr

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