#15 ツキトアナタトクマ
「バーン」
素っ気ない擬音を発した後、突然彼女は大きく笑った。
「あはははは!びっくりしました?」
僕は目の前の景色が夢か現実なのかわからなくなるほど動揺した。なぜなら、夢の中で冷たく笑っていた彼女が持っていたものを目の前の彼女も持っていたからだ。しかも、それは間違いなく僕に向いている。夢の続きなのか?それとも……
僕は恐る恐る口を開いた。
「お、れ……殺されんの?」
怯えた僕を見て彼女は慌てて銃をテーブルの上に置いた。
「なに言ってるんですか!冗談ですよ、殺しません。晴翔さんずいぶんうなされていて寝言まで言ってて。しかも、この前観た映画みたいな夢を見てるようなので、いっそ声を掛けたら起きてくれるかな~と思って、ついいたずらしちゃいました」
照れ笑いを浮かべる彼女を見て、僕の知っている彼女なのかもしれないと思った。
そばにいるだけで温かな感情を芽生えさせてくれる人。
「えっ、じゃあ風子ちゃんは過去に闇の組織にいたわけじゃ」
「ないです、ご安心ください。ごくごく普通の大学生です」
彼女は僕が言い終わる前に半ば食い気味で答えた。
どう見てもいつもの彼女と変わらない。けれど、テーブルに置かれた黒い銃がいまだ僕を不安にさせていた。
僕は上半身を起こしてベッドの横に立つ彼女に言った。
「じゃあ、なんで銃持ってんねん?」
彼女はテーブルの上の銃を手に取り、思い返すように斜め上を見た。
「ああ、これはハロウィンのときにミニスカポリスのコスプレをしたときに使ったものです」
そして彼女は微笑み、銃を指差した。
「ほら、よく見てください。これ、もちろんおもちゃですよ」
彼女の言葉に誘導されるように、僕は寝起きのぼんやりとした頭のままなんの疑いもなく銃に顔を近づけた。
おとぎ話でよくある道にわかりやすく置かれた餌に罠と気づかず誘われる間抜けなキャラクターのように。
「えっ、ほんまに?」
すると彼女は先程までの柔らかな微笑みと違い、唇の端に企みを含んだ冷たい笑みを浮かべ僕の額に向けて銃を構えた。
「ふふ。逮捕しちゃうぞ♪」
パン……
空気を弾くようなプラスチックの乾いた単音がしんと静まり返った深夜の部屋に響き渡った。
放たれた空砲に心臓が飛び出るほど驚き、僕は壁に張り付くほど仰け反った。
「うわぁ!ちょっ、なに撃っとんねん!!」
心臓の動きと同じように震える僕を見て、彼女はあっけらかんと答えた。
「クリスマスだし、クラッカー代わりに鳴らしてみました」
「銃はクラッカー代わりにならへん!アウトローすぎるやろ。てか、ニセもんやからええとかない。いたずらでもこんなん持って笑う風子ちゃん嫌や!」
腹が立って僕は彼女の手の中から銃を奪い取り、枕の下に隠した。
彼女は手の中の透明になった銃を見つめながら呟いた。
「ごめんなさい。でも、晴翔さんのせいですからね」
「なんで?俺、なんかした?」
苛立ちが残ったまま反論すると、彼女は寂しそうな瞳で僕を見た。
「だって、晴翔さん起きてからずっと私のこと怖いものみたいに見てるんだもん。ちょっといたずらしただけなのに本気にしちゃうし、そんな目で見られたら悲しくて。だから、目の覚める音でも鳴らしたら早く現実に戻ってきてくれるかなって……」
寂しそうな瞳が苛立つ心を静めて我に返り、申し訳ない気持ちと数秒前の大人げない自分が恥ずかしくなり、僕は掛け布団の裾をギュッと握り震えたままの手元に目線を落とした。
「ごめん。起きたら夢ん中とあまりにも状況が似てたから怖なって。だって、夢ん中とおんなじこと言うてるし、おんなじ銃持って笑ってるし、もうそんなんされたら頭ん中ごっちゃになってもうて……悪いけど、正直いまも風子ちゃんのことちょっと疑ってる」
彼女はベッドに腰掛けて、下を向く僕に穏やかな口調で語りかけた。
それは遠い記憶の大切な人の声のようだった。
「晴翔さん、ここは夢の中じゃないです」
そして震える僕の手を彼女は包むようにそっと握った。
「安心して、あなたのよく知る日常です」
彼女はくすくすと笑いながら少し頬を膨らませた。
「もう晴翔さん、何度も声掛けてるのに起きてくれないんだもん。そんなに夢の中に浸られたら……いたずらされても仕方ないと思いませんか?」
なにこれ、結局すべて俺が悪いみたいになってるやん。元はと言えば風子ちゃんが変なことしよるから悪いのに。こっちだって楽しくて浸ってたんとちゃうし。
不覚にも彼女の言葉が癪に触った。そして自分自身にも。
僕の手を包む温かさといつも見ている笑みの温かさに安堵してしまった単純さと。
なんだかんだ言い包められて消化不良な状況になっているのにすんなり受け入れようとしている男らしくないところに。
僕はなんて情けないんだ。完全に彼女の尻に敷かれてるじゃないか。
僕の中で沸々と苛立ちが溜まっているのもつゆ知らず、彼女は笑いながら話している。
「それはね、寝起きであんなことした」
てか、いたずらにしてもなんで風子ちゃんあんな演技上手いねん。おかげで頭ん中ごちゃごちゃやないか!こんなところで演劇研究会の友達に頼まれて舞台に助っ人出演した経験活かしてくんな!
なにが“大変だったけど結構楽しくて、カーテンコールのときの拍手なんかもう……快感って感じでした”やねん。機関銃ぶっ放した後みたいな清々しい顔して言うな。
「私も悪いと思いますよ。でもね」
でもね、やない!俺、ほんまに怖かったんやで。
あんな顔して終わりにしようとするなんて、夢でも嫌や。現実の風子ちゃんとちゃうってわかってても助けなって……なんとかせなって……でも、結局なんもできなくて。心臓ギューって痛なって、変な汗かいて、呼吸おかしなって、溺れたみたいにうまく息つけなくなって。夢とは思えへんくらい苦しくて。
思い出すだけでしんどいねん。もうあんな想いしたないねん!
なあ、俺の気持ち知らんとあんな趣味悪いいたずらするなんて、仕返しされても仕方ないと思いませんか?
「夢の中の相手が私なのは正直嬉しいです。けれど、私は……」
彼女がなにか言いかけたけれど、僕は自分の衝動に逆らえなかった。
僕は顔を上げて獲物を見つけた猛獣のような鋭い眼差しで彼女を見た。
「なあ、ほんまに悪いと思うならこの心臓どうにかしてくれ」
「えっ?」
握られた手を強く引いて逃げられないほどギュッと抱き締めて、僕の中に彼女を閉じ込めた。その反動で僕たちはベッドに倒れ込んだ。
風邪に侵されいつもより熱を帯びた体の中を慌ただしく血が駆け回り、抱き締めた体にも伝わるくらい僕の心臓はズキズキと痛いほど騒ぎ、呼吸は速くなっていった。
「風子ちゃんのせいやで。悪いけど、少しだけこのままにさせて」
ふと我に返りつい衝動的になった自分が恥ずかしくなって、僕は目線を外すように彼女の肩のあたりに顔を埋めた。
そうだ。これはあくまで自分を制御するための行為なんだ。
ほんとならこのまま彼女を毛布の中に引きずり込んで、悪夢といたずらのせいで不安と恐怖に陥れられた気持ちを消してしまいたい。いますぐ彼女のぬくもりで僕のえぐられ穴の開いた心臓を満たしてほしい。
けれど、いまの僕はウイルスに侵され数時間前高熱に倒れた病人。そんなこと安易にしてしまえば、今度は助けてくれた彼女が高熱に侵されてしまう。
そんなの恩を仇で返すようなもの。それはダメだ。
だから、ごめん。キスの代わりに君の体温で僕の先走りそうな気持ちにブレーキを掛けて……
そうだ。これはあくまで彼女を守るための行為でもあるんだ。
僕はそう自分に言い聞かせて、暴走した体を鎮めるように呼吸を整えていた。
すると、彼女は秘密の話をするように僕の耳元に囁いた。
「じゃあ、お詫びにもっと晴翔さんの心臓ドキドキさせます」
落ち着きを取り戻そうとしていた心臓が想定外の言葉に大きく波打ち胸のあたりでグッと音を立て、僕は思わず振り向いた。
「えっ?」
その瞬間、唇を彼女に塞がれた。
甘く柔らかい感触が夢の沼から僕を引きずり戻し、えぐられ停止し掛けた心臓にドクドクと温かい血液が注がれ開いた穴が塞がり再生していく感覚がした。
人工呼吸のような。だけど、もっと深くて生々しくて、愛する人だけができる蘇生法みたいだった。
唇が離れると、彼女はまっすぐな瞳で僕を見つめた。
「晴翔さんを殺そうとする私がいるのなら、私がその私を殺します」
そして彼女は照れくさそうに笑った。
「そんなニセモノの私、この私が認めません」
柔らかな微笑みで絡まった糸が解けるようにごちゃまぜになった思考回路がゆっくりと正常運転に戻り、ここが愛しい日常だと目の前の透き通った瞳が僕に教えた。
「ただ、いま」
「おかえりなさい」
「疑ってごめん」
「あんまり長居されちゃうと寂しくなります。私を置いてかないでください」
僕の腕の中で目を細めてはにかむ姿を見て、いつの間にか彼女は僕の一部になっているのだと気づいた。
あのとき、僕は覚悟した。彼女が“大好きだよ”と頬に一筋の涙を流した瞬間。
彼女の悲しみを救えるのなら、銃弾に倒れても構わなかった。同じ痛みを分かち合えるのなら、全部じゃなくても出来るだけ同じ気持ちになれるのなら、僕は彼女の隣で血を流し寄り添いたい。
たとえ、ふたり真っ赤に染まった胸をくっつけて眠るようになったとしても……
だから、“置いてかないで”はこっちのセリフだよ。
強張った頬の筋肉が解れていくのがわかるくらい僕は自然と彼女に微笑み返していた。
「置いてかへんよ。夢やったらこうしてられへんし、これでも今の生活気に入ってるし。てか、あかんよ。キスしたら風邪うつってまうで?」
「いいんです。私にうつして早く元気になってください」
「気持ちは嬉しいけど、風子ちゃんまで風邪引いたらあかんで」
「大丈夫です。元気が取り柄なので滅多に風邪引きません」
「そうなんや。でも、ごめんな。風邪引いとんのに抱きついてもうて」
抱き締めた体を離して起き上がり、僕たちはベッドの上で微笑み合った。
「お粥出来たんですけど、食べますか?」
「おお、食べる!」
僕はベッドから降りてテーブルの前に座った。彼女は僕の隣に座り、テーブルに並べられていた土鍋の蓋を開けた。白い湯気がもくもくと立ち昇り、ふわっと米の甘い香りがした。
彼女はもこもこした素材のパーカーを僕の肩に掛けた。
「サイズ合わないかもしれないけど、とりあえずこれ羽織ってください」
「ありがとう」
彼女は木製のレンゲを僕に手渡して、ごはん茶碗にお粥をよそい小鉢に入れた梅干しをスプーンで軽く潰してお粥に少しだけ加え軽く混ぜた。
「どうかな、柔らかくしたんですけど大丈夫かな?」
「ありがとう。でも、このままじゃ食べれへんなあ」
「えっ、梅干し嫌いでしたか?ごめんなさい。私なにも聞かないで入れちゃった」
僕の言葉に困った顔をして彼女は慌ててお粥に加えた梅干しをスプーンで取り除こうとした。僕はスプーンを握る彼女の手首をそっと掴んだ。
「そうやなくて……さっきの一件でまだ心臓ドキドキしててな、全然落ち着かんから手震えてもうてあかんねん」
僕は木製のレンゲを落としてしまいそうなほど、電気ショックで痺れたかのようにわざと手をプルプルと震わせた。
「せやから、自分で食べんの無理そうなんやけど……どないしたらええ?」
そして彼女の肩に頭をもたれ、敢えて上目遣いで見つめた。まるで雨に打たれひとり寂しく震える捨てられた仔犬のように。
いつもの僕がしない行動に彼女は困惑していた。
「それ、なら……食べさせましょうか?」
彼女が言い終わると同時に僕は即答した。
「ほんまに?」
「仕方ないですね」
どう見ても確信犯の甘えっぷりに彼女は少し口を尖らせたが、どこかまんざらでもない表情で僕から木製のレンゲを受け取った。
風邪を理由に甘えた僕は、彼女にお粥をふうふうと冷ましてもらい、あーんと口まで運んでもらった。口の中で解れていく柔らかな食感と米の甘みとほんの少しの梅干しの塩気が、熱に侵され息苦しく怠さのある体をじんわりと内側から温めていく。
一人暮らしではなかなか味わえない懐かしい味。それは家族のぬくもりを思い出す味。
男が風邪を引くと、たいていスポーツドリンクと風邪薬とフルーツゼリーを摂取するのが精一杯。そして回復するまでベッドから出れないのが通常のこと。けれど、いま僕のそばには彼女がいる。それだけで心強い。そして彼女の作ったお粥が体だけでなく、心までも温めてくれた。
すべて平らげた僕を見て彼女は嬉しそうに笑った。
「晴翔さん、今日はずいぶん甘えてきますね。どうしたんですか?」
「なんでやろ?体弱なってるからかな」
僕はコップに注がれたスポーツドリンクを飲む。
「まったく、全然自分で食べようとしないんですから。なんだか中学生のときに職業体験で行った老人ホームを思い出しました」
彼女の言葉に口内からゆっくりと僕の中を流れていくスポーツドリンクが逆流して吹き出しそうになった。だが、噴射寸前のところで口内に留め無理矢理飲み込んだ。急に流れ込んできた水流にむせながら僕は切り返した。
「だぁ、誰がおじいちゃんや。おじいちゃん扱いすな、まだ30や。そこは“晴翔さんったら甘えん坊♪赤ちゃんみたいで可愛い”とか言うてよ」
彼女は僕の背中をさすりながら笑い、僕の話し方を真似して答えた。
「こんな大きい赤ちゃんいませんよ。赤ちゃんなら“お米のやわらかさが心に染みるわ〜”とか“こんな美味しいお粥作れるんなら店出せるで”とか、いちいち感想言いません」
「だって、ほんまにうまかったんやもん。風邪引いてこんな優しくされたの久々やったから嬉しくて。ごめんな、せっかく一緒におんのに看病させてもうて」
「ううん、一緒にいられるだけで私は嬉しいですよ」
そう言って彼女は微笑むと、壁際に掛けた僕のスーツに視線を移した。
「そういえば、プレゼントしたネクタイ使ってくれてるんですね」
「ああ、特別な日やからな。俺かて会えへん言うたけど、ほんまは一緒に過ごしたかったんやで。せやからこれ付けて今日は気合い入れてた。ふしぎなんやけど、これ付けてるとなんだか風子ちゃんと一緒におるような気してな、どんなに忙しくても頑張れんねん。そういやさっきカフェに来たとき、俺いつもより倍キラキラしてやろ?」
「はい、いつもより5割増しでキラキラしてました。男前が颯爽と現れたって思ったんですけどすごく良いところで倒れちゃって、一瞬でキラキラが消えちゃいましたけどね」
「ほんまあかんな。なんでこのタイミング?って自分でも思ったわ」
「でも、大事に至らなくて良かったです。キラキラなんかより私はいつもの晴翔さんがいいです。いつもどおり一緒にいられればいいです」
そう言って彼女はふにゃっと柔らかく笑った。
僕は彼女の首元で光るネックレスに目線を移した。
「そういや、風子ちゃんもネックレスしてくれてるな」
僕が言うと彼女は嬉しそうに自身の首元に視線を落とし、人差し指で月のチャームをなぞった。
「私も同じです。会えないけど、貰ったネックレスしてたら晴翔さんと一緒にいるような気になるかなって今日は付けてました。それにこのネックレスすっごく可愛いから、振り返る人みんながうっとりするくらいの美女に変身してませんかね?」
彼女は髪の毛先のあたりをさらりと右手でなびかせおどけてみせた。
「すごく似合ってるよ。美女具合増したで。まあ、うっとりさせんのはええけど、モテモテになっていっぱい男寄って来よったらイヤやわ。心配やし、俺の風子ちゃんやもん。他の男近寄らせたないわ」
「ふふふ。そういえば、なんで月のチャームにしてくれたんですか?」
「夜歩いてるとき、よう月見てるな思て」
彼女は少し驚いて僕を見た。
「えっ、そんなに月見てました?」
「見てるよ。だって“晴翔さん、今日の月は透き通ったみたいで綺麗ですね”とか“今日はバナナみたいで美味しそう”とか“今日はまんまるだ!”とか、空見てよう言うてるし。俺がおるからええけど、ちょっとは車とか気にせんと危ないで」
「ごめんなさい。月とか星が見えると嬉しくて、つい周り見るの忘れてしまって」
「でもまあ、月見てる風子ちゃんめっちゃ楽しそうやし、そんなに好きやったら風子ちゃんのそばにいつも月があったらええなあって」
「嬉しい。そんな顔してたんだ私」
「ええ顔してたで、子どもみたいに無邪気でな。そういや、ウチの姪っ子もたまにそんな顔しとるわ」
「姪っ子ちゃんくらい無邪気でしたか。きっと晴翔さんの前だからかな」
「他の人の前では見いひんの?」
彼女は苦笑いをして、下を向いた。
「見ません。変なやつって思われそうだし」
「そうなんや。ええと思うけどな」
彼女はそのまま黙り込んでしまい、沈黙が流れた。それは重く冷たい冬の川のようだった。二人の間を流れる川は僕を近寄らせないように流れが速く、飛び込めばなにもできず流されて先にある滝壺に飲み込まれてしまいそうなほどだった。衝動的になってはいけない。慎重に、慎重に彼女を救出するための時間が必要だ。
僕は向こう岸で膝を抱えて下を向く彼女に聞こえるように弾んだ声色で問いかけた。
「なあ、小さいころから月見んの好きやったん?」
僕の問いかけに彼女は顔を上げて柔らかく笑った。
「好きでした。お父さんと一緒に書斎からよく眺めてました」
「ほんまお父さん好きやな。そんなら、お母さんとお兄ちゃんも一緒に見て」
「ないです。お母さんもお兄ちゃんもそういうの興味なくて」
彼女は僕が言い終わる前に言葉を遮った。
口調は穏やかなまま。けれど、どこか強く否定するように。
「二人とも現実主義者で。そんな人たちだから、お父さんが死んじゃってからはすごく嫌がられました。“辛気くさい”とか、“いつまでもそんなことしてるな”って言われたり。家族なのにちょっとドライですよね」
透き通った水面みたいにきらりと光る瞳を見られないように、彼女は明るく笑ったままこちらに視線を合わせず前を向いた。
「なので、実家にいるときは夜中にこっそり書斎に入って、ヘッドホンで音楽を聴きながら夜空を見るのが……密かな楽しみでした」
言葉の終わりで立ち止まりかけた彼女は、溢れそうなものをグッと飲み込みなにごともないような顔をして僕の方を向いた。
きっと彼女は“いつもの私”を装えてる、そう思っているのだろう。けれど、その瞳から溢れそうなものに本当の彼女が映っていた。
笑えなかったからこそ、笑って話す。だから、こちらも笑って返す。
僕も“いつもの僕”を装って、明るくふざけて聞いてみた。
「そうやったんや。でも、楽しそうやな。二人にバレへんようにしてたんやろ?なんか青春映画みたいやな。授業中に保健室行くふりして屋上行って、寝っ転がってよう空眺めてるやつみたいやな」
彼女は僕を見て笑った。
「そんなにかっこよくないですよ」
いつものように目を細めて笑う。
「でも、夜中にこっそりやってるとなんだか悪いことしてるようで、すごくドキドキして楽しかったです。それに、私なりの小さな反抗っていうか」
けれど、零れ落ちないようにいつもより控えめだった。
「そのくらいの反抗したってええよ。むしろ全然悪いことちゃうし、たまたま風子ちゃんのお母さんとお兄ちゃんが嫌やっただけやろ。なにか見て素直に感じれるって素敵なことやと思うで」
僕は同士を讃えるように彼女の肩をポンポンと軽く叩いた。彼女はなにも言わず微笑み、こくりと小さく頷いた。
「でも、なんで俺はええの?あんま人に見せたないんやろ、そういうところ」
「なんででしょう?自分でもよくわからないけど、晴翔さんは私のことなんでも受け入れようとしている気がするから……かな?それにほら、晴翔さんの口癖って“ええよええよ”だし」
「そんな言うてる?」
彼女は先ほどまでの沈んだ声とは違い、弾んだ声で僕の真似をして話した。
「言ってます。“ええよええよ、俺やっとくから”って。ええよの回数数えたらきっとすごい回数言ってますよ」
「ほんまか?!そんなら今度数えといて」
「わかりました、数えておきますね」
彼女はいつものように柔らかく笑って僕に言った。
「こんな口癖の人だから、いいかなって思ったのかもしれませんね。だからかな?」
「そっか。風子ちゃんはええよええよの男の前ではなんも気にせんと、放牧されてる牛みたいにのびのびしてええからな」
彼女は不服そうに頬を膨らませた。
「え〜牛ですか?そこは羊とかウサギとか、もっと可愛いらしい動物にしてほしかったです」
僕はなだめるように彼女に微笑んだ。
「牛も可愛くてええやん。まあ、羊でもウサギでも構わへんから牧場主がしっかり風子ちゃんの面倒見るで。だから、安心してな」
「それじゃあ、遠慮なく安心させていただきます」
二人の間を流れる重く冷たい冬の川は少しずつ雪解けが進み暖かな日差しに包まれて、不思議とピンと張り詰めたような冷たい風も柔らかな花の匂いを含んだ風に変わり、激しい黒の濁流はゆっくりと気持ちよく泳ぐ魚がはっきりと見えるほど透明なせせらぎに変わり、気づけば向こう岸にいる彼女は顔を上げて反対側にいる僕に両手を振って微笑んでいた。
いつのまにか二人の間を流れる川は、橋のように点々とある石を渡れば彼女のもとに行けそうなほど穏やかなになっていた。迎えに行こうと僕は目の前の石に足を伸ばそうとした瞬間、彼女の首元で揺れる小さな月が僕に向かってキラリと光った。
「あっ……」
迎えに行く前にこの距離のまま聞くべきことがあった。
「どうかしましたか?」
いま僕が一番知りたいこと。
それはこの間から胸の奥に引っかかったまま、夢にまで出て来て僕をここに連れて来た。答えは彼女が知っている。
だから、聞かなきゃ。クリスマスに会いたかった理由。
前倒しなんか意味がなかったと、夢が僕に教えてくれたように。
僕は明るいトーンのまま、なにげなく聞いた。悟らないようにいつもの自分を装って。
「そういえばさ、俺がカフェで寝とったときオーナーとなんか話してたみたいやけど……なんの話してたん?」
「ああ、大したことじゃないですよ。イブに会えてよかったって話です」
表情は変わらず笑顔のまま、さらりと彼女にかわされた。様子を伺いながらもう少し突っ込んでみる。
「それだけ……じゃないやろ?ちょっと聞こえてしまったんやけど、クリスマスが嫌いとか良い思い出がないとか。そんなこと言うてたやろ?」
「言いました。だって、クリスマスって小さいときはサンタさんからプレゼント貰えて家族で過ごして楽しかったけど、大きくなったらプレゼントも貰えないし街を歩けばどこもカップルばかりで、みんな楽しそうでなんだか辛いなあって。だから、嫌いなだけです」
嫌いの後ろの“だけ”は言い切ってるように聞こえるが、本当にそれだけなら語尾に“だけ”は使わないはず……
強がりの後ろにわかりやすいサインを残したのは僕に気づいてほしいからだよね?
だから、敢えて傷に触れる言葉を口にした。
「ほんまに?それだけが理由ちゃうやろ。なあ、ほんまはお父さんのことでなんかあったんとちゃうか?」
僕の言葉に彼女から笑顔が消えた。凍りつき口角の下がった唇からぽつりぽつりと言葉が零れた。
「お父さんのことなんか、言ってない。言ってないですし、クリスマスとお父さん関係ないじゃないですか」
そして彼女は冷たい眼差しで僕を睨み、早口になって言葉を並べた。
「私がお父さんのこと好きだからって、勝手に決めつけるのはおかしいと思います!晴翔さんやっぱり今日変です。私、そんな晴翔さん嫌いです!」
立ち上がった彼女はキッチンへと歩を進めた。僕は逃げようとする彼女の手首を咄嗟に掴んだ。
「待って!行かんといて」
強く掴んでしまったせいで、振り向いた彼女は怯えたように肩を竦めた。そして立ち止まり、なにも言わず僕の隣に座った。
僕は華奢な手首からすっと手を解いた。
「ごめん」
彼女は目線を下に向け膝を抱えた。重く冷たい川の向こう岸にいた彼女みたいに。
「決めつけたように聞こえたんなら、ほんまにごめん。でも、そんなんやない。“お父さん”って何度も聞こえたから。いっぱい思い出があったからこそ、クリスマスが嫌いになってもうたんかなって思った。嫌いな日を好きな日にしたい理由があるんかなって。だから、ほんまは前倒しにしたくなかったんやろなって思ったから今日会いに来た」
彼女は下を向いたまま口を開いた。
「聞こえちゃってましたか……」
「だって、いつもの“お父さん”の声やなかった。風子ちゃんの悲しそうな声聞こえたら、そら気になるやろ。風邪引いてへんかったら飛び起きたで」
彼女は抱えた膝の間から涙の滲んだ声で笑った。
「なんでも気づかれちゃうな」
顔を上げた彼女はこちらに微笑んだ。
「でもね、私はただ晴翔さんに会いたかった」
そして彼女は静かに僕の手に自らの手を包むように重ねた。
「クリスマスは大切な人と過ごしたいって、誰もが思うことでしょ?」
その笑顔を見ていると妙に胸が苦しくなる。
「ただ会いたい、そんな理由じゃダメですか?」
あのときに似ている。
クリスマスに行きたいところを話していたときの彼女に。
“前倒しなんかじゃなくて……2時間だけでもいいんです。ダメなら1時間でも”
そう言って僕を見つめる瞳はそんなシンプルな理由だけじゃないように見えた。
僕は重なった手を指と指が重なるようにしっかりと握った。
「ダメやないよ、むしろ嬉しい。けど……風子ちゃんが悲しかったこと知っておきたいねん。余計なお世話なのはわかってる。せやけど、そういうのも分け合って悲しいこと忘れてまうくらい風子ちゃんのこと笑顔にしたいねん」
彼女は微笑みながら一筋の涙を流した。
「ありがとう、晴翔さん。その気持ちだけで充分嬉しいです。だから、そんなに心配しないでください。私は晴翔さんと一緒にいられるだけで悲しいこと吹っ飛んじゃってますから」
胸がキューッと締め付けられるように苦しい。
だから、僕は彼女をそっと抱き寄せた。いまはこれくらいしか僕にはできないから。
「代わりにはなれへんけど、風子ちゃんのお父さんくらいええ男になるから。風子ちゃんのお父さんが初代のサンタさんやったら、俺二代目になってもええかな?」
「もちろんです。今日から晴翔さんは二代目です。頑張ってくださいね、二代目」
「おお。先代に負けへんように頑張るわ」
彼女の笑った顔を見て少しホッとした。
僕なりに踏み込んだ。けれど、彼女の奥底まで知ることができなかった。
だけど、ヒントをもらった。君の泣き顔を見て思い出した。
僕がカフェで眠っていたときに聞えてきた言葉。
《嘘なんてつかなければよかった……》
《天国から地獄に堕ちたっていうか……》
《人って案外簡単に壊れちゃうものなんですね……》
会いたい、それだけじゃない理由があるはずなのに……僕はまだ知らない。
けれど、もうひとつ聞こえてきた言葉に君のほんとの気持ちが詰まっていた気がしたんだ。
《大好きだから……晴翔さんはとっても大切な人だから言えないんです》
思い出したら自然と背中に回す手に力がこもった。風邪がうつってしまいそうだから今日はもうしないと決めたのに、気持ちが僕を動かしていた。
君が僕を想ってくれているのを知れただけで嬉しい。だから、話してくれるまで僕はゆっくり待っている。それまで少しでも傷が癒えるなら、僕はこうして君を包むよ。
「楽しいイブにできなくてごめんな」
「一緒にいれるだけでいいですよ。それより、こんなことしてないで早く寝てください」
彼女は背中に回した腕は下ろして僕から離れようとした。
「ごめん。もう少しだけ」
けれど、僕は離れようとする彼女をもう少しだけ胸の中に閉じ込めた。
「もう。ほんと今日の晴翔さんは変です。でも、好きですよ」
僕たちは少しの間、お互いの温もりを確かめるように抱き締め合った。
今夜は一緒に眠れないから、この瞬間だけでも彼女を感じていたかった。
再びベッドに潜り込み、僕は彼女より先に眠りについた。浅瀬を漂いながらゆっくりと眠りの海に落ちていると、花のような香りの暖かい風が僕の鼻をくすぐった。
寝ぼけたまま重たい瞼をほんの少し開くと、さらさらと髪をなびかせながら彼女はドライヤーを使っていた。僕の好きな香りを漂わせて。
この香りを嗅ぐと彼女の部屋を思い出す。それは僕の部屋にない香り。
この部屋で初めて抱き合った夜、僕を見つめる潤んだ瞳、すやすやとした寝息、“おはよう”の擦れた声とあくびした横顔、寝癖をつけたまま冷蔵庫の前で悩んでいる後ろ姿、少し遅めの朝ご飯を作る背中から伝わる体温、振り向き頬を膨らませて僕の腕の中で抵抗する顔、怒られて名残惜しく柔らかい頬にキスをしたときの驚いた顔、端に焦げ目がついたちょっと甘い卵焼き、暖かな日差しに照らされて揺れる味噌汁の白い湯気、ふっくらとしたお米が盛られ二つ並んだ色違いのご飯茶碗。
愛しい香りが呼び起こす景色。
そしてこの部屋に来ると、それは僕からも香る。ベッドの上でいつものように抱き合い、腕の中の彼女が僕の首筋に鼻を近づけた。
「ウチのシャンプーの匂い。晴翔さんからもしますね。なんだかふしぎ」
そう言って彼女は笑い、僕の首筋に口づけした。
彼女といると些細なことが幸せに変わる。どこにでも売っているシャンプーも彼女が使えば、大切な思い出を呼び起こすアイテムになる。
そして、いまこの部屋を流れるドライヤーの風も僕にとっては春のそよ風になる。
彼女が髪を乾かし終えると、すべての植物が長い眠りから目覚め気持ち良く空に向かって伸びをするような心地良い香りが部屋中に広がっていた。
そこにはテーブルの上の透明な花瓶に生けたピンクのバラを眺め、微笑む彼女の横顔があった。
それは幸福に満ちた光景だった。そして僕の重たい瞼は静かにゆっくりと落ちていった。
意識もすべて深い底に溶けて、僕は眠りの海を泳いでいた。
気持ちよく水面を浮遊していると、遠くの方から声が聞こえた。
それは僕の聞き馴染みのある愛しい声だった。これは前に彼女と話したときの会話のようだが……なぜか僕の声がだけ聞こえない彼女の会話の内容が途切れ途切れ聞こえるものだった。まるで床に散らばったパズルのピースのように、どこかバラバラでなにか抜け落ちていた。
《勉強?嫌いでした。でも、やらないと自分が困るので仕方なく》
《あ~、それは一切選択肢になかったですね》
《そういう意味でも女の子でよかったって思いますね》
《空を見ていたときに言ったんです。“ふうちゃん。いろんな世界を見るんだ。そしていろんな人に会うといい。生きていないと出逢いはないからね”って》
なんの話だったんだろう。僕はぷかぷかと浮遊しながら水面に響く声を辿った。
《東京はすべてが新鮮でたくさんの人がいて賑やか》
《だけど、どんな人にも孤独が付き纏うところ》
《地元はどこに行っても馴染みがあって落ち着く》
《だけど、どこに行っても記憶が邪魔して空が低く感じるところ》
《寂しくても広い空の方が好きです》
《帰る場所なんかどこにもありません》
《私はここにいてもいいですか?》
《ええに決まってるやろ。ずっと俺のそばにおって》
最後に僕の声が聞こえた。その瞬間、音声だけの世界がまた映像に切り替わった。
誰もいない見知らぬ家のリビング。テーブルの上には丸々とした七面鳥や豪勢な料理や高価なワインが並び、中央に置いてあったケーキには【Merry Xmas】と書かれたプラスチックの金のプレートとキャンドルが4本立てられていた。床にはワイングラスが割れたまま、赤い液体がフローリングに染みていた。
そして、床に座り込む制服姿の女の子の後ろ姿があった。無造作に置かれたキーホルダー付きのスクールバッグ。手元には赤い血が滲み、そばには包丁が転がっていた。
視線は床から女の子の体をなぞるように上へと進み、胸元、首へと向かい顔が見えそうになったとき、唇が動いた。
「そんなに私のこと知りたい?」
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