#14 冬の砂に消えた天使

 目を開けると見慣れない天井が視界に入った。

 どうやら僕は窓際のソファで眠っていたようだ。

 僕を包み込むブランケットのぬくもりとは別に左手になにか温かい感触を感じた。

 ふと横を向くと他のテーブルから持って来たイスに腰掛けた彼女が僕の手を握っていた。彼女はカフェの制服から私服に戻っていた。そして彼女の首元にはこの間僕がプレゼントした月のチャームのネックレスが光っていた。


「目、覚めましたか?」


「あれ……俺、なんでここに?」


「晴翔さん、倒れちゃったんですよ」


「そうやったんや……」


 カウンター席に座るオーナーは煙草のけむりをゆっくりと吐きながら笑った。


「疲れてるのに走るからだよ。かっこつけるのはいいけど無理はダメだよ」


「すんません。イブやしせっかく登場するんやったらかっこつけなあかんなと思うて。無我夢中に走ってたらこんなことになってもうて……僕ダサいですね」


 自分の情けなさが恥ずかしくなった僕は無理に笑い天を仰いだ。すると、カウンター席の方から優しく微笑むような落ち着いた声がした。


「かっこよかったよ。よく来てくれたね」


「えっ……」


 その声に導かれるように視線を地上に戻し、不意に僕の指先に伝わる温もりに視線を移した。そこには照れくさそうに笑う彼女がいた。それは先ほど見た夢の中で純白のドレスを身に纏い秘密の話をしたあの微笑みのようだった。


「花束渡してくれたところまでは王子様みたいだったのになあ。倒れちゃうところがやっぱり晴翔さんらしいですね」


「俺らしいて、遠回しにドジ言うてるやん。やっぱ風子ちゃんの王子様にはなれへんか〜!」


 冗談交じりに笑うと彼女はまっすぐな瞳で僕を見た。


「王子様なんかいなくていいです。晴翔さんは晴翔さんのままでいいんです。私は王子様を好きになった覚えはありませんから」


「僕も晴翔くんみたいな男の方が人間味があって好きだな。そういえば、僕も奥さんに“あなたはほんと王子様にはなれないタイプね”って付き合ってたときに言われたな。なんだか晴翔くん見てると親近感湧いてくるよ」


「それ良い意味やったらええんですけど。そういや、せっかくのイブに僕のせいですんません。奥さん待ってはるのに。僕はもう大丈夫なんで、帰ります。ほんまご迷惑おかけしてすんま……」


 僕は急いで上半身を起こすが、頭痛と体の重だるさでふらつき地面に引っ張られるように崩れた。床にこぼれ落ちていく僕を彼女が受け止め再びソファに戻された。彼女は僕の額に手を当てて心配そうな顔をした。


「無理しないでください。ほら、頭こんなに熱いんだから」


 彼女に抱えられた僕はソファの背もたれに力なく寄り掛かった。


「大丈夫だよ。ウチの奥さんには話しておいたからもう寝てるだろうし。それにこんな体で電車乗れないでしょ。僕が二人を送ってくから心配しなくていいよ」


 オーナーは灰皿にタバコを擦りつけ火を消し、コーヒーカップに手を掛けた。


「ほんまにありがとうございます」


 僕は芯のないゴム人形のように力なくオーナーに頭を下げた。ふと彼女を見ると僕をまっすぐな瞳で見つめ口を尖らせていた。


「具合悪いなら来なくてよかったのに」


「ごめん。心配かけてしもて……」


 そして彼女は瞳にうっすらと涙浮かべていた。


「すっごく心配したんですからね。会いに来てくれるのは嬉しいけど……倒れないでください」


 強がっていた瞳から涙は溢れ出し、震える指先は僕のコートの袖をギュッと握った。


「ごめんな、風子ちゃん」


「死んじゃったかと思ったじゃないですか!」


「あほやな。これくらいで死なへんよ」


 彼女は泣き顔のまま笑って僕の胸に柔らかな拳を押し付けた。


「私に会えたからって……嬉しくて死なないでください」


 僕は彼女の背中に腕を回し頭を撫でた。彼女は僕に抱きついて胸に顔を埋めた。


「なに言うとんねん。嬉しかったら余計死なへんわ」


「風子ちゃんね、びっくりして悲鳴あげて泣いてたんだよ。“晴翔さん!晴翔さ~ん!死んじゃイヤ〜!!”って泣きじゃくって。他の子たちも何事だ!ってびっくりしちゃってほんと大変だったんだよ。ただの貧血なのに心配しすぎだよ」


 彼女は顔を埋めたまま涙が滲んだ声で反論した。


「やめてください。恥ずかしいです」


「ほんま心配かけてしもてごめんな」


 彼女は顔を少しだけ上げて言った。


「晴翔さんの馬鹿。恥かいた分は今度しっかり穴埋めしてもらいますからね」


「もちろん。いや、今度と言わず今夜穴埋めしよか?せっかく朝まで一緒なんやし」


 彼女の涙を止めたくていつものように冗談交じりにいじわるを囁くと彼女はいつもと違ってまったく照れることなく僕を叱った。


「なに言ってるんですか。具合悪いんだから今夜は寝てください」


 彼女の怒った表情はどこか懐かしく感じた。それは小さいころ僕が転んだとき心配を掛けたくなくて無理に笑って痛みを堪えていたときに姉たちにされた表情のようだった。“なに言うとんねん。こんな血出てんねんから無理すんな”と言って、僕を家まで交代でおんぶしてくれた日のことを思い出した。


「穴埋めできるくらい元気ならお邪魔だし僕は帰ろうかな……」


 オーナーはバツが悪そうにコーヒーカップと灰皿を持って席を立ち、キッチンへと向かった。僕は慌ててオーナーを呼び止めた。


「あっ、いや!ちゃいます!冗談です!!オーナーほんまにすいませんでした!こんな時間までご迷惑をお掛けしてしまいまして。僕、全然元気じゃないです……自分で言うのも変やけど。大変申し訳ないのですが、送っていただけませんか?」


 芯のないゴム人形のような体に精一杯力を入れて僕はしっかりと頭を下げた。


「仕方ないな。だったら、さっさと準備してね!」




 僕たちはオーナーの車で彼女のアパートまで送ってもらい、まだふらふらの体を彼女に支えられながら部屋の中まで辿り着いた。

 さっきは“今夜穴埋めしようか”なんて大口を叩いたが、正直に言うと動くのが辛いくらい体がものすごくだるくなんだか熱っぽい。どうやら僕は風邪を引いてしまったらしい。僕はベッドに寄りかかり、ぼんやりとした頭で部屋を見渡した。

 ここには何度か泊まりに来たことがあるが、それにしても彼女の部屋は物が少ない。二つの白いカラーボックスに本や化粧品などの日用品が収納され、キッチンや水回りも綺麗に整頓されて居心地が良かった。そして木製の白い枠のシングルベッドが部屋の割合を占めていた。

 女の子なら雑誌やぬいぐるみや雑貨など多少あるイメージだったが、彼女の部屋には雑誌も雑貨も置いていない。地元の友達との写真も持って来ていないらしい。唯一女の子らしいグッズは一匹のクマのぬいぐるみだけだった。物が少ないことを僕が言うと彼女は笑顔で言った。


「この部屋狭いし、あんまり物置きたくないんです。それに思い出は全部私の中にあります。思い出してそれでも辛いことが忘れられなかったらクマちゃんをギューっとするんです。そうしたら不思議と元気になれるんです。だから、物はいりません。頭の中の思い出とクマちゃんがいればそれでいいんです」


 愛おしそうにクマを抱く彼女を抱き締めた夜をふと思い出した。

 あれから何度もこの部屋には来るようになった。少し狭くてもここに来れば温かい気持ちになれることが僕には心地良かった。


 彼女はバッグを床に置きクローゼットを開け、僕に背を向けながら言った。


「晴翔さん、とりあえず着替えましょう。少し熱っぽいし、風邪みたいだから体拭いて楽な格好になって早く休まないと」


「俺は大丈夫やし、シャワー浴びてくるから気遣わんでええよ」


「シャワーは落ち着いてからでも浴びれるでしょ。私の心配はいいですから、今は自分を労ってあげてください」


 彼女は僕がこの間置いていったボクサーパンツと僕がお泊りできるようにと以前用意してくれた寝間着とタオルをベッドの上に置き、足早にバスルームへと向かった。

 戻って来た彼女は湯気を立ち昇らせながら洗面器をそーっとテーブルの上に置いた。そして僕のコートとジャケットを脱がし、ネクタイを外し、シャツのボタンを丁寧に外していき、インナーを脱がせた。彼女は洗面器の中でタオルを絞り僕の体を拭き始めた。熱っぽい芯のないゴム人形はされるがままだった。


「晴翔さん、明日もお仕事でしょ。体調悪いからお休みとかできないんですか?」


「忙しいから休めへんねん。頑張っても半休しか頼めへんな」


「それなら尚更早く休んで風邪治さないと」


 黙々とこなす彼女はまるで看護師のように手早く丁寧に上半身を拭き終えると、僕にトレーナーを着させた。

 だが突然、看護師のような顔は赤く染まり手が止まった。彼女は僕のベルトにそっと手を掛け固まっていた。


「しっ、失礼……します」


 熱に侵され手元もおぼつかず自分でベルトが外せなくなっていたのを見かねた彼女が渋々脱がせてくれていた。カチャカチャと慣れない手つきで僕のベルトを外していく彼女が妙に色っぽく感じた。風邪でもなかったら思わず彼女を押し倒したくなるほど最高のシチュエーションなのに、僕の体はそんな元気もない状態。

 悔しさから僕はつい彼女が照れるのをわかっていていじわるを言ってしまう。


「なんか照れるな。いつもは脱がす方やのに今日は脱がされる方やな」


 案の定、彼女はますます顔を赤く染めた。チャックを下ろす手も激しく揺れていた。


「そ、そういうこと言わないでください!だって、辛そうなんだもん。こんなこと恥ずかしいからしたくないけど、早くしないと晴翔さん眠れないから」


「ごめんな、風子ちゃん」


 彼女はなんとかズボンと靴下を脱がせ洗面器でタオルを絞ると、ボクサーパンツだけ身につけられた僕の下半身を太ももから足の裏まで丁寧に拭いていった。

 そして彼女は洗面器でタオルをゆすぎながら僕に言った。


「あの、その……大事なところはどうしますか?新しいのに着替えるにしても、晴翔さんが気持ち悪いのなら拭いた方がいいと思うんですけど……でも私が拭くのは……」


「ああ、そこはええよ。体拭いてもらっただけで充分やし、仕事行く前にシャワー借りるからええよ」


「そうですか。それならこれに履き替えてください。私は後ろ向いてますから」


 彼女は僕にボクサーパンツを手渡し背を向け目を閉じた。

 僕は力ない体をゆっくりと起こし履いていたパンツを脱いで新しいものに履き替えズボンを履き、再びベッド脇にもたれた。


「もうええよ。これ持って帰って洗うから、ここ置いといてもええ?」


 僕が声を掛けると彼女は振り向いた。


「明日洗うから置いていっていいですよ」


「ええよ。こんな汗ばんだパンツ汚ったないし。ここまで迷惑掛けられへんよ」


 僕は脱いだパンツを掴み自分のバッグに仕舞おうとすると、彼女は僕の手首を掴んだ。


「汚くないです。この前だって洗ったし、パンツの一枚や二枚増えても問題ありません!それに……」


「それに?」


「置いてってくれたら、晴翔さんまたウチに来てくれますよね?今日みたいに仕事帰りでも……」


「おお、置いといたらいつでもお泊まりできるしな。まあ、パンツなくても来るけど」


「よかった。じゃあ、明日一緒に洗っちゃいますね」


「ありがとう」


 僕は彼女の頭を撫でた。彼女は立ち上がり僕のパンツを脱衣カゴに入れて、脱いだ服をハンガーに掛けて消臭スプレーを吹きかけた。


「これで明日も大丈夫です。さあ、私のベッドに寝てください」


「ごめん、使わせてもらうわ」


 力ない体を引きずるように僕はベッドに潜り込み、彼女は救急箱から体温計を取り出し脇に挟ませて僕の額に手を当てた。


「う〜ん。さっきより熱い気がしますね。そういえば、夜ご飯は食べましたか?」


「食べてへん」


「それじゃあ、お粥作ってきましょうか?少しでも栄養つけないと」


「ええの?風子ちゃんは食べたの?」


「私はまかない食べたから大丈夫です。作ってる間ゆっくり寝ててくださいね」


「うん。ありがとう」


 ピピピッ……


 体温計が鳴ると僕の脇から引き抜き、彼女は表示画面を見て驚いた。


「39℃ですか?!ずいぶん熱あるじゃないですか!もう、晴翔さん無理しすぎです!!」


「ごめん、風邪引いてるのに来てもうて……」


「それはいいですからちゃんと寝ててください」


 彼女は僕の額に冷たいジェルシートを貼りテーブルの上の洗面器とタオルをそっと持ち上げて、キッチンへと消えていった。


 僕はふと天井を見上げた。彼女が眠りにつくときに見る景色。

 僕がこのベッドに寝ても目線は彼女に向いているから、天井なんて見ることがなかった。

 きっと彼女はいろんな気持ちでこの天井を見上げてきたのだろう。

 愛し合ってるとき僕越しから見えた天井も、どうしようもなく嬉しいときも、胸の奥を息苦しいものが占領して押しつぶされそうな夜も、泣きはらし重たくなった瞼と頬に潮が引いた川の痕を残した朝も。

 きっとこの天井は彼女のすべてを静かに見守ってきたのだろう。

 僕の知らない彼女の姿を。それは光も影も。

 君が教えてくれるのなら僕はそのすべてを知りたい。だって、そのひとつひとつが君を構成する大事な欠片だから。僕はそれもすべて愛おしく思うんだ。だから……


「教えて……風子ちゃん」


 僕は天井に向かって小さく呟いた。彼女の柔らかな匂いが残るベッドはゆっくりと深い眠りの海に落としていった。


 眠りに落ちた僕の脳内には声が流れていた。

 それは確かカフェの入り口で気を失ったとき、僕が目覚める直前に聞こえてきたオーナーと彼女の話し声だった。

 僕は聞こえてきた声を頭の中でなぞるように思い返していた。


「そういえばさ、今日ってほんとはお休みだったよね?突然入ってくれることになったけど、もしかして彼のことで?」


 彼女は気まずそうに答え無理に笑った。


「ああ、えっと……そうです。オーナー鋭いですね!」


「いや、僕だけじゃなくみんな気づいてたよ。だって“もうすぐクリスマスですね!”ってあんなにウキウキしてた子が急に“人手足りないならイブの日出ますよ”って、無理矢理元気な顔作って言ってきたからさ」


「まさかみんなにも……クリスマスは平日だし、会うとしてもどうせ夜しか会えないことはわかっていました。でも、できることなら晴翔さんに会いたかったんです」


 キッチンの方から食器をカチャンと動かす音がする。


「それはやっぱりイブだから?」


「イブってこともありますけど……なんていうか私クリスマス好きじゃないんです、あんまりいい思い出がなくて。そんな日でも晴翔さんとだったら特別なことをしなくても私の中で良い記憶に変わるかなって……なんちゃって、私勝手すぎますよね」


 コーヒーを淹れる音と香りがする。


「こっち来てからは毎年バイト入ってくれてたよね。去年までは確かバイト終わりに美香ちゃんたちとクリスマスパーティーしてたみたいだけど、それは楽しくなかったの?」


 彼女は弾んだ声で答えた。


「いえ、東京に来てからは楽しい思い出ばかりです!毎年みんなでケーキとかピザ食べながらわいわい朝まで楽しく過ごさせてもらいました。でも、今思えばイブなのに美香ちゃんと一緒にいれたのはなんだか不思議でした。あんなに男の子に不自由しない子が」


 足音がこちらに近づいてくる音がする。それとともにコーヒーの香りが先ほどより近く感じる。足音は止まり、テーブルの上をカタンと音がする。


「はい、どうぞ」


「ありがとうございます」


 足音が離れていき、イスを引く音がした。


「美香ちゃんもいろいろあるんだよ。そういう子がいても本命じゃなかったら、クリスマスに一緒に過ごしたいと思わないもんだよ。風子ちゃんが彼に会いたいと思うのとは逆側のことだよ。東京来てからは楽しかったのなら、実家にいたときなにかあったの?」


 チッ、チッと音がした後、少し離れたところから煙草の香りがしてきた。


「私、お父さんが中二の秋ごろに病気で亡くなって……」


 彼女の声がボリュームを絞るようにフェードアウトしていき徐々に聞こえなくなっていった。

 その直後、ラジオにノイズが入ったように耳障りな機械音が響いた。


 ピーーー……ピーーー……


 あれ、なんだこれ?


 ザザ、ザーーー……


 そしてラジオからテレビに変わるようにノイズは砂嵐に切り替わり、音だけが流れていた僕の脳内に突然映像が流れ始めた。けれど、それは鮮明なものではなくブラウン管の時代のテレビのような粗さ。しかも、どこかで見たような映像だった。


 ザッ、ザーーー……



 ーー常連の中年三人組をスナックの外まで見送るママと彼女ーー

「ほな、また来るわ!」

「また来てくださいね」

「気をつけて帰んなさいよ」

 店の中に戻り、カウンターに入り彼女は小さなシンクで食器を洗っていた。

 そして僕は彼女の隣で煙草を吸うママに声を掛けた。

「ママ、水割りおかわりしてもええ?」

「いいわよ。あら?……」

「えっ、どうしたの?」

 彼女は泡まみれのスポンジとグラスを握りながら、カウンター下の冷蔵庫を覗き込んだまま固まっているママに視線を向けた

「氷なくなっちゃった!」

「ウソ、取って来ようか?」

「私取って来るから風子は洗い物してて。晴翔、ちょっと待っててね」

「ごめんな、ママ」

 店内と繋がる住居スペースのドアに手を掛けたママはなにか思い出したかのように突然立ち止まり振り返った。

「あっ、そうだ。私がいないからって風子になんかしたら、あんたのこと豆腐にするからね」

「ちょっ、怖いこと言わんといてよ。俺なんもせえへんし」

「風子、すぐ戻って来るからね。なんかあったらすぐに呼びなさいよ」

 彼女は笑いながらママの方を見た。

「はーい。いってらっしゃい」

 バタンとドアが閉まり、ママの足音が遠くなってから僕は彼女に小声で話した。

「ねえ、風子ちゃん」

 彼女は食器に着いた泡を水で流しながら、ちらりと目線を僕に向け笑顔で言った。

「なんですか、小声で話すなんて。変なことでもする気ですか?」

「風子ちゃんまでそんなこと言わんといてよ。それより今度の日曜空いてる?」

「空いてますけど」

「ほんまに?!この間、風子ちゃんが好き言うてた映画あるやろ?あれの続編もうすぐやんか。そんでな、たまたま知り合いからチケット二枚貰ってんけど……一緒にどうかな?」

 僕は上着のポケットからチケットをそーっと取り出した。

「行きたい……です」

「えっ、ほんまに?!ええの?」

 彼女はキュッと蛇口を閉め、恥ずかしさを隠すように少し早口になって食器を拭き始めた。

「映画観たかったし……たまたま空いてたんで!あっ、でもママには内緒にしてくださいね。お客さんと出掛けたなんて知られたら怒られちゃうし」

「そやな!俺も豆腐にされてまうし、二人だけの秘密な」

 そして僕たちは映画のチケットを眺め笑った。



 ザッ、ザーー……



 ーー古びた喫茶店の窓際の席で向かい合って座る僕と彼女ーー

「私も晴翔さんのことが好きです。でも、実は豆腐苦手なんです。味がしなくて美味しくなくて。だから、私なんかが一緒にいたら晴翔さんに申し訳ないです……」

「だったら、いっぺんウチの豆腐食べてくれ。返事はそれからでええ」

 僕は彼女の手を掴み立ち上がり、テーブルに千円札を置き足早に店を出た。



 ザッ、ザー……



 ーー台所の食卓で豆腐を食べる彼女ーー

「あれ……美味しい。美味しいです、この豆腐!」

「やろ?ウチの豆腐うまいやろ!」

「美味しいです!豆腐ってこんなに甘かったんですね!!」

 反対側の席に座る僕は前のめりになって興奮気味に話していた。



 ザッ、ザー……



 ーー豆腐屋兼自宅の一軒家の前に一台の引越し業者のトラックが停まっていたーー

 僕は引越し業者が玄関まで運んだ荷物をせっせと部屋の中に運んでいた。

 そして彼女は畳の上に置かれた段ボール箱から荷物を取り出していた。

 引越し業者が帰った後も荷解きを続いていた。

「風子ちゃん。この本全部そこの棚に入れてもええかな?」

「はい。お願いします」

 棚に本を入れ終わり、彼女の隣に座り段ボール箱を開けた。

「あの、晴翔さん……」

「ん、どないした?」

 隣で荷解きしていた彼女は僕の方に体ごと向け姿勢を正して正座した。

「晴翔さん、今日からよろしくお願いします」

 そう言うと彼女は膝に手を置き頭を下げた。

「こちらこそ今日からよろしくお願いします、僕の奥さん」

 僕も正座して彼女の方に体を向けてゆっくりと頭を下げた。

 彼女はクスッと笑った。

「ずっと一緒にいましょうね、私の旦那さん」

 同じタイミングで頭を上げ目が合い、二人で照れくさそうに笑った。

「婚姻届ってあんなにあっさり受理されるものなんですね」

「そやな。ほんまただの書類って感じやったな」

「あのときはあっさりしすぎて実感湧かなかったけど、今はなんとなく夫婦になれた気がしてきました」

「俺も。荷物片付けてる風子ちゃん見てたらめっちゃ嬉しなってきた」

 そして僕たちの左の薬指が夕焼けに照らされてキラキラと光っていた……



 突然、砂嵐が激しく大きな音を立て始めた。


 ザザザ、ザザザザ、ザーーーー……ピーーー……ブチッ



 ーースナックのテーブル席に向かい合い座る心配そうな表情のママと下を向く彼女ーー

「ねえ、なんで晴翔とデートに行ったの?あの子ウチのお客さんよ。お客さんにそういう感情持っちゃダメって言ったじゃない」

「ごめんなさい。内緒で遊びに行って」

「別にあの子じゃなくていいでしょ。風子だって今まで大学の子にデートに誘われたり、ここじゃなくても出逢いはあるんだし」

「そうだけど、好きになる人はいなかったの」

「晴翔のことは好きになったのね。でもまあ、あの子のどこがいいと思ったの?」

 彼女は顔を上げママを見て柔らかく笑った。

「晴翔さんね、車道側を歩いてくれるの」

 ママは驚き前のめりになって彼女に言った。

「えっ、そんな理由?そんなの当たり前でしょ?!」

「当たり前なんかじゃないよ。相手のことを想わないとできないことだよ」

「でも、今までにもそういう子いたでしょ?」

「確かに誘ってくれた人の中にもそういう人はいたよ。でもね、それは本当の優しさじゃなかった。私のことうわべでしか見てなかった。でも、晴翔さんはうわべじゃなかった。一緒に歩いてそう思ったの」

「なにがあったの?」

 彼女は声を弾ませ嬉しそうに話した。

「晴翔さんね、会ったときからずっと車道側にいてくれて。私ったら、雨が降ってるのに白い服着て来ちゃって。並んで歩いてたら私たちのそばを大きなトラックが勢いよく通って、晴翔さん自分の傘落としてまで私のこと庇ってくれて。おかげで晴翔さんの背中は泥だらけ。私が謝ったら晴翔さんなんて言ったと思う?『ええよええよ。このくらい模様付いてた方が個性的でかっこええし』って笑ってたの。そんな晴翔さん見てたら思ったの。私、この人とならなんでも笑っていけるのかなって」

 ママは彼女が嬉しそうに話す姿を見て笑った。

「もう、なによそれ」



 ピーーー、ザザッ……



 ーースナックのカウンターでグラスを磨くママとウィスキーのロックを傾ける僕ーー

「ときどき風子ちゃんの気持ちがわからへんねん。いっつもニコニコしてるけど、無理してへんかなって心配になんねん」

「あの子は小さい頃からずっとあんな感じよ。でも……確かに無理して笑ってるときもあるわね」

「やっぱそうなんや。どんなとき無理してんのかな?」

 ママは目線を手元のグラスに向けたまま話した。

「そんなの直接聞けばいいじゃない」

「いやでも、俺が聞いても『なんにもないですよ』ってすぐかわされてまうし……」

 ママは磨き終えたグラスをテーブルに置き僕に諭した。

「そのくらいでひるんでんじゃないわよ。もっと突っ込んで聞きなさい」

「いやでも、気遣うやん。あんましつこいと嫌われてまうかなて……」

「それくらいで嫌になったらそもそも付き合ってないわよ。自信持って聞きなさい。気持ち隠してるままじゃ本当に夫婦とは言えないわよ」



 ピーーー、ザザッ……



 ーー赤ちゃんを抱っこひもでおんぶしながら台所で料理をしている彼女の後ろ姿ーー

 まな板から軽快な音を鳴らしながら包丁使う彼女は赤ちゃんをあやすようにゆらゆらと体を揺らしていた。その横顔には陽だまりのように温かく柔らかい笑みを浮かべていた。

「ねえ、晴翔さん。隠さないでください。なにか言いたそうな顔してますよ。どうしたんですか?」

「隠してへんけど、あんな!俺、まだ風子ちゃんのこと全然知らへんと思うねん。過去に何があったとかさ。風子ちゃんいっつも大丈夫って言うからそれ以上聞かれへんかったけど。だからこの際、風子ちゃんのこと全部教えてくれへん……」

 突然、軽快な音がピタリと止まった。と同時にゆらゆらと揺れる彼女の体もピタッと止まった。

 すると彼女は斜め後ろにいた僕に振り返った。

 そこにはさっきまでの陽だまりのような微笑みはどこにもなかった。

 その代わり、瞳の奥がからっぽの口角だけが引き上げられた感情のないマネキンように冷たく笑みを浮かべる彼女が立っていた。手には包丁が握られ、その鋭く尖った銀色の先は僕の方に向いていた。

「えっ……風子ちゃん?ちょっ、なんで包丁向けとんねん」

「ふふふ」

 春ような温かな台所の空気が地を這いすべてを凍りつかせてしまうような都会の空風に一瞬にして変わった。

「ごめん、なんか悪いこと聞いてもうたみたいやな。もう変なこと言わへんから、とりあえず包丁しまおか?怪我でもしたらあかんし、血出たらそのお気に入りのセーター汚れてまうで」

 しかし彼女はなにも言わず唇の端に笑みを浮かべたままゆっくりと僕に歩み始めた。



 ピーーー……



 ーー包丁を握ったままじわじわとこちらに近寄って来る彼女ーー

 彼女は無言のまま僕に少しずつ近づいてくる。

 状況が掴めないまま僕は狭い台所の中をゆっくりと彼女と距離を取りながらなだめるように話した。

「ほんまにごめんな。生きてたら人に言いたくないことの一つや二つそりゃあるよな!ほんまもう一生聞かんからその物騒なもん置こうか?なあ、一回落ち着こう!」

 後退りを続けていた体は無情にも壁に止められた。冬の冷気を吸収した壁は僕の背中をじわじわと冷やしていった。彼女は目の前に止まり寂しそうに視線を床に落とした。

「晴翔さんって、その程度だったんですね」

「えっ……そんな言い方せんといてよ。俺はただ風子ちゃんのこと全部好きになりたいだけ。今までの風子ちゃんがいたから、目の前の風子ちゃんがいるんやろ。だから、無理して笑って自分の気持ちに蓋すんのもうやめてほしいねん。俺の前ではありのままの言葉吐き出してええんやで。俺は絶対風子ちゃんのこと裏切らへん。なにがあっても風子ちゃんの味方や」

 彼女は唇の端の笑みを消して冷たい表情で僕を見た。

「そうですか。じゃあ、信じていいんですね」

「ああ。当たり前やろ」

「じゃあ、これはもう必要ないですね」

 彼女は包丁を床に投げ捨てた。

「そんなに私のこと知りたい?」

 僕は異様な雰囲気に怯えながら彼女をまっすぐに見つめた。

「知りたい。どんな過去でも構わない」

「知りたいと思うことは罪。その自覚はありますか?」

 彼女はエプロンのポケットに手を入れて何か取り出した。蛍光灯のライトが一瞬僕の視線を遮りそれは光でよく見えなかった。

「えっ……風子ちゃん?」

「じゃあ、罰を一緒に背負う覚悟はありますか?」

 そして彼女は取り出したものを僕に向けた。それはすべてを塗りつぶしてこの世界から消し去ってしまうような漆黒の銃だった。

「晴翔さん、大好きだよ」

 引き金に手を掛けたその瞬間、まっさらなキャンパスに一滴のインクを落とすようにじわじわと彼女の心臓あたりが赤く滲み、その近くに銃で撃たれたような穴が二つ空いていた。彼女の白のセーターに異様なほど赤く目立っていた。それは抱っこひもやエプロンにまで滲んでいた。

 彼女は左目から一筋の涙を流し、銃口を僕の心臓に向けた。

 僕が口を開こうとした瞬間、耳元に温かい吐息の感触と愛しい声が聞こえた。



「そんなに私のこと知りたい?」



 ハッとして目を開けると、目の前には彼女の顔があった。

 その瞬間、僕の胸のあたりでカチャという音がした。目線を下に向けるとそこには銃口が突き付けられていた。


「えっ……ふ、うこ、ちゃん?」

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