#13 窓辺のかぜ

 時は過ぎ、あっという間に師走になっていた。彼女と出逢ってはや二ヶ月。

 世の中は年の瀬に向けて浮つき、なにかに追われているような慌しい空気が流れていた。

 僕は12月が一年で一番嫌いだ。もうすぐで一年が終わるそれだけなのに。

 12月なんて、無理矢理イベントにくっつけて世の中を踊らせてあたかもすべての人間が今年一年をハッピーエンドで終えられたかのように錯覚させて、気づけば金も体も心も灰になるまで完全燃焼してしまう新しい一年を迎えるためにすべて絞り出すようなひと月。

 世の中の慌ただしさを包み隠し綺麗な幻で蓋をしても、そんなの夢から醒めた後の喪失感が生まれるだけだ。

 だからクリスマスも……正直言って好きじゃない。

 小さい頃は純粋な気持ちで楽しんでいた。サンタからのプレゼントを心待ちにしてなかなか眠れなかったイブの夜や朝目覚めると枕元にプレゼントが置いてあったときの高揚感など、僕の中でクリスマスは冬休みのビッグイベントの一つだった。

 けれど、思春期を迎え友人や恋人と過ごすようになってからは感じ方が変わった。

 楽しんでいる自分を周りに見せつけ寂しいやつと思われないようにしているような、なにをしても見栄を張っているように思えた。だから、大人になってから本心で楽しんだことは一度もなかった。

 どんなに甘い夜だったとしても……それはクリスマスに限ったことではないから僕にとってはちっとも特別ではなかった。


 こんなこと誰にも言えない。口が裂けても言えるもんか。もちろん目の前の彼女にも。

 だから先ほどから彼女の話はうわの空で、僕には響いていない。

 僕たちは愛し合った後いつものように抱き合いながら他愛もない話をしていた。

 彼女は僕の腕の中で楽しそうに話している。

 どうやらクリスマスのことらしい。

 彼女の声が弾んでいる。僕は微笑んでいる。けれど、僕の心は笑っていない。笑っているのは顔だけ。

 今年はイブもクリスマスも平日。

 それに休日出勤当たり前の気力体力すべてを搾り取られていくような忙しさでボロボロになるのが毎年恒例のこと。こんな調子だから浮かれたイベントなどする気が起きない。

 どうせいつもの倍残業してくたくたになって家に帰り風呂から上がれば気を失ったように眠るだけの日々になる。

 だから、きっと彼女を楽しませることなんてできない。余裕のない僕は特別なことをしてあげることもできないだろう。

 今年は彼女にとって恋人と初めて過ごすクリスマス。それはきっと彼女の記憶に残るかもしれない時間。

 けれど、こんな僕は仕事に追われ君に素敵な思い出を作ってあげられないだろう。

 だから、ごめん……


「それで!そこのイルミネーションの近くにいっぱい屋台が出ていて、安くて美味しそうなものがいっぱい食べれちゃうんです!すごくないですか?どうしよう、なに食べようかな。ケバブとか食べちゃおうかな。晴翔さんはなにか食べたいものありますか?」


 顔だけ向けていた僕は彼女に体ごと向けて話した。


「なあ、風子ちゃん。クリスマスのことなんやけど……今年はどっちも平日やからあんま時間作れそうにないねん。申し訳ないんやけど、クリスマスの予定前倒ししてもええかな?それやったら風子ちゃんの行きたいところも行けるし……今日みたいに夜もゆっくりできるやろ」


 彼女の髪を撫でギュッと引き寄せた。


「イブかクリスマスに会いたいんです、前倒しなんかじゃなくて……2時間だけでもいいんです。ダメなら1時間でも……」


 彼女はどこか寂しそうな表情で僕を見つめた。まるで捨てられた子犬のように”行かないで”とすがるような瞳だった。そんなふうにお願いされたらウソでも快諾してしまいそう。この空気に流されて今だけ楽しくても、後々彼女を傷つけることになる。それは絶対にしたくない。君とはちゃんと向き合いたいんだ。

 情に流されてしまいそうな気持ちを取り払うように僕は明るくキッパリとした口調で切り返した。


「ごめん!年末やしそのころは毎年残業続きで、せっかく約束しても遅れたりドタキャンしてまうかもしれんねん。そんなんで風子ちゃんのこと傷つけたないし。ほんま申し訳ないんやけど約束できへんわ。せやから、クリスマス前の週末に前倒しせえへんか?それやったら二日間ゆっくり過ごせるで。なんなら金曜の夜から会おうや!そしたら近場なら旅行にも行けるで!なあ、めっちゃええやん!!」


 僕の提案を聞くと彼女はすんなりと受け入れた。けれど、どこか無理に作ったような笑顔だった。


「わかりました、前倒ししましょう。でも、旅行なんて行かなくていいです。私あんまりお金ないから、いつもどおりどっちかの家に行って一緒にいられるのならなんにもいらないです。特別なものなんかいりません。いつもどおりこうやって晴翔さんといられれば。私ちょっと疲れちゃいました。先に寝ますね、おやすみなさい」


 そう言って彼女は僕に軽くキスをして背を向け目を閉じた。その後、なにを話し掛けても僕の声は彼女に届くことはなかった。


 悪いことをした……

 彼女のぬくもりが僕の胸を締め付ける。

 罪悪感に包まれた僕は後ろから強く抱き締めた。

 そして眠っているであろう彼女に謝ることしかできなかった……


「ごめんな、風子ちゃん」


 いつもなら二人で他愛もない話をして楽しそうに話す彼女を見ていたら、僕はついいじわるをしたくなってキスで話を妨害しているうちにまた愛し合い始めるのに……

 そんなこともなく彼女は眠っていた。僕は彼女の首筋にひとつ口づけを落として目を閉じた。しーんと静まる部屋。毛布の隙間から冷たい空気が流れ込んでくる。数分前までお互いの熱が交わり頬にキラキラと雫がつたうほど蒸し暑かったベッドの中は今では隙間風さえ耐え難く彼女にくっつき深く毛布をかぶっていないといられないほど寒く感じた。


 目が覚めると、彼女はまだ眠っていた。

 僕の隣で静かな寝息を立てていた。

 彼女の髪を撫で、頬に口づけを落とす。


「風子ちゃん、こんな彼氏でごめんな」


 いつもより目覚めの悪い日曜の朝だった。




 案の定、クリスマスのある週は忙しかった。仕事も飲み会も立て込み、激務と飲酒の波に飲み込まれ、疲労の深い海に溺れていく毎日。必死に足掻いても必死に泳いでも岸に上がることのできない体は日に日にボロボロになっていった。

 そして迎えたクリスマスイブ。五感から入ってくるものすべてがクリスマスに染められて、胸やけしそうなくらい世の中は浮ついていた。

 そんな雰囲気も関係なく僕は朝からあちこち営業先を飛び回っていた。会社に戻り山積みの事務作業をこなしていると、気づけばとっくに定時を過ぎていた。そして僕以外みんな帰ってしまった。戦場のように慌しかったオフィスが嘘のように静寂に包まれていた。

 ウチの部署は既婚者が多いからこうなることは見当がついていた。

 そりゃ、そうだ。こんな日くらい誰かといたいよな。僕だって……

 静まり返ったオフィスでひとり液晶画面と向き合い、僕はパソコン用のメガネを外して机の上に突っ伏して少しばかりの休憩をとった。

 疲れ果てた僕はつい、うたた寝をしてしまった。

 そして、夢を見た……





 *******


 僕は下町の豆腐屋の三代目店主。年老いた父親が営む豆腐屋を守りたくて脱サラして店を継いだ。

 僕が店を継ぐと父は「おまえとおったら口出しばっかしてもうてゆっくりできへんわ」と言って姉の家に行ってしまい、一年前に結婚した妻の風子ちゃんとふたりで豆腐屋をやることになった。

 明日は週に一度の定休日。

 僕には定休日の前日の夜に必ず行くところがある。独身のころから通っているスナックに行くのが僕の楽しみだ。妻とはそこで出逢った。まだ大学生だった彼女は親戚であるママの店をたまに手伝いに来ていた。一目惚れした僕は猛アタックの末に彼女との恋を実らせた。そして僕たちは永遠の愛を誓い合い、寄り添い歩いていくことになった。

 純白のドレスを纏った彼女は誓いのキスの前に僕にしか聞こえないように言った。

「永遠なんてないけれど、私が死ぬまでそばにいてくださいね」

 陽だまりに包まれたカーテンの中に隠れて照れくさそうに笑う彼女をその中に入って抱き締めるように、僕は顔を覆ったベールをそっと持ち上げて答えた。

「もちろん。俺の隣にずっとおってな」

 僕は微笑み返して誓いのキスをした。

 あの後、なにを話していたのかみんなに聞かれたが誰にも答えなかった。教えたくない。だって、陽だまりの中でキスをした僕たちだけの秘密なのだから。

 新しい生活は始まりこの店をなんとか盛り上げようと彼女は試行錯誤していた。店頭に手書きの豆腐を使ったレシピを置いてみたり、“オトウフコ”というハンドルネームでレシピ投稿サイトに動画をアップして回を増すごとに再生回数が増え、今では常にランキング上位にいるほどの人気ブロガーとなった。その甲斐もあって下町の商店街にわざわざ遠くからやって来る彼女のファンもいるほど、日々店は賑わっていた。

 順風満帆な生活を送っていると、先月彼女のお腹に僕たちの子どもができたことがわかった。喜びのあまり強く抱き締めたら「少し苦しいです。嬉しいけど今は優しく抱き締めてください」と怒られた。

 僕は彼女のことが心配で動画投稿や店の手伝いを少しずつ減らすように言った。すると彼女は大事そうにお腹をさすりながら笑顔で言った。

「私は大丈夫です。出来る限りやらせてください。晴翔さんのおじいちゃんから続いてるお店、お腹の赤ちゃんにも好きになってほしいから私も頑張らないと」

 そんな彼女が愛おしくて仕方なかった。

 僕たちは結婚してからも定休日の前日は親戚の営むスナックに遊びに行っていた。それが二人の密かな楽しみだった。けれど、最近は僕だけ通っている。彼女が行けなくなってしまった今、僕も行くことを控えようとしたら

「私のことは気にしないでママのところに顔出してあげてください。晴翔さんまで行かなくなったらママ寂しがりますよ」と彼女に笑われた。

 そして今夜も僕は妻の作った夕飯を食べ終え、スナックへと向かう。


「じゃあ、風子ちゃん行って来るね」


 玄関に向かい棚から靴を出していると、彼女はリビングから出て来た。


「晴翔さん、あんまり飲みすぎないでくださいね。あと……あんまり遅くならないでくださいね」


「わかってるて。風子ちゃんひとりで寝かさへんよ」


 僕は上がり框に腰を下ろし靴を履いていると後ろから彼女が抱きついてきた。


「約束ですよ。雨降ってるし気をつけてくださいね」


 そして、振り向いた僕にキスをした。

 唇を離し頭を撫で彼女にキスを返して抱き締めた。


「うん。お風呂入ってゆっくりしててな。お腹の子と楽しく過ごしてるんやで」


 ゆっくりと彼女の手をほどき、僕は手を振って玄関を出た。


「いってらっしゃい、気をつけてくださいね」


 彼女はお腹をさすりながら、僕に手を振り返した。


 店は家から徒歩三分のところにある。

 スナック【窓辺のかぜ】

 店の名前は姪っ子である彼女の名前から由来している。

 そんなママは言わずもがな姪っ子を溺愛している。それもあって彼女をデートに誘うのにとてもとても苦労した。そしてママはなぜだか事務のボスこと会社の先輩の山田さんに酷く似ていた。相手を追い込むスピードも一緒だった。

「最近風子とばっか楽しそうにお喋りしてるけど、ここ誰の店だと思ってんの?」とか、

「そういえば、こないだ風子と映画観に行ったんでしょ?あの子すっごく楽しそうに話してたけど、もちろん終電までに家まで送り届けたんでしょうね?」とか、

「風子と結婚するってことは私があんたの叔母になるのよ。それってどういうことかわかるわよね?」とか……

 僕たちを常に近くで監視している、いや僕たちを見守っているママは彼女の親代わりでもあった。実家から離れ、ママの住むこの街からほど近い場所の大学に進学した彼女をずっと温かい眼差しで見てきた。恋につまずき女ひとりで一生懸命生きるママにとって彼女は我が子のような存在だった。

 なので、遠くの彼女のお母さんより近くのママの方が僕にとっては怖かった。彼女を好きになった代償は大きかった。けれど、ママにこれだけ愛されている彼女と一緒にいられるだけで僕はどんなことでも耐えられた。言い方はキツイが、ママの言葉には愛があった。僕はそんなママのことも自分の親のように慕っていた。

 木製のドアを開くとカウンター席の正面の壁掛けの棚には様々な種類の酒が置いてあり、テーブル席側の壁にはママがブルドッグの愛犬と戯れる写真や彼女とママが二人並んで楽しそうに写る写真がたくさん飾られていた。赤いベロア生地のソファに温かな照明。昭和の雰囲気漂う下町のスナックといった店内に常連客の賑やかな歌声とママの作るつきだしに会話は弾み酒が進む場所。僕が店を継いでから父に教えてもらった温かい場所。

 12月の冷たい雨の降る夜道を歩くと優しく灯る紫色の看板が見えてきた。店の前に着き傘を閉じドアを開けた。

 カウンターテーブルには小さなクリスマスツリーと電池式のサングラスを掛けたサンタ人形が陽気にくねくねと踊っていた。けれど、今日はいつもより客が少ない。マトリョーシカのように大中小ときれいにサイズが揃った中年三人組の常連客しかいなかった。僕はいつものようにカウンター席に座る。

「こんばんは。ママ、今日はお客さん少ないね」


「まったくこの雨よ。雨降るとお客さん来ないし来てもすぐ帰っちゃうし参っちゃうわよ!」


「ママ。俺ら帰るからお会計お願い!」


「もう、言ったそばから帰るんだから!」


 僕と入れ替わりに常連客三人組は帰り、店内にはママと僕二人だけになった。

 いつものように水割りを飲んでいるとママは煙草に火を点けた。そして煙を吐き、心配そうな顔で僕を覗き込んだ。


「なんで今日来たの?」


「なんでって、明日休みやから。迷惑やった?」


「迷惑じゃないわ。嬉しいけど、なんで今日なのかなと思ってね」


「えっ?今日ってなんかあった?」


 ママは呆れたような顔をして僕を見た。


「ウソ?!わかんないの?」


「えっ、わからへん。今日ってなんかあんの?」


「バカ、なんでわかんないのよ!ほら、これよ!」


 そう言うとママはカウンターテーブルのクリスマスツリーを指差した。


「ああ、イブか!忘れとった。だから、晩御飯に鳥の唐揚げ出てきてたんや」


「ほら、風子気にしてんじゃない!なんでイブにこんなとこ来てんのよ」


「だって、クリスマスは明日やし近場でゆっくりデートする予定やから、今日特別なんかする必要ないし。イブなんてただの前夜祭みたいなもんやないですか?俺らクリスチャンやないし、そない大事にせんでも」


 僕が苦笑いをして答えると、ママは目線をしっかり合わせ話した。


「なに言ってんの。女は記念日とか誕生日とか気にする生き物なのよ」


 ママの口調は優しいままだが、それが余計に怖く思える。例えるのなら嵐の前の静けさというところ。この状況、嫌な予感しかない……

 僕はママの気を逆撫でしないように顔だけニコニコしながら恐る恐る答えた。


「でも、風子ちゃんとは毎日ずっと一緒やし。一緒におれればそれだけで特別なもんなんかいらんて……風子ちゃんも言うてたし」


 僕が言い終わるのと同時にママは堰を切ったように畳み掛けた。


「そんなのウソよ!あんたに嫌われたくなくて無理矢理合わせただけよ!わがまま言ったら愛想尽かされると思ったのよ」


 冷たく鋭い眼差しを向けられる僕は体が石のように固まり思考回路もうまく回らなくなった。事態を悪化させないために回らない思考で必死に答えた。


「そっ、そんなんちゃいますよ!だって、風子ちゃんいつもと変わらずニコニコ笑ってたしずっと一緒におんのに……いっ、いまさらそんなウソつくわけないですって!」


 僕なりに気を確かに持って答えたつもりだったけれど、きっと側から見たらボストンバッグに溢れんばかりの大金を詰め込み逃げようとしたら外にいた警官に拳銃を向けられバッグから札束をはみ出し状態で「僕はやってない」と哀れな言い訳をする銀行強盗のように情けない姿だっただろう。

 そしてここから僕への事情聴取が始まった。無理に笑い言い淀みながら反論しても、マシンガンのように捲し立て追い込み鋭い目線で観念させる敏腕刑事の前では僕の心は丸裸だった。


「馬鹿ね。女は男と違っていろんなことに時間制限があるのよ。だから、やたらと“初めて”とか“最後”とか気にするの。風子だってお腹に子どもがいるんだし、あんたと二人っきりで過ごすイブは今日が最後ってことでしょ?」


「まあ……そういうことになりますね」


 すべて吐かせるために敏腕刑事は犯人を追い込んでいく。


「そういえば、風子と付き合って初めてのクリスマスもあんた仕事だからって予定前倒しにして、結局イブもクリスマスも会わなかったんでしょ?風子は会いたがってたのに」


 追い込まれた犯人は消え入りそうな声で答えた。


「よう知ってるなあ。だって、そんとき俺サラリーマンやったし、年末やからめちゃめちゃ忙しくて毎日残業続きやったし、充分時間作れそうになかったし……中途半端に会うても変に期待持たさせて傷つけるだけやし……そんなことしたな」


 敏腕刑事は我慢出来ず犯人が言い終わる前にカウンターテーブルをドンと強く叩き反論した。


「そんなの言い訳でしょ?あんた、サラリーマンって言ってもそのとき日本にいたんでしょ?」


「そりゃあ、まあ……日本やし、いつもの会社に出勤してました」


「じゃあ、風子のとこからひと駅の家に帰って寝てたんでしょ?」


「はい……そうです」


 完全に落ちた。白状した犯人に罪の深さを教え込むように敏腕刑事はトドメを刺した。


「なにやってんのよ!自分の家に帰んないで風子の家に行きなさいよ!!」


 罪の深さに気づいた犯人は涙ながらに懺悔した。


「はい……僕はとんでもないことをしました。でも、今から過去のことは変えられないです。なので!これから償って生きていきますので、どうかお許しください!」


 敏腕刑事は犯人に改心させるように優しい口調で諭した。


「馬鹿ね。こっちは過去を変えろって言ってんじゃないの。今をどうにかしなさい」


「えっ?今ってどうしたらいいんですか?」


 犯人の間抜けな答えに敏腕刑事は呆れきっていた。


「ウソでしょ?そんなのもわかんないなんて。はあ……あんたなんかにウチの風子やらなきゃよかった。こんなことなら魚屋のタクミくんに紹介すればよかったわ」


 怒りを通り越して可愛い姪の将来を心配し出したママの手を僕は両手で強く握った。


「そんなこと言わんといてください!あいつだけはほんまあかん!あんな女ったらしのとこ行ったら幸せになれませんて!アホやけど僕の方が真面目で優しくてええ男です!!お姉さん、僕はどうしたらいいんですか?アホな僕に教えてください!お願いします!!」


 ママは僕の手をゆっくりほどき、すべてを見透かしているように言った。


「頭を上げなさい」


 先ほどまでの敏腕刑事と追い込まれた犯人のような関係が、今では絶対服従の女王様と最下層の平民のような関係になっていた。

 僕はなんて情けないんだ。

 でも、彼女との幸せを守るために僕は従順な犬のようにゆっくりと頭を上げまっすぐな瞳でママを見上げた。

 ママは唇の端に笑みを浮かべながら言った。


「そうね、次来たときにボトル入れなさい。もちろん風子に出させちゃダメよ。あんたのお小遣いで出すの。まったく、私が結婚祝いにあげたボトルでいっつもちびちび飲んでて全然減らないじゃないの」


 僕は女王様を拝むように再びママの手を握った。


「すいません。来月お小遣いもらったらすぐにボトル入れます!!」


「よろしい。それじゃあ、教えてあげる。そうね……今すぐ帰ればいいだけよ」


 あまりにも簡潔な答えに僕は不意をつかれ、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になっていた。


「えっ……それだけ?それだけいいんですか、お姉さん?」


「都合悪いときばっかりお姉さんって言ってくるんじゃないわよ!気持ち悪い!!」


 ママは頬を赤らめながら振り払うように僕の手をほどいた。


「だって、ママと僕は家族やないですか?僕、ママの姪の旦那やし」


 ママはいまだに僕に“お姉さん”と言われることに慣れてくれない。僕が言うと必ずと言っていいほど頬を赤く染めて照れてしまう。どうやら年下の男に言われると過去の男を思い出し、そのせいか甘えられるのも苦手らしい。

 いつもの女王様のようなママが急に女性の部分を出すところが可愛くて僕はたまにこの手を使う。このときばかりはママの暴言は痛くもかゆくもない。可愛らしいママが見れるのはとっても貴重なことなのだ。

 ただ頻繁に使うと店を出禁にされてしまう恐れがあるので、ここぞというときに使うのがポイント。

 何事も押し引きが大事なのだ。


「なにニヤニヤしながら言ってんのよ!ニヤニヤしてないでこれ持ってさっさと帰んなさい。もちろん今日渡すのよ」


 ママは小さな白い紙袋を壁側の戸棚から取り出し僕に渡した。

 明日彼女に渡すために用意しておいたプレゼントの時計。久しぶりにお店に顔を出したいと彼女が言っていたので、明日ここに来ることになっていた。だから、ママに預かってもらいそのタイミングで渡すつもりだった。

 僕はサプライズを仕掛けるのが酷く下手くそだ。以前、彼女の誕生日プレゼントを二人のお気に入りの映画のDVDを入れた箱に忍ばせておいたら、思いがけず前日に彼女に見つかってしまった。想定外だった。

 僕のシミュレーションでは「えっ!なんですか、これ!?」と言われるはずだった……なのに!

 実際は「えっ?なんですか、これ?……あっ」となってしまった。

 見た瞬間、彼女はすべてを察したのだ。僕が誤魔化しても時すでに遅し。何を言っても結局ボロが出てしまい困った僕が言葉を詰まらせていると、彼女は笑って「大丈夫ですよ。中身はわかりませんから今のところギリギリセーフです。明日まで楽しみにしてますね」とDVDを取り出し何事もなかったように箱を閉じた。その優しさが余計心苦しかった。

 ママには「なにどんくさいことしてるのよ!そんなわかりやすいところに置いとくんじゃないわよ!」とダメ出しされるは、常連客たちからは腹を抱えて笑われるは、この店ではいまだにネタにされる始末。

 あんな悪夢、もう二度と見たくない。そう思ってママの手を借りることにした。


「でもこれ、明日渡すやつやないですか?今日渡したらサプライズじゃなくなるやないですか!」


「あんたがいつもより早く帰るだけで充分サプライズじゃない。それでこれも一緒に渡せばあの子絶対喜ぶわよ。さっ、早く行きなさい!」


「ほんまや!それええな。ママ、ありがとう。僕、風子ちゃんのとこ帰るわ」


 テーブルにお勘定を置いて僕はプレゼントを持って店を出ようとした瞬間、ママはカウンターから出て来て僕の腕を掴んだ。


「ちょっと待って!これも持って行きなさい。風子が昔から好きなケーキよ。あの子、私の作ったシフォンケーキ大好きなの。さっき作ったばかりだから明日まで大丈夫よ」


 そう言うとママは冷蔵庫から取り出したケーキの箱をカウンターテーブルに置いた。


「お姉さん……ありがとう!大好きやで」


 僕は嬉しさのあまりママを抱き締めた。


「ちょっと、なに抱きついてんのよ!抱きつく暇あったら早く行きなさい」


 照れたママは僕を突き離し、ケーキの箱を手渡した。


「お姉さん、ほんまありがとう」


 僕は傘も差さず雨の中ケーキの箱を手に持ちプレゼントの箱をポケットに忍ばせ走った。

 息を切らして家に着き鍵を開け勢いよくドアを開けた。


「風子ちゃん!ただいま!!」


「わっ!きゃあっ!!!」


 玄関近くにいた彼女は僕の突然の帰宅に驚きふらついて足を滑らせた。


「あぶない!!」


 僕はすべてを投げ出して彼女に手を伸ばした。傘は足元を転がり、ケーキの箱は弧を描くように宙を舞い天と地を逆にして滑走路を滑る飛行機のようにフローリングに着陸した。

 間一髪、倒れかけた彼女を抱きかかえた。最悪の状況は免れた。その代償に僕の寿命がちょっと縮んだ……気がする。


「よかった。はあ……はあ……風子ちゃん、大丈夫か?」


 腕の中の彼女はキョトンとしていた。


「だい、じょぶですけど……晴翔さん、帰って来るの早くないですか?」


「いや、気が変わってな!それより……イブやのにひとりにしてごめん。二人っきりで過ごすの今年が最後やのに、気づかんくてごめん」


 彼女はふわっと柔らかく笑った。


「去年二人っきりで過ごせたからよかったのに。それにもう二人じゃなくて三人ですよ」


「そうやったな!この子も一緒やな」


「でも、嬉しいです。ありがとう、晴翔さん。私のために帰って来てくれたんですね」


 ゆっくりと彼女を床に降ろし、僕は隣に座った。派手に横転したままのケーキの箱を拾い、ひっくり返して彼女に渡した。


「あと、これママからお土産。ママの作ったケーキ好きなんやろ?ごめんな。落としてもうて」


「ウソ!?嬉しい!!あっ……でも、中身大丈夫かな」


 彼女はケーキの箱を恐る恐る開けた。


「あっ、クリームべちゃべちゃになっちゃいましたね……」


 生クリームは箱の天井にべったりとつき、メッセージプレート代わりのクッキーにチョコレートで書かれていた文字は滲み、かろうじて理解できる程度だった。


「ほんまや……文字もぐちゃぐちゃなってる。“風子おめでとう”って書いたんやろうけど“風 おめ と”になってる……ごめん。俺のせいでこんなふうに」


 僕が頭を下げると彼女はそっと手を握り微笑んだ。


「いいですよ。晴翔さんが助けてくれたから転ばなくて済んだしお腹の子も無事です。ケーキは食べれれば充分です。明日、一緒に食べましょう!」


 やっぱり僕は情けない。

 イブなのに身重の妻を置いてスナックに行き、ママに叱られ急いで帰り、挙句驚かせ転ばせてしまいそうになった。

 気が利かない、女心がわかってない。夫として男としても僕は足りないところが多すぎる。けれど、そんな僕をいつも彼女は笑って受け止めてくれる。僕の足りないところを埋めてくれる大切な存在。

 こんな僕を包んでくれるその優しさがじんわりと沁みて、それと同時に情けないわりに足を滑らせた彼女を守れた安堵感が込み上げてきた。そして気づけば涙が溢れていた。


「ありがとう。風子ちゃんほんま優しいなあ」


 彼女は僕の頬を濡らす涙を温かい指で拭った。


「もう。泣かないでください。ねえ、こんなところにいないであっち行きましょ。一緒に映画でも観ませんか?」


「おお。なに観んの?」


「初めて二人で観た映画です」


「ああ、あの怖いやつ!」


「違います。その後に見たアニメです」


「そっちか!そういや観たなあ!」


 リビングに戻った僕たちは肩を寄せ合い映画を観て、ベッドの中で二人抱き合った。

 穏やかな表情で眠る彼女の横顔を眺め、枕元に渡しそびれたプレゼントを置いて僕も眠りについた。

 朝、彼女が目覚めるのが楽しみだ。


 *******





 そこで目が覚めた。


「なんや……ずいぶん作り込まれた夢やな。ドラマ一本分くらいあったで」


 念のため言っておくが、僕の実家は豆腐屋ではない。父はサラリーマンで、事務の山田さんはスナックのママでもないし彼女の親戚でもなければ独身でもない。

 もちろん、彼女の風子ちゃんとは結婚もしてなければ妊娠もしていない。

 現実の僕とだいぶ状況が違うのはご理解いただきたい。


 眠ってしまったせいで力なく投げ出されていた僕の指がパソコンのキーを触り画面いっぱいの暗号を作っていた。


「あかん、はよせな!」


 時計を見ると、もうすぐ8時。

 僕は黙々と残りの事務作業を片付けていった。すべて片付いたときには時計の針は9時に向かうところだった。

 荷物をまとめコートを羽織り、急ぎ足で会社を出た。

 ここから僕の住む街まで30分。彼女のバイト先までは20分。

 この間、前倒ししたのでプレゼントのネックレスはあげてしまった。もはやこの時間に何をプレゼントしたらいいのかわからない……でも、なんとか気持ちを伝えたくて花屋へと向かった。

 会社近くの店を何軒か回ったがどこも閉まっていた。スマホで調べるとまだ開いてる店が彼女のバイト先の近くに二軒あった。急いで電車を降り花屋に向かった。最初に訪れた店はすでに閉まっていた。肩を落とす暇もなく息を切らして走った。祈るような気持ちで僕は最後の望みへと向かった。

 路地裏を進むと花屋には明かりが灯っていた。店内にはまだ2〜3人の客がいた。なんとか滑り込み、小さな花束を見繕ってもらった。いきなり来て真っ赤なバラを渡したら重たい気がして、彼女のように柔らかく可憐なピンクのバラにした。僕は花束を持って彼女のもとへ向かった。激しく呼吸が乱れ、体力の限界が近づいていた。

 彼女のいるカフェに着くと入り口の看板を片付けるオーナーがいた。

「あの!はあ、はあ、はあ……ふっ、風子ちゃんは、まだいますか?」


「いきなりどうしたの!?風子ちゃんならいるよ。とりあえず寒いから入りなよ」


 生まれたての小鹿のようにガクガクと震える膝を引きずりながら店の中に入った僕は出入口のドアの前でぼんやりとした頭で立ち尽くしていた。


「風子ちゃん。君の彼氏走って来たんだけど、なんかあったの?」


 オーナーがキッチンに向かって言うと、遠くの方から足音とともに彼女の声が近づいてきた。


「えっ?冗談言わないでください。晴翔さんは忙しいから会えないって言ってたんですよ!」


 彼女は突然の登場に動揺していた。


「なんで……晴翔さんどうしたんですか?」


 息が整わないまま、僕は言葉が途切れ途切れのかっこ悪い姿で素直に想いの丈を伝えた。


「ごめん……忙しくて会えないとか、俺の気持ちばっか押しつけて……こうやって会おうと思たら会えんのに、仕事言い訳にしてごめん。風子ちゃんの気持ち聞かんと……言い訳ばっかして、ほんまごめん……あの、もう遅いかもしれんけど、今から僕と一緒にいてくれませんか?」


 そう言って花束を差し出したら、彼女はとても驚いていた。


「これ……私に、ですか?」


「当たり前やろ。風子ちゃん以外に、こんなもん渡すやつおらへんよ」


 彼女は嬉しそうに花束を受け取った。


「ありがとう。とってもいい香りがします」


「ごめん。ほんまにごめんな」


 頭を下げていると肩のあたりに温かい感触がした。見上げると彼女は僕の肩をそっと包み込み微笑んでいた。


「顔を上げてください。晴翔さん、一緒に帰りましょう」


「うん。ありがとう……」


 彼女の微笑みは天使のようだった。けれど、それは僕が最後に見た景色だった。突然、目の前がくるくると回り景色は真っ暗闇へと変わり地面へと引っ張られるような感覚がした。

 僕は彼女に寄り掛かかるように崩れ落ちていった。


 ドサッ……


「はる、とさん?……晴翔さん?晴翔さん!晴翔さん!!」


「どうした風子ちゃん?……晴翔くん!おい、大丈夫か!」

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