#12 二人のベッド③

「晴翔さん、さっきよりちょっと力強くないですか?」


「あっ、ごめん。痛かった?」


 僕が咄嗟に放そうと手を開くと、彼女がギュッと握り返した。


「痛くないです。これくらいがいいです」


「また迷子になったら嫌やし、はぐれんようにせんとな」


「晴翔さんは心配性ですね。もう迷子になりませんよ。だって、また晴翔さんが見つけてくれるでしょ?」


「そりゃ必ず見つけるよ!てか、それ迷子になる前提の話やん。あんときほんま焦ったで!こっちはめちゃくちゃ心配したのに、全然反省してへんやろ」


 彼女は柔らかく笑い、思い出すかのように斜め上を見た。


「反省してますよ!でも、あのときすっごく嬉しかったな。晴翔さん、本当に心配してる顔してました。私のお父さんもあんな顔してくれてたなあ」


「俺、風子ちゃんのお父さんに似てるの?」


「顔は似てません。でも、小さいころ迷子になったとき、お父さんはさっきの晴翔さんみたいな顔してました。ちょっぴり目を潤ませて怒ったような顔で『勝手に先行くんじゃないよ』って。本当に心配してないと、あんな顔しませんよ」


「俺は怒ってへんけど、風子ちゃんになんかあったら嫌やし。もう俺のこと置いてかんといてな」


「置いていきません。服でも腕でも引っ張っていきますからね」


「ほんまか?また迷子になったら罰ゲームやで」


「えっ、罰ゲーム?」


「罰として、俺と一緒にお風呂な!もちろん白い入浴剤入れて隠すとかもナシやで」


 僕が笑いながら言うと、彼女はあからさまに怪訝そうな顔をしてこっちを見た。


「やだ。絶対無理!しかも、入浴剤ダメってそれじゃまる見えじゃないですか!」


「当たり前やんか。お風呂は裸になるところやで。一緒に入ったらいつもよりあったかいし、身も心もリラックスできるで。二人で湯船浸かったら楽しいで!そやな、あ〜んなことやこ〜んなことができるんやで」


 ここで敢えてわざとらしく言って強調する。僕があたかも下心まる出しで一緒にお風呂に入ろうとしていると彼女に思い込ませるために。素直な彼女はきっとこの罠にハマるだろう。


「あんなことやこんなことって、もしかしていやらしいことする気ですか?だったら、絶対に入りませんよ!」


 彼女はまんまと罠にハマった。ムキになればなるほど、僕の思う壺だ。


「いやらしいことちゃうよ!泡風呂とか花びら浮かべるやつとか、いろんな入浴剤入れて遊ぶねん。だって、一人やとなんかもったいない気してできへんし、二人なら心置きなく楽しめるやろ?さっきは入浴剤あかん言うたけど、二人でそういうことしたら楽しいんやろなって思っただけ。俺が考えてたのはそういうこと。なんもいやらしくないやん!俺やからいやらしいことって決めつけるのは心外やな。でも、実はそういう風子ちゃんの方がいやらしいこと考えてたんとちゃうか?」


 僕は純粋に楽しむためという小学生でも思いつくような理由を並べ紳士的な男を装った。

 すべては彼女を追い込み、恥ずかしがる顔をさせて包み隠さないそのままの気持ちを知るため。そして最終的には……


「かっ、考えてないですよ!なに言ってるんですか!それこそ心外です!」


 僕はしっかりと目線を合わせ、彼女を覗き込んだ。


「ほんまか?じゃあ、なに考えてたん?」


 彼女は顔を真っ赤に染めて僕から目線を逸らしながら言った。


「えっ、いや……恥ずかしいなって。一緒に入ったらすごく楽しそうだけど、私そんなにいい体してないし、見たら幻滅されちゃうかなって」


 純粋な気持ちが聞けて嬉しかった。彼女は時折、笑っていろんな気持ちを隠してしまう。だから、心配になる。

 僕の前ではなにも繕わなくていいんだ。そんな気持ちで僕も素直な想いで答えた。


「それくらいで幻滅せえへんよ!好きな子やったら気にならへんよ。俺は風子ちゃんと一緒やったらそれだけで嬉しいで。風子ちゃんがええかなって思ってきたら、一緒に入ろ」


「慣れてきたら……いいですよ」


「ほんまに?!嬉しいわ。絶対やで!」


 おもちゃを手に入れた子どものように喜ぶと、彼女は僕の罠に気づき口を尖らせた。


「ていうか、それじゃ罰ゲーム関係ないです!さっきの誘導尋問じゃないですか!ずるい!卑怯者!」


「卑怯者ちゃうよ。俺は素直に言っただけやで。悪いけど、さっきの言葉忘れへんからな!よっしゃ、来たる日までめっちゃ雰囲気出るバスグッズさ〜がそ♪風子ちゃんお疲れやから、俺のゴッドハンド使ってアロマオイルでマッサージすんのもええなあ。肩こり腰痛足のむくみとか、体スッキリすんで!俺が全身使って包み込むようにやさし〜くほぐしたるわ」


「もう、確信犯じゃないですか!ひどい!」




 僕たちは声を弾ませ、僕の部屋へと向かった。

 部屋に着き自分の荷物を置くと、すぐに彼女は冷蔵庫に手際よく買ってきた食材をしまっていた。


「俺やるからええよ。風子ちゃんはゆっくりしてて」


「悪いです。これくらいやらせてください」


「おお、ありがとう」


 僕は二人分のお茶を入れ、ソファに座った。彼女は片付けが終わると僕の隣に座り、一息ついた。


「お茶ありがとうございます。やっぱり晴翔さんのおうちは落ち着きますね。なんだか居心地が良いです」


「よかった。ゆっくりしてってな」


 僕はそう言うと彼女の肩に手を回した。すると、彼女は体をビクッとさせた。


「あっ、ごめん」


 僕が彼女の肩から手を外すと、彼女はその手をそっと掴んだ。


「違うんです。嫌だったわけじゃなくて……晴翔さんに言わなきゃいけないことがあって」


「えっ、なに?」


 彼女は不安げな表情で言葉を詰まらせながら話した。けれど、僕の手を握ったまましっかりと目線を合わせていた。


「あの、ちゃんとお泊まりするの今日が初めてじゃないですか。だから、その……きっと今日晴翔さんとするのかなって思ってて。もちろん私もしたいなって思ってました。だからね、そのつもりで来たんですけど……早めにきちゃって。だからその、今日はそういうことできなくて、ごめんなさい」


 彼女は緊張しているようで少し手に汗を滲ませていた。真剣に僕に向き合ってくれていることが充分伝わってきた。そんな姿が嬉しかった。


「そっか。俺のことは気にせんでええから、なんか困ったことあったら言ってな」


 僕が答えると、彼女は拍子抜けたような顔で恐る恐るこちらの反応を伺った。


「それだけ?……嫌じゃないんですか?」


「嫌とかの話ちゃうやろ。体のことやからしょうがないし、体調悪いのに来てくれただけで俺は嬉しいで」


「がっかりしてないですか?」


「してへんよ。風子ちゃんが大丈夫なときにしよ。さっきも言うたけど、愛は二人で育むものやで。なんも急いですることちゃうし、ゆっくりでええやん」


 僕が笑いながら答えると、彼女は抱きついてきた。


「ありがとう、晴翔さん。私、嫌われちゃうんじゃないかと思って……」


 僕は彼女を優しく抱き締めた。


「そんなことで嫌わへんよ。一緒におれるだけでええよ。ほんまに今日は来てくれてありがとう。それより、DVD観るんやろ?さっそくお風呂入る?あっ、もちろん別々やで」


「そうだ、お風呂入って準備しなきゃ!晴翔さんお先どうぞ」


「わかった。じゃあ、先入ってくるからゆっくりしててな」


「ありがとうございます、ゆっくり準備してますね」


 僕は彼女に軽く唇を重ねて頭を撫で、ソファを離れた。クローゼットからさっと下着と寝間着を取り出し、彼女の分の寝間着とタオルを渡し、バスルームへ向かった。


 シャワーを浴びながら、先ほどのことを思い出していた。言われることはわかっていたけれど、あの瞬間妙にドキドキした。恥ずかしそうにどこか申し訳なさそうに言い淀み、それでもちゃんと僕に目線を合わせながら話す姿に誠実さを感じた。僕の言葉を聞いた後、緊張から解放されたのかおもいきり抱きついてきた彼女がとても愛しかった。

 彼女を好きになってよかった。そう、心から思えた。


 バスルームから出て、リビングに来ると彼女の姿がなかった。先ほどまでソファの横に置いてあった荷物もなくなっている。玄関に揃ってあった彼女の靴もない。一瞬、なにが起こったかわからなくなるくらい頭の中がパニックになり、呆然と立ち尽くしていた。

 えっ、ウソだろ。帰っちゃったのかな……最悪な結末を想像した瞬間、後ろから大きな声とともに温かい感触を背中に感じた。


「わぁっ!!!びっくりしました?」


 彼女は後ろから抱きつき、僕の顔を覗き込んだ。

 突然の大きな声と精神的に来るドッキリに激しくダメージを受け、僕は獲れたのエビのようにおもいきり体をビクつかせた。


「うわっ!!なんやねん。そういうのやめて〜!心臓に悪いわ。もう〜風子ちゃんいなくなってもうたのかと思ったやんか」


 彼女はいたずら好きの子どものように、ケラケラと無邪気に笑った。


「ははは!!晴翔さん、いいリアクションでしたよ!驚いた顔、すっごく可愛かったです」


「めっちゃ焦ったんやで!一瞬、頭ん中真っ白なったわ。もう、ほんまに風子ちゃん帰ってもうたのかと思った。ドッキリはやめて〜」


「だって、普通に待ってたら面白くないじゃないですか!さっきは散々セクハラ発言されたので仕返しです」


「セクハラちゃうし!素直な気持ちを言ったまでや。そんなんええから、はよお風呂入ってき」


「わかりました。お風呂入ってきます!」


 彼女は笑いながら寝間着や洗面道具を持ってバスルームに消えていった。

 汗を流したばかりなのに、また変な汗をかいてしまい寝間着をじんわりと湿らせた。心臓に悪かった。まだ心臓の奥底にズキズキとした痛みが残るくらいの衝撃だった。わざわざ寝室に荷物を隠してまで僕を脅かすなんて……可愛い彼女でも許せない!!

 あの絶望的な不安と寂しさを味わわせておいて、なにもないまま終わらせるわけないだろ。仕返しにはきっちりお返ししてやらなくては!

 ドライヤーで髪を乾かしながらある程度のプランを脳内で組み立て、冷たいお茶を飲みながら優雅にソファで彼女を待った。

 バスルームから出てきた彼女は、案の定僕からの逆襲を想定していたようで辺りをキョロキョロと見ながら、恐る恐るリビングに戻ってきた。僕はそんな簡単な罠は仕掛けない。彼女はタオルでくしゃくしゃと髪を拭きながら、隣に座りドライヤーで乾かし始めた。

 僕はなにも言わず、テレビを眺めている。彼女はドライヤーを使いながら、チラチラとこちらを見ては様子を伺っている。けれど、僕は視線を合わせない。そしてじわじわと不安な時間を与えていく。乾かし終わると沈黙に耐え切れず、彼女は僕に顔を近づけ不安そうに覗き込んだ。


「晴翔さん、怒ってます?」


「えっ?怒ってへんよ」


 僕の目線はテレビに向けたまま。彼女は僕の目線の方に顔を出し、テレビの画面を遮る。


「いや、怒ってますよね。さっきので気分悪くしちゃったら、ごめんなさい」


 声のトーンはいつもと変わらず柔らかく。でも、目線だけは絶対に合わせない。


「だから、怒ってへんて。謝らんでええから」


「でも、さっきから目線合わせてくれないじゃないですか。やっぱり怒ってますよね?絶対おこっ……」


 言い終わる前に僕は彼女を押し倒した。そして、優しく微笑みながらロックオン。


「だから、全然怒ってへんて。風子ちゃんはそんなに俺に見てほしいん?ほら、お望みどおり目線合わせたで」


 彼女は驚き、僕の異様な態度に少し怯えながら謝った。


「あの……本当にごめんなさい。私、晴翔さんのびっくりした顔が見たくって……つい、いたずらしちゃって」


 僕は一瞬で笑顔を消す。そして、まっすぐと彼女を見て言った。


「ごめんで済むなら警察いらん。風子ちゃん帰ってもうたのかと思ってめっちゃ寂しかったんやで。俺、なんかひどいこと言うてもうたかなって思て……」


「そんなんじゃないです!晴翔さんはひどいこと一つもしてないです。私が帰るわけないじゃないですか!だから、そんな寂しそうな顔しないでください」


「こんな顔になったんは風子ちゃんのせいや。悪い子にはお仕置きせなあかんな」


 僕は彼女の唇を塞ぎ、口づける。深く、ぬくもりを分け合う。まだまだ拙い彼女が愛しい。そんなところが僕の心をくすぐり、彼女がもっと欲しくなる。だけど今はほんの味見程度にしておく。この後、お仕置きには打ってつけの鑑賞会がある。そのためのカタチだけの行為。これは序章。これから始まる恐怖の伏線にしかすぎない。

 物足りないくらいの唇を離し、彼女を起こして抱き寄せた。

 僕は彼女の耳元で低く甘い声で囁いた。


「俺のこと驚かせるんなら、覚悟せんとあかんで。勢いで襲ってまうぞ」


「わっ、わかりました……今度から覚悟しておきます。でも、勢いはイヤですよ」


 僕は微笑みながら彼女の頭を撫でた。


「冗談や、勢いでせえへんよ。そんときが来たら優しくするから」


「約束ですよ」


 彼女は僕に軽く口づけて微笑んだ。そして僕は鑑賞会の準備を促した。


「そろそろDVD観よか?ほら、飲み物とお菓子準備しよ」


「はーい!いま、持って来ますね」


 彼女は立ち上がるとキッチンから買ってきたお菓子とペットボトルのお茶を持ってテーブルに並べ席に着いた。僕は借りてきたDVDを袋から取り出し、プレーヤーに入れ部屋を真っ暗にして、先にソファに座っていた彼女の隣に座り一つのブランケットに二人で包まった。そして彼女はブランケットの中でぴったりとくっついてきた。僕はそんな彼女の肩に腕を回し引き寄せた。

 最初のころは彼女は弾んだ声で楽しそうにお菓子をパクパクと食べていた。だけど、ストーリーに集中して僕が一切喋らなくなると、無理矢理ひとりごとのように喋り出し、なんとか恐怖に包まれた空気を変えようとした。


「あーーーやばい!来ますよ!やだ!来ちゃう!やだ!やだ!きゃあ!!!」


 彼女は一方的なカウントダウンとともに、こちらが思わず飛び上がるほどの悲鳴をあげ、僕の胸に勢いよく飛び込んできた。

 僕は彼女の背中を撫でながら落ち着かせる。


「もう。怖いのわかるけど悲鳴おっきすぎるで。幽霊より風子ちゃんの悲鳴の方がびっくりするわ!」


 半分泣き顔の彼女は僕にしがみついたまま少しだけ顔を上げこちらを見た。


「だって、あんな出方すると思ってなかったんだもん。あれじゃあ、誰だって驚きます。晴翔さんはほんとに平気なんですか?」


「平気、平気。あんなの想定の範囲内や」


 僕が平然と答えると、彼女はしたり顔をして笑った。


「へえ。私が驚かせたらあんなにびっくりしてたのに〜」


「だって、風子ちゃんと幽霊は別もんやろ。幽霊は出て来ようがどうでもええけど、風子ちゃんはいなくなられたら困るし」


 彼女は僕の言葉に急に照れ出して、しがみついた手を離して座り直した。


「なんですか、さりげなく変なこと言わないでください」


「照れんのはええけど、いま照れる空気ちゃうで。俺の顔見んと、映画観ろよ」


 僕が映画を観るように促すと、彼女は突然関西弁で甘えてきた。


「確かに照れる空気じゃないですけど。ねえ、晴翔さん。映画なんて観んと、私のこと見ていてください」


 相変わらずのエセ関西弁だが、彼女が言うのは嫌いになれない。


「なに言うとんねん。さりげなく俺の真似せんでええから。もう、それじゃ借りて来た意味ないやろ。俺の顔で気紛らわしてたら、終わってまうで?」


「だって、思ってたより怖くて……」


 映画が始まってから彼女の感情はコロコロ変わる。笑ったり、叫んだり、甘えたり、怯えたり、まったく忙しい人だ。


「もう、しゃーないなあ。ほら、ここおいで」


 あまりにも彼女が怖がるので、僕は脚を大きく開き自分の間に彼女を招いた。僕の間に座る彼女を後ろから抱き締めて、仕上げにブランケットで包めば、僕たちはロールケーキのように二重三重の層になった。

 素直に感情を見せる彼女が余計に愛しくなって、お仕置きを取りやめようか僕の心はゆらゆらと揺れ動いていた。


「どう、これやったら怖ないやろ?」


「これなら安心です」


 彼女は安心を手に入れた分、危険なくらい先ほどより僕と顔が近くなった。暗い部屋でこれだけくっついていると、どうしても抑えていた本能が疼いてくる。


「安心やけどいつでもキスできるで」


「もう、キスしてたら映画終わっちゃいますよ」


 体は密着して頬が触れられるこの距離にも関わらず、依然彼女は甘えることを止めない。

 さすがにこんなに甘えられると、本当に危うい状態になってしまう。


「いやいや、どんだけ長いのすると思ってんねん!」


「だって、長くしたら怖いの見なくて済むじゃないですか」


 神に誓って“今夜はしない”と決めたのに、これでは僕の中の闘牛が鼻息荒くなって、か弱いマタドールをズタズタに襲ってしまうじゃないか。男は単純なんだ。お願いだから、これ以上僕を惑わせることを言わないでくれ!

 僕は平静を装い、軽く釘をさす。


「終わんのにあと一時間以上あるで!どんだけ長いねん。ハードすぎるわ。可愛いこと言うてると、襲って血の雨降らすで」


 ここまで言えばさすがに彼女も甘えてこないだろう。

 しかし彼女は微笑みながらこう言った。


「ふふふ。おぞましい柄のソファになっちゃいますね」


 えっ?!ちょっ、それは……ええってこと?さっきはあかん言うてたのに襲ってええの?してもええの?汚れんで?ほんまエグいことになんで?甘い空気ふっ飛ぶくらい見た目ホラーになんで?ほんまにええの?でもまあ、初めてやからどのみち汚れるけど。だけど、ほんまに……


 僕は彼女に最終警告をした。ここで甘えてきたら僕は確実に制御不能の闘牛と化す。襲わない牛だとこれまで散々僕を赤色で挑発したことを後悔するだろう。彼女は僕を絶対にかわすことができない。そして、間違いなくムレータの色にソファが染まるだろう。初めてとはいえ、本能のまま求めているのなら仕方ない。こんな偽りの理性なんか投げ捨てて、僕は仰せのままに彼女を愛すだろう。


「いやいや、あかんやろ!そこは“襲わないでください”って言わな。俺、アホやからほんまに襲うで?ええの?」


「冗談です。ほら、映画観ないと終わっちゃいますよ」


 彼女は散々甘えたわりに突然さっと引いて、ニコニコと笑いながらテレビに視線を戻した。

 か弱いマタドールは荒々しく向かってきた闘牛を軽やかにかわした。想定外の展開に闘牛は不意をつかれ、勢いのまま壁に激突して止まった。場内からは大歓声が湧き上がり、ムレータをはためかせながら颯爽と闘牛場を後にする彼女の後ろ姿を僕はひとり空しく見ていた。散々その気にさせられ、挙句さらりと逃げられ、おもちゃのように弄ばれた闘牛は荒ぶった呼吸がウソみたいに落ち着き、高まった本能は静まり返った。

 そして、僕の中になんとも言えない虚無感だけが残った。

 この気持ちどうしたらいい?どこにぶつければいい?こんな悪いことする子には一度しっかり教えてあげなくてはいけないな。

 復讐を誓った僕は情けない捨て台詞を吐いて誤魔化した。


「それはこっちのセリフやで」


 ロールケーキスタイルで安心しきった彼女はようやく集中してくれるようになった。物語ももうすぐ終盤だ。時が来た。

 ここでいよいよ本当のお仕置きが始まる。先ほど始まる前にさりげなくソファの裏にリモコンを隠しておいた。あとは良きタイミングで腹痛を言い訳に立ち上がり、見つからないようにリモコンをポケットに突っ込みトイレに行けばミッション完了だ。

 そして彼女は必然的に恐怖の絶頂を一人で迎えることになる。

 僕はクールな顔でトイレから出て来て、パニックになった彼女を強く抱き締める。そこで僕は言う。

「さっきはこんくらい絶望的な気持ちになったんやで。なあ、俺の気持ちわかったやろ?大人の男からかったら痛い目あうで」

 これくらいすれば、僕の気持ちもわかるはず。

 そして、映画は親友を助けるため問題の家に主人公が足を踏み入れた。ここから僕の迫真の演技は始まった。


「ごめん。ちょっとお腹痛なってきた……トイレ行ってくる」


 ブランケットを外し僕は席を立った。彼女は当然のごとく僕の腕を掴み、一瞬パニックになった。


「えっ、大丈夫ですか?てか、いま行くんですか?えっ、ウソ!?やだ!!」


「ごめん。ちょっ、ほんまにあかんねん……」


 僕は腹痛に苦しむ表情をしながら、なかなか離してくれない彼女を引きずるようにトイレへと足を進める。


「お願い!置いてかないで!!もうちょっとだけ!我慢して晴翔さん!」


「ごめん。もう我慢でけへんねん」


 いまにも泣きそうな彼女は、突然何か思い出したかのようにパッと僕の腕を離した。


「あっ。そうだ、一旦止めましょう」


 想定外のことが起きた。彼女はズボンのポケットからリモコンを取り出し、一時停止のボタンを押した。

 あまりにも想定外の展開に僕は演技を忘れ、彼女に聞いた。


「えっ、風子ちゃん……いつからリモコン持ってたん?」


「いつからって……晴翔さんが電気消そうしたときに、なにげなく下を見たらリモコンが落ちてたので、なにかあったらいつでも止められるように持ってたんです」


「そうやったんや……」


「あれ、晴翔さんお腹痛いんじゃないですか?」


「あっ!そうやった!ちょっとごめん!!」


 僕は我に返り、逃げるようにトイレに駆け込み鍵を掛けた。事態を察知した彼女はトイレのドアを叩きながら叫んだ。


「あっ、ちょっと!!晴翔さん、お腹痛いのウソだったんですか!」


 ドンドンドン……


「ウソちゃうて!ほんまにお腹痛いんや!」


「ウソつき!だって、私がリモコン持ってたら明らかに態度変わったじゃないですか!」


「ほんまやって!すぐ出るから待ってて!!」


「じゃあ、いまから1分以内に出て来なかったら罰を受けてもらいますから!いち、に、さん、し、ご……」


 計画の失敗により呆気なく僕の演技も見破られ、挙句彼女から謎の罰ゲームまでの恐怖のカウントダウンが始まった。


「ちょっ!なに?えっ、待って!」


 僕は偽装工作のため申し訳程度に用を足していた最中。脅迫観念に襲われた僕は急いで済ませ、手を洗いドアを開けた。


「ごじゅなな、ごじゅはち、ごじゅきゅ……」


 ガチャ……


 ドアの前には腕を組み仁王立ちした彼女が待ち構えていた。眉間にしわを寄せえんま様のような顔になっている。

 僕は彼女の両肩を掴み、必死に訴えた。


「風子ちゃん、違うんや!ほんまに、ほんまにお腹痛かってん!」


「ウソつき……私のことひとりぼっちにして怖い思いさせるつもりだったんですね」


「違う!そんなつもりやないって!でも、こんなときに一人にさせてほんまにごめんな!」


「ごめんで済むなら警察いらんって、さっき誰かさんが言ってましたよね?」


「そうやけど。だって、もとは風子ちゃんのせいや!俺のこと驚かせてめっちゃダメージ与えたくせにケラケラ笑いよって。俺、あんときほんまに心臓痛なったんやで!風子ちゃんもひどいやん!」


「そうだけど……さっき私も同じでした!怖いまま置いてかれて、それが私を困らせるためのウソだったなんて……もっと晴翔さんに言いたいところだけど、私も同じようなことをしました。仕方ない、二人で罰を受けなきゃいけませんね。連帯責任で罰ゲーム執行です」


 彼女はどこか寂しげな瞳で、僕に刑の執行を伝えた。


「連帯責任?!ちょっ、罰ってなに?待って!」


 もしかして殴られる?次の展開、なにも検討つかない。


「待てません」


 彼女は意味ありげに笑った。その直後、右手に持っていたリモコンの早送りボタンを押して、ソファに向かってポイっと投げた。


「ちょっ、なにしとんねん!」


 スローモーションで宙を舞うリモコンを見て体がソファに向かおうとした瞬間、僕の首に彼女の細い腕が巻きつき唇を塞がれた。けれど、慣れてない彼女の唇は少しズレていた。これが彼女の言う罰、らしい。僕が先ほど彼女にしたお仕置きとほぼ同じことだった。


 どこが罰やねん。全然罰ちゃうやん。いっつもすぐ照れるくせに俺の真似しよるわ、慣れてへんのに急いでキスなんかしよるからズレとるし、なに可愛いことしとんねん。


 僕はゆっくりと彼女を壁に押しつけ、ズレた唇の端と端を合わせてしっかりと深く口づけた。絡まっていくと少しずつ吐息が溢れ、僕はどんどん彼女が欲しくなっていった。腰に手を回し、求めるように交わしているとお互いの体温が徐々に上がっていくのがわかった。

 薄暗い部屋で静かに早送りされじわじわと死の恐怖へ追い詰められていく映画の主人公に反して、僕たちは熱っぽく体温が交わりお互いの生を感じながら抱き締め合っていた。

 正直このまま抱き合っていたいが、ただただ早送りされていくホラー映画がなんだか可哀想になってきて、少し目を開けると画面には追い詰められた主人公がこの世の終わりのような表情をしていた。

 ゆっくりと唇を離し、乱れた呼吸のままソファに横たわるリモコンを急いで掴み、一時停止ボタンを押した。


「はあ……はあ……早送りしたらあかんて。ほら、この子幽霊に引きずられてるやん。もう終わりやないか」


「はあ……罰ゲーム、晴翔さんが意地悪したから早送りしました。ほらね、キスしたら終わっちゃったでしょ?」


 彼女はニコニコと笑いながら僕の持ったリモコンの再生ボタンを押して、ソファに座った。僕は彼女の隣に座り、ブランケットと一緒に包み込んだ。


「めっちゃ怖い顔して連帯責任とか言うから、なにされんのかわからんくてめちゃめちゃ怖かったで!」


「だって、お互い悪いことしたし戒めの意味でも罰を受けなきゃ。それに、ホラーが平気で全然怖がらない人に想定外のことしてみたくなっちゃって」


「確かにホラーなんかより圧倒的に怖かったわ。風子ちゃんがしそうにないことしてきたから、余計びっくりした」


「晴翔さん、すっごくいい顔してましたよ。この映画の主人公みたいにいいリアクションでした」


「全然反省してないやん!戒めになってないで。てか、もうエンドロールやん。終わってもうたし次のやつ見よ」


「そうですね!次はアニメだから電気点けましょう。晴翔さんに似た可愛いモンスターが出て来るし楽しみだなあ♪」


「俺、あんな顔してへんって」


 僕たちは彼女の選んだアニメ映画を観て笑ったり泣いたりして、気づけば時計は1時を過ぎていた。


「おもろかったな。そういや、もう1時か!風子ちゃん、眠ないか?」


「私はまだ大丈夫です。晴翔さんは大丈夫ですか?」


「俺も大丈夫やけど、もう遅いから歯磨いて寝よか」


「そうしましょう。その前に片付けなきゃ」


 二人でテーブルの上を片付け、食器を洗い、二人並んで脱衣所で歯を磨いた。色違いの同じ寝間着を着て、鏡に立つ彼女が愛おしかった。

 歯磨きが終わり、トイレを済ませリビングに戻ると彼女はテレビを観ていた。少し緊張しているのか、背筋をピンとしてお行儀よくソファに座っていた。

 そんなわかりやすい彼女がおかしかった。


「なあ、めっちゃ背筋ピンってなってるけどどうしたん?これから面接でもすんの?」


「めっ、面接なんて!こんな時間にあるわけないじゃないですか!もう寝る時間ですよ」


「そやな。風子ちゃん、そういえば今日どこで寝んの?ちょっと寝心地悪いけど安心のソファか、猛獣付きで絶対危険のふかふかのベッド。この二択やけど、どうする?」


「う〜ん、安心できないけどベッドがいいです」


「猛獣と一緒やで?襲われてまうかもしれんけどええの?」


「晴翔さんみたいなモンスターならいいですよ」


「モンスターちゃう!猛獣や言うてんのに。まあ、ええわ。モンスターが檻まで連れてってたるわ。朝まで出らへんからな、覚悟しいや」


 僕は彼女をひょいと持ち上げお姫様抱っこした。そしてリビングの電気消し、寝室へと入っていった。ベッド脇のテーブルで光る間接照明が温かく僕たちを照らし、二人の重なる影を作っていた。そっと彼女を降ろし、掛け布団をめくり僕も一緒にベッドの中に潜り込んだ。寝相の悪い彼女は心配なので壁側にして僕が支えることにした。

 一つの枕に二人の頭を乗せ向かい合った。恥ずかしそうに笑う彼女に僕は微笑み、抱き寄せた。腕の中に収まった彼女は壊れ物のように儚く細い体で、絹のようにすべすべと柔らかい肌が僕のすべてを温めた。


「近い、ですね……二人で寝るとこんなになるんですね」


「そうやな。てか、冷たっ。風子ちゃん足冷たいわ。冷え性なん?」


 お互いの足が触れた瞬間、彼女の足が氷のように冷たくて驚いた。僕は思わず自分の足と彼女の足を絡ませ温めた。突然絡まってきた足に驚いた彼女は僕の胸元に恥ずかしそうに顔を埋めた。鎖骨あたりに彼女の吐息が掛かり、僕の心臓がドクドクと脈打つのがわかるくらいだった。


「冷え性です。お風呂上がってすぐに靴下履いても、布団に入るころにはいつもこの状態です」


「大丈夫か?カイロとか湯たんぽあるけど、持ってこよか?」


 ベッドから出ようと僕が体を少し起こすと、彼女は背中にギュッとしがみつき“行かないで”とまっすぐな瞳で訴えた。その瞳に僕の心拍数はますます上がり、静かにベッドの中に潜り込み抱き締めた。


「ううん、大丈夫です。晴翔さんがあったかいから、こうしていたらよく眠れそうです」


「よかった。ここシングルやけど、せまないか?」


「私は問題ないですけど、正直狭いかどうかわかんないです。こんなにくっついてるから晴翔さん以外見えないです」


「そやったな。まあ、狭かったら言ってな。風子ちゃんってさ、こういうふうに男と同じ布団に入るのって初めてなんやろ。やったら、腕枕もしたことないの?」


「そうです。小さいころにお父さんとお母さんとお兄ちゃんと寝てたこともありましたけど、それ以外は。修学旅行とか友達の家に泊まったときは女同士で寝たことはありますけど……男の人は本当に今日が初めてです。腕枕なんてもちろんありません」


「そっか。それなら腕枕してみる?そんな長い時間出けへんけど」


「したいです!腕枕されてみたかったんです!」


 僕は彼女の首を腕に乗せ、肩に手を回した。なんとも言えないこの距離に心臓が激しく音を鳴らした。ここで唇が重なってしまえば、僕はもう止められなくなる。勢いよく走る列車のブレーキを目一杯踏む。そんな感覚のような、気を抜けばブレーキは効かなくなり、僕の本能は止まることを知らずきっと彼女の上を荒々しく走り出してしまうだろう。

 先ほどだってギリギリのところで踏み止まったんだ。いまの彼女にしたくない。もっと丁寧に大事に扱いたい。

 だから今夜、持っている理性をすべて使ってもいいくらい。


「どうやろ。男やから骨ゴツゴツしとるし、首痛ないか?」


「痛くはないけど、なんだか不思議な感覚です。逆に晴翔さんは痛くないんですか?」


「いまは痛ないよ。でも、あんまり乗せてると痺れてくるかな……」


「じゃあ、やめましょう。私の夢は叶ったのでもう充分です」


 そう言うと彼女は僕の腕から頭を離した。そして僕は解放された腕を彼女を包み込むために再び使う。僕の腕の中にすっぽりと収まった彼女は先ほどより嬉しそうに微笑んだ。


「どっちかと言えば、俺はこっちの方が好きやな」


「私もこっちの方が落ち着きます。そういえば、夢の中にブルドッグが出て来たって言ってましたけど、どんな夢だったんですか?」


「ああ、なんだか変な夢やったで。俺がソファで寝てたら風子ちゃんの声がして、そんでお風呂の方から声しよるから行ったら白いブルドッグがおってな。しかも声の主が風子ちゃんやってん!」


 彼女は驚いた顔をして前のめりになって、より僕の顔にグッと近づいてきた。


「えっ?ブルドッグの声がなんで私なんですか?」


 僕の話に食いついてきた彼女が可愛くて、僕は感情を入れて話し始めた。そうだな、ここは少し悲しそうに。


「実は俺が寝てる間に黒づくめの女に魔法掛けられて、風子ちゃんはブルドッグにされたんや」


「なにそれ!私、ブルドッグになっちゃったの!」


 反応良く聞いてくれる彼女に話していると、なんだか幼い子どもに絵本の読み聞かせをしている気持ちになる。


「そんで風子ちゃんに魔法掛けた黒づくめの女は実は俺の会社の先輩やってん。その人みんなのプライベート詳しい人でな、どうやら俺の秘密握りたくて風子ちゃんから聞き出そうとしたんやけど、なんも教えてくれへんかったから怒ってしもうて風子ちゃんはブルドッグにされたんやって」


 彼女はなぜだか少し嬉しそうに微笑んだ。そして謎だらけの展開に彼女はちょっと深刻そうに質問してきた。


「私、晴翔さんのために犠牲になったんですね。晴翔さんに何もなくてよかった。でも、会社の先輩はなんで晴翔さんの秘密が知りたかったんでしょう?それってよっぽどの理由が……」


 ここからは僕の現実のエピソードが含まれることになる。そんな深刻そうに聞かれると恥ずかしさとともに、こんなことのせいで自分が犠牲になったのかと怒ってしまうんじゃないか話すのが怖くなった。

 でも、彼女はキラキラした瞳で次の展開を待っている……言わなきゃ!

 僕は勇気を出して話した。


「それがな……恥ずかしいからあんま言いたくなかったんやけど、これは現実のことでな俺最近テンション上がると会社の中で誰にも見られへんところで踊ってたことがあってな……なんか嬉しくてマイケル踊りたくなってな、ちょっとだけやっててん。そんで誰にも見られてへんやろ思ってたら、夢の中で会社の先輩に「皆川くんのダンス見てから思い出し笑いするようになってすごく困ってる」って言われて、そんで俺のダンス見ないように風子ちゃんから秘密聞き出して、俺に釘さして踊らんようにさせたかったんやって」


 僕が打ち明けると彼女は不意をつかれたのか、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。そりゃそうだ、こんな理由で自分が犬にされたんだ。


「えっ……それだけの理由で私ブルドッグにされたんですか!?晴翔さんが会社で踊らなければ犬にされなかったのに……」


 優しい口調のままだが、やっぱり怒ってるんだろうな。でもこれは夢の中のこと。そんなに悔しそうな顔をしなくても大丈夫。

 フォローのつもりでこれはあくまで夢の話だと念を押した。


「踊ってたのはほんまやけど、ブルドッグにされたのは夢の中の話やし、現実では絶対そんなこと起こらへんから安心して!」


 僕が夢だと強調するが、それでも彼女の顔色は曇ったままだった。


「そうですけど、ちょっと複雑です。私はなんとかして人間の姿には戻れないんですか?おとぎ話みたいに魔法を解く方法はないんですか?」


 彼女に話していると僕のどうでもいい夢が可愛らしいおとぎ話のように思えてきた。熱心に聞く彼女を助けてあげたい。そんな使命感のような気持ちは、まるで僕が白雪姫を助けに来た王子様で、彼女は魔女の毒リンゴで眠ってしまった白雪姫のようだった。“必ず僕が助けるから安心して”……そして不安そうな白雪姫に朗報を伝えた。


「大丈夫!ちゃんと人間に戻れる方法があるから心配いらんで」


 僕が言うと、彼女の顔色が先ほどまでの曇り空から雲ひとつない快晴のようにパッと明るく輝いた。


「よかった〜!じゃあ、どんなことをすれば戻れるんですか?」


「富士山に登って二人で朝日を浴びながら5分間キスすると元に戻れるんや!でも、魔法掛けられた次の日の朝日限定なんやって」


 僕の白雪姫に伝えると、明るい顔が一瞬で凍りつき、不満そうな顔で抗議した。


「なんか……思ってたより現実的な方法ですね。例えば、光る石を集めて幻の滝のところに行って月明かりを浴びながら祈りを捧げるみたいな、そういうのがよかったです。犬にされたのにわざわざ富士山に登らなきゃいけないし、それに犬と男の人が5分間もキスしてたらさすがに目立ちますよね?しかも5分って長すぎるし、それじゃあいくら晴翔さんが愛犬家だって言っても通用しないです。変人扱い間違いなしです。どうせキスならもうちょっと秘密の場所って感じのところがよかったなあ……」


 所詮男の見る夢だし、ロマンチックじゃなくてごめんね……


「まあ、俺もロマンチックやないなあって思ったけど……そんでブルドッグになった風子ちゃん抱っこして富士山に向かったところで目が覚めたんや」


 彼女は不満そうな顔のまま、不意に僕に質問した。


「そうなんですね。晴翔さんは前に犬でも飼ってたんですか?」


「えっ、犬も猫も飼ってたことないけど……なんで?」


「だって、夢の中って現実で記憶に残ってたり、強く思ってるものが出て来やすいものじゃないですか?だから、ブルドッグでも飼ってたのかなって」


「全然。親戚も友達の家にもブルドッグなんておらんかったし、人生で逢うたことない犬種やな」


 彼女は雲の切れ間から光が差すように少しずつ顔色を明るくして、柔らかく微笑んだ。


「ふ〜ん、変な夢ですね。でも、なんだか可愛い夢で、間接的だけど私も出れて嬉しいです」


「なんでブルドッグか知らんけど、風子ちゃんは普段から想ってるから出て来たんやろな」


 彼女は思い出したかのように少し興奮気味で話した。


「そういえば、私の夢にも晴翔さんが出て来たことありました!」


「それってこの前ウチ泊まったときやろ?」


 もしかして彼女はあんな大胆な寝言、僕が知らないとでも思っているのだろうか。仮に僕が寝室にいなくても、あたかも起きているかのように喋られたら、そりゃあ誰だって気づくだろ。

 それに彼女は、僕の聖域で眠っていたのだから。


「そう!晴翔さんがブリいっぱい釣って来ちゃった夢です!……えっ、なんで晴翔さん知ってるんですか?」


 我に返り驚く彼女に、僕はあの日の真相を話した。


「だって、風子ちゃん起きてこうへんから心配やし部屋に入ってん。そしたら、事件現場みたいにベッドぐちゃぐちゃになってて、風子ちゃん寝言言いながらえらい格好で寝ててん」


 真相を話すと彼女は顔を真っ赤に染めた。


「やだ……恥ずかしい!!」


 彼女は恥ずかしさから背を向け逃げようと僕の腕をこじ開けようとする。そんな姿が可愛くて、僕は少し力を込めて逃げられないようにギュッと腕の中に閉じ込めた。


「ちょっ!そんな逃げんでもええやん!寝言めっちゃおもろかったで」


 抵抗虚しく彼女は腕の中で観念して、僕の方に向き合わせた。


「まさか晴翔さんにまで見られてしまうなんて。家族とか友達にはすごいって言われてたんですけど……結構喋ってましたか?」


「おお、普通に喋ってたで。起きてんのかなって思うくらい楽しそうにボケてたで!ブリが57匹いるとか、漁業用の網借りて釣ったとか」


 僕はドヤ顔で記憶に残るトピックを話すと、想定外の答えが返ってきた。


「えっ、57匹!?そんなにいなかったです!」


「いやいや、57匹言うてたで!」


「晴翔さんはそんなに釣ってません!私が見たのは17匹です」


「17匹?それも多いけど……でも、確かに57匹言うてたで」


「本当ですか?晴翔さん寝ぼけてたんじゃないですか?」


 話が違う。あのとき彼女は確実に57匹と言っていたのに。夢の話だからうろ覚えになってしまったのかな?


「ほんまやって!じゃあ、漁業用の網借りて釣ったのは?」


「確かに網で釣ったって言ってたけど、魚釣り上げるときに使う網で釣ったって言ってましたよ」


「あの虫捕りで使うような棒付いた網?」


 彼女は興奮ぎみに話し、夢の中の僕を再現した。


「そう!それです!“それに餌付けて置いといたらひっきりなしに魚が来よって大漁やったで〜”って、晴翔さん嬉しそうに言ってましたよ」


「それもそれですごいけど……ほんまに言うてたで!」


 なかなか折れない僕に、彼女は笑いながら言った。


「でも、夢を見たのは私です。いくらなんでも晴翔さん話盛りすぎですよ」


「ほんまなんやって!しかも、その後急に関西弁になって俺のこと“はるくん”って呼んで……」


 確かに夢を見たのは彼女。僕はただ現実から夢の中を泳ぐ彼女を眺め会話しただけ。

 夢とは目覚めた瞬間から現実社会に引き戻すため自動的に薄らいでいくもの。それなら話が食い違っていても、なんらおかしなことではない。

 でも、なんで君が“はるくん”なんて呼んだんだ。


 彼女は夢の出来事に戸惑っているようだった。


「えっ、私が関西弁ですか?ウチのお母さん大阪の人なんですけど、話し言葉まで影響されることなんかなかったし、それに上京するまでずっと山梨だし、私関西弁なんて一切喋れないです」


「でも、めっちゃうまかったで。ほんまは生まれ関西なんかなって思うくらいやったわ」


「試しに喋ってみましょうか?」


「おお!なんでもええから言うて!」


 僕がリクエストすると、彼女は困った顔をしつつ関西弁で話した。


「う〜ん……風子ちゃん。夜ふかしせんと、はよ寝るんやで!」


 どっかで聞いたことあるような……てか、この前俺が言うたやつやん。


「それって……俺の真似?」


 彼女は嬉しそうに僕を指差した。


「そう!よくわかりましたね!この間、電話したときに晴翔さんが言ってた言葉です」


「なんでもええとは言うたけど、別に俺の真似せんでも」


「だって、一番身近な関西弁を思い出そうとしたら晴翔さんの言葉ばかり脳内再生されちゃったんです」


 彼女はときどき、こちらが思わず照れてしまうほどの直球な言葉をまっすぐな瞳で言ってくるもんだから困りものだ。

 いつもは僕が彼女を照れさせる方なのに、不意に立場が逆転すると恥ずかしくて、彼女にバレないように必死に誤魔化した。


「それはそれで嬉しいけど。てか似てへんし、そんなドヤ顔で話してへんから!」


 彼女は意地悪っぽく笑いながら、僕を揶揄った。


「すっごく似てると思うんだけどな〜電話だったけど、はるくん絶対そういう顔して電話してましたよ」


「してへんよ!なんで寝る前にドヤ顔すんねん。てか、さらっとはるくん言うのやめて」


「さりげなく言ったつもりですけど、バレましたか」


「バレバレや。風子ちゃんが言うと、違和感だらけや」


 彼女は上目遣いで僕に懇願してきた。


「はるくんって可愛いからいいと思うんですけど、呼んじゃダメですか?」


 包み込むように抱き締めているから体勢的にも上目遣いになりやすいが……これは敢えてなのか?そうじゃなくても、ずるい。


「あかん。あれは小さいとき家族に呼ばれてたやつやし、子どもっぽくて嫌や!」


「えっ、いいじゃないですか!思い出の詰まった呼び方があるって素敵なことじゃないですか。“はるくん、好き嫌いしたらあかんで”とかお母さんに言われてたんですか?」


「どうなんやろ?言われてたかもしれんけど、覚えてへんなあ」


「じゃあ、お母さんに言われた記憶に残る言葉ってなんですか?」


 記憶に残る言葉……何もない。


「え〜なんやろ?……“はるくん、ええ子にしてるんやで”かな」


 唯一覚えてる言葉はたぶん母の最期の言葉。


「それって小さいころに言われた言葉ですか?そうじゃなくて、大きくなってから言われた心に響いたな〜って言葉はないんですか?」


 ないよ。だって、僕の記憶が始まる前に母はいなくなってしまったんだ。


「おかん、いないんや。俺が生まれたころに交通事故で亡くなってな。だから、おかんっぽい女の人に言われたなあって記憶がうっすらあるだけなんや」


 僕が静かに話すと彼女は申し訳なさそうに言葉を詰まらせた。


「ごめんなさい。私、知らなくて……余計なこと言って」


 僕は微笑んで彼女の頭を撫でた。


「謝らんといて。俺も風子ちゃんに言うてなかったし。付き合うてるんやから家族構成くらい言えばよかったのに、ごめんな忘れとった!」


「いや、でも……」


 僕が笑っても彼女は申し訳なさそうなままだった。僕はそんな彼女の背中を優しく撫でる。


「ええから、気にせんといて。ウチの家族構成は父、姉二人、俺の四人家族。風子ちゃんは?」


「ウチは母、祖父、兄、私の四人家族です。父は私が中二のときにガンで亡くなりました」


 彼女はいつもと変わらないトーンで話した。でも、言葉の端に寂しさが滲んでいた。


「そうなんや……俺も辛いこと掘り返してもうてごめんな」


 申し訳なくて僕が言葉を詰まらせると、今度は彼女が笑って僕の背中を優しく撫でた。


「いいんです。私も言っておくべきことだったのに、すっかり忘れてました。あの……失礼に聞こえたらごめんなさい。晴翔さんと私、似てますね」


「俺も思った。人数も同じやし、親がどっちかおらんし。喜ぶとこちゃうけど親近感沸くいうか」


 不謹慎だとわかっているけれど、自分でもわかるくらい声が少し弾んでいた。


「私もです。ウチがお父さんがいなくてわからない気持ちとか、晴翔さんがお母さんがいなくてわからない気持ちとか。なんていうか同じ境遇じゃないとわからないことがあると思うんです」


 彼女が言うと不思議と嫌じゃなかった。お母さんがいない……こんなこと他人に言われたら不快感しか残らないのに、けれど彼女は僕と同じようにお父さんがいない。

 だからこそ、はっきり言われても嫌じゃないんだろう。


「あるなあ。同じような境遇やから同じような経験もしてきたと思うし。あんまり人に言えんこと、風子ちゃんになら言えそうな気するわ」


 僕が笑って言うと彼女も笑いながら言った。


「私もです。晴翔さんにならいろんなこと話せそうです。ほら、やっぱり私たち運命のなんちゃらってやつだったんですよ!」


「なんちゃらって。それを言うなら運命の出逢いやろ」


「そう、運命の出逢いです!」


「出逢いくらい出てくるやろ。俺、初めて会ったときからそう思ってたで。風子ちゃんとはなんか縁があるんやろなって」


 彼女は変わらず楽しそうに話しているが、どこか目がトロンとしてきた。楽しくて寝たくなくて必死に睡魔と戦っている大晦日の小学生みたいな顔になっていた。


「私もです。晴翔さんとはなにか深い縁があるんじゃないかなって……」


 閉店時間が迫る店のように、彼女の瞼がシャッターのように少しずつ降りて来ている。言葉もおぼつかなくなってきた。


「俺らどっかで繋がってたんやろな。ほんま風子ちゃんと出逢えてよかった。これからもずっと一緒におってな」


 まもなく閉店の瞼が半分までシャッターを降ろしたあたりで彼女は最後の力を振り絞るように弱々しく消えてしまいそうな声で言った。


「もちろんです……これからもよろしくお願いします」


 そう言うと彼女は僕の鎖骨あたりに顔を落とした。僕は彼女が寝てしまったことに気づかないまま話した。


「これから付き合ってく言うても、その……方向性が一緒やったらええなって思うねん。だからな、俺とけっこ……」


 大事なことを言う瞬間に彼女の小さな寝息が僕の腕の中から聞こえてきた。


「あれ、風子ちゃん?寝てもうた。ごめんな、そりゃ眠いよな」


 気づけば氷のように冷え切った彼女の足はぽかぽかと温かくなっていた。

 僕は腕の中で眠りに落ちた彼女を眺め、枕元のライトを消そうとスイッチに手を伸ばすと、鎖骨のあたりに吐息の感触とどこかで聞いた言葉が聞こえてきた。


「はるくん……愛してるよ」


「えっ……風子ちゃん」









 朝起きると彼女はまだ眠っていた。僕より遅れて目覚め申し訳なさそうに落ち込む彼女をなだめながら、二人で朝ご飯を作ってソファに並んで座り食事をした。

 こんなふうにこれから二人並んで過ごしていく時間が増えていくんだろう、そんな気がした。


 ご飯を済ませ、片付けを終えて二人で食後のコーヒーを飲んでいると彼女は僕の夢の話を思い出し、歓喜のダンスを披露するように半ば強勢的に促した。そして、恥ずかしながら披露すると彼女は大笑いして「面白い」と言った。天使のように優しく笑う彼女に僕はすっかり油断していた。その直後、彼女の熱血指導が始まった。高校はバレー部、大学ではダンスサークルに入っている彼女の動きはキレキレだった。


「う〜ん。腰をもっとこうして、もうちょっと早くステップ踏むとカッコよくなるんですけど」


「えっ、こう?」


「ううん、違います」


 手取り足取り指導してくれるのは嬉しいが、彼女はドキュメンタリーでよく見る鬼コーチのような鋭い目をしていた。


「じゃあ、こう?」


「それです!だいぶカッコよくなりましたね。これなら黒づくめの女も晴翔さんちに来ないはずです!」


「それ夢の話やからこうへんて!」


 そうして僕たちの穏やかな休日はあっという間に過ぎていった。

 それから三日後、仕事中僕のスマホに山田さんからメッセージが届いた。


【ずいぶんキレキレになったわね。可愛い彼女に教えてもらったの?】


 山田さんらしいメッセージとともに隠し撮りのようなアングルで撮られた僕のダンス動画が送られてきた。


 ほんまに見られてたんや……怖っ。夢やけど正夢みたいやな。







 --二週間後--


 晴れて僕たちは結ばれた。結果、美香ちゃんから貰った分は使った。“愛はゆっくり育むもの”と自分で言っていたが、そのとおりだった。

 抱き合うと彼女の体温と呼吸を直に感じ、重なる体から互いの心臓の鼓動が伝っていき、僕と彼女が混ざり合う感覚に幸せを感じた。

 背中に爪を立てるしなやかで細い指、溢れそうに潤んだ瞳、吐息の漏れる桃色の唇、枕の上でさらさらと乱れる髪、汗ばむたび鼻をくすぐるシャンプーの香り。すべてが僕を惑わせた。

 少女のように純粋無垢で愛らしい彼女が艶っぽくクラクラするような色気を放ちどんどん綺麗になっていく様が、サナギが蝶になり飛び立つように彼女は僕の腕の中で大人の女性へと変化していった。

 そんな彼女の中毒者のように僕は頭の先から足の先まで口づけた。キスマークをつけるなんて、無様で自信のない人間がすることだと思ってた。でも、彼女はどうしても奪われたくなくて……だから、彼女の首元や背中に赤い痕をつけた。気づけば僕はこうでもしないと不安になるほど好きになっていた。


「はる、とさん……」


「風子ちゃん、愛してるで」





 ことが終わり肌と肌が触れ合ったまま他愛もない話をしていると、彼女は微笑みながら言った。


「晴翔さん、いま幸せです。私なんかがこんな良い思いしちゃっていいのかな……」


「俺も幸せやで。風子ちゃんにはこれからもっとこういう気持ちになってほしいで」


 彼女は僕を見つめ照れくさそうに笑いながら言った。


「嬉しいけど不安になります。だって、こんな良い思いしちゃったら、私明日死んじゃうんじゃないかなって」


 初めてデートしたときも同じこと言ってたね。正直、僕はこんなこと言われるのが嫌だ。だって、君とはずっと一緒にいたいと思ってるのに。やっと僕たち結ばれたのに。

 死ぬことはただ別れるなんかより、もっとずっと悲しくて苦しいことなんだ。君もわかっているだろ?そんな君が言うなんて……

 たぶんこれは君の中での嬉しいの最大表現なんだね。

 僕の解釈が合っているのなら、やっぱり僕は君を好きになってよかったって思うよ。


「そんな簡単に死なれたら困るわ。それにみんなこんなもんやと思うで。誰かと想いが通じ合ったら、誰でもこんな気持ちになると思うで。せやから、死ぬとか言わんといてよ。俺はこれからもっともっと風子ちゃんとこうしてたいし」


 僕は彼女を強く抱き寄せる。そして彼女は微笑みながら話した。


「ふふふ。私も晴翔さんともっともっとこうしてたいです。心も体もあったかくてすっごく幸せです。だから私、死にません。これからもずっと一緒にいましょう」


 同じ布の中に潜り込んで裸のまま抱き合っているとなんだか二人だけの秘密の話をしているみたいで、僕はこの時間がとっても好きなんだ。

 君とこんなふうになれて僕は幸せだよ。嬉しくて君が愛しくて失いたくなくて、気を抜いたら僕の瞳が潤んで溢れてしまいそうになる。こんなことで泣くなんてカッコ悪いよね?

 だから、僕の涙が君に気づかれる前にいつものように冗談を言う。


「そんなら、もう一回する?いまよりもっともっとあったかくなって、死ぬ暇ないで」


「今日はやめときます。ちょっと疲れちゃったし、いっぱい汗かいたのでシャワー浴びたいし」


 僕は彼女の髪を撫でる。


「じゃあ、一緒に入ろか?二人でかいた汗やし、二人で流せばもっと仲ようなれるで」


 彼女は少し不満そうに口を尖らせた。


「もう。いやらしいことしたいだけなんじゃないですか?」


「ちゃうよ!風子ちゃん腰痛そうにしてるし、激しい運動した後は貧血になりそうやろ。そんで一人でお風呂で倒れたら危ないやんか。心配やし俺がおらなあかんと思って」


「腰痛そうって他人事みたいに言わないでください。もう、晴翔さんのせいなのに……」


「他人事みたいに言うてへんよ。めっちゃ優しくしたつもりなんやけど、抑えられんくてごめんな」


 僕が申し訳なさそうに背中を撫でると、彼女は嬉しそうに笑いながら言った。


「痛いけど、幸せな痛みだから許します。仕方ないですね!倒れたくないから晴翔さんも一緒にどうぞ。そのかわり、絶対にいやらしいことしないでくださいね!」


「ええの!?やったー!!そうと決まればもとは俺のせいやし、ここは責任取って風子ちゃん洗ったるで。もちろん、美肌効果抜群のゴッドハンドで手洗いな」


「やっぱ一人でシャワー浴びてこよう」


「ちょっ!そんな寂しいこと言わんといてよ!」


 僕たちは笑いながらお互いの体温を分け合った。冬に近づき部屋の中でも寒くなってきたが、二人のベッドは春のようにぽかぽかと温かかった。






 とある居酒屋。カウンター席に座り、酒を飲みながらスーツ姿の中年男性と若い男性が話していた。


「晴翔な、小さいころよう変なこと言いよってな」


「なにを言うてたんですか?」


「俺の真似して、自分のおかんのこと“けいちゃん”って呼び出したことがあってな。そんで言うたんや、“けいちゃんって呼んでいいのは俺だけや。ちゃんとお母さんのことはお母さんって呼びなさい”って。そしたら“だって、おかんが私のことはけいちゃんって呼びなさいって言うたんやもん”って泣いて怒りよって」


「えっ、皆川さんの奥さん亡くなってはりますやん」


「そやから、上の子たちはそんなこと言わんかったけどな。晴翔だけがな……」




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