#10 二人のベッド①

 僕は朝から忙しかった。

 土曜日の午前中。清々しい日差しと爽やかな風を浴びながら、溜まった洗濯物をせっせと干していた。

 今日は彼女がやって来る。僕の部屋に泊まりに来る。きっと今夜が二人の初めてになる……はず。だから、普段よりも念入りに。

 シーツ、枕カバー、タオルとか彼女が触れるであろうものを少しでも良い匂いにさせておきたいのだ。

 三十路の扉を開けた僕は、最近ちょっとおじさん臭くなってないか心配になっていた。

 それは何日か前に見た夢が大きく影響している……




 僕はベッドの中で彼女とまどろんでいた。肌が触れ合い、抱き合い、腕枕をしたり、甘ったるいくらいくっついていた。

 そんな幸せな時間を過ごしていると、突然彼女は僕の首筋に鼻を近づけ、警察犬のような鋭い目つきで嗅ぎ出した……そして、別人になったように、覚えたての日本語を使う外国人みたいな片言で話した。


「アナタ、クサイヨ。ニオイ、オジサン。ザンネン。サヨナラ」


 その直後、空気の入ったビニール袋を潰したような“ボン”という破裂音とともに白い煙が上がり、煙が消えるころには隣にいたはずの彼女は消えていた。その代わり、隣には一匹の白いブルドッグがいた。

 ブルドッグは僕に「ワン!」と一喝してベッドから出て行き、ラグマットの上のクッションに着地して地面に降り立ち、器用に前足でドアを開け、赤い首輪に付けた鈴をリンリンと軽快に鳴らしながらリビングへと消えていった。

 僕はただただ呆然とした。部屋にはうるさいくらい時計の秒針の音が響き渡っていた。




 そこで目が覚めた。はっきり言って悪夢だ。


 夢を見て以来、会えることが楽しみな反面、ブルドッグに臭いチェックをされてしまわないか少し怖くなっていた。

 いや、彼女はブルドッグではないが、臭いは気にする可能性はある……


 臭いは千年の恋も覚ましてしまうほど、時として簡単に地獄へ突き落とす恐ろしい呪いのようなものだから、いつ何時気を抜いてはいけないのだ。


 風良し。天気良し。香り良し。勝負の日には持って来いの幸先良いスタートだ。

 棚のホコリをモップで取り除き、掃除機を掛けて、リビング良し。

 トイレ掃除とお風呂掃除をして、水回り良し。


 お昼を少し過ぎたころ、ひと息つくついでに軽い昼食を取った。しっかり食べると眠くなってしまうので、トーストと目玉焼きとコーヒーで済ませた。


 風はひんやり冷たいが窓を閉めているので、ぽかぽかとした日差しだけが部屋に差し込み、ほどよく暖かかった。

 あまりに心地良くて、僕はついうたた寝をしてしまった。そして、夢を見た。




「晴翔さん……」


 僕は自分の部屋のソファで寝ていた。どこか遠くの方から僕を呼ぶ声がした。これは、彼女の声だ。


「晴翔さん……ねえ、晴翔さん……」


 彼女はどこにいるんだ。

 僕はゆっくりと目を開き、辺りを見渡した。けれど、彼女の姿はどこにもない。

 そして、どこからか鈴の鳴る音がする。


「風子ちゃん……どこにおんの?」


 リンリン……


「晴翔さん、ここにいます!」


 リンリン…


「えっ、どこ?風子ちゃん、どこ?」


 リンリン……リンリン……


「ここです!ここ!早く助けて!」


「風子ちゃん、大丈夫か!今、助けに行くからな!!」


 未だ状況が把握できていないが、どうやら只事ではないようだ。

 僕は急いで彼女の声がするバスルームへと向かうと、シャワーの流れる音がした。


 あれ?誰も使ってないはずなのに……


 脱衣所に入ると、バスルームのドアは開いていた。冷たいシャワーが雨のように勢いよく降り注ぎ、その下には一匹の白いブルドッグがぶるぶると震えながら右往左往していた。シャワーの雨は止まることなくブルドッグに容赦なく降り注いでいた。ブルドッグはドアノブにリードがしっかりと括り付けられているせいか、身動きが取れない状態だった。


 えっ、なんでまたブルドッグ?!風子ちゃん、どこ?


 僕は疑問を抱きつつ、急いでシャワーを止め、脱衣所のタオルを手に取り、ブルドッグに駆け寄った。


「おい!おまえ、なんでここにおんねん?しかも、なんでまた出て来とんねん!おまえ、どうやって俺んち入ったん?なあ、ここ7階やで?」


「違う、私です!風子です!!」


「えっ……いや、犬が喋るわけないやろ!どっかのCMちゃうし。もう〜風子ちゃん、ええ加減にしいや!どうせどっかに隠れて声出して、からかってんのやろ?もうそんなんええから、こっちおいでよ。この子、びしょ濡れで可哀想やねん。拭かなあかんから、風子ちゃんも手伝ってくれへん?」


 僕は彼女のいたずらだと思い、ブルドッグの体をタオルでわさわさと拭きながら、リビングのあたりに向かって話した。

 だが、思わぬところから彼女の声が聞こえてきた。

 そう、目の前から……


「だから、晴翔さんの目の前にいるじゃないですか!こんな格好だけど風子です!犬だけど風子です!!」


 ブルドッグは尻尾が引きちぎれそうなくらいブンブンと激しく振り、前足で床を勢いよく蹴り、首輪の鈴を鳴らして僕の膝の上に乗って来て、顔をペロペロと舐めてきた。

 僕はその勢いのまま、ブルドッグを抱きかかえた。


「うわぁ!ちょっと勢いよすぎやで。何で?何でブルドッグになってんねん?なあ、ウソやろ?」


「ウソじゃないです!正真正銘、風子です!!」


 彼女はブルドッグになってしまった。しかも、ベッドで僕の臭いチェックをした、あのブルドッグ。だけど、声はまるっきり彼女だった。


 僕はとりあえず目の前の犬、いや彼女をタオルで拭いていると、首輪につけられた骨の形をした銀色のプレートが目に入った。

 プレートを見ると、ひらがなで“ふうこ”と彫られていた。


「ウソやろ……名前彫られてる。ほんまに風子ちゃんなんや。なんで?なんで風子ちゃんがこんなことに?」


「それはあとで説明しますので……へっくしょん!」


 彼女はくしゃみの後、僕の腕から離れ、全身を大きく震えわせ、体に付いた水を撒き散らした。

 おかげで僕の白いシャツは水玉柄のようにたくさんの水が付いた。


 彼女は寒さから小刻みに体を震わせ、鼻声混じりで少し涙目にも見えるような目で、僕に必死に訴えてかけてきた。


「ざむい。ざむい……はるとざん。どりあえずわだじを、はやぐがわがしてぐださい。お願いじまず、かぜびきぞうです……へっくしょん!」


「こんな冷たなって……めっちゃ震えてるやん。ブルドッグだけにぶるぶるドッ……」


 突発的に引くほどつまんないことを言い切りそうになったが、無理矢理飲み込んだ。

 すべて言ってしまったら……きっと彼女は本当の犬になるだろう。

 そんなことになれば……僕の真っ白なシャツが、手元のタオルが、真っ白なブルドッグの彼女が、真っ赤に染まり、まるでサスペンス映画のような惨劇が……

 悲鳴が響く真っ赤に染まったバスルーム……

 考えただけでゾッとする。噛まれたくない。流血沙汰にしたくない。

 僕は必死に別の言葉を叫んで誤魔化した。


「ドド、ドライヤー!ドライヤーな!ドライヤーしよ!ほんま可哀想に、寒かったやろ?今すぐ乾かすからな!」


「おねがいじます……はるとさんだけが、だよりなんでず」


 何事もなく僕は彼女が繋がれたリードをドアノブから外して、脱衣所のドライヤーで体を乾かしていた。


 よかった。どうやら、うまく誤魔化せたようだ。


 そして、乾かしながら彼女に犬になってしまった経緯を聞いた。


「その……なんで風子ちゃんがブルドッグになってもうたんやろ?俺、いまいち状況が掴めへんけど……」


 彼女はどこか切なげ表情で、静かに語り出した。


「ええっと……いろいろありまして。話が少し長くなりますが、お話しします。それは晴翔さんがソファで寝ているときのことでした。宅配便が来たので出てみると、そこには見知らぬ女が立っていました。特徴は黒いコートにマスク、サングラスを掛けた40代くらいの色白、ボブくらいの髪型。その女は突然、私の口元に布を押し当ててきて……気がついたら私はお風呂の床に倒れていました。しかも、首には赤い首輪を付けられ、そのヒモはドアノブに括り付けられていて思うように動けなくなっていました。ちなみに、そのときはまだ人間の姿のままでした。そして、脱衣所のドアが開き、さっきの女が目の前に来ました」


「特徴の言い方が細かいなあ。なんか刑事ドラマみたいやで。ようそんな状況で、そこまで冷静に覚えられたなあ!そんでどうした?」


「そして、女がサングラスとマスクをパッと外して言ったんです……」




女『ふふふ。あなたが皆川くんの彼女?ずいぶん可愛い子じゃない。ねえ、皆川くんのヒ・ミ・ツ教えてくれないかな?会社のみんなが知らないような、あなただけが知ってるやつ。教えてくれないと、酷い目に合うわよ』


 僕は黒づくめの女が会社の先輩“事務のボス”こと、山田さんだと気づいた。

 秘密を聞き出そうとする女性社員なんて、山田さんしかいない。

 弱みを握って僕をどうにかするつもりなんだろう。


風子「えっ?突然すぎて意味わかんないんですけど……とりあえずこれ、外してくれませんか?」


女『馬鹿ね、そう簡単に外すわけないでしょ。赤い首輪して猫ちゃんみたいで、あなたにとってもお似合いよ」


風子「う〜ん、褒められてもまったく嬉しくないんですけど。あの、私逃げませんから!とりあえずこれ、外してくれませんか?そうだ!お茶でも飲みながら、ゆっくりお話ししましょう。そういえば、バイト先のカフェで美味しいクッキー貰ったんですけど、それが紅茶に合うんです!だから、あなたにも食べてほしいな〜!あっ、いま晴翔さんお昼寝中だから、ちゃんと起こしてきますね!聞きたいことがあるなら、私なんかより直接本人に聞いちゃってくださいよ!せっかくお客さんが来てるのにね〜ほんと失礼ですよね〜まったく晴翔さんったら〜すぐ食っちゃ寝して〜太っちゃうぞ」


 彼女はそう言いながらゆっくりと立ち上がり、ドアに寄り掛かかるふりをして、ドアノブに括り付けられたヒモを女にバレないように外そうと試みた。


女『そう簡単に逃さないわよ!あなた、逃げる気満々じゃない!!』


 だが、すぐに気づかれ腕を掴まれた彼女は、バスルームの壁に突き飛ばされ床に倒れた。

 黒づくめの女は倒れた彼女の頬に銃を当てながら、ロープで彼女の両手首をシャワーの蛇口部分に縛り付けた。


女『ガタガタ言ってると、これでうるさいおくち塞いじゃうわよ。あっ、塞ぐどころか穴開いちゃうか!』


風子「やめて……それだけはやめて、ください。やめましょうよ。そんな物騒なもの、持って来ちゃダメですよ〜ほら、晴翔さんが起きちゃう!」


 業を煮やした黒づくめの女は、彼女のこめかみに銃口を突きつけた。

 そして、彼女の耳元で冷酷に囁いた。


女『なに呑気なこと言ってんの?ほんとうるさいわね。そのまま喋ってたら、頭撃ち抜くわよ。まったく、なんであんたの彼氏に気遣わなきゃなんないのよ。もし起きて来たら、あなたと一緒にバーンってすれば、済む話じゃない』


風子「ご、ごっ、ごめんなさい、女王様」


 恐怖のあまり彼女は震えながら謝ると、黒づくめの女はシャワーの対面にあったプラスチックの椅子に座り、彼女に銃口を向けたまま話し始めた。


女『それでよろしい。でさ、皆川くん最近すごくニコニコしながら仕事してて、まあ楽しそうにしてるんだけど。書類整理したり、コピー取りに行ったときに、周りには見られてないと思ってるんだろうけど、あの子ちょいちょい気持ち悪いステップ踏んで、しまいには給湯室で一人で踊ってるのよ。ムーンウォークっぽいやつとか、くねくね腰を動かしてポー!って言ってたし……たぶん本人はマイケルの真似してるつもりなんだろうけど、はっきり言って似てないのよ!あれ見て以来、ときどき皆川くんの変なダンス思い出しちゃって!もうなんか……ははは!ダメだ、思い出したらまともに話せなくなってきた!もうね、ほんと気持ち悪くて!なんかツボにハマっちゃって!私、あれのせいで思い出し笑いするようになって、旦那にも子供にも変人扱いされるわ、この間なんか電車の中で思い出しちゃって!もう大変だったのよ!!周りの人にヤバイ奴だ……みたいな顔されるし、だからほんと困ってるのよ!』


 笑いながら話す黒づくめの女に呆れた彼女は、銃口を向けられてることも忘れて反論した。


風子「ふ〜ん……いいじゃないですか、すごく楽しそうで。それはいいですけど、なんで私が晴翔さんの秘密をあなたに教えなきゃいけないんですか?……ちょっと理由が見当たらないんですけど」


 口答えされたことが癪だったようで、黒づくめの女はムキになりプラスチックの椅子を引きながら前に進み、彼女の心臓の辺りに銃口を突き付けて話した。


女『楽しいのは皆川くんだけなのよ!こっちは笑い堪えながら仕事しなきゃなんないし、思い出したせいで周りには変な目で見られるし、私はなんにも楽しくないわよ!それもこれも皆川くんのせいだし、あなたのせいでもあるんだから!若い子と付き合ったからって、調子乗っちゃって。浮かれるのはいいけど、変なダンスされたら迷惑なのよ!だから、もう目撃したくないから、あなたから秘密を聞いて皆川くんに釘を刺すの。そうだな……ねえ、皆川くん。あなたの秘密と変なダンス踊ってたことみんなにバラされたくないなら、もう会社の中で踊らないでくれるかな?……ってね♪』


 彼女は涙ながらに黒づくめの女に訴えた。


風子「そんな……そんな脅しみたいなことしたら、晴翔さんが可哀想です!せっかく楽しそうなのに……むしろ、私も見たい!動画で見たい!おもいっきり笑いたい!もしあなたが脅したら、晴翔さんショックでもう二度と変なダンス踊らなくなっちゃう……そんなの嫌です!だから、あなたに晴翔さんのことを教えません!!」


 涙を流していたのは、どうやら笑いを堪えるための涙のようだ。


女『あら、この状況で生意気なこと言えるなんて、あなた度胸あるじゃない。ほら、動画なら持ってるのにな〜!これ、見たいんだよね?教えてくれたら、すぐに見せてあげるんだけどな〜』


 黒づくめの女はスマホをいじり、彼女の前に動画の画面を見せてきた。

 その画面には、物陰から僕らしき男性の後ろ姿を撮っているものだった。


風子「えっ、すごい!ほんとに持ってるんだ!いいな〜見たい!私も見たっ……いや、ダメ!そんな罠、引っかからないんだから!私は目の前で、変なダンスが見たいんです!!動画なんかいらない!これくらいの誘惑に負けません!だから、あなたに教えることはございません!!」


 おい……なんや、私は悪には屈しません!みたいにカッコよく言うてるけど、俺のこと完全に馬鹿にしてるやろ。さっきから二人で、俺のことディスりまくってるくせに……なんやねん!



 僕は耐えきれず、ドライヤーを止めた。そして、ブルドッグの顔を両手で挟み、無理矢理僕の方に顔を向けさせた。


「なあ、ちょっと待って。一旦止めよ。風子ちゃん、ツッコミどころ多いわ!多すぎてどこからツッコんだらええか、わからなくなるわ!とりあえず、一回消化させて!」


「えっ、なにか変なところありましたか?」


「ありすぎやで!最初の方で風子ちゃん、“ごめんなさい女王様”とか言うてたけど、首輪付けてそんなこと言うたらあかん!そういうプレイみたいに思われんで」


「だって、女の人が怒って銃向けてきて怖かったし、話し方が女王様って感じだったからつい……で、なにがおかしいんですか?そもそもプレイって何のことですか?晴翔さんはプレイというものをしたことがあるんですか?」


 彼女はまっすぐな瞳で僕を見つめながら、プレイについて聞いてきた。曇りのない空のようなとっても綺麗な瞳でそんなこと言われたら、僕はなんだか恥ずかしくなって手を離し、彼女から一瞬、目を逸らした。


「ない!俺の趣味ちゃう!てか、そないプレイに食いつかんでええから。とりあえず風子ちゃんみたいな子が、簡単に“ごめんなさい女王様”とか言うたらあかんで」


「はい、わかりました」


「それにしても女が言った言葉、よう一言一句覚えとったなあ」


「私、記憶力には自信があります!小学校のとき、暗記だけで漢字のテスト満点取ったこともあります」


「どおりですごいわけやな!でも、ちょっと怖いわ。それより本題戻すけど……風子ちゃんさ、俺のことディスってたやろ?黒づくめの女の人、俺の会社の先輩なんやけど……なんていうかさ、風子ちゃんも山田さんもさ、俺のこと完全にディスってるやろ?さっき、変なダンス言うたよな?」


「ディスってません。決してディスってません、女王様」


「誰が女王様や!ほら、女王様とか言うてふざけてるやん!もう〜完全にディスってるやろ。さっき、俺のダンス見ておもいっきり笑いたい言うてたし……見てもいないくせに……」


「だって、想像しただけでわかっちゃったんです!きっと晴翔さんのことだから、面白いんだろうなあって」


「おもろく踊ったつもりないんやけど……カッコよくキメたつもりやったのに……なんやねん。話逸れたけど、それで風子ちゃんは、もちろん山田さんに俺のこと話さなかったんやろ?だから、こんな格好になったんやろ?」


 彼女はくしゃっとした笑顔で、事の顛末を話した。


「はい。もちろん言いませんでした!そしたら、山田さんが鼻息荒く怒っちゃって『ずいぶんと一途ね!なんか腹立つわ!そんなに一途なら、忠犬ハチ公みたいになっちゃえばいいのよ!』って、コンビニのレジの後ろにある防犯対策のボールみたいなオレンジの丸いやつを床に叩きつけて……その瞬間、真っ白な煙に包まれて……煙が消えて鏡を見たら、私はブルドッグになっていました」


「ただの八つ当たりやん!なんでそこで銃使わへんねん!さっきまで散々銃突きつけてたくせに。てか、なんで強盗にぶつけるボール?あのボール、そんな効果ないやろ!そんな魔法見たことないわ!しかも、魔法の掛け方ダサいわ!なにしてくれとんねん、山田さん!こんな八つ当たりせいで風子ちゃんが……」


 結末の馬鹿らしさに呆れ、こんな理由のせいで彼女が犬にされてしまったことが悲しくて、思わず下を向いた。

 そんな僕を彼女は覗き込み、頬を舐めた。


「晴翔さん……そんな悲しそうな顔しないでください」


 僕は顔を上げて、彼女の頭を撫でながら密かに抱いていた疑問を投げかけた。


「ありがとう。あまりにしょーもなさすぎてな、笑うしかないな。てかさ、ひとつ疑問があるんやけど、ブルドッグになったら風子ちゃんの服も消えてまうの?」


「ああ、服なら洗濯機の近くに落ちてますよ!ほら、それ。なんだか変身したときの風圧で飛ばされちゃったみたいで」


 洗濯機の方に目線を向けると、脱ぎ捨てられたように彼女の着ていた服が落ちていた。服のそばには拘束した際に使われていたロープも落ちていた。

 僕は思わず洗濯機のそばに駆け寄り、落ちている服を手に取った。


「ほんまに風子ちゃんのや。もしかして、これって……」


 落ちていた服にはブラジャーとパンツも含まれていた。

 僕が手に取った瞬間、彼女は初めて犬らしく威嚇してきた。


「ダメ!触らないで!!ウゥ〜〜〜!!」


 今にも噛みつきそうな勢いで、僕に牙を見せ睨み唸った。すごい剣幕だ。

 そこにいるのはいつもの彼女ではなく、一匹のブルドッグだった。


「ごっ、ごめん!触らへんから、噛みつかんといて!」


 すごい剣幕で威嚇する姿に驚き、僕は咄嗟に彼女の下着を離した。手からするりとこぼれた下着は元の位置に落ちた。無造作に着地したせいか、先ほどよりも目立ち、存在感を放っていた。


 この状態の方がもっと恥ずかしいんじゃないかな……


 そう思いながら、僕は気づけば両手を上に挙げていた。警察に追い詰められた犯人のように降伏のサインをしていた。

 つい先ほど想像した惨劇が脳裏に浮かぶ。再び、ゾッとした。体が縮こまるような感覚がした。

 彼女は威嚇を止め、僕の膝を前足の爪でカリカリとかいてきた。先ほどまでの剣幕は消え、いつもの彼女に戻っていた。


「変態!まったく晴翔さんは、油断も隙もないですね!私がこんな姿になったことをいいことにひどいです!」


「違う!違うよ!いやらしい気持ちで触ってへんって!そもそも風子ちゃんが言うたからやん!そんなん普通、下着まで落ちてるなんて思わへんやろ。そないわかりやすく怒り表されたら、さすがに凹むで」


「ごめんなさい……ちょっとやりすぎました。だって、恥ずかしくて。この状態も正直、恥ずかしいのに……下着まで触られたら余計に」

 彼女は心なしかモジモジと恥ずかしそうに顔を伏せた。


「毛皮纏ってるけど、いま裸みたいなもんやからな。じゃあ、これならどうやろ?これやったら、ちょっとはマシか?」


僕はそんな彼女をバスタオルで包みこんだ。


「ありがとう……ございます」


 照れているようで、バスタオルからちょこんと顔を覗かせる彼女がなんだか可愛くて、僕は頭を撫でた。


「ええよ。それにしても、シャワーは何で出とったん?ボールの衝撃でロープが触ったんかな?」


「晴翔さん、おしい!」


「おしいて。クイズみたいに言うなよ!じゃあ、正解教えて」


「私がブルドッグになったのを見て、山田さんは『あっ、どうしよう!ごめん!猫にするつもりだったのに、間違って犬にしちゃった!やばい。師匠に怒られる……』とすごく動揺して、後ろにあったシャンプーやボディーソープのボトルを棚から落としたり。動揺のあまり、手元が落ち着かなくなった山田さんはシャワーの蛇口を捻ってしまって……そして『あっ、子供のお迎えの時間だ!」と急に何事もなかったような顔して、出しっぱなしのことも忘れて、慌てて部屋を出て行ってしまいました。それから私はシャワーから逃げることもできず、いまに至りました。これが私がこうなった答えです」


「なにやっとんねん、山田さん!最初に“可愛い猫ちゃんみたい”とか言うてたくせに、ブルドッグにしよるし!挙句、シャワー出しっ放しにして放置して帰るし……なにしてくれとんねん!!ほんまに大丈夫か?ごめんな、すぐに気づいてやれなくて……それで、どうやったら戻れるとか、なんか言うてなかった?」


「そういえば、部屋を出ていく直前に変なこと言ってました。確か……富士山に登って二人で朝日を浴びながら五分間キスしたら戻れるって。でも、明日の朝日限定だよって……」


「五分もすんの?!」


「イヤ、ですよね。よくわかんない犬とキスって……いくら彼女でもブルドッグの姿じゃさすがに……」


「違う!違うよ!五分間って、ちょっと思ってたより長いなあって……こんな可愛らしいブルドッグとキスできるなんて嬉しいで!しかも、中身風子ちゃんやし、全然嬉しいで!ブルドッグ言うても風子ちゃんやもん、五分なんて短いわ!もっとしてたいくらいやわ!!」


 必死に訂正する僕は少し早口になってしまったせいもあり、無理しているようにしか見えなかった。


「ウソつき。そんな取って付けたようなウソ、バレバレです!絶対そんなこと思ってなかったくせに……どうせ『よだれ垂らしたブルドッグとキス?うわっ、イヤやわ〜ほんま最悪や〜』みたいな言い方でした!すっごく傷ついた。晴翔さんってそういう人だったんだ……私のこと、中身で見てくれてなかったんだ……もういいです、私はブルドッグのまま一生を終えます。富士山なんか行かなくていいです、さよなら」


 彼女は前足で僕の腕を振りほどき、肩を落とし下を向き、リビングの方へとトボトボと歩き出した。

 僕は前に回り込み、彼女を強く抱き締めた。


「待って!誤解や!俺、そんなふうに思ってへんよ!!確かに五分は長いなって、正直思ってもうた。でも、俺はどんな姿でも風子ちゃんのことが好きや!もし戻れなかったら、俺が面倒見る!お散歩だって毎日する!体だって洗ったる!めちゃめちゃ可愛い服だって買うたる!風子ちゃんに不自由な思いはさせへん。俺らの関係は今までどおりや。犬になっても風子ちゃんは俺の彼女や。夜は一緒に寝よ!キスだっていっぱいしよ!お留守番で寂しい思いさせるけど、その分、これからはずっと一緒やで!一緒に暮らそう。だから、さよならなんて言わんといて」


「そんなの……ただの言い訳じゃないですか!」


 僕は抱き締めながら、彼女のまっすぐな瞳を見つめて言った。


「言い訳ちゃう!最初は正直、信じらへんかった。けど、目の前におるのは間違いなく風子ちゃんやもん。どんな姿でも俺の気持ちは変わらへん。好きな子のピンチやろ?そんなん俺がほっとくわけないやろ?」


「ほんと……ですか?もし、本当に私が元の姿に戻れなくても、一緒にいてくれますか?だって私、ブルドッグだからどうやってもイチャイチャとかできませんよ。それでもいいんですか?」


「戻れなくても構へん!一緒におれれば、それで充分や。確かに今までどおりは無理やけど、甘い雰囲気くらいは作れるわ。ブルドッグだからとか関係ないわ!なあ、富士山登ってキスしよ?やるだけやってみようや?」


「もう仕方ないですね……行きましょう、富士山」


「よっしゃ!決まりやな。もう15時やし、すぐ日暮れてまうから、急いで準備して特急乗らな!」


「でも私、犬ですよ。もう普通に電車乗れません……」


「そんなん、駅前のペットショップで必要なもん買うて行けばええやろ?窮屈かもしれんけど、ちょっとの間バッグの中に入ってもらったら乗れるやろ」


「でも……晴翔さんは犬になった私とキスできるんですか?だって……」


「できるよ。だって、俺の可愛い彼女やもん。今もしようと思たらできるで。でも、はよ準備せないつもの風子ちゃんとたっぷりキスでけへんやろ?もちろん、それ以上もたっぷりしたいしな」


「もう、晴翔さんはこんな状況でもそんなこと言うんですね……」


「だって、犬でも風子ちゃんやもん。いくらでも言うよ!それはええから、とにかくはよ準備しよ!」


 そう言って僕は急いで荷物をまとめ、ブルドッグの彼女を抱っこして部屋を飛び出し、富士山へと向かった……



 そこで目が覚めた。



「またブルドッグて。しかも、キス!?それに何で山田さんまで出て来とんねん!あかん。ほんまに踊ってんの、見られてたらどうしよ……ああ!もうやめて!ブルドッグとか山田さんやなくて、いつもの風子ちゃん出て来てくれよ!」


 夢に不満を抱いたまま気怠い体を起こし、テーブルの上のスマホの画面を見ると、時刻はもうすぐ16時だった。


「あかん、寝すぎた!はよ準備せな!!」


 待ち合わせは17:15。彼女のバイト先の最寄り駅で。

 けれど、この前みたいにバイト先に迎えに行く。その方が早く会えるし、ただ単に僕が早く会いたいから迎えに行く。


 急いで洗濯物を取り込んで畳み、時間がないのでソファに置いた。

 洗いたてのシーツと枕カバーを整えて、ベッドメイキングも準備完了。もちろん香りも良し。

 これで舞台は整った。


 寝室で昨日から考えていた組み合わせを、クローゼットから取り出し着替える。

 そして、首筋に香水をひとふり。

 いつもは香水なんてつけないのに……ブルドッグ、いや彼女に臭いチェックされてもいいように念には念を。


 きっと今夜、僕と彼女は結ばれる。付き合ってる、キスもしてる、泊まりに来たいとお願いもされた……

 これっていいってことだよね?


 僕がいつも寝ているひとり用のベッドで……数時間後、一糸纏わぬ姿で僕らは抱き合い、愛し合うんだろう。

 ベッドのそばには脱ぎ散らかした寝間着と下着。

 彼女は恥じらい頬を赤く染め、額には汗を滲ませ、瞳を潤せ、僕の背中に腕を回し爪を立て、可愛い声で僕の名前を呼ぶ。今まで誰にも見せたことのない女の顔を、きっと僕に見せてくれるんだろう。そんな彼女を上から眺める僕は優しく微笑み、敢えて耳元で意地悪っぽく彼女の名前を呼ぶ。


「晴翔さんのいじわる……ちゃんと私のこと見て言って」


 僕のじれったい素振りについ甘えてしまう彼女が可愛くて、愛しさが溢れ出して止まらなくなるんだろう。

 そして僕は彼女の潤んだ瞳を見つめて呟き、口づけする。


「風子ちゃん、愛してるよ」


 重なり合う二人で、軋んだベッドは鳴くんだろう。好きな人の体温とすべすべした感触は、精神安定剤のように僕のココロを慰め、穏やかにしていく。その心地良さを知った僕は中毒のように虜になり、彼女を求めていくんだろう。

 この部屋は、これから何度も二人の呼吸と熱が混ざり合う甘ったるいくらいの空間になるんだろう……



 後ろのベッドを振り返り、僕はふいに想像した。ベッド周りも、戸棚の中も大丈夫。これからのことを見据えて、しっかり買い足した。だから、今夜と明日愛し合ったとしても間に合うくらいある。

 とはいえ、彼女は初めてだ。一度でも重なり合えるのなら、充分だ。

 仮に今夜できなかったとしても、ひとつのベッドで抱き合って眠れるのなら、僕は幸せだ。


 そうこうしているうちに出掛ける時間になり、僕は家を出た。


 電車に乗り駅に着き、彼女のいるカフェへと向かう。

 家に帰るまで、どこでデートしようかな。バイトが終わるのは5:00。最近、日が沈むのが早くなってきたとはいえ、まだ明るい時間。近場でも、少し足を伸ばして横浜へも余裕で行ける。今日は僕の家に来る以外、特に決まってない。


 どないしよ。風子ちゃん、行きたいとことかあるかな?


 そんなこと考えているうちに彼女のバイト先のカフェに着いた。中に入ると、オーナーが僕に気づき声を掛けてきた。


「こんにちは」


「おお、風子ちゃんの彼氏来た!今日は可愛い彼女のお迎えかい?」


「お迎えて!……まあ、お迎えですけど」


「彼氏のところは否定しないんだ……美香ちゃん、風子ちゃんの彼氏にカフェラテ出してあげて!ごめんね、風子ちゃん今忙しいからね」


「僕、まだ注文してませんけど?」


「いいよ、これからデートなんだろ?恋多き美香ちゃんのカフェラテでも飲んで、頑張って来いよ!なんなら美香ちゃんと俺が恋愛相談に乗るぞ!」


「カフェラテは嬉しいですけど、恋愛相談はいいです」


 カウンター席でオーナーと話していると、ポニーテールに縛った少し背の高い女の子が僕のところにカフェラテを運んで来た。


「お待たせいたしました、カフェラテです」


「美香ちゃん、ずいぶん可愛いの描いてくれたね!さすが、なんでも器用なだけあるね!」


「オーナー!その言い方、なんか悪意ありません?私は風子の初めての恋がうまくいくように描いただけです」


「悪意なんかないよ!だって、君ほどプライベートも仕事も器用にこなす大学生、なかなかいないよ!これは褒めてるんだよ」


 カフェラテには、彼女と僕らしき男女が寄り添う可愛いらしいイラストが描かれていた。


「まあ、否定はしませんけど。あっ、はじめまして。柳田美香です。風子の彼氏さんの……晴翔さん、ですよね?」


 オーナーの言葉にまんざらでもない美香ちゃんは、僕に目線を合わせ挨拶をした。

 整った顔立ち。陶器のように美しく、透明感のある白い肌。可愛いというより美人さん。一見、清楚なご令嬢にも見えるが、どこか漂う雰囲気に色気がある。ただやみくもに遊ぶ女とは違い、品がある。

 可愛らしい彼女とは正反対のタイプの女性だ。


「こちらこそはじめまして。皆川晴翔です。風子ちゃんから聞いてたけど、君が美香ちゃんか!べっぴんさんやな。しかも、こんな可愛いの描いてくれて、めっちゃ嬉しいわ!ありがとう」


 僕がスマホを構えて写真を撮っていると、美香ちゃんが耳元で囁いた。


「そういえば……こないだは、アレ使ってくれましたか?」


「アレって、なに?」


「風子にあげたプレゼントに二つ、入れといたんだけどな〜!ヒントは愛する二人に必要なものです。あっ、愛がなくても必要か」


 愛していても、愛していなくても必要なもの。俺にわざわざ聞いてくるもんやし、アレ以外は化粧品しか入ってなかったみたいやし……やっぱ、そういうことやろ。


「アレって!アレか……いきなりなんちゅう質問してくんねん!風子ちゃん、めっちゃ恥ずかしがってたで。入れたんなら教えてあげな!急にあんなん入ってたら、そりゃびっくりすんで。そんな悪趣味なイタズラしたらあかんで」


 初対面でいきなり突拍子もないことを聞いてくる美香ちゃんに動揺した僕は、可愛らしいイラストのカフェラテをスプーンで勢いよくかき混ぜ、ひとくち飲んだ。大事に味わうつもりがただのカフェラテにしてしまい、美香ちゃんからの洗礼で味さえもわからなくなるほどだった。

 そして、美香ちゃんの口撃は止まることなく続いた。


「イタズラじゃないです!だって、風子も大人なんだし、持ってても困らないものじゃないですか。せっかく入れたのに教えちゃったらつまんないし、それじゃあサプライズになりませんよ!まっ、女の子にとっては防犯グッズみたいなものですし、いいじゃないですか」


 さすが百人斬りの女……

 百人、いや何人斬ったか覚えていないくらいとは聞いていたが、アレを防犯グッズ呼ばわりするなんて……

 この子はいままでどんな恋愛をしてきたんだ。

 僕は美香ちゃんのペースに完全に飲み込まれ、捨て台詞で思わず飲んでいたカフェラテを吹き出しそうになった。


「ぼっ、防犯て!ずいぶんひどい言い方やな!俺のことどう見てたか知らんけど、結構真面目やで。だから、そない簡単に襲ったりせえへんよ」


「ほんとですか〜?本当に真面目な人だったら、自分から言ったりしないと思いますけど?」


「たっ、確かにそうやけど……でも、ほんまやって!俺、付き合うてないと、そういうことせえへんから。それに風子ちゃんのことは、最初から本気やったし……」


「ふ〜ん、そうなんだ。それで……使ったんですか?あれ、すっごく薄かったでしょ?」


 美香ちゃんは不敵な笑みを浮かべながら、色っぽく僕の耳元で囁いた。

 吐息が微かに耳に掛かるような、男心をくすぐる絶妙な距離で僕を攻めた。ゾクっとした。思わずゴクリと唾を飲んだ。

 男として、いや、生物として、激しく揺さぶられた。

 あまりの衝撃に一瞬、くらっと意識が飛んだが、我に返り何事もないようなふりをして答えた。


「えっ……いや、使うてへん!必要なかったし!」


「使ってない?ウソ……着けないでしたの?」


「ちゃう!してないからや!してないから必要なかったんや!!」


「えっ、じゃあ一晩過ごしたのにやってないの?大の大人が?」


「だからしてないって!酒の勢いで、抱くようなことしたなかったんや」


 僕が否定すると、美香ちゃんは先ほどまでの鬼のような鋭い目つきから、安堵したのかふにゃっと柔らかく微笑み、仏のような穏やかな顔になった。


「そうなんだ……よかった〜!風子ったら、晴翔さんの話になると顔真っ赤にして黙っちゃうし。あんまり教えてくれないから、てっきりそうだと……勘違いしてごめんなさい!」


「ええよ。でも、なんで化粧品の中にわざわざ入れたん?サプライズだけが理由とちゃうやろ。ご飯食べに行くだけやのに、そんなに風子ちゃんのこと心配やったん?」


「すごく心配でした。だって、風子は酔うと寝ちゃうんです。それなのに、男と二人っきりなんて危ないじゃないですか!私があんなに反対したのに行くって言うし……だから、どうせ終電逃すんだろうなと思って、軽いお泊まりセットをあげたんです。建前上、知り合いから高級コスメの試供品をもらったからってことにして。あと、風子って処女だからまともにアレ見たことないんです。前に私がポーチの中から落としたら『美香ちゃん!飴落としたよ』って大声でみんなに見えるように出しちゃって……だから、もしお泊まりになったら、きっと晴翔さんの前で出すんだろうなと。あんなもの、女が堂々と見せてきたら、だいたい引きますよね。でも引かなかったら、ある程度器の大きい人だなと。だけど、アレがあると安心してタガが外れやすいんです。お酒が入って入ればなおのこと。アレがあるから、相手の気持ち次第でやれるじゃないですか!それを利用してやる奴はやるんです。私はそういう男を何人も見てきたからわかるんです。そんな危うい状況でもやらなかったら、風子のことをちゃんと想ってくれている証拠だから。だから、入れたんです」


「それって……遠回しに俺のこと、試してたってことやんな?」


「はい。だって、どこの誰だかわかんない人と急に仲良くなって、男に免疫ない風子が二人っきりで飲みに行くなんて……そんなの、いいようにそそのかされて抱かれて、おしまいです。飲んで、眠って、ホテルに連れて行かれて、いただきます!ごちそうさま♪さようなら……ってなりますよ、普通は。それなのに風子は!私がすっごく反対したら『晴翔さんは絶対そんな人じゃない!そんな悪い人なんかじゃないよ』って怒って、まともに話聞いてくれなくて……」


「そうやったんや。風子ちゃん、俺のこと信用してくれてたんやな。めっちゃ嬉しいわ」


「風子が『私は美香ちゃんと比べたら恋愛経験まったくないけど……それでも、なんとなくだけど、わかるの!だって、初対面なのにすっごく落ち着く感じだったし、一緒にいて安心できるというか……とにかく晴翔さんは危険な存在じゃないよ!』とか、ひとりで熱く語ってましたよ。まったく、晴翔さんが悪い人だったら、どうしようもないところでしたよ」


 美香ちゃんは彼女のことを話すとき、とても穏やかな顔をしていた。まるで妹を優しく見守る姉のようだった。


 姉のような美香ちゃんに、先ほどから執拗に聞かれることを質問返ししてみた。


「そうなんや。あの、俺は鼻からそんな気なかったけど……仮にな、仮にやで!俺がもし使うてたら……」


 美香ちゃんは先ほどまでの穏やかな表情から一変して、鬼のように冷たい表情に変わった。


「ぶん殴りますね、もちろん土下座もセットで」


 嫌な予感しかしないが、念のため最悪のパターンも聞いてみた。


「じゃあ、もし付けずにやる奴やったら……」


「言語道断!もちろんフルボッコです!セフレ、総動員してやります」


 美香ちゃんは食い気味で答え、声を少し大きくして握り拳を僕の頬スレスレのところまで持ってきた。


「ちょっ!殴らんといてよ!!俺、やってへんよ!それに、大きい声でセフレとか言うたらあかんて」


 我に返った美香ちゃんは静かに拳を下ろした。


「すいません。つい興奮して……」


「ええけど……俺、真面目に生きてきてよかった」


「ほんと、晴翔さんが真面目な人で安心しました!あの子には痛い目にあってほしくないんです。私みたいに割り切った関係とかできる子じゃないし、ひとりの人と真っ当な恋愛をして幸せになってほしいんです」


「確かに、風子ちゃんは割り切れる子じゃないと思うわ」


「不器用だけど誰よりも優しくて、自分よりも他人のことばっか心配して、口では大丈夫とかいつも笑ってるけど無理してることが多いから心配になるんです……だから」


「風子ちゃんは幸せ者やな。こんなに想ってくれる友達がおって。こんなに愛されて大事にされてる子、不幸にするわけないやろ。大丈夫や、俺が風子ちゃん守るから安心して」


 美香ちゃんはデジャブのように、またあの質問をしてきた。吐息が掛かり、耳をくすぐる色っぽい声で。


「じゃあ、今夜たっぷり愛し合うんですか?私のあげた、すっごくうすいので?」


 僕は油断していた。口撃が落ち着いたから、カッコいいことなんか言ってみたりして、自惚れていたんだろう。

 また聞かれるなんて思っていなかったので、つい本音が出てしまった。


「まあ……愛は二人で育んでいくものやし、スキンシップは大切やからな」


「スキンシップって、どういうのですか?」


「そんなん聞く?そりゃあ、決まってるやろ……愛の共同作業やで」


「晴翔さん……まだ夕方ですよ」


 聞き覚えのある、愛しい声。振り向くと、そこには彼女が立っていた。頰を赤く染め、恥ずかしそうに俯いていた。


「えっ?あっ!ブルドッグ!いや、風子ちゃん!!」


 僕は油断していた。そういえば、ここは彼女のバイト先だったんだ。話に夢中になって、すっかり忘れていた。なにを恥ずかしげもなく、今夜あなたを襲います宣言を発したんだろう。

 いいようにそそのかされたのは、僕の方だった。

 彼女は困ったような顔をして、僕の顔を覗き込んだ。


「ブルドッグ?私、人間ですけど。晴翔さんどうしちゃったんですか?」


「違う!ブルドッグがな、今日夢に出て来てな、それでつい言うてもうただけでな!風子ちゃんはちゃうで!チワワや!俺の中ではチワワやで!」


「えっ、チワワ?可愛いから嬉しいですけど、なに言ってるんですか?変なの、晴翔さん」


「そんくらい俺の中でわしゃわしゃしたいくらい可愛いって意味やで。そっ、それよりいつから後ろおったん?」


「ずいぶん前からいました。美香ちゃんと楽しそうにお話ししてるから声掛けづらくて。美香ちゃんは、私が後ろにいること気づいてくれてましたよ」


「ウソ!?ごめん!てか、美香ちゃん!なんで言わへんねん?」


 美香ちゃんは意地悪っぽく笑い、弾んだ声で話した。


「だって〜言ったら面白くないじゃないですか!近くにいないからってすっかり気抜いちゃって、彼女への想い語っちゃったりして。でもそんな晴翔さんのこと、風子はちゃんと見てましたよ。すっごくかっこよかったです、晴翔さん!!チワワみたいに可愛い彼女を今夜はわしゃわしゃと、たっぷり可愛がるんですね。やあん、晴翔さんのエッチ♪」


「なに半笑いで言うとんねん!わしゃわしゃって、そういう意味ちゃうねん!もう〜俺めっちゃきしょいやん!最悪や!恥ずい……ちなみに風子ちゃんはどのあたりから聞いてたん?」


「美香ちゃんが『ぶん殴る』とか言ってたあたりから……」


「結構聞いてるやん!美香ちゃん、ほんまそういうイタズラはやめて!!悪趣味いうか、性格悪いで」


「性格悪いのは充分自覚しております♪それより、晴翔さんほんとかっこよかったです!特に『決まってるやろ?愛の共同作業やで』のあたり!!」


「君、ほんま性格悪いな。あかん、風子ちゃん帰るで!!」


 僕は彼女の手を握り、席を立った。


「あっ、はい!美香ちゃん、バイバイ!」


「ちゃんと優しくしてもらうんだよ!」


「言われなくても優しくするわ!」


 僕はレジにいたオーナーにお代を払おうとカバンから財布を取り出した。


「ごちそうさまでした」


「今日もいいから。それより風子ちゃんとしっかり愛を育むんだよ。壊れ物を扱うように優しくね」


「もう、オーナーまでなんやねん!ありがとうございます、また来ます!」


「お疲れさまでした。オーナー、また月曜日会いましょう」


「お疲れさま。デート楽しんでね!」


「はい!では、また」


 僕と彼女は恋人つなぎのまま、カフェを出た。恥ずかしくて、早くその場を離れたくて、行く当てもないが歩いた。

 しっかりと手をつないでるのに、なんだか彼女の顔がまともに見れない。

 頭の中が混乱していて、どうやら感情と行動が追いついていないようだ。


「ほんまにごめんな。後ろにおったのに、早く気づいてやれんで」


「大丈夫です。でも……なんだかムズムズしました。声掛けようとしたら美香ちゃんに止められるし、晴翔さんは目の前で恥ずかしくなるようなこといっぱい言うし。嬉しいけど、どうしたらいいか……」


 僕はまっすぐ前を向いたまま答えた。散々恥ずかしい思いをしたのに、この後もっと恥ずかしいことを言うからだ。


「俺もムズムズしてるわ。風子ちゃんに恥ずかしいところいっぱい見られてしもたし……でも、言うてたこと全部ほんとの気持ちやから」


 前を向いたまま言った。だけど、最後だけ彼女の方を見て言った。

《大事なことは、ちゃんと相手の目見て言わな伝わらんで》

 小さいころから父に言われていた言葉。なぜだか僕は突然思い出した。おかげで僕の手のひらは汗まみれだ。


「ありがとう。嬉しいです。あっ、あの!とりあえず……どこか落ち着けるところに行きませんか?甘いもの食べて落ち着きたいです」


 彼女はまっすぐな視線を向けて微笑んだ。僕の気持ちに応えるような、その視線が嬉しかった。

 おかげで彼女の照れた顔が見れた。恥ずかしさから急に声が裏返ってしまった顔も見れた。ちゃんと言えてよかった。


「そやな!甘いもん食べに行こ!なんか食べたいもんある?」


「う〜ん……フレンチトーストかな?」


「じゃあ、フレンチトーストいっぱい食べよ!」


「少しでいいです。いっぱい食べたら、夜ご飯がフレンチトーストで終わっちゃいますよ」


「せやな。夜ご飯がフレンチトーストはあかんな!」



【サプライズ】驚き、不意打ちを意味する。誰かを驚かせた後に喜ばせる計画やそれを実行することの意味として、使われることも多い。


 美香ちゃんが仕掛けた理由は彼女に対する心配とか、そんな単純なことだけではないのかもしれない。

 突然出逢い、すぐに恋に落ちた僕らの気持ちに偽りがないのか。二人を試すためのサプライズだったのかもしれない。

 彼女はいつも笑っている。どんなときもまっすぐ僕と向き合ってくれる。だからこそ、不安になる。無理をしていないか、心配になる。

 僕の前なら本当の気持ちを笑顔で隠さなくていいんだよ。喜びも悲しみも、君の闇も分かち合いたい。

 雨の日に本当の僕を見せられたように、これから少しずつ本当の彼女を知っていきたい。そう思っていた。

 だから、彼女の気持ちが知れてよかった。その分、僕の気持ちも彼女にしっかり聞かれてしまい、気恥ずかしいが。


 美香ちゃんにまんまとしてやられた。僕らはいとも簡単に操られたわけだ。

 でも、たまには手のひらの上で転がされるのも悪くない。


「晴翔さん……私の手、汗かいてるから一回離してもいいですか?」


「気にせんでええよ。俺も手のひら、びちゃびちゃやから。風子ちゃんが嫌やったら離すけど?」


「嫌じゃないです。むしろ、嬉しい。汗、私だけじゃなかったんですね」


「まっ、美香ちゃんのせいやな。あれでペース狂わされたわ!」


「私も!美香ちゃんったら、あんなこと言わなくてもよかったのに」


「あんな堂々と聞かれたら、そりゃあかんで。なあ、美香ちゃんに使用感聞かれたんやけど、今度報告せなあかんかな?」


「もう!だからまだ夕方ですって!!」






 夕陽に照らされた彼女の笑顔はキラキラと輝いていた。

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