#9 土砂降りのゆめ

 朝起きると、外は騒がしかった。

 視界よりも先に、轟音が僕を起こした。

 地面を激しく打ちつける音。バケツをひっくり返したような豪雨。

 降り注ぐ雨がすべての音を掻き消して、一瞬ここがどこだかわからなくなってしまうくらいだった。

 重たい瞼を開くと天井が視界に入り、自分の部屋だと安堵した。


 遮光カーテンの隙間からほんの少し光が漏れていた。薄暗い部屋に差し込む一筋の光に導かれるように気怠さを引きずりながらゆっくりと起き上がり、カーテンを開いた。

 そこには、ネズミ色の空とここが滝壺なのではないかと思うほどの雨のカーテンが広がっていた。

 ベランダの手すりを勢いよく弾き、窓に雨粒が飛び散る。

 振り返り、テレビボードの上の時計に視線を向けると11時。まだ午前中なのに、暗くどんよりとした空だった。


 すべてのものをこの世界から消してしまうようなこの音が、こんな雨が僕は嫌いだ。

 記憶の中に残る何かが、絶望的な気持ちに引きずり込む。

 僕しかいないような、僕だけ取り残されたような孤独が襲う。


 それは悪い夢をずっと見ているように、断片的に繰り返される。




「うわぁ、降ってる!雨降るなんて言うてなかったのに!これは傘ないとあかんな。取ってこよか?」


「ええよ!私、取って来るから、お母さん晴翔と一緒にここおって」


「ママ、ちょっと行って来るからな。ええ子にしてるんやで」


 優しく微笑み、頭を撫でる温かい手。


 長い髪を揺らしながら、土砂降りの中へと走って行く後ろ姿。


 激しく打ちつける雨。湿った空気。


「ママ、遅いなあ。どうしたんやろ?」


 建物の外で騒がしい声がする。


 さまざまな色の傘の群れ。

 小さな男の子が膝を擦りむき泣いている。


 開いたまま落ちている黄色の傘。閉じたまま折れ曲がった水色の傘。


 水溜りが赤に染まっていく。


 ずぶ濡れで黒光りするアスファルト。


 雨粒を弾くびしょ濡れの白い手。


 薬指に光るリング。


 冷たい冬の雨。





 繋がるようで繋がらない。どこか大事なピースが抜けているパズルみたいに、スローモーションで再生されていく。


 呼んでもいないのに勝手に呼び起こされる。


 きっとこんな日だったのかもしれない。



 こんな雨の日が僕は嫌いだ。


 どうしようもなく不安にさせる空。


 胸の辺りを圧迫されたような、喉の奥に何かつっかえているような息苦しさが襲ってくる。


 大切な人を奪い去っていった雨。



 苦しさと気持ち悪さから早足で洗面台の前へ向かい、勢いよく蛇口をひねり、排水溝に顔を向けた。

 嗚咽しか出ないが、この気持ち悪い震えるような記憶を吐き続けた。

 どれくらい繰り返ししていたんだろう。時間感覚がわからなくなるほど、洗面台に顔を突っ込んでいた。

 咳でむせり、僕はようやく我に返り排水溝の辺りに視線をやると、水を逃れた薄く赤い粒がポタポタと落ちていた。


「またやってもうた……」


 鏡に映る僕は青白く、ひどく呼吸が乱れ、目の下にはうっすらとクマができていた。


 寝間着のトレーナーにじんわりと冷たい汗が滲んでいた。


 出しっ放しの水に気づき、慌てて蛇口を閉めた。


 だから、雨は嫌いなんだ。僕が僕を忘れて、僕を壊そうとするから。


 いつもこうなってしまう。何を吐いても気が晴れることがない。後味の悪さとピリピリとした喉の奥の痛みが残る。

 ただただ虚しさを引きずり、ひとりベッドに戻る。

 それがいつもの流れだった。



 なのに……今日はいつもないものが視線に入った。


 蛇口の側にオレンジの持ち手の歯ブラシが置かれていた。


 僕の青い歯ブラシはいつものスタンドに立ててある。



 なんだろ?これは……あっ。



 雨で頭の中がごちゃごちゃになっていた僕は、一瞬昨日のことを忘れてしまっていた。


 足元の脱衣カゴには、昨日彼女が着ていた服がきれいに折り畳んで置いてあった。


「風子ちゃん……置きっぱなしにしたらあかんで」


 睡魔に襲われうっかり置き忘れてしまった彼女の姿をふいに想像したら、僕は気づけば笑っていた。


 土砂降りの悪夢から、ほんの一瞬和らいだ。


 そういえば、彼女はまだ寝ているのだろうか。


 気になった僕は彼女の服を持ち、寝室へ向かった。


 時間は11時半を過ぎていた。


 寝室のドアの前に立ち、ドアに耳を当て中の様子を伺う。


 何も音がしない。


 もしかして具合が悪くて起きられないのかな……


 急に開けてしまうのを躊躇して、念のためノックをして呼び掛けた。


 コンコン……


「風子ちゃん、おはよう。入ってもええか?」


 応答なし。


 寝てるのかな?……


 もう一度ノックしてみる。


 コンコンコン……


「風子ちゃん、入ってもええ?」


 応答なし。音一つ聞こえてこない。


 寝てる?それとも……


 少し心配になった僕はドアを開けた。


「ごめん、入るで。風子ちゃん大丈夫か?……えっ!!」


 寝室は昨夜に見た景色とはまったく違う景色になっていた。

 そして、変わり果てた姿の彼女がいた。


 掛け布団は剥ぎ取られたかのようにすべて床に落ち、毛布はミノムシのようにギュッと丸まり、枕は押しつけられたようにピタッと壁にくっつき、うつ伏せでスカイダイビングのように大きく手足を開いた状態で、ピクリとも動かずベッドの上に横たわっていた。


 はあああ!何事が起きたんだ!!


 突然、衝撃的な現場を目撃した僕は、ショックのあまりに彼女の服を手からするりとこぼれるように床に落とした。

 安否が心配なり、僕は彼女の肩を大きく揺さぶった。


「風子ちゃん!!おいっ!風子ちゃん!!生きてるか?」


 大きく揺さぶられた反動で僕の方に彼女の顔が向いた。そして微かにスー、スーと寝息が聞こえた。彼女は幸せそうな少し微笑んでいるような顔をして眠っていた。

 表情に反して、現場はまるで事件があったかのように激しく荒れていた。



 こんだけの寝相、どんだけ暴れたらこうなんねん……



 とはいえ、時間的にそろそろ起こした方がいいだろう。今日、もしかしたらバイトとか何やら予定があったら大変だ。


 僕は再び彼女の肩を揺さぶり、耳元で声を掛けた。


「風子ちゃん!もうすぐお昼やけど、予定大丈夫か?」


「うん?……食べれないです、そんなに」


 これって……寝言?


 再び耳元で呼び掛ける。


「風子ちゃん!寝言はええから、そろそろ起きな!」


 彼女は目を瞑ったまま、微笑んだような顔をしながらゆっくりと口を開いた。


「ふふふ……いくらなんでもその量の……ブリは私でも無理です。晴翔さん、こんなに釣らなくても……」


 どうやら僕は夢の中で大量のブリを釣って来てしまったようだ。


「俺、ブリなんか釣ってへんから!そんなんええから、とりあえず起きてみよか?」


「もう、こんなに釣って来たのに……釣ってないなんて嘘……言わないでください。おうち出る前に……なんて言ってたか……覚えてないんですか?……“今夜は照り焼き祭りやで〜”って……嬉しそうに話してたじゃないですか」


 僕の声は夢の中に届いているようだ。しかし、なかなか戻ってくる気配がないので、夢の中が気になった僕は質問してみた。



 寝言に話しかけたら寿命縮まる言うけど、ちょっとくらいならええかな……



「ああ、そうやった!でも俺、こんなに釣ってもうたけど、数えんの忘れてた。全部で何匹おるかわかる?」


「数えてなかったんですか……もうしょうがないですね。全部で……57匹ですよ。こんなに釣ったらブリ……いなくなっちゃいますよ……晴翔さんは業者さんですか?……スーパーに卸すつもりですか?」


「えっ、57匹!?釣りすぎやろ!!こんなん釣ったら竿折れてまうで」


「何言ってるんですか……竿なんて使ってないじゃないですか……ほら、玄関に忘れて行ったじゃないですか」


「えっ……じゃあ俺、どうやって釣ったんやろ?」


「忘れちゃったんですか……さっきまであんなにドヤ顔で言ってたのに……漁船に乗せてもらったって……好きに使えって……漁業用の網借りたって……漁師さんいい人だったって……言ってたのに……もう変なの、晴翔さん」


「だからこんだけ釣れたんやな!しかし、漁船乗せてもらうなんて本格的やな。でもこんだけのブリ、どうやって持って帰ったんやろ?」


「それも忘れちゃったんですか……トラックの……荷台に……冷蔵用の荷台に……ブリと一緒に乗せてもらったって」


「トラック!?しかも荷台に!!でも、冷蔵用やったら風邪引いてまうやろ。それはいくらなんでも……」


「荷台の中で……ずっと踊ってたって……だから寒くなかったって……ビリーズブートキャンプしてたって……途中まで隊長と相乗りだったって……言ってたのに」


「いや、荷台で踊られへんやろ!てか、なんでビリーズブートキャンプ?古すぎやろ!しかも、相乗りてタクシーちゃうし!それに隊長って……そのもしかして……」


「藤岡弘、と……」


「そっちかい!!ビリーズブートキャンプなのに、なんでよその隊長と踊ってんねん。ジャングルの奥地行かへんわ!てか、古っ!!なあ、風子ちゃん。これ若い子あんま知らんネタやで。何で知ってんの?ほんま何歳やねん!年齢サバ読んでへんか?ほんまはアラフォーとちゃうか?」


 彼女の古すぎるチョイスに不信感を抱き、僕はちょっと意地悪なことを言うと、突然彼女の口調が変わった。


「サバ読んでへんわ……誰がアラフォーや。私、22言うたやろ。ほら、このブリみたいにこ〜んなピチピチしとんのに……でも、ほんまはブリよりマグロの方が好きやけど」


 彼女は突然、関西弁で話し始めた。しかも、僕のような関西出身者のように饒舌だった。

 確か、出身は山梨だったはずなんだけど……


「えっ、なんで関西弁!?しかも、結構うまいし……急にどないしたん!」


「言ってへんかったっけ?……私のお母さん、出身大阪やで……だから私も話そう思たら話せるで……山梨と大阪のハーフやからな」


「それ、ハーフちゃうわ。国籍一緒やないか!」



 あかん、まったく起きへん……むしろ、寝言で普通に会話できてる。こんだけ話してたら、ほんまは起きてるんとちゃうか?ただふざけてるだけかもしれへんな……


 いつもよりゆっくりとした口調だが、あまりにもただの寝言とは思えない状況に不信感を抱き、僕は思いきって彼女に再度起きるよう説得した。


「なあ、そんなふざけてへんで、ええ加減起きて!そんなに話したいんやったら、起きてコーヒーでも飲みながら話そうや」


「何言うてんの……私、寝てないで……でも、はるくんが出掛けた後は少し寝てもうたけど……」


「いつまでその喋り方やねん。それに、はるくんて……なあ、そんな呼び方せえへんやろ。ほんまに急にどうしたん?そんなんええから、はよ起きてよ、風子ちゃん。夢の中から戻って来てよ……俺、寂しいわ」


「はるくん、何言うてんの……私はずっとここに……」



 あかん……完全に寝言や。気持ち悪いくらい饒舌やけど、寝てるわ。いつまでも話してんの可哀想やし、このままやと寿命なくなってまうから、もうちょっと寝かしとこ。



 饒舌すぎる寝言に少し引いたが、彼女の夢に僕が出ていることがなんだか嬉しかった。僕に対する設定が明らかにおかしいが、それを除けば飛び上がるほど嬉しいシチュエーションだ。

 だって、釣りから帰って来た僕を彼女が出迎えてくれて……いわゆる同棲中みたいな……旦那の帰りを待っていた奥さんみたいに……本当のところはわからないが、とにかく夢の中で彼女は僕を待っていたことは間違いないみたいだ。

 こんな寝言が可愛い奥さん、むしろお留守番させたくない!言われれば、どこへでも連れて行ってあげたいくらいだ。

 僕は頭を撫でながら夢の中の彼女に話し掛けた。


「風子ちゃん……俺のこと待っててくれたんやな、ありがとう。今度は一緒に行こうな」


「もちろん、待ってました……だって晴翔さんは……大好きな人だから」


「俺もやで。風邪引かんように、あったかくするんやで」


 僕は吹き飛ばされた掛け布団とミノムシのような毛布を元どおりに戻し、彼女に掛けた。


 床に落とした彼女の服を整えてベッド脇に置き、僕はリビングに戻った。


 しかし、寂しい僕は寝室のドアを少し開けたままにした。


 時計はもうすぐ正午に向かっている。普段ならお腹の空いてくる時間。

 でもこんな日は食欲も、何もする気が起きない。とりあえずトイレに行ったり、水を飲んで一息ついてみるが、まったく落ち着かない。


 土砂降りの日はいつもこうしている。

 休みの日ならベッドから一歩も出ず無理矢理眠って、ただただ時間が過ぎて雨が止んでくれるのを待つ。


 仕事なら我慢して会社に行くが、結局体調が優れず早退したことが過去に何度かあった。


 しかし、今日はベッドに彼女がいる。スヤスヤ眠るところを邪魔したくない。


 ソファに戻り、ブランケットを頭まで被ってギュッと目を瞑る。


 これでじっとしていれば自然と眠くなる……はず。


 しかし、いくらじっとしていても、目を瞑っていても、睡魔がやって来ない。


 こんな日はテレビも見る気がしない。以前、気を紛らわすためにテレビを点けると、たまたまやっていた再放送のドラマを見て気分を害してしまい吐き気をもよおし、余計に体調が悪化したことがあった。

 だから、テレビも今は見れない。


「ああ!寝れへん!」


 ブランケットをガバッと勢いよくめくり起きる。


 時計は12時半。雨は激しく降り続いている。


 寝室に視線を向けると、彼女は布団を飛ばさず眠っていた。


 彼女の近くにいれば落ち着くかな……

 そんな気持ちでブランケットを吸血鬼のマントのように体に包み、寝室に入った。


 ドアを閉め、僕はマントをたなびかせながらベッドの脇に座る。

 相変わらず彼女はこちらを向いたまま寝ている。顔の隣にだらりと置かれた彼女の手を握る。外気に触れていたせいか、少し冷たい。両手で彼女の手を包んで摩る。温かくなった彼女の手を右手で握りながら、寝顔を眺める。温かい体温とすべすべとした柔らかい手の感触が心を和ませる。

 彼女の頬を人差し指でつんと押すが、相変わらず無反応のまま。

 ぷにっと柔らかく弾力のある頬。

 手を繋いだまま彼女の顔を覗き込む。



 よう寝るなあ……こんなに眠ってお腹空かへんのかな。他人のベッドやと落ち着かん言う人多いのに、ほんまぐっすりやな。そんなに落ち着くんかな、俺のベッド。


「なあ、俺のベッドそんな寝心地ええのかな?」


 応答なし。


「やっぱり起きてくれへんか……気の済むまで眠ったらええよ、休みやし」


 僕は顔をベッドに乗せ、彼女の体温をすべすべの手から感じていた。降り続く雨音を背にして。

 彼女の顔と僕の顔が近くて、呼吸を感じるこの距離がなにより落ち着く。

 足元のラグマットがふかふかの芝生に思えてくるくらい、なんだか僕の部屋じゃないみたいに心地良かった。


 そして、気づけば僕は眠っていた。


 目覚めると、僕の体にはブランケットのマントとともに毛布が掛けられていた。

 ベッドに視線を向けると、そこに彼女はいなかった。


 毛布とブランケットを勢いよくめくり、慌てて飛び起きた。


 リビングに向かうと、寝間着のままの彼女がキッチンに立っていた。なにやらいい匂いがする……何か作ったのかな?


「風子ちゃん、いつの間に起きてたん?」


「あっ、おはようございます。じゃなくて、こんにちはですよね。少し前に起きたんですけど、目が覚めたら目の前に晴翔さんがいたから、正直びっくりしました。でも、あまりにも気持ち良さそうに眠っていたので起こさないようにしておきました」


「ああ……ありがとう、わざわざ毛布まで掛けてくれて。そういえば風子ちゃん、今日は予定大丈夫なん?バイトは休み?」


「はい。今日はバイトも学校もお休みです。予定も何もありません。晴翔さんが何かご予定あるのなら、帰りますが……」


「そうなんや。俺もちょうど予定ないわ!だから、全然いてくれてええよ」


「よかった。そういえば晴翔さん!お腹空きませんか?うどん作ったんですけど、食べませんか?」


「わざわざ作ってくれたん?嬉しい!食べる食べる!!」


 急いでキッチンにいる彼女の隣へと向かう。


「ずいぶん眠ったからお腹空いちゃって。勝手ながら冷蔵庫覗かせていただいたら、簡単なかけうどんくらいなら作れそうだなと思いまして。昨日、いっぱい飲んじゃったから、あっさりしたものなら食べやすいですよね」


「せやな。そういえば風子ちゃん、二日酔いとか大丈夫?昨日ずいぶん飲んでたけど」


「ちょっと……二日酔いみたいです。いつもより怠くて……だからあんなに寝ちゃったのかな?でも、たくさん眠ったおかげで食欲はあります!」


「そっか、そんなに辛くないならよかった!でも、今日は無理せんとゆっくり体休めなあかんで」


「ありがとうございます。ほら、早く食べましょ。晴翔さんも手伝ってください!」


「おお!これ持って行ったらええ?」


「はい!お願いします」


 彼女の作ったかけうどんを僕がリビングのテーブルに二つ運び、僕たちは二人並んでソファに座り、だいぶ遅めの朝食を取り始めた。

 二人で食卓を囲むのは初めてなのに、やっぱりなぜだかこの感じ、しっくり来る……


「これうまいなあ!俺、こういう味好きやわ。優しい味でええな」


「ほんとですか!よかったあ。身内以外に料理作ったことなかったんで、お口に合うかどうか心配でした」


「お世辞やなくて、ほんまにうまいで!使えるもんあんまなかったやろ?よく材料ないなか、ええ出汁出したなあ」


「確かに材料がすごく少なくて困りました……でも、冷凍室にネギがあって、あとちくわ二本と椎茸が二つあったので、これでイケる!と確信して作りました」


「ちくわは魚のすり身やし、椎茸は定番やけど出汁出るもんなあ。風子ちゃん、よう知ってるなあ。普段、自炊してんの?」


「してますよ。簡単なものしか作れませんが」


「へえ、偉いなあ!忙しいのによう頑張るなあ」


「いえいえ、ただ節約したくてやってるだけです。休みの日にいっぱい作って冷凍しておいて、それをちょこちょこ食べる。そんななんの可愛げもない料理です」


「作るだけでもすごいのに、わざわざ作り置きしてるとか、めっちゃ偉いやん!疲れてなかなか作られへんかったり、作んのめんどくさい言うてせえへん子いっぱいおんのに、ようやってるわ!ほんま偉いと思うで!なんも悲観的になることないで!それに……風子ちゃんが料理してるとこ、想像するだけでええなあ」


「そんなに褒めても……具は増えませんよ!」


「別に増えんでええよ!いや俺もたまに料理するけど、やっぱ男が台所に立つより、女の人が台所立ってる方が絵になるいうか、憧れいうか……風子ちゃんが俺のために作ってくれたんやなって思うとめっちゃ嬉しいで」


「ぷっ!ゴホッ、ゴホン……」


 彼女は突然むせり、苦しそうに咳をした。僕はコップのお茶を彼女に渡し、背中を摩った。


「大丈夫か?ごめんな、急に変なこと言うて」


 彼女は呼吸を整え、少しお茶を飲んだ。そして、頬を赤く染めつぶやいた。


「晴翔さん……食事中に変に褒めるのやめてください。なんか……味わかんなくなります」


「ごめん!だって、嬉しかってん。俺は素直な気持ちを言っただけやで!できればな〜風子ちゃんがうどん煮とったときに起きてたらなあ、すかさず後ろから抱き締めてたのにな!もうちょい早く起きたかったわ!」


「そんなこと言われると、余計うどんすすれなくなっちゃいますよ!そういうのは後にしてください!」



 うん?…………だと?!風子ちゃん……完全に墓穴踏みよったな。これ、絶対に気づいてへんわ。ちょうどええわ、もっといじめたろ。



「おっと、聞き逃さなかったで!後ならええんやな、!じゃあ、後でたっぷりハグしたるからな!それまで邪魔せんから、思う存分すすったらええわ」


「もう!そういうことじゃないのに!余計食べづらくなる……」


 思わぬ形で墓穴を踏んでしまった彼女は、悔しそうにうどんの丼をテーブルに置き、そんな彼女を眺めながら僕は勝ち誇ったように丼を掲げ、うどんをすすった。


「楽しみやな〜食後のハグ!あとで♪って、お願いしてくれた風子ちゃんには特別に食後のキスもおまけしてもええで!」


「ちょっとそれ、自分がしたいだけなんじゃないですか?」


「バレたか!」


「バレバレです。晴翔さん、ほんとわかりやすい!」


「やっぱバレバレやったか!」


 僕たちは他愛もない話をしながら、うどんを食べ終えた。

 早く食後のハグがしたくて、僕はテキパキと片付けの手伝いをした。仕事のときよりも何倍も軽快に、かつスピーディーに動いた。二人で並んでキッチンにいるだけでも、なんだか嬉しかった。こういうのは久しぶりだけど、初めての気持ちでもある。


 食後のコーヒーを入れてリビングのソファに戻り、ブランケットのマントで彼女ごと包み込み、お待ちかねの食後のハグをした。

 昨日の夜と同じ、温かい体温と柔らかい肌が僕の心を少しずつ穏やかにさせていく。

 夢中になって話していたから忘れていたが、気づけば雨は音もせず静かな小雨になっていた。

 あんなに苦しかった時間が嘘みたいにあっという間飛んで行ってしまった。

 晴れるまでこのまま一緒にいてほしい。そしたら僕は、少しだけ雨が好きになれるかもしれない。根拠はないけど、そんな気がした。



 彼女は腕の中から僕を見つめて言った。


「ねえこのパジャマ、晴翔さんの着てるのと色違い?」


 彼女に言われて初めて気づいた。

 寝間着は何着か持っているが、たまたま貸したものが僕が着ているグレーと色違いの紺だった。

 トレーナーにゆるっとしたズボンのメンズの寝間着だが、華奢な彼女が着ると僕が着るよりダボっとして見えて、普段以上に女の子なんだと感じさせる姿だった。

 なんの可愛げもない男物の服でも、女性が着れば胸のあたりの膨らみが少し目立ち、男にはない女の子特有の華やかな香りも合わさって、それがなんだか妙に色っぽくて、彼女が着ると余計に可愛らしく感じさせる服に変身した。

 彼女には申し訳ないが、ふいにいやらしいことを考えてしまったくらい魅力的で、余計に意地悪したくなってきた。


「ああ、そやな!全然気づかんかったわ。俺、気に入ると同じやつの色違いよう買ったりするんや。寝間着やと何度も着るもんやし、ええかなって。でも、これやとペアルックみたいやな!」


「ベタベタのペアルックはあんまり好きじゃないけど、こういうのは結構好きかも……」


「俺もそういうの嫌やな。なんか見せつけてるみたいでアホくさいし。どうせやるんなら、さりげないやつの方がええなあ。デートやと、ドレスコードみたいなもん二人で決めて、色とか羽織るもんだけ合わせんのとか楽しそうやな!家の中やったら、寝間着やし気兼ねなくできるからええな!じゃあ、また同じもん着ようや。今度泊まりに来たら……あっ、でも意味ないか……」


 僕は話しながら意地悪を思いついた。さっそく、罠を仕掛けてみる。


「うん?意味ない?」


「おそろで着てもどうせ脱ぐから必要ないか……」


 耳元で甘く囁き反応を伺うと、彼女は罠にハマらないように少しムキになって抵抗した。でも、その言葉は決して強い抵抗じゃなく、語尾に恥じらいを残していた。


「もう!パジャマは必要です!脱いでもまた着るでしょ……」


 カタチだけの抵抗と見抜いた僕は隙を突くように、再び耳元で甘く囁いた。


「わからへんよ。着る暇ないくらいやったら、必要ないやろ」


「もう……なんでそういうこと言うのかな!そういうことばっかり言ってると、帰りますよ!」


 彼女はより一層恥じらうが、僕の罠にハマらないようにムキになり、頬を少し膨らまして抱き締める腕を解こうと抵抗した。

 普段の僕ならこのくらいの可愛らしい抵抗は簡単に言いくるめて、僕の罠に落とせるけど……土砂降りから目覚めた今日の僕は、ちょっとの冗談にも考え込んでしまい、軽く押せばすぐに倒れてしまいそうなほど弱くなっていた。


 僕をひとりにしないで……記憶に擦り込まれた孤独が一気に押し寄せて来た。


「ごめん、ほんまごめん!だから……まだ帰らんといて!せめて……雨が止むまでおって。雨が……雨が嫌いなんや。なんかな……うん……ほんまあかんねん。勝手に意地悪言うて、風子ちゃん困らせてるくせに何言うてんねんって話やけど……俺のこと、ひとりにせんといて」


 ずっとひとりで抱えてきた強烈な不安にまた押し潰されてしまいそうで怖くて、ふいに雨の話を口からこぼしていた。

 先ほどまで僕は羊を荒々しく追い立てていた牧羊犬のようだったのに、今の僕は追い立てるはずの羊の前で情けなくしっぽを丸め、消えてしまいそうな弱々しい声で地べたにへたり込み、ブルブルと震える母犬とはぐれた仔犬にようになっていた。


「晴翔さん……大丈夫、ですか?安心して、ひとりになんかしませんよ。私も雨苦手だし……なんか雨って寂しくなりますよね。晴れるまで一緒にいましょう。こうやってくっついてましょう」


 明らかな異変に気づいた彼女は、背中に回していた右手で僕の頭を撫でてくれた。優しくて温かい手は、どこか遠い記憶に残る温かい感触に似ていた。


 母のような温かさの羊に慰められた仔犬はだらしなく目元を潤ませ、鼻声混じりに力なく頭を預けた。


「ありがとう……ごめんな、しょうもないこと言うて。俺、情けないな!」


「謝らないでください。しょうもなくないですよ!私、こういう晴翔さんも嫌いじゃないです」


「嫌いじゃないって……そこは“好きです”にしてほしかったわ!」


「ふふふ。間違えました……好き、ですよ」


「俺もやで。今日は風子ちゃんと一緒でよかったわ。おかげで、雨なの忘れるわ」


「私もです。いろんな晴翔さんが見れて、嬉しいです」


「これからいろんな風子ちゃん見せてな。そういえば、昨日からあっという間やったなあ……まさか一緒にブランケットに包まるような仲になるなんてなあ。不思議やけど風子ちゃんとこうしてるの、しっくり来るなあ。何でやろな?お互い最近まで全然接点なかったのに……」


「私も同じこと思ってました!まったく知らない人だったのにこんなに落ち着くのって……なんか変ですよね!普通だと、たぶんこんなに早くないはず……だって、早く許したら軽い女に見られそうだし。でも晴翔さんは許したというか……前からそうだった、みたいに落ち着くし。なんだかわからないけど縁があったんでしょうね、私たち」


「変て……俺とこうなんのおかしいみたいな言い方せんといてよ。それに言っとくけど、最初から風子ちゃんのこと軽い女に見てへんし、俺はいつでも真剣なんやで!でも、確かにここまでしっくり来んのはちょっと違和感あるけど、縁なかったらこうならへんよな」


「やっぱり運命の赤い糸ってやつですかね!でも、何で赤い糸って言うのかな?血の色だから赤かな?直接的じゃないけど、血が繋がるような関係になるからなのかな?」


「う〜ん、ようわからんわ。あとで調べてみよか。そんなことより……まだ食後のデザート食べてへんよな?」


「食後のデザート?冷蔵庫に甘いものなんてなかった気がしましたけど?」


「忘れたん?さっき言うたやろ、食後のハグにおまけするやつ、特別に風子ちゃんにプレゼントや」


「えっ、それって……」


 僕は何か言いかけた彼女の唇を塞いだ。

 軽く触れて、ついばんで、絡まり合う。お互いの感触を確かめるように、繰り返していく。

 僕にとって愛しい彼女は最高のデザートで、ひとくち、またひとくち。壊れ物のように儚い彼女をゆっくりと大切に味わっていく。コーヒーの香りが絡み合っていく。

 すぐに彼女でいっぱいにしたいけれど、デザートの幸福感は出来るだけ長くじっくり味わっていたいものだ。

 だから甘いけど、わざと勿体ぶってもどかしくなる、思わず欲しくなってくるおまじないのようなキスをした。

 僕は衝動を抑えて、物足りないくらいで一度離れた。


「食後のデザート、お気に召してくれたでしょうか?」


 由緒正しい家柄のお嬢様に仕える紳士的な執事のような言い回しで、彼女に潜む欲求を静かに引き出していく。

 やっていることはまったく紳士ではないけれど。


「デザートじゃなくて、キスじゃないですか。それに……」


「それに?」


「どうせ食べるなら、もっと甘いのがいいです……酔ってたけど昨日の夜のこと、少しは覚えてるんですよ」


「バレたか……」


「バレバレですよ……昨日のはすっごく甘かったです」


 おまじない成功。欲しくなってもらえば、こちらのもの。

 一度覚えた快感は何度でも欲しくなるのが人間だから、仕方ないものだ。どんな人間もその本能には逆らえない。


 なにより僕は欲しくなっている彼女が見たかったんだ。

 ごめんね、意地悪して。


「なあ、そんなこと言ったら後悔すんで……どうなっても知らんで。それじゃあ、遠慮なく甘くさせてもらうで」


 その言葉を待っていたかのように、僕は先ほどよりも熱いキスをした。コーヒーの香りが消えて、お互いの味をたっぷり味わいながら、唇を交わしていく。

 食後のデザートでこんなに甘美なものは、今まで味わったことがないかもしれない。身体の内側からじわじわと熱くなっていく。お互いがどんどん火照っていくのがわかるくらい。

 熱が、呼吸が、深く混ざり合って溶けていく。溢れてしまいそうなほど五感が満たされていく。

 色違いの寝間着を着て、僕の腕の中で少しずつ呼吸を乱していく彼女が美しかった。


 一瞬、唇を離して彼女を覗き込むと、頬を赤く染め、溢れそうに潤んだ瞳に、ままならない息遣いで、僕を見つめて微笑んだ。

 僕の口づけに健気に応えてくれる彼女が愛おしくて、僕も微笑み、瑞々しく潤った桃にかぶりつくように彼女の唇に深い口づけをした。

 昨夜と違って酔いはない。今、純粋に彼女を味わっている。中毒性のある快感に深く酔い、溶けていく。


 ネズミ色の空から雲は消え、空は明るさを取り戻し、夕暮れに近づくオレンジ色の日差しに変わって、部屋の中に差し込んでいた。

 明るい時間からこんなにも唇を交わていると、なんだかイケナイようなことをしているみたいで、背中に当たる夕陽の温もりと僕のトレーナーを掴む彼女の手のひらの熱が背徳感と幸福感を表していて、心地良かった。


 口づけの余韻と心地よい気怠さから、いつの間にかソファで寝てしまっていた。

 二人揃ってひとつのブランケットに包まったまま。


 ふと目が覚めたときにはオレンジ色の夕陽が色濃く、空の端が紫色に染まっていた。


「ああ……寝てもうた。風子ちゃん、寒ないか?」


「うう……あっ、ごめんなさい。私も寝ちゃってました。全然寒くないです」


 時計に視線を向けると、時刻は5時を回っていた。


「あっ……雨上がりましたね。夕焼けきれい!」


 そう言って彼女は立ち上がり、窓の方へ向かいレースのカーテンを開けた。


 僕はブランケットのマントをたなびかせながら、彼女の隣に立った。


「ほんまや……綺麗やな」


 窓を開けると、冷たい空気と湿った匂いの混じった雨上がりの澄んだ香りがした。


「寒い。自分ばっかりずるいです!」


 彼女は自らブランケットのマントに入ってきた。僕はそんな彼女をブランケットごと、ギュッと包み込む。


「ああ、ごめん!風子ちゃんのおかげで晴れたわ。ちょっとだけ……雨、好きになったかも」


「よかった。なにがあったかわからないけど、いつか晴翔さんの心が晴れるといいですね。私は晴れ女ですから、一緒にいれば雨雲も吹っ飛んじゃいますよ!」


「風子だけに雨雲吹き飛ばすんやな」


「そうです!こんな感じにふぅ〜って!」


 彼女は深く息吸い込み、頬を大きく膨らませて唇を尖らせ、吹き飛ばすように窓の外へ向かって強く息を吐いた。


「ははは!そんな口で吹いたくらいで飛ばへんよ!」


「飛んじゃいますよ!私、高校の身体測定でクラスの女子の中で肺活量一位だったんです!だから、絶対イケます!」


「クラスで一位でも無理やて!なあ、どっからそんな自信出てくんの」


「自信じゃないです!実績があるんです!」


「実績って、企業か!そういえば、これからどうする?そろそろ風子ちゃんも帰りたいよな?」


「私はまだ大丈夫ですけど……正直、お腹が空きました」


「そんなら駅まで送るついでに、近くに美味しい定食屋さんがあるんやけど行かへん?」


「行きたいです!それじゃあ、急いで着替えてきます!でも……昨日、服どこに置いてきたんだろう」


 彼女はソファの側に置いたバッグのあたりを探し始めた。


「脱衣所に置きっぱなしやったで。風子ちゃん困ると思ったから、寝室に置いといたで」


 それを聞いた彼女は寝室へと向かい、ベッド脇の着て来た服に駆け寄った。


「あっ、ほんとだ!ありがとうございます!」


「お礼替わりに生着替えしてくれてもええんやで?」


「変態!すぐ着替えてくるから待っててください」


 彼女が寝室のドアを閉めようとした瞬間、自分が寝間着だったことに気づき、慌ててドアに手を掛け寝室の中へ入った。


「あっ、ちょっと待って!俺も着替えなあかんかった!クローゼットから服持ってくからまだ閉めんといて」


「もう、しっかりしてください!パジャマで出掛けるつもりだったんですか」


 僕はクローゼットを開き、彼女の前でわざと迷ってみせた。彼女の困った顔が見たくてついやってしまった。


「ほんまうっかりしとったわ。さて、ど・れ・に・し・よ・う・か・な♪ああ、迷うなあ!俺、選んでる間にここで着替えてくれてもええんやで」


「黙ってればいい男なのに、なんでそういうこと言うのかな!私、リビングで着替えますから、いいって言うまでここにいてくださいね!絶対に覗かないでくださいよ!のぞいたら晴翔さんのおごりですからね!」


「ごめん!ちょっと待って!」


 彼女は自分の服を持って寝室を出て行ってしまった。

 僕はひとり、寝室に取り残された。


 彼女を駅に送るついでに晩御飯を食べるだけ。だから、そんなに迷う必要もない。すぐ決めればいいのに……私服を見せるのが初めてだと思うと……なんだか緊張してしまう。


 どないしよう。大人の男って感じで、ジャケットなんか羽織るのもええかな……


 こんなとき、ちょっとでもかっこよく思われたいと思う自分が、ものすごく邪魔だ。


 でも、背伸びしすぎたらあかんよな……でも、ラフすぎてもあかんし……ああ!決まらへん!!


 デニムのパンツに何を合わせようかベッドの上に並べ、デート前日の女子みたいに悩んでいた。


「晴翔さん、もういいですよ!」



 えっ、早っ!?どないしよう!まだ決まってへん……ああもう!一か八かこれにしよ!



 彼女の声が聞こえてから、急いで着替え、ベッドの上に並べた服をクローゼットに押し込み、一呼吸置いて余裕な自分を装い、寝室のドアを開けた。


「おお、風子ちゃん準備できた?」


「晴翔さん……こんな感じなんですね」


 えっ?それはどういう意味の?あかんかったかな……


「シンプルな格好の人、結構好きです」


 彼女はふにゃっと柔らかく微笑んだ。


 僕が選んだのはグレーのパーカーにデニムのパンツという、貧乏学生のような定番すぎるコーディネートだった。


「こんなんでええの?!」


「だって、定食屋さんと駅に送るだけですよね?充分じゃないですか」


「そっ、そやろ!俺もな、もともとシンプルなもん好きやし、待たせたらあかんなと思って、サクッとバシッと選んだんや!」


 明らかに動揺している僕に彼女は意地悪っぽく聞いてきた。


「ほんとですか〜?私が呼んだら、急に中がバタバタ騒がしくなった気がしたんですけど、気のせいですかね?」


「そっ、そんなの気のせいや!こっちは瞬殺やったんやで!秒で着替えたったわ!」


 ムキになって返すと、彼女はかっこ悪い嘘もすべて包むように優しく微笑んだ。


「そうですか。個性的すぎたり、不潔な格好じゃなければ、私はなんでもいいですよ。晴翔さんに似合っていれば、好きですよ」


 どうやら彼女にはすべて見透かされていたようだ。

 恥ずかしい……なんて情けないんだ。しかも、そんな僕へのフォローも一切忘れない。なんて出来る女なんだ。


 彼女は昨日の服にちゃんとメイクも綺麗にしていた。あんな短時間でよくもそこまで……


「それじゃあ、行こか。」



 玄関を出て鍵を閉める。エレベーターへと進みながら、僕が彼女の手をそっと握ると、彼女も優しく握り返してきた。

 昨日の手を重ねただけのものとは違う。

 今日からは、指と指を重ね合わせた恋人つなぎ。

 僕たちはそういう関係になったのだ。

 しっかりと重なった指を見ると、顔のあたりがじんわり熱くなるような感覚がした。

 なにひとりで照れてんだろ……そう思って何気なく彼女を見ると、彼女も赤くなっていた。



「なんか照れますね……恋人つなぎ」


「そやな……なんか照れくさいな」


「晴翔さんもそんなこと思うんですか?」


「俺かて思うわ。恋人つなぎやで……自分から繋いどいてなに言うとんねんって話やけど。照れくさいけどこれがしたかったんや。なあ、昨日のこと覚えてる?」


 エレベーターに乗り込みボタンを押し、ドアが閉まりゆっくりと動き出す。


「寝ちゃったところはさすがに覚えてないけど、それ以外はだいたい……だから晴翔さんが言ってくれたことも、お姫様抱っこしてくれたのも、キスしたのも……」


「そんなら改めて聞くけど、ほんまに俺でええの?だってその、風子ちゃんの初めての男が俺ってほんまに……」


 自信のなさから僕が言い淀んでいると、そんな気持ちを汲み取ったように彼女は食い気味でまっすぐな目で話した。


「もちろん。じゃなきゃ、こんなふうに手を繋いだりしませんよ」


「よかった。あの、風子ちゃん!こんな俺やけどこれからよろしくな」


 僕は手を繋ぎながらお辞儀をすると、彼女は一瞬僕を見つめて、深々とお辞儀をした。


「こちらこそふつつか者ですが、よろしくお願いします」


「おお。仲ようしてこうな」


 握る力がお互い自然と強くなった気がした。

 エレベーターはエントランスに着き、僕たちはマンションを出た。



「そういえば、そこの定食屋さんではいつも何頼むんですか?」


「う〜ん、そんときの気分によるな。なんでもうまいから最近はだいたい日替わり定食かな」


「例えば、どういう定食があるんですか?」


「なんでもあるで。レバニラ、焼き魚、しょうが焼きやろ。あとはコロッケ、唐揚げ、エビフライ、メンチカツ……なんかいっぱいあってようわからんわ」


「晴翔さん、今揚げ物食べたいでしょ?」


「なんでわかったん?!」


「だって、後半から揚げ物しか言わなくなりましたよ。晴翔さん、ほんとわかりやすいんだから」


「なんでもバレてまうな!風子ちゃん、実はエスパーなんか?」


「そんな能力ないです。晴翔さんが揚げ物ばっかり言うから、私も揚げ物食べたくなってきちゃった!何食べようかな?」


「そんなら二人で別々のもん頼んで、半分こしながら食べよか?」


「いいですね!半分こって、なんかいい響き」


「そんでサラダも頼んでな」


「いいですね!野菜も必要ですもんね」


 僕たちは手を繋ぎ、夕暮れの薄暗くなった道を歩いていった。

 定食屋で晩御飯を済ませ、帰るのが寂しくて結局その後カフェに行き、彼女を駅で見送ったのは夜の8時だった。


 スーパーで買い物を済ませ、部屋に戻り、フローリングシートで掃除をしながら僕はひとりニヤついていた。

 繋いだ手を離そうとした瞬間に彼女が言った言葉を思い出すと、嬉しさが止まらなかった。


「晴翔さん、来週もまた遊びに来ていいですか?」


 同じところを何度も拭いてしまうくらい、僕は浮き足立っていた。



 来週も会えるんや。めっちゃ楽しみやな。しかも、またウチ来てくれるて……ちょっと待て。ほんまにあったかな?……あかん!預かったやつくらいじゃ足らんかもしれん!明日帰りにドラックストア寄らな!これからの分もストックせな!



 そんなことを思い、フローリングシートを床に置き、寝室の戸棚の中のアレを探していると僕のスマホが鳴り出した。


 画面の液晶には、父と表示されていた。

 急にどうしたんだろ?僕は不思議に思いながら、電話に出た。



「おお、なに?」


「なに?って。おまえ、お父ちゃんが電話してんのに、なに?はないやろ」


「ごめん。おとん、急にどうしたん?」


「おまえ具合悪なってないか?東京すごい雨やったって、さっきニュースで見たからなあ。晴翔大丈夫やったかなって、心配になってなあ」


 父は先ほどの明るいトーンからぐっと低くなり、声からも僕を心配しているのがわかった。


「ああ……まあ休みやったし、まあまあ大丈夫やったで!」


「ほんまか?休みやったら少しはマシかもしれんけど、しんどかったらお父ちゃんに無駄に電話してきてええんやで。無駄におもろい話したるから」


「ありがとう。でも、無駄には電話せえへんよ。どうせおかんとの馴れ初めばっか言うんやろ?」


「おい、けいちゃんの話はてっぱんやろ!晴翔ももう大人になったんやし、この際やからいろいろ話してもええで。俺がどうやってけいちゃん落としたとかな。あんな可愛い奥さん捕まえた成功者として伝授したろか?これ聞いたらおまえも間違いなく、ええ女捕まえられるで!」


「ええって!おとんとおかんの恋バナ聞きたないわ!」


「ええやんか!おまえはな、俺とけいちゃんが愛し合ってできた愛の結晶なんやで。真夏まなつ雪歩ゆきほと晴翔は俺らの宝物なんやで。特におまえはな……けいちゃんが最後に残してくれた……」


 父は話すうちにどんどん涙混じりのような枯れた声になり、言葉を詰まらせた。

 父は母の話になると、いつもこうなってしまう。呆れた僕は雰囲気を変えるように、父を叱咤した。


「もうわかったから!またそうやって泣くんやろ?けいちゃんけいちゃんうるさいって、おかんに怒られんで!それにな、俺おとんに伝授してもらうほど困ってへんから!」


「なんや、彼女おんのか?またおまえ

 年上の女捕まえて、あほみたいに甘えてるんやろ?なあ、そんな年上ええのか?」


 父は先ほどまでの枯れた声が嘘のみたいに水を得た魚のように明るくなり、僕にいらない質問を畳み掛け始めた。

 母がいなかったこともあり、昔から僕は父にいろいろと話していた。というか、父の饒舌な誘導尋問に騙され、半ば強引に聞き出されてしまっていたと言った方が間違いではない。

 だから、僕の過去の恋愛も触り程度なら知っている。


「おるよ……つい最近できた。付き合うてる子は年上の人ちゃうよ!年下の子や」


 父は嫌味な言い方でわざと小さい頃からの呼び方に変えて、質問を続けた。


「おお、珍しいなあ!おまえ、いっつも年上やったのになあ!甘えん坊のはるくんに〜どういう心境の変化があったんやろ?」


「甘えん坊のはるくんとか、やめろや!それにいちいち今までの子のこと、引っ張り出さんといてくれる?別に今まで歳気にして付き合うたことないし、年上とか年下とか関係ない。付き合い始めた子はたまたま年下だっただけや」


「へえ、はるくんも大人なこと言うんやな。あんなにお姉ちゃんに甘えてたはるくんがなあ。立派やな!」


「だから、はるくん言うのやめて!」


「じゃあ、今日はその子と一緒におったから平気やったんやな?ええなあ。あほみたいにちゅーちゅー甘えとったわけか」


「甘えてへんわ!しかも、あほみたいにちゅーちゅーってなんやねん!」


「わからへんのか?それは女の子のな……」


「おい!やめろ。おとんの下ネタなんかもっと聞きたないわ!ほんまにおかんに怒られんで!目の前出てきて、頭ど突かれんで!」


 父の暴走が加速する瞬間ですばやくツッコミ、呆れ果てた僕は思わず声を少し大きくして叱責した。


「それはそれで嬉しいわ!けいちゃんに会えるしど突かれるし、最高やん!」


「なあ、もう切ってもええ?俺、そんな暇やないんやけど?」


「ごめんて!でも、晴翔。おまえ今まで何やってもあかんかったのに、今日はずいぶん元気そうやな。その子、そんなにええ子なのか?」


「うん……ええ子やで。なんかようわからんけど、おかんになんとなく似てる気がする。あんまおかんの記憶ないのにな。俺、なに言ってんやろ」


「そっか、よかったなあ。そんなええ子やったら気いつけろよ……けいちゃんに似てるんやったら尚更や。それに俺にも気いつけなあかんで。その子、おまえのお母さんになってまうかもしれんからな!」


「なに言うてんねん!そんなことしたら、俺がおとんをど突くで!それにおかん悲しむで!」


「あほ!俺はけいちゃん以外の女にこれっぽっちも興味ないんや!誰がおまえの彼女なんか!そんなんやったらけいちゃんの方が何億倍もええわ!悪いけどな、けいちゃんほどええ女はいないんや!」


「もうわかったから!けいちゃんけいちゃん、さっきから何回言うねん!そんなんええから、電話してる暇あったら、はよ孫の面倒でも見ろや。いっつもこの調子やったら、まなっちゃん疲れへんのかな」


「今日な、真夏たち近所の友達と夜ご飯食べに行ったんや。おさむくんも奏多かなたも一緒に連れてかれてな、俺ひとりなんや……」


 心配してくれたんだと少しでも喜んだ僕が馬鹿だった。

 呆れた僕はため息混じりにつぶやいた。


「だから電話してきたんやな……」


「そういうことや!」


「なあ、もうええか?俺、大事なもん探してるとこなんやけど?」


「大事なもんってなんや?」


「うるさい!絶対言わへん!」


 父と話して思った。

 なぜ彼女には雨の話が言えたんだろう。

 今まで付き合った女性には、いろんなことは話せても雨のことだけは言えなかった。

 彼女よりも過ごした時間は格段に長いはずなのに……

 僕は今まで心のどこかで見栄を張り、平気だと自分に嘘をつき、本当の意味で弱い自分を見せることができなかった。


 それは姉たちの前で、いつも平気なふりしてわざとふざけてみせて、何にも考えてないような能天気なキャラを演じ、安心させようと無意識のうちにいつも自分に嘘をついていた頃の僕のようだった。

 母のことが大好きだった父と姉たち。母の記憶がほとんどない僕。

 大好きな人がいなくなった空間は、どんなに時間が経っても、悲しみは薄れたとしても、大事なものが欠けた消失感は完全に消えることはない。

 母のことを心から愛そうと何度も思っても、もう二度と目の前に現れることがなければ、いくら僕を産んでくれた人であっても、家族にどれだけ愛された人であっても、僕にはどこか他人のように思えてしまっていた。

 そんな自分は感情の無いロボットみたいで、嫌いだった。

 家族で母の話になるといつも温度差を感じていた。その輪にうまく入れず苦しかった。でも、大好きな家族が時折急にしんみりと暗くなり複雑な気持ちになって、重苦しい空気に耐えられなくて、僕が明るくしなくちゃ……そう勝手に思い、家族のムードメーカーを演じていた。


 高校三年のお盆のことだった。家族で母のお墓参りに行った夜、食卓を囲みながら姉たちが母の話をしていると、父が僕につぶやいた。


「晴翔。おまえ、無理して明るくしようとせんでええんやで。自分に嘘ついてまで、俺らに気い遣ってんのわかってるで。なあ、俺ら家族やろ。おまえは小さくて記憶がほとんどないだけ。お母ちゃんも晴翔も、同じ家族や。なんも気にせんでええ。晴翔は晴翔のまま、そのままおったらええ」


 何も言い返せなかった。図星だった。父には嘘がつけないと思った。嬉しかった。僕を見ていてくれてたんだ、抱えているものもその苦しみも、すべて知っていてくれてたんだ。そう思ったら、僕は気づけば泣いていた。

 それから家族の前で繕うことをやめた。


 でも、恋人は違っていた。いくらカラダと時間を重ね合わせいても、ココロはどこかズレていた。

 好きになった相手は年齢を気にせず付き合ってきた。それがたまたま年上だっただけだった。

 僕はお互いの弱いところを補い支え合う、そんな対等な関係になりたかった。

 末っ子として育ったが、僕たちのために必死に働き育ててくれた父が家にいないときは、何かあれば男である僕が二人の姉を守ってきた。だから、小さい頃から自然と女性は男性が守るものだと思っていた。

 もちろん付き合った女性も僕が守りたいと思っていた。だが、付き合ってきた女性は年下の僕をとしてしか見ていなかった。

 守ってあげたい……守りたい……

 相手への気持ちが最初から重なっていなかったのだ。


 大好きだったからこそ、自分の気持ちに蓋をして彼女に好かれるように演じてしまっていた。だから、自分のことも次第に言えなくなっていった。もちろん雨のことも。

 関係は良好だったが、徐々に無理をしていることに気づかれ、お互い居心地が悪くなり、別れを告げられた。

 別れるときはいつも僕が振られ、去り際に同じような言葉を言われていた。


「ほんとの晴翔、見せてくれなかったね……」


 結局、好かれたい嫌われたくない、そんな不必要な想いが本当の自分を消し、嘘つきな僕は頼りない男のまま一向に変わることができず、結果今までの彼女の気持ちも変えることができなかった。

 本当に好きになってもらいたいのなら、嫌われてもいいから自分をさらけ出すべきだったと後悔する恋愛ばかりしてきた。


 そんな僕は恋愛が向いてないと思っていた。どうせまた無理に繕ってしまって、自分を隠して嫌われるだけだ……そう思ってた。

 でも、偶然出逢った彼女はそんな僕のカチコチに固まった心をほぐしていくようだった。弱い部分を隠すことなく見せてくれる姿を見ていたら、今まで無理をして自分の気持ちに蓋をし続けていたことが情けなく思えた。

 もしかしたら、彼女なら受け入れてくれるかもしれない。そんなふうに背中を押されたようだった。

 だから、話せたのかもしれない。

 彼女とは深く結んでいけそうだ。



「あっ、彼女から電話きた。ごめん!おとんまた電話するわ!じゃあ、おやすみ!」


「おい!お父ちゃんより彼女取んのか!」


「ほんまごめんな。みんなにもよろしくな!」


 僕は父との電話を切り、急いで彼女からの電話に出た。





「あっ、もしもし。風子ちゃん、家着いた?」

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