#8 お姫様にくちづけ

「おじゃましま〜す!」


 部屋に入ると彼女は探検するような初めての場所に入るドキドキとワクワクの入り混じった顔で廊下を進み、リビングで部屋を見渡した。


「男の人の部屋ってこんな感じなんですね〜!男の人の部屋ってもっと散らかってるイメージでしたけど、キレイにされてるんですね」


「そんなキレイやないで。細かいところとか掃除すんの苦手やし、すぐに散らかんの嫌やからあんま物置かんだけやで」


「へえ〜確かに物が少ないかも!でも、キレイな部屋だと女子に好印象を与えますよ!やっぱり晴翔さん、モテますよね?ほんとに彼女、いないんですか〜?遊びの人も?」


「ずいぶんと上から目線やな。てか、女子ウケ狙ってこういう部屋にしてるんとちゃうから。自分が落ち着くためや。それになあ、ほんまに今は彼女も遊び相手もおらんから!いたら風子ちゃんのわがまま聞かへんよ!」


「ほんとですか〜?怪しいな〜そういうこと言って〜朝起きたら女の人が乗り込んだりしません?」


「だからほんまにおらんて!朝、女乗り込んで来るとかただの昼ドラやん!そんなドロッドロの修羅場ないから!なあ……なんでそんな疑うん?俺やとそんなに心配なん?」


 あまりにも疑う彼女に僕が問い質すと、先ほどの上から目線から急にモジモジと目線を下に落とした。


「心配っていうか……初めて男の人と付き合うから不安で、ほんとに私なんかでいいのかなって思うんです。晴翔さんはそんなことないって思うけど、仮に私のこと遊び相手って思ってるのなら最初に言ってもらった方が割り切れるし、そしたら私は遊び相手でもいいかな〜って」


 彼女が言い終わる前に僕はたまらなくなって抱き締めた。


 遊び相手でもいいなんて……そんな言葉、嘘でも言わないでくれよ。


 無理に口角上げてぎこちなく笑って、どこか寂しそうな瞳で、少し早口になってしまったのは自信がないからなのか。

 もうそんな無理に強がらなくていいんだよ。


「そんな“私なんか”なんて言うな!風子ちゃんやから……俺は風子ちゃんがいいんや!遊び相手でもいいなんて……自分の価値、自分で下げるようなこと思ったらあかん!不安なのはわかるけど……不安になんかさせへんから、俺のこと信じてくれへんか?」


「なんでそんな……なんでそんな優しいこと言うんですか?そんなこと言われたら、晴翔さんのこと信じきっちゃいますよ。これ以上好きになったら……私、後に戻れなくなります。いいんですか?もっと晴翔さんのこと好きになっちゃいますよ?」


 そうやって僕の前では甘えてよ。別に優しくしてるつもりなんかない。君のことを想ってたら、勝手にそんな言葉が出てきただけなんだ。

 君の前だからこんなこと言ってしまうだけだよ。

 抱き締める力が少しずつ強くなってるのが、自分でもわかるんだ。それが証明してるよ。


「信じきってええよ。いくらでも好きになってよ。そんな可愛いこと言われたら、俺ももっともっと風子ちゃんのこと好きになってまうわ。風子ちゃん以上に好きになるで」


 抱き締めながら腕の中の彼女を見つめると、少し笑って僕を見上げて彼女は話した。

 その笑顔は先ほどとは違い、スッと口角が上がり、柔らかなものだった。


「私も負けないですから。私の方が晴翔さん以上に好きになっちゃいますから」


「おお、ええ度胸やな。それ以上可愛いこと言うと、後ろのソファに押し倒すで」


 冗談を言うと彼女はムッとして頬を膨らませて僕を睨み、ピタッとくっついた体を少し離した。


「もう!なんでそういうこと言っちゃうんですか!ムードが崩れる!」


「ムードて!ずいぶん古い言葉使うなあ。風子ちゃんほんまに22歳?ほんまは俺より年上なんちゃう?」


「ひどい!なにその言い方!私は正真正銘22歳です!学生証見せましょうか?ていうか、自分だっておじさんみたいにいやらしいことばっかり言うくせに!晴翔さんこそ、ほんまに30歳ですか?50ちゃいますか?」


「なんやねん、ちょいちょい関西弁真似しよるなあ。俺も正真正銘30歳や。免許証見せよか?てか、そういうこと言うてまうのは風子ちゃんのせいやで!男が喜ぶような、男心わかってるようなこと言うから悪いんや。だから俺も素直に喜んで、その気になりそうになるんやで!それ以上言うたらほんまあかんで。なあ、ここどこだかわかってる?俺の部屋やで。さっき鍵閉めたで」


 僕が彼女をじっと見つめて、離れようとする体をもう一度ピタッと引き寄せると、耳まで赤くして訴えてきた。


「もう!わかりました!でも、喜ばせるために言ってるわけじゃないです!だから……もうちょっと待ってください!その……まだ心の準備ができてないし、シャワーも浴びてないし……」


 真っ赤になりながら真面目な顔して大胆なことをまっすぐな目をして話す彼女が可笑しくてそんな健気な姿が可愛くて、僕は思わず吹き出した。


「風子ちゃんほんまおもろいなあ!!ほんまに今押し倒すと思ったん?そんなこといきなりせえへんよ!そんなん体だけの相手みたいに思ってへんから安心して」


 僕が笑いながら諭すと、彼女は自分の失態に気づき真っ赤な顔から一瞬で血の気が引いた。ただの勘違いをあまりの恥ずかしさから、僕のせいだと彼女は責任転嫁した。

 そして冷静になった顔をまた少しずつ赤くして怒りを表した。まるで噴火寸前の山ようだった。


「えっ!?……さっきからそういうこと言うから、てっきりどこのカップルもそんなすぐにするものなのかと思ってました。私ひとりで勝手にそんなこと思ってて馬鹿みたいじゃないですか!恥ずかしい……私のことからかわないでください!もうやだ!晴翔さん嫌い!離してください!」


 彼女はさらに顔を赤くして僕の腕の中で激しく抵抗した。噴火した山は捲したてるように普段より少し早口になって、感情を爆発させた。


「ごめん!風子ちゃんがムキになるのが可愛くて、ついからかいたくなって意地悪なこと言うてしもうた。だから嫌いとか言わんといて!」


「やだ!嫌い!晴翔さん嫌い!可愛いとか言っておけば、許されるとか思ってません?無理矢理可愛いとか言われても全然嬉しくないんですけど!それにあんまり意地悪されると、私だって怒りますよ!もう、この腕離してくれません?意地悪する人に抱きつかれたくないんですけど!」


 怒りが溢れている彼女にはという最強の武器でさえ、なんの意味も持たなくなってしまうことを知った。

 むしろ、こんなとき最強の武器はこちらを陥れる地雷になってしまうことも同時に知った。

 僕は素直に思ったこと言ったのに……女心がわからない。女兄弟で育っても、まったく理解できないまま生きてきてしまった。もっと姉たちを観察しておけばよかった。


「やだ!離さへん!だからな、ほんまにごめんて!無理矢理可愛いって使うてるんとちゃうよ。いまどきムキになる子とか珍しいし、子供みたいで可愛いやん!そういう意味の可愛いや。意地悪言うてしもうたのはほんまにごめん!だから嫌いって言わんといて!俺かて、あんまり嫌いて言われると傷つくわ。それに、抱きつくて……俺のこと不審者みたいな言い方せんといてよ。さらに傷つくわ」


 女心がわからない僕は自らまた地雷を踏んでしまった。


「ほら、また私のこと子供扱いしてる!余計嫌い!私、大人なんです!女の子として可愛いって思ってもらいたいのに……子供扱いじゃ嫌なんです!晴翔さんは勝手に傷つけばいいじゃないですか!私だって散々恥ずかしい思いしたんです、その分傷ついて反省してください!全然女心わかってないです!離してください!」


 彼女の言葉はすべて的を得ていた。図星だ。女心がわからないことは自分でも自覚してるけど……


 無様でも引き下がれない僕は捨て身の作戦に出た。


「嫌や、離さへん!子供みたいに可愛いなんて冗談や!女の子として可愛いって……俺は風子ちゃんのこと、ずっと女として見てるわ!ムキになんの可愛くて、からかって変なことばっか言うてたけど……冗談みたいに言うてたけど、ほんまは冗談やない。本気や。本気で思てた、押し倒したいとかそういうことしたいて。好きな人の照れる顔見たくて、ついムキになって気分悪なることばっか言うて。ごめん。ほんまにごめんなさい。だから、あんまり嫌いって言わんでよ。俺、結構傷つきやすいんやで。風子ちゃんとこうなれたのに……離したくないんよ。お願いやから、もう少しだけこのままでいさせて」


 地雷を踏んだり、女心もわからないままだけど、引き下がりたくない僕は馬鹿正直に自分の気持ちを全部ぶつけた。

 隠しておきたい下心も白状する僕は、激しく銃弾が飛び交う戦場に何もつけず裸で向かうくらい情けなかった。きっと今の僕はとってもかっこ悪い顔になって弱々しい声になっていただろう。

 それでも、彼女には嘘をつきたくなかった。


 何度も離れようとする体をもう離れられないように背中に回す腕に力が入る。


「そんな悲しそうな声で言わないでください。私も晴翔さんのことからかって、嫌いとか言ってごめんなさい。嫌いなんて冗談です、好きに決まってるじゃないですか。ほんとは離してほしくないです。このままがいいです。でもね、押し倒したいって本気で言われると……困ります」


 すべてさらけ出したら、ついに彼女の噴火が収まった。

 捨て身の作戦の甲斐もあって、彼女もしおらしくなり、自分の気持ちをさらけ出してくれた。僕の前では心も裸になってほしいな。

 僕の気持ちに応えるように素直に照れられると、男として好きな子を困らせたくなるスイッチが自然と入ってしまう。


 頭を撫でながら僕は彼女の耳元で秘密の話をするように意地悪なことを囁いた。


「もっと困ってよ。俺は本気やから。男が好きな子とそうなりたいって思うのは自然なことなんやで。今すぐやなくて、ゆっくりでええから、いろんな風子ちゃん知っていきたいな。なあ、ええやろ?そういうこと思てまう俺を嫌いにならんでよ」


「嫌いなんかなりませんよ……むしろ嬉しいです、私のこと女として見てくれてるんだって。女の子だって好きな人といつかそうなりたいって自然と思うものですよ。私もいろんな晴翔さん知りたいです……私だけに見せる顔もあったらいいなあ」


 彼女の心を一枚、また一枚と脱がせていくように、僕は耳元で意地悪を続けた。スイッチが入ると止まることなく加速する一方になってしまうから、僕としても困りものだ。


「今してる顔、風子ちゃんだけにしかせえへんで。ほんまに好きで、どうしようもないくらい抱きたい女にしかせえへん顔やで。風子ちゃんとは心も体も繋がりたいんや。俺、どんどん風子ちゃんが欲しなってる。なあ、照れてる顔もっと見せてよ。好きな子が恥ずかしがんのたまらんわ」


 ブレーキを忘れた僕はただのケダモノように彼女に意地悪を畳み掛ける。そうやって愛しいウサギをどんどん罠へと追い込んでいく。


「そういうこと言わないでください。私どうしたらいいか……わかんなくなっちゃうじゃないですか。もう晴翔さんの顔、見れませんよ」


 ダメだよ。そんなこと言ってしまったら、僕の思う壺なのに……


「じゃあ、顔見なくてええようにしたるわ」


 愛しいウサギはケダモノの仕掛けた罠にまんまと引っ掛かった。


 そして、僕は顔を真っ赤にして俯く彼女の顎にそっと手を添えクイっと上げて、唇を塞いだ。

 僕より背の低い彼女に口づけを落とした。

 唇を重ねたまますぐ後ろのソファへと足を向けていく。彼女の体を支えながらソファに背中をもたれ掛かると、酔って少しおぼつかない足元がよろけた彼女は僕に倒れ込み、僕たちは背もたれを滑るように落ちて彼女の後頭部は肘掛けが受け止め、僕の体は彼女が受け止めた。

 気づけば僕は彼女に覆い被さっていた。

 重力で僕たちの体がぴたっと重なり驚いた彼女が何か言いそうになった瞬間、僕は咄嗟に彼女の唇を再び塞いだ。

 よろけて転んだだけなのに、好きな子の上に乗ってしまうとどうしても抑えられなくなってしまうようだ。


 いつもの僕なら心配して「大丈夫?」の一言くらい掛けるのに……まったく本能というやつには逆らえないものだ。


 ぶらぶらと落ち着かない足元はいつの間にか絡まり、二人の体温は上がり、お互いの心臓が早くなっていく。鼓動がリズムのように僕らを囃し立て、重なったまま何度もキスをした。

 キスの仕方もわからない彼女に教え込むように、くちづけを交わしていく。

 吐息を聞くたび、求めたくなる気持ちが強くなる。もっと彼女が欲しい。

 抑えられない僕は唇を離して乱れた呼吸のまま提案した。


「もっと……キスしてええ?」


「もっとって……どういうこと?」


「もっとって……深いやつ」


「いいけど……どうしたらいい?」


「ちょっと口開けて?」


「こうかな?……」


 そう言って顔を赤く染めながら少し口を開いた彼女の唇に重ねると、ゆっくりと舌を絡めた。

 はじめは体をビクッとさせたが、僕が頭を撫でると安心したようで少しずつ受け入れていった。

 おぼつかないキスが初々しくて愛おしかった。彼女の緊張やそれが消えていく様が、握る手の感触や絡み合う体温から鮮明に伝わってくる。それが嬉しかった。

 お互いの呼吸が徐々に荒くなっていく。

 二人の呼吸とくちづけの音だけが響くこの空間が僕を惑わせていく。自然とそこに意識が集中していくように、敏感な部分が熱を帯びていくのが自分でもわかる。こんなに熱いと彼女にはもう気づかれてしまっているかもしれない。


 このまま彼女を……


 ケダモノから悪魔になった僕の本能が問いかけてくる。

 僕と彼女はお互いの気持ちに知ったんだ。好き同士。だからそうなっていい。何も問題ない。今すぐ君と重なり合いたい。


 だけど……今、そうなってしまったらお酒の力を借りてるようで情けない。裸で戦場に向かうより情けなくてかっこ悪くて醜い。男らしくない。それだけは嫌だ。


 それに彼女はだ。

 初めてがたっぷり飲んでベロベロになったときだなんて……きっと最悪だ。

 どうでもいい相手ならこんな状況でも気兼ねなくできるだろう。

 きっと人生の中のどうでもいい一回だから。

 でも、彼女にとっては間違いなく記憶に残るであろうになる。

 そして僕にとっても彼女との大事なになる。

 今の僕は、正直優しくできる自信がない。酔いも加わって欲望が何倍にも増した醜いケダモノの僕は、か弱いウサギの彼女がただただ欲しくなっている。

 愛し合いたいより欲しいと思う気持ちが明らかに強い気がする……

 彼女が欲しくて抱きたいと思うのと、彼女が好きで愛し合いたいと思うのでは、似ているようでまったく意味が違う。

 体で求めるのと心で求めるのでは、後者として彼女とは向き合いたい。

 女の子の初めては男の捨てたくてしょうがない初めてとは違う。

 こんな僕を初めての相手に選んでくれただけで嬉しいんだ。だから、そんな彼女の気持ちにちゃんと向き合いたい。今日はキスだけにしよう。

 これからゆっくりお互いを知っていけばいいんだ。焦らなくていいんだ。

 これから彼女をじっくり味わっていきたいし、僕のこともゆっくり味わってほしい。


 二人だけの時間が大切な思い出になるように。


 キスしながらそんな葛藤を繰り広げていると、苦しくなって僕の背中をパタパタと叩いているのに気づき唇を離して、重なった体を起こしてソファの背もたれに寄りかかった。

 彼女の呼吸は激しく乱れていた。その顔はあどけない少女ような笑顔ではなく、頬は夕焼けみたいに赤く染まり唇は艶っぽく桜色に色づきトロンと潤んだ瞳で、すっかり女の顔になっていた。


 僕も呼吸を整えながら彼女の背中を撫でる。


「ごめん……止められんくて」


「大丈夫……です。私も……慣れなくて」


「全然ええよ。今日はこのへんにしよ……もう疲れたやろ」


「えっ?……しないの?」


「えっ?……何するつもりやったん?」


「わかってるくせにわざと言わせないでください」


「ごめんごめん、怒らんといて!俺らずいぶん酔うてるし、こんな日にしたら酒の勢い借りたみたいでなんか嫌やし、なにより……風子ちゃんのこと大事にしたいし」


「やっぱり優しいんですね。ありがとう、晴翔さん」


 そう言って微笑んだ彼女は僕の頬にキスした。


「おお!そんな可愛いことしたら、また覆い被さってまうからやめて。俺の体、正直やから簡単にその気になるで」


「変態!もう何でそういうこと言うのかな」


「だから風子ちゃんの照れてる顔がたまらん言うたやろ。俺がムード出すのはそういうときにならんと出さへんで」


「もう!私の言い方真似してる!またそうやってからかって!」


「ごめんって!そういえば風子ちゃん、あんな飲んだのに全然水飲んでへんやろ。大丈夫?水持って来よか?」


「はい、お願いします」


 冷蔵庫からペットボトルを取り出し、食器棚からコップを二つ取り出し、テーブルへと運んだ。

 コップに水を注ぎ彼女に渡すと、ずいぶんと喉が渇いていたようで、ゴクゴクと一気に飲み干した。相変わらず飲みっぷりがいい。

 そんな彼女を眺めながら、僕も少しずつ水を流し込んでいく。

 愛し合った後は余計に喉が乾く。


「ずいぶん喉渇いてたんやな……もっと早く水出してたらよかったなあ。ごめんな、そんなん知らんとキスばっかしよって」


「大丈夫です。私も好きでしてたから……喉渇いてたの忘れてました」


「好きでしてたとか、また嬉しいこと言うなあ。ゆっくり水飲んでちょっと落ち着くまで俺の肩借りててええで。すぐお風呂入ったら危ないやろ」


「ありがとうございます……少しだけこうしてます」


 そう言って彼女は僕の肩を借り目を閉じた。

 頭を撫でながら彼女の寝顔を眺めた。こんなふうに寄り添ってるだけの時間は静かだけど、なんだか幸せな気分になる。

 静かな夜、僕の隣には愛しい眠り姫がいる。

 この時間、心地良くてとっても落ち着く。ずっとこうしていたいくらい……


 でも……僕の本能は落ち着いてくれてないようだ。

 太ももの間が熱い。心地良くない感覚……もういい加減、落ち着いてくれ。


 少しして肩を静かに外して彼女をソファに寝かせ、ブランケットを掛けた。

 今は少しだけでも寝て、酔いが落ち着いたらシャワーを貸して、僕のベッドに寝かせればいい。今夜くらい僕はソファで構わない。


 彼女が寝ている間にスーツから部屋着へとすばやく着替えて、バスルームへと向かった。

 一度目覚めてしまったものは、なかなか言うことを聞かず、熱いまま痛いくらいの存在感を出しているのが服越しでもわかった。

 彼女が今この部屋にいなかったら、きっとこんなにならないはず。彼女が手の届く距離にいるんだと思うと……

 すべて脱ぐと、案の定簡単に静まってくれる状況じゃなかった。


 おい、どんだけ正直やねん……簡単に興奮すんな、アホ。


 シャワーを勢いよく出して、静かに自分の欲を排水溝へと吐き出した。

 同じ空間にいるのに、こんなことして、ごめん……

 男とはわかりやすくできているものだから、こんなときはとても辛い。でも、こうでもしないと抑えられなかった。

 ここまでして彼女とは心から結ばれたかった。

 本能でお互いを求め合うのもいいけれど、

 彼女とは心から繋がってからそういう関係になりたかった。


 疲労と酔いの残る体に、シャワーの温かさは程よい睡魔誘った。

 睡魔と戦いながら一通り洗い終え、僕はバスルームを出た。

 タオルで髪の毛をわさわさと拭きながら、ドアを開ける。

 リビングに目を向けると、彼女はすやすやとソファで寝ていた。

 バスルームのことを思い出して、恥ずかしさと申し訳なさでなんとなく直視できなかった。


「ごめんな……風子ちゃん」


 気づけば僕の口から心の声が漏れていた。


「うう……あれ?私寝てましたか?」


 彼女は重く閉じられた瞼をゆっくり開き、気怠そうな声で僕に聞いた。


「あ、ああ!寝てたで!気持ち良さそうに眠っとったから寝かしといてわ」


「すいません。気を遣わせてしまって。それにブランケットまで掛けてくれて……」


「ええって。少し落ち着かんとお風呂入られへんやろ。ウチ泊まるんやから、今日はゆっくりしてや」


「ほんとすいません!そういえば晴翔さん……何でさっき謝ってたんですか?聞き違いじゃなければ確か、ごめんな風子ちゃんって……」


「えっ?いや、俺そんなこと言ってへんで!風子ちゃん寝ぼけてるんとちゃうか?」


「寝ぼけてないです!確かに聞こえました。晴翔さんの声で……」


「聞き違いやって!風子ちゃん、俺のこと好きなのはわかるけど、さっそく夢にまで出さんでええのに!俺はここにおるで」


 食い気味で慌てて否定して、冗談で誤魔化そうとすると、反論してきた。


「夢じゃないです!寂しそうな声でした……そんな声聞こえたら心配で目が覚めたら、そしたら晴翔さんがいて……」


 やっぱり聞かれていたようだ。聞かれてしまったらしょうがない。言葉の真意を知られたくなくて、僕は無理矢理誤魔化した。


「ああ!思い出した!風子ちゃん、ずいぶん飲んでたやろ。あんな飲んで具合でも悪なってしまったらどうしようて心配になってな……俺がちゃんと止められてたらよかったのになあって……そう思ってたら、ひとりごとになってたんやろなあ」


 僕の熱演が伝わったらしく、彼女はすんなり受け入れた。


「そうだったんですね。むしろ私が謝ることです。ごめんなさい、心配掛けてしまって」


「いや、全然ええよ」


 ごめんね、しょうもない事実を隠して演技なんかして。


 ほんの少しの罪悪感から僕は謝罪の意味も込めて、ソファに座る彼女を後ろから抱き締めた。抱き締めると、彼女は大きく深呼吸した。


「ふぅーーー。晴翔さんいい匂い。何で誰かのお風呂上がりの匂いって、こんないい匂いに感じるんですかね?」


「何でやろ?俺、そんなええ匂いする?」


「すごくいい匂いです。それにさっきよりも体がぽかぽか温かい……温かくて気持ちいいです」


「ほんまに?そんならこうしたら?」


 僕は彼女をさっきよりぎゅっと強く抱き締めた。


「すっごく気持ちいいです。人の体温ってこんなに温かいんですね」


「そんなに気持ちいい?じゃあ、俺ともっと気持ちいいことする?」


「もう!またそういうこと言う!何で雰囲気ぶち壊すこと言うんですか!せっかくいい雰囲気だったのに……」


「だって、いい雰囲気のままやったらほんまにそういう雰囲気になってくるやろ。それやとあかんやろ。それに……なんか照れるやん!わざとぶち壊したくなるわ!」


「優しい……そんなこと言われたら私の方がもっと照れます!」


「ほんまに?じゃあ、もっと照れさせることしよか?」


「もう!ほらまたぶち壊す!もうやだ!変態といたくないからお風呂入ります!」


「そんな言い方せんといてよ!ちょっと今、タオル出すから待ってて」


 僕の腕から彼女を解放して寝室へと向かい、クローゼットの衣装ケースを開けながら、ふと疑問が浮かんだ。

 バスタオルを取り出し、リビングのソファにいる彼女に渡しながら僕は聞いてみた。


「そういえば風子ちゃん、メイク落としとかあんの?歯ブラシとか、女の子のもん以外はウチにもあるけど、コンビニ寄らんかったけど大丈夫?」


「あっ……そうだった。どうしよう」


 彼女は一瞬で顔色変えて頭を抱えた。


「そんなら夜遅いし、俺買いに行こか?どんなのええかわからんから、コンビニ着いたら風子ちゃんに電話でもして聞けばええやろ」


「そんな悪いです!だったら私も一緒に行きます!」


「ええの?じゃあ、一緒に行こか。まだ髪乾いてへんからドライヤーしてからでもええ?」


「もちろん!全然待ちます!」


 僕がドライヤーで髪の毛を乾かしていると、彼女はカバンの中をガサゴソと探りながら何が必要か確かめていると、なにか思い出したように突然大きな声を出した。


「あっ!そういえば、今日友達にサンプル貰ったんだった!もしかしたら、コンビニ行かなくていいかもしれませんよ」


「そうなん。何貰ったの?」


 彼女は友達から貰ったという可愛いらしいピンクの水玉模様の小さな紙袋を開けて、中の物をひとつずつ取り出し始めた。


「あああ!!化粧水も、乳液も、メイク落としも、全部揃ってる!しかも欲しかったやつだし、わざわざ二つずつ入ってる!なんていい子なんだ、美香ちゃん!!」


「よかったなあ!これでコンビニ行かんでもええな」


「はい!ご迷惑お掛けしました!美香ちゃんに感謝です!こんな可愛い袋にまで入れてくれて……あれ、まだなんか入ってる?……うん?これなんだろ?」


 彼女が嬉しそうに紙袋を眺めていると、何かまだ入ってるのに気づき、再び中に手を入れて、不思議そうな顔して最後に取り出した物を見て、僕は思わずドライヤーを止めた。


「それ……あれやろ」


 彼女が不思議そうにひらひらと天にかざすように取り出した二つの平べったい包みは、真ん中のあたりにキレイな丸いシルエットが浮き出ただった。

 僕は何度もお世話になっているから、すぐに気づいた。


「あれってなんですか?初めて見たんですけど、飴ですか?それにしても柔らかいし〜?グミかな〜?ねえ晴翔さん、ヒント教えてください!」


 彼女はカサカサと降ったり、指でつまんでみたり、物珍しそうに包みを触る。


 おいおい、とんでもないクイズ出しよったで……いくらなんでも見たことないはありえへんし、さすがに存在事態知らないはないやろ。たぶん忘れてるだけなんやと思うけど、そんなもん男に堂々と見せたらあかんて……


「ほんまに知らんの?見たことないの?」


「見たことないです!開けて確認した方がいいですか?」


 しまいには僕の目の前に見せて、渡そうとしてきた。

 女の子が見せびらかすように堂々とを持っている姿を見てると、なんだかこちらが恥ずかしくなってきた。彼女がその存在に気づいてないことも合わさって、自分でも顔のあたりが熱くなってくるのがわかるくらいだった。

 を渡してきた手をそっと彼女の方に押し返して、僕はほぼ答えのような大ヒントを教えた。


「開けんでええ!開けんでええから、だからその……それは……そういうことするときに使うやつやで」


「そういうことって?えっ、だからなん……あっ。あっ、いや!違うんです!ごめんなさい!変な物出してごめんなさい!!」


 彼女は話してる途中でようやく気づき激しく動揺した。必死に隠そうと手をバタバタさせて、動揺が伝染したようにぷるぷると手元を震わせながら、水玉模様の紙袋をガサッと雑に開けて袋の奥底まで手を突っ込んで、袋の口を締めずにそのままソファの背もたれと自分の背中の間に隠すように紙袋を挟んだ。

 その顔は真っ赤になっていて、恥ずかしさから首が折れてしまうんじゃないかと思うくらい俯いていた。


「謝らんでよ。友達も心配してくれて入れてくれたんやな。優しいやん、風子ちゃんの友達!」


「ご、ごめんなさい。怒っちゃいましたよね。その……晴翔さんをそんな悪い男だなんて思ったわけじゃなくて、私が恋愛経験ゼロって知ってるから……」


 自分の失態に気づき、穴があったら入りたいと思っているかのような消えてしまいそうな声で話す彼女を見ていて居た堪れなくて、話し終わる前に僕は割って入り話した。


「だから、もしものときのお守りみたいに持っててって、心配してくれたんやろな。風子ちゃんの友達やからきっとそうなんやろなって思ったわ!俺は怒ってないから全然気にせんでええよ。それに……そのうち使うものやろ?どっちにしろ持ってた方がええやん」


「そっ、そうですね……」


「一応俺も……もしものために持ってるから心配せんでもええよ。そんなもんないのに無理矢理しよる男とちゃうから安心してな。そのお守り、俺預かっとこか?」


「は、はい……お、おっ、お願いします!」


 彼女はソファと背中の間に挟み少しくしゃっとした紙袋を片手で引っ張り出し、紙袋ごと表彰状を授与するみたいに両手で持って手渡した。

 その手元はまだ少し震えていた。

 僕は彼女の両手をそっと包むように握った。


「わかった、大事に預かっとくな。でも、まさかそういうのがプレゼントに出てくるとは思わんかったなあ。俺も正直びっくりしたわ!びっくりしてドライヤー止めてもうたから、まだ髪の毛湿ってるわ!寒いから乾かしてもいい?」


「あっ、どうぞ!わっ、私はシャワー浴びてきます!晴翔さんはどうぞ、先に寝ててください!私は雑魚寝でも平気なんで!」


 彼女はそう言ってバスルームへと逃げるように消えていった。


「俺まだやることあって起きてるから、ゆっくり入ってきてええよ!あと、洗面台の棚の一番上のところに歯ブラシあるから使ってええから!」


 バスルームの彼女へと声掛けると、僕はまたドライヤーで髪を乾かし始めた。


 ドライヤーの温風を受けながら先ほどの彼女の顔を思い出した。

 を手に取って見たことがない人は、きっとあの反応が正しいんだろうな。

 知識として写真や映像で見ていても、実際に手に取ると思ったより普通で可愛らしいキャンディのような包み。

 それに彼女はずいぶん酔って先ほどまで寝ていた。眠気まなこで頭がボーッと冴えていない状態だ。それで初対面の物に遭遇すると、見たことある物でも手に取るのが初めてならそうなるんだろう。

 僕はなんだかホッとした。先ほどの件で、彼女が正真正銘なのが判明したからだ。疑っていたわけではないが、彼女ような小柄で可愛らしい女の子に浮いた話が全くないなんて嘘だろ?性格だって難があるように見えない。だからどうして?……そう思ってた。きっと彼女はたまたま出逢いがなかったんだろう。



 ほんまに初めてなんやな。恥ずかしくて真っ赤になる顔も、俺が気悪くしたと思って申し訳なくて声がちっちゃくなるのも、気まずくてバスタオル持って逃げていくところも、それでちゃんとわかった。

 こんなまっすぐな子、俺が大事にせなあかんな。



 ドライヤーを止め、ベッドをきれいに整え、見られたくないものをクローゼットの奥に隠し、寝室は準備完了。

 リビングに戻りテレビを点けて、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出しコップに注ぎ、お茶を冷蔵庫に戻し、リビングのソファに腰を降ろした。


 思えば今日は長い一日だった。

 朝からネクタイ選びに悩み、お昼もランチしながらお店選びに悩み、夜は彼女の酔っぱらい具合に悩み……悩んでばかりの一日だった。


 そして、そんなつもりないのに連れて帰って来てしまった。

 世間的に言うとしてしまったわけだ。僕らしくない行動に今でも少し戸惑った。


 

 ぼんやりとテレビを眺めているが、彼女が浴びるシャワーの音が聞こえる……妙に響いて聞こえる。


 水が流れ落ちる音……


 キュッと、シャワーを止める音……


 ガタンと、シャワーヘッドをスタンドに戻す音……


 好きな子の出す音だと思うと、なんだか妙に色っぽい。


 ひと息つきたくてお茶を持って来たのに、この響く音に妙に緊張してしまい、ゴクゴクとあっという間に一杯飲み干してしまった。



 なに緊張しとんねん。別にそんな気ないのに……いや、今夜は別々やで。風子ちゃんも疲れてるし、女の子ソファに寝かして俺がベッドでぐっすりは男としてあかんやろ。

 だからと言って一緒に寝るわけにはいかんし。まず俺が落ち着かん!寝れへん!一睡もでけへんわ!間違って手出してしもうたらどうすんねん!あんなに我慢したのに……ここで負けたら男が廃るわ!



 疲れて眠いはずなのになんだかソワソワ落ち着かず、テレビを見ても、雑誌を読んでも、スマホをいじっても、全部頭に入らず、ただただシャワーの音が強調された時間が過ぎていった。

 気づけば時計は2:30を回っていた。

 そしてついにバスルームから音が聞こえなくなった。ドアをバタンと開け閉めする音がした。

 その直後、洗面台のあたりから彼女の声がした。


「晴翔さん!大変なことに気づきました!」


「えっ?どないしたん?」


 僕は何事かと、早足でドアの前へと向かった。


「パジャマを……貸してください」


「あっ!ごめん!男物のパジャマしかないけど、いい?」


「はい!お願いします!」


 僕は急いでクローゼットから寝間着を取り出し彼女の元へと向かった。

 そして同じく僕も今、大変なことに気づいた。

 彼女は今お風呂上がり。着ていた服と下着とバスタオルしか持っていない。

 えっ……どうやって渡したらいいんだ。

 ドア越しの彼女に聞いてみた。


「風子ちゃん……俺も大変なことに気づいた」


「えっ?どうしたんですか?」


「寝間着、どう渡せばいい?」


「あっ……ちょっと待ってください!」


 そう言うと中からバタバタと音がして、ガチャっと扉が開いた。

 そこには髪の毛が少し濡れてバスタオルを胸元まで巻いてニッコリ笑う彼女がいた。


「こうすれば大丈夫。晴翔さん、ありがとうございます!お借りしますね」


 そう言って寝間着を手に取ると、またすぐに扉は閉まった。

 う〜ん……まったくもって大丈夫じゃない。


 おい、なにさりげなく色っぽい格好見せとんねん!バスタオル巻いてるとか……その下、どうなっとんねん!普通は目瞑っててくださいとか言うてサッと手だけ出して取るとか……もっと安全で、本当に大丈夫なやり方あったやろ。そんなん大丈夫な部類に入らへんで。

 なあ、簡単に男にそんな格好見せたらあかんって……風子ちゃん、ちょっとは俺に警戒心持ってよ。いくら我慢してキスまでって言い聞かせても、そんなん見せられたらあかんわ。ほんま心臓持たんわ。



「おっ、おお!こんなんで良ければ使って!」


 そう言うと僕はすぐさま寝室の中に避難した。そして、ズボンとボクサーパンツのゴムをギュッと掴み前に引っ張り状況確認した。

 そこには目覚めず大人しい彼がいた。ギリギリセーフ。危うく先ほどの苦労が水の泡になるところだった。

 安堵から掴んだゴムを離して、お腹のあたりをパンと音が鳴った。

 一呼吸置いて冷静を装いリビングのソファに戻ると、ガチャっと扉が開き彼女が出て来た。


「ご迷惑お掛けしました!おかげさまで、ピンチは乗り越えました!」


 俺は君のせいのでピンチやったけどな。危うくほんまに君がピンチに追い込まれるところやったで。自分でピンチ招いてどうすんねん。なに呑気にニコニコ笑っとんねん!


「おお!それより、ほれ、ドライヤー使い。早よ乾かさんと風邪引くで」


「はい、お借りします!」


 バスタオルを首にかけて頭をクシャクシャと乾かしながら、僕の隣に座り彼女はテーブルに置いておいたドライヤーを手に取り使い始めた。

 温風に乗ってシャンプーの華やかな香りが鼻をくすぐる。この感覚が心地良くて、温風を当てながらぽわーっとぼんやりする横顔も合わさって、胸がキュンと痛くなった。

 男物の寝間着は小柄な彼女には少し大きいようでぶかぶかで、袖口が長く指先が第二関節まで隠れていた。

 それに今の彼女はすっぴんだ。綺麗にチークやリップが色づきマスカラで目もパッチリさせてるメイクされてる顔も女を感じる一部として好きだが、好きな子に関してはすっぴんの方が見てみたいと思うものだ。

 人によってはすっぴんで別人になってしまうこともあるが、彼女はほとんど変わらなかった。強いて言うなら少しだけ幼さが増したくらいで、正直僕はこっちの方が好きだ。

 僕がこのすっぴんを男として初めて見ていると思うと、視覚的にも彼女を今独占している気持ちになってたまらなく愛おしくなった。

 彼女にとっての彼氏第一号が僕だなんて嬉しい称号だ。


「なあ、ものすごく眠そうな顔してるけど大丈夫?髪乾かせるか?」


「それくらい大丈夫です」


 そう言いながら彼女の瞼は降りていく。さっきから同じところばかり乾かしている。


「なあ、大丈夫?そんなに眠いなら俺乾かすで」


「だから、だいじょ〜ぶ……です」


 ドライヤーを持ったまま頭をガクンと落とし、危うくドライヤーに頭をぶつけるところだった。

 再び頭を上げるが目はほぼ開いてなく、ついにドライヤーを持つ手もぐらぐらと揺れ出した。

 危なっかしくて見ていられなくなった僕は、ドライヤーを掴み彼女の首を支えながら髪の毛を乾かした。

 力なくだらんと動く赤ちゃんのような首をそっと支えながら、彼女のサラサラとした髪を丁寧に乾かしていく。

 乾かし終わると、彼女は僕の腕の中ですやすやと眠りについていた。

 ドライヤーをテーブルに置き、彼女の頭を撫でた。


 嬉しいことも楽しいことも腹立つことも悲しいことも、曇りのない空みたいにまっすぐで感情表現が豊かで少女のような顔を見せたり、

 抱き締めあって髪を撫でたときの顔も、キスした後の吐息混じりの唇も、嬉しいと春の桜のように染まる頬も、夕暮れの海のような潤んだ瞳も、ときどき大人の顔になったり。


 僕はすっかりいろんな顔を見せる彼女の虜になっていた。


 これからたくさんいろんな顔を見せてよ。こんなふうに君の隣で見ていたいんだ。出逢ってわずかでこんなにピタッと落ち着く君と僕は、きっとなにかでずっと結ばれていて、重力みたいに引き寄せられたんだろうな。

 なんとなくだけど、君とは長い間一緒にいられそうな予感。

 君が曇りのない空を自由に飛んでいられるように、僕がこの空を守るよ。


「ほんま子どもみたいやなあ、風子ちゃん」


 僕は彼女をお姫様抱っこして寝室に連れて行き、ベッドに寝かせた。

 彼女の頬を撫でながら寝顔を眺めた。


「お姫様抱っこ好きやなあ。まあ、眠り姫やからしょうがないか。ゆっくり眠ってな。おやすみ、僕のお姫様」


 柔らかな髪を撫で、眠り姫におやすみのキスした。


 そしてゆっくりと寝室のドア閉め、僕もソファでひとり、眠りについた。

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