#7 重なり合う夜

「おっ……おう!」


 やっぱりスカートの女の子にはいくつになってもドキッとするものだ。

 先ほどのバイトの制服と私服ではがらりと雰囲気が変わり、僕はまたしてもドキッとした。


「せっかくだからおしゃれしてきたんですけど……気合入りすぎちゃいましたかね?」


 デニムのジャケットに襟元にビジューのついた白のトップスに膝丈のスカートにショートブーツ。

 僕のために頑張っておしゃれしてきたのがわかる。

 少し緊張してるのか彼女はハンドバッグをおへそのあたりでギュッと両手で持ち、直立不動になっていた。

 そんな姿がたまらなく愛らしかった。


「ええよ!すごく似合ってる!この間、スカート履いてへんかったからなんか今日は雰囲気違くてええな」


「そ、そうですか!?よかった!」


 安心したのか、ふにゃっと柔らかく笑った。


「そういえば、今日のネクタイ素敵ですね。晴翔さんも……おしゃれしてきてくれたんですか?」


「よくわかったなあ!俺もせっかくやからおしゃれしてきたんや。って言っても、ネクタイだけやけどな」


「わかりますよ!なんとなくだけど……そういうのわかります!」


 この間と同じように装ってきたのに、ネクタイだけじゃなく僕の心の変化もしっかり読まれていたようだ。


「そろそろお店行こか?」


「はい!よろしくお願いします」



 カフェを出て、僕たちは二人並んでお店へと向かった。

 この状況が照れくさくて中学生の初デートみたいにそわそわして、狭い歩道を並んで歩くと余計に距離が近くて手が触れそうで、意識し始めた相手とこんなに近いとなんだか目をちゃんと合わせられなかった。



 お店に着くと、夕方なのもあってまだお客さんが一人もいなかった。

 客は僕たちだけ。席に着くと余計に緊張した。


「なんか……向かい合わせで座るのも緊張しますね。ほら、この間は隣り合わせで座ったし!あのときは妙に落ち着く感じがして緊張しなかったんですよね」


「俺も!風子ちゃんが隣におったのに全然緊張せえへんかったし、落ち着くっていうかなんかしっくりきたなあ」


「なんか不思議ですね、私たち。隣に座った方が落ち着くだなんて」


「まだ会って2回目やのになあ。もしできそうなら席変えてもらおうか?カウンターとかどう?」


「いいですね!そうしましょう!」


 店員さんを呼ぶと空いてるのもあって、すぐにカウンター席に変えてくれた。


 そして、料理を注文して先にワインがきた。

 二人ともグラスを持って乾杯のあいさつを始めた。


「あの、改めましてこの間はありがとうございました」


「ええよ。こういうときってやっぱ“お疲れさま”かな?それとも“乾杯”にしといた方がええかな?」


「う〜ん、二人とも今日働いてたし……お疲れさまにしましょうか!」


「せやな!それではお疲れさまです!」


「お疲れさまです!」


 カチャン……


 グラスを軽く重ねて乾杯した。



 彼女は美味しそうにワインを飲んでいく。ゴクゴク……ゴクゴクと……

 あれ、ペース早くないか?

 さっき乾杯したばかりなのに、もうなくなりそう。

 せっかくだからボトルで頼んだが、どんどん透明になっていく。

 本当にジュースと思ってるんじゃないか、心配になってきた。


「風子ちゃん、ちょっとペース早ない?大丈夫?これジュースちゃうで」


 冗談交じりで僕が笑って聞くと、彼女は真面目な顔をして答えた。


「大丈夫です!私、お酒好きなので全然平気です!」


「それやったら結構強い方なんや」


「いや、強いのかな?とりあえずある程度飲めます!自分でもここまで飲んだらいけないとか、配分わかってるので全然大丈夫です!」


 ほんとに大丈夫なのかな……

 自分で強いってわかってる人ならさらりと断言できるはずなのに。

 本当にペースわかってるのならいいのだが……

 楽しそうに飲んでいる彼女に水を差すようで、僕はそれ以上強く言えなかった。


「そうなんや……ほんならええけど、まだ夕方やしゆっくり楽しもうな」


「はい!ゆっくりいろいろお話ししましょうね」


 美味しそうに食べる、美味しそうに飲む、本当に食べるのが好きなんだな。


 メッセージのやりとりの続きみたいに僕の仕事のこと、彼女の大学のこと、お互いの趣味や休みの日のこととか、他愛ない話が尽きることなく続いた。



「へえ、晴翔さん運動されるんですね!確かにそんな感じがしますね!」


「ほんまに思ってる?適当に言ってへんか?」


「ほんとに思ってますよ!だって、助けてもらったときに私を支えてくれた腕の力に安心感がありましたし、なんていうか鍛えてないとあんなふうになりませんよ」


「いやいや、俺も男やから女の子一人くらい支えられるわ!それに風子ちゃん小柄やしめっちゃ痩せてるやん。たぶんお姫様抱っこも余裕やで」


「痩せてないですよ!着痩せしてるだけですよ!お腹とかすぐブヨブヨするし、足もすぐ太くなるし、きっとお姫様抱っこしたら思ってたより重っ!ってなりますよ……いろいろ残念な女です」


 体型のことになると、彼女は胸やお腹を触りながら自信無さげに萎れていった。


 こんなことくらいでそんなシュンとすんなよ。

 好きやったらそんなんどうでもよくなるんやで。

 どうしたらまた笑ってくれるん?



「そんな自虐的なこと言うたらあかん!痩せた女だけがええとは限らんし、女の子はちょっとぷにっとしてても可愛いで。柔らかくて抱き心地ええし、好きな子やったら俺は体型気にせえへんけどなあ。そんなら試しに後でお姫様抱っこしてみる?」


 彼女を励ましたくて、僕が女性の良さを今までの経験を踏まえて熱く語るとその想いとは裏腹に彼女は不機嫌そうな顔になっていた。


「ふーん、そうなんですね。お姫様抱っこねえ……私は柔らかくて抱き心地ええ女じゃないからお断りしておきます!」


「いやいや、客観的な意見やで!俺の体験談やなくて世間一般の男の意見やで!」


 どうやら僕はとんでもない爆弾を落としてしまったようだ。

 世の中の男を代表して言ったつもりが、まるっきり僕の経験談として伝わってしまった。


「絶対ウソ!感触を思い出すような顔しながら話してたじゃないですか!“柔らかくて抱き心地ええし”って!」


 彼女は両手でなにかを揉んでいるような手つきをしながら僕の話し方を真似して怒っていた。


 俺そんなアホみたいな顔してモミモミ手動かしてへんのになあ……

 そんなんしてたら、完全に変態やないか。

 それになんでその言葉ばっか注目すんねん。俺、すっごく大事なこと言ってたで。遠回しやけど……


「そんな顔してへんよ!感触まで思い出してたらただの変態やないか!」


「変態の顔してました!いやらしいこと考えてる顔してました!」


「いやらしいこと考えてへん!抱き心地ええっていうのはハグしたときも思うで。ギュッと抱き締めたときに女の子って柔らかくてええなあって思うし」


「ほら!思い出してるじゃないですか!ハグの話でもいやらしい顔してますよ」


 何度反論して彼女の怒りは収まらず、ますますムキになっていた。

 なんでそんなに怒るんだ……

 あれ?これってもしかして嫉妬?

 さっきから何を言っても突っかかってくるし。


「なんや、風子ちゃん嫉妬してんの?俺、別に過去の付き合ってた子のこと話してるわけやないのに、ずいぶん突っかかってくるし」


「嫉妬なんかしてませんよ!そもそも晴翔さんが紛らわしい言い方するから悪いんですよ!だから付き合ってきた人の話をしているように聞こえただけで……なんか勘違いしてしまってすいません」


 僕が問い詰めると図星だったのか、彼女は一瞬ムキになったが、観念したのか話しているうちに先ほどまでの勢いはどんどんなくなっていった。


「俺は風子ちゃんのことしか考えてへんで。風子ちゃんと話してるのに過去の女の子のこと思い出したりせえへんよ」


 ウソをついた。彼女のことだけ想ってるのは間違いないけれど、

 さっきは一瞬だけ元カノたちのことを思い出してしまった。

 でもそれはあくまで比較対象としてのこと。深い意味はない。



「晴翔さん、モテるでしょ?こんな優しいこと言うとかひどいです。私が勝手に勘違いしただけなのに……フォローするようなこと言ってくれるし、そうやって何人もの女の人泣かせてきたでしょ?」


「全然モテへんし、女の子泣かせたりしたことないで。俺、そんなひどい男やないで!普通やで。普通の男」


「普通じゃないです!私が悪いのにそんな言い方されたら……」


 そう言って彼女は俯いていた。


「ごめんな!紛らわしい言い方して……」


 俯いた顔を覗き込むと彼女の頬にすーっと光る雫が見えた。

 一筋の雫はみるみるうちに川になり、瞳から止めどなく涙が溢れていた。

 マスカラやチークやファンデーションの混ざったグレーの川は顎からテーブルへとポタポタと落ちていた。


「風子ちゃん!ほんまごめん!俺が余計なこと言うたから……」


 僕は鞄からポケットティッシュを取り出すと、二枚三枚と引き出し彼女に渡した。

 真っ白なティッシュは黒やピンクの液体を吸い続けふにゃふにゃの塊になり彼女の前に積もっていった。

 僕が背中をさすると彼女は泣きすぎて呼吸が整わない小さい子みたいにぐしゃぐしゃの声で話した。


「晴翔さんは悪くないでしゅ。だから、謝らないでくだしゃい。わたじね……おどこの人にこんなに優しくされたことなくて。なんでこの人わたじのためにこんなに優しくしてくれるんだろって……うれじくなっちゃって」


「嬉しくて泣いてくれたん?泣くほど優しいことしたかな?普通にしてただけやで。でも、俺もなんか嬉しいわ。こんなふうに泣いて喜んでくれる女の子、初めてやわ。風子ちゃん、おもろいなあ」


「おもろくないでしゅよ。歳なのかな、涙脆くって」


「まだ22歳やろ?全然歳ちゃうやん!俺の方が歳やで!」


「30ですもんね!30代ですもんね!」


「そんな強調するように言わんといてよ!私20代ですけどあんた30代ですね、おっさんですね、みたいに言うて!」


「そこまで言ってませんよ!ははは。晴翔さん、おもろいですね」


 彼女の前のふにゃふにゃの塊がワイングラスの隣で山を作ったころ、

 彼女の涙はすっかり引いてニコニコと笑っていた。

 僕は彼女のこの顔が見たかった。弾んだ声にくしゃっと目尻が下がる、やっぱりこのコンビがよく似合うと思うんだ。

 この顔を見ていると僕は不思議と胸のあたりがポカポカと温かくなってくるんだ。いろんなこと忘れさせてくれるような力があるんだ。


「おもろないよ。風子ちゃんがおもろいからツッコんだだけや」


「晴翔さんと話してると楽しいです。なんだかポカポカあったかい気持ちになるし、いっぱい笑わせてくれるし。なんていうか……こんな良い思いしたら、私明日死ぬんじゃないかなってくらい嬉しいです!」


 嬉しくてもそんな表現しないでくれよ。僕たち、まだ出逢ったばかりだろ。冗談でも嫌だ。君がいなくなることなんか想像したくもないのに悲しくなるだろ。

 僕は無理に明るく切り替えした。


「そんな簡単に死なれたら困るわ!俺らまだ二回目やで。俺はこれからも風子ちゃんに会いたいし、一緒やと楽しいって思ってくれるのはめちゃめちゃ嬉しいけど……そんな縁起悪いこと言わんといてよ」


「ごめんなさい。でもすごく嬉しくって、なんて表現したらいいかわからなくて……私、こんなふうに男の人と二人っきりでご飯食べに行くの初めてだから、今日は全部楽しくて嬉しくて。たぶん今の私すっごく浮かれてます!」


「そういうの自分で言うんや。俺も同じく浮かれてると思うわ!」


「あはは!同じですね!」


「そういえば、さっき男の人と二人っきりでご飯行くの初めてって言ってたけど、ほんまに一回もないの?付き合わなくても男友達とかとは?」


「本当に……一回もないです。お恥ずかしいほどに浮いた話がなくて……」


 これはもしや生娘なのか。

 正直、生娘とかそうじゃないとか気にならないのに……


「言いたくないなら無理に言わなくてええけど……風子ちゃんってその……お付き合いとかしたことは……」


 細心の注意を払って言葉を紡いでいると、僕の気遣いに耐えられなかったのか彼女は食い気味にキッパリと話した。


「ないです!一回も。生まれてこのかたキスもハグも……それ以上も。やばいですよね!22歳にもなって、まったくですよ!笑っちゃいますよね!」


 彼女は無理矢理笑って、無理に笑い話にしようとして。なんだか強がってるようにしか見えなかった。


「やばないよ。笑われるようなことやないし、なんも恥ずかしいことないやろ。そういうのって好きな人とするもんやし、誰かと競うようなこととちゃうやろ。全然気にすることないで」


 僕が彼女の目をまっすぐと見つめて話すと、瞳は夕焼けみたいなオレンジ色に染まってきて、いまにも溢れそうなくらいうるうると涙が溜まっていた。


「晴翔さん……なんでそんなに優しいんですか。もうそれ以上、優しくしないでください!涙止まんなくなっちゃいますから!」


 そう言うと溜まっていた涙が溢れ出した。せっかく泣き止んだのに、また川は氾濫した。目の下はすっかり真っ黒になってしまっていた。

 慌てて追加のティッシュを取り出し、頬の涙を拭った。


「ほらほら、また泣かんといてよ!とりあえずな、落ち着こうか。このまま泣いてたら、俺周りからめっちゃひどい男になってまうからな。それに泣きすぎてたらメイクぐちゃぐちゃになるで」


「すいません……なんだか涙腺弱くて全然止まんなくて」


「ええよ。泣きたいときは泣いたらええから」


「はい……ありがとうございます」


 ふにゃふにゃの塊はどんどん増えて、彼女は大きな音を立てて鼻をかんで、ティッシュの山はさらに高くなっていった。

 ここがお店じゃなかったら、いますぐ抱き締めて泣き顔が見えないようにしてあげられるのに。

 先ほどから何度も泣いてるので近くの席の人たちからコソコソとこちらを見られていた。

 店内はほぼ満席で、テーブル席はすべて埋まり、カウンター席も2席ほど空いているくらいだった。

 賑やかな声が飛び交いうるさいくらいだが、自分たちの話だけはしっかり耳に入る、こんなにいろんな人たちが密集しているのにそれぞれの空間がちゃんとできている、不思議な空間になっていた。

 これだけ賑やかで他人のことが気にならないはずだが、さすがに人が泣いてる姿は目立ってしまうものだ。


“さっきからあの子、泣いてない?”

“男の前でメソメソ泣いてかわい子ぶってんじゃないわよ”


 とか、彼女に対する心ない言葉が聞こえてきた。

 僕が悪く言われるのは構わないが、彼女が悪く言われるのは嫌だ。

 彼女が傷つく姿見たくないんだ。

 背中をさする右手で頭を撫でて壁側に座る彼女の方に向いて少しでも見えないように聞こえないように壁を作った。これで気の済むまで泣ける。


「風子ちゃんは風子ちゃんのままでええんやで」


「ありがとうございます」


「なあ、泣きすぎて疲れたやろ?デザートでも食べる?糖分ほしいやろ」


「はい!食べたいです!」


 僕が言うとまだ瞳は潤んでいるが彼女はニコッと笑った。

 僕の壁が少しは役に立ったのかな。




 あっという間に時間が過ぎ、彼女の希望どおり割り勘でお会計を済ませ、店を出た。


 まだ20時前……帰るには早いなあ。

 正直、僕はまだ帰りたくない。

 もう少し彼女と一緒にいたい。

 でも、彼女はどうだろ?



「はあ〜美味しかった!いっぱい飲んだし、楽しかったし、晴翔さんお店選んでくれてありがとうございました」


 少しわざとらしく腕時計を見て、さりげなくそれとなくこれからのことを聞いてみる。


「おお!全然ええよ。俺も楽しかったわ!……あっ!そういえば、まだ20時前やな!あのさ……このあとどうする?どこか行く?それとも帰る?」


「確かにまだ帰るには早いですよね!それじゃあ……どこかもう一軒行きましょうか!」


「決まりやな。どこか行きたいところある?」


「う〜ん……どこだろ?バイトでこの辺来るだけで、周りのお店全然詳しくないんですよね。晴翔さん、どこかおすすめのところありますか?」


「そやな……なるべくこの辺がええやろ。そしたら、俺の家の近くにええ雰囲気のバーがあるからそことかどうやろ?」


「いいですね!バー行ったことないので行きたいです!!」


「ほな、そこにしよか!」


 僕たちは電車に乗り、僕の最寄り駅に降りてバーを目指した。

 バーまでは5分ほどの距離。

 二人で僕の住む街に降りるのが嬉しくて照れくさくて、来たときみたいに手が触れるか触れないかの距離で歩くのがなんだかむず痒かった。

 よろよろと千鳥足ぎみの彼女が危なっかしくて心配で、僕は気づいたら彼女の手を握っていた。でも、軽く握るだけ。

 指と指を重ねて繋ぐことはできないけど……それが今の関係。これが精いっぱい。

 いつもはこんなことしないから自分でも驚くほどだ。ちょっと大胆だったかな。

 手を繋ぐと彼女は少し驚いた顔をして黙ってうつむいたまま歩いた。

 彼女の熱が直に伝わって、なんだか少し緊張した。

 沈黙のなか僕らはお目当てのバーに着いた。

 カウンターに二人並んで座って、僕はジンフィズで彼女はカルーアミルクを頼んだ。

 初めてのバーで嬉しそうに周りを見渡す彼女が可愛かった。

 そんな姿を見ていたらふと彼女にいろんな景色を見せたくなった。

 あの展望台からの夜景を見せたら、どんな顔するんだろ……

 夕暮れの海に連れて行って二人で陽が沈むのを見たら、どんな反応するんだろ……

 中華街に行ってあそこの肉まんを食べたら、どんな顔して食べるんだろう。

 彼女と見る景色はきっとどれも素晴らしいんだろうな。

 そんなことをふと妄想していた。

 彼女が呼びかけるのも気づかず……


「晴翔さん!晴翔さ〜ん!起きてますか?」


「おっ、おお!起きてる!ごめん、考え事してた」


「よかった!そういえば、晴翔さんはここに何度か来たことあるんですか?」


「常連ってほどでもないけど、たまに来るなあ。この街住んでもう4年くらいになるけど、そのくらいからちょこちょこかな」


「へえ〜なんか大人って感じで素敵ですね」


「そんなことないで。まあ、俺大人やからね。バーくらい行ったりするで」


「大人の男ですね。私はまだまだお子ちゃまなので、なかなか行く機会ないし、一人だとなかなか入る勇気がなくて……」


「風子ちゃんも大人やろ。でも、なかなか一人やと入られへんよな」


「だから、今日連れて来てもらって嬉しいです!なんかこれで私もちょっとは大人の女に一歩近づいたような気がします」


「喜んでもらえて嬉しいわ」


 嬉しそうにカルーアミルクを飲む彼女がとっても愛しかった。



 でも、可愛らしくはしゃいでいたのはそこまでだった……

 彼女の愚痴大会が始まった。

 半分くらい減ったあたりから徐々に暗雲立ち込めて、2杯目でさらにヒートアップしてきた。

 一軒目でもずいぶん飲んだのに呂律は少し回らなくなってきたが、彼女のマシンガントークはなかなか止まらなかった。


「私ね、思うんですよ。せっかく高いお金払ってもらって大学行かせてもらってるくせにね、みんなしょっちゅう休むし、課題出せって言われたらみんなコピペしたらはい終わりですよ!おまえらはなんのために来てんだよ!って……思うんです!だって勿体無くないですか!いろんなこと調べ放題ですよ!知り放題ですよ!それが大学生……なのにみんな来ない……寂しいです……私は悲しいです。お母さん悲しい!そんな子に育てたつもりじゃないのに!」


「風子ちゃん、お母さんやないやろ。ちょっと感情入りすぎやで。わかるよ、わかるけど、みんなバイトしたりサークルもあるから疲れてついサボってまうんやないかな。悪気があってそうしてるんとちゃうと思うよ」


「甘い!晴翔さん、甘すぎです!そんなの本末転倒じゃないですか!学業あっての大学生ですよ。勉強するために田舎からわざわざ上京して、高いお金払って部屋借りて一人暮らしして、わざわざ仕送りしてもらって。それだけじゃ生活できないから、私もバイトしてますけど……大事なところ疎かになっちゃいけないじゃないですか。そこ疎かにしたら、お母さんに申し訳ないです……あっ、お父さんにも申し訳ないです」


「あっ!って、お父さん忘れてた!みたいな言い方したらあかん。完全にお父さん忘れてたやろ。てか、風子ちゃん偉いなあ!若いのにそこまでちゃんと考えてるとか偉いわ。親にもちゃんと感謝してるってことやろ、めっちゃええ子やな」


「私のこと褒めたって何も出ませんよ!出しませんよ!脱ぎませんよ!」


「そこまで求めてへんよ!ただ褒めただけやないか」


 彼女は愚痴とともにボケ倒して、力尽きたのか徐々に話すスピードを落としていった。

 そして、ついにそのときは来てしまった。


「はると、さんは……どう、おもい、ますか?……わたしは……」


 彼女は頭をガクンと勢いよく落とした。

 僕は肩を叩いて彼女を覗き込んだ。


「風子ちゃん?……風子ちゃん!起きてる?」


 するとふらふらと頭を揺らしながら上げてふにゃっと笑った。


「えっ?起きてますよ!そんな……寝るわけな……」


 彼女はガンっと鈍い音を立ててテーブルにおでこをぶつけた。

 そして、そのまま寝てしまった。

 肩を揺するも何度呼び掛けても、応答はなかった。

 疲れてるのにあんなに飲んだから仕方ないか。

 終電まであと2時間ある。

 少しだけこのままにしてあげよう。

 眠る彼女にそっと僕のトレンチコートをかけてあげると、マスターに話し掛けられた。


「彼女、ずいぶんとお疲れなんですね」


「ほんますいません。騒がしかったですよね。ご迷惑お掛けしました」


「いえいえ、大丈夫ですよ。女の人は我慢してることが多いですからね。でも、彼氏さんも大変ですね。あなたみたいにそんなにニコニコ愚痴を聞ける男、なかなかいないですよ。彼女のこと、相当好きなんですね」


 この状況、やっぱりカップルに見えるんやな。

 俺が彼氏で、風子ちゃんは彼女。

 なんだか嬉しい響き。

 ほんまは付き合ってへんけど……そうなりたいんやけど。


「いやまあ、好きですけどね!僕もあんまり愚痴とか聞きたない方なんですけど、彼女のは何でか聞けるんですよね。僕に愚痴ってくれるのが嬉しくて。愚痴って少しでも心開いてる相手やないと言えないやないですか。なんか犬がお腹見せてくれてるみたいで……腹割って話してくれたんやなってなんか嬉しくて。この子はそれだけ一生懸命なんやなって、僕で良ければ重いもん軽くしてあげたいなあって」


「ちゃんと彼女のこと見てるんですね」


「心配性なだけですよ!」


 マスターと話してから余計に彼女が愛しく思えた。想いを口に出すと、自分の想いに気づくものだ。彼女の話をしていたはずなのに、まるで自分に言い聞かせているように。

 気づかないうちに僕はこんなにも想っていたんだ。

 愛しい彼女を眺めながらカクテルを飲んで、少しでも目覚めるのを待っていた。


 だが、一向に起きない。

 起きる気配がまったくしない……

 終電まであと1時間……

 あと40分……

 あと30分……

 あと20分……

 いよいよまずくなってきた。


 少し強めに肩を揺すり、耳元まで近寄って何度も呼び掛ける。

 だが、起きない。まったく起きない!


「風子ちゃん!風子ちゃん!もう起きへんと終電なくなるで!はよ起きてや!」


「うん……しゅうでん?……なんですか、それ?」


「なに言うとんねん!ええからはよ起きて!風子ちゃん帰れなくなるで!」


「帰らなくていいです……わたし一人ですから……誰も心配する人いないんで」


「意味わからんわ!そんなんええから、はよ起きて!困るの自分やで!」


「大丈夫です……明日は……すてきな……にちようび」


 彼女は意味不明な言葉ばかり話してまったく起きず、とうとう終電を逃してしまった。


「あかん……終電終わった。どうすんねん……」


 カウンターで2時間も寝ているのはさすがに申し訳ないので、バーを出ることにした。

 お会計を済ませ、帰る準備をしているとマスターが声を掛けてきた。


「また彼女と来てください。今度は飲みすぎないようにちゃんと見ていてあげてくださいね」


「ありがとうございます。今度はしっかり見張っておきますね」


 僕が言うと、マスターは笑顔で送り出してくれた。

 なんとか起こしバーを出ると彼女はくねくねと不安定に歩き危なっかしくて背中に腕を回し僕に引き寄せて歩いた。


「なあ、もう電車ないで。どうすんの?隣駅やろ?住所教えて、タクシー捕まえるから」


 そう言ってスマホを触ると、彼女はスマホを持つ右手を掴んだ。


「やだ。おうち帰りたくないです。晴翔さんと一緒がいいです」


「もうすぐ1時やで。こんなに酔うてるんやし、家帰ってゆっくり寝な体に悪いで」


「じゃあ、晴翔さんのおうちに行く〜そこで寝る〜そしたら一緒でしょ〜」


 何度言ってもごねるので、通り沿いのベンチに彼女を腰掛けさせて説得を試みた。


 こんな酒の力で連れ込んだみたいに、ウチ来させたないねん……

 ほんまに今日はあかん。君のことは大事にしたいねん。このままやったら欲に負けそうやしほんまに帰ってくれよ。


「あかんよ……俺んち来たら。男の部屋なんて、そんな簡単に上がったらあかんで!なあ、ちゃんとおうちまで送るからな、お願いやから教えて!」


「い〜や〜だ!晴翔さんのおうちに行くの!お願い!晴翔さん、おねが〜い!」


 僕の腕を掴んで揺らしてジタバタと子どもみたいにごね続ける。

 ここまでくると、もう説教だな。

 しっかり言ってやらないとわからないんだから、教えてやるんだ。

 男がどんな生き物で、男がどれほど簡単に欲望に負けやすい生き物なのか。

 僕はため息混じりに彼女に説教した。


「あんなあ……男の部屋に行くって、どういうことかわかってんの?テリトリーに入るんやで。テリトリーに入ったら簡単にタガが外れるんやで。そんなん丸腰でライオンの檻に入るのと同じようなもんや……風子ちゃんには紳士に見えてるかもしれんけど、俺そんなんちゃうで!普通の男や。なあ、襲われたらどないすんねん!ええ加減わかってよ……俺かて好きな子雑に抱きたないねん」


「わかってます。晴翔さんのことそんな美化して見てないです……私も大人です。一人の男の人として……好きなんです。晴翔さんだから一緒にいたいんです……私の気持ちもわかってくれますか」


 目の前が真っ暗になった。唇に柔らかい感触が当たった。

 気づけば僕は彼女にキスしていた。

 体が勝手に動いてた。

 感情より本能が先に動いてしまった。


「ウチ、行くで。そのかわり、なにされても知らんで……」


 ベンチに座る彼女の右手をぎゅっと掴んで引っ張り、そのまま前だけ向いて歩き出した。

 きっと今、僕の顔は真っ赤だ。


「晴翔さん……ねえ、お姫様抱っこして?」


「えっ?今すんの?あかんよ、ウチ着いたらしてあげるから我慢して」


 不意をつかれて僕が驚くと彼女は僕の左手をギュッと握り返して、立ち止まった。


「いやです!今して。だって、さっき言ってたでしょ?試しにしてみるって」


 こんなことしたくない。外でこんなバカップルみたいなことしたくない。

 でも、顔を真っ赤にしながらお願いされたら簡単に負けた。


「もう!しゃあないなあ!風子ちゃん、酔うとずいぶんわがままやなあ」


「それほどでも〜」


「褒めてへんわ!よし行くで!」


 彼女のわがままに負けて僕は暗い夜道をお姫様抱っこして、マンションへと向かった。


 深夜とはいえ土曜から日曜を跨いだばかり。

 誰かとすれ違わないかヒヤヒヤした。でも、今は彼女も共犯だ。

 この恥ずかしさと心臓の早さ、体の熱が繋がっている。

 腕の中で照れ笑いする彼女が僕を見つめて言った。


「顔近いですね……重くないですか?」


「ああ、全然重ないで。思てたよりずっと軽くて心配になるわ。ちゃんとご飯食べてるか?」


「今日は食べましたよ、いっぱい。じゃあ、抱き心地はええですか?」


 彼女は片手をレポーターのようにマイクを持ってるみたいにギュッと握り、見えないマイクを僕に向けて質問してきた。


「抱き心地?そやな……抱いてへんからまだわからへんわ」


 僕は彼女を見つめながら答えた。

 想いが重なり、唇が重なり、間接的に体温が重なり、そんな今の僕に聞く質問じゃない。


「晴翔さん……そっちじゃないですよ!」


 彼女は恥ずかしさから見えないマイクを静かに下ろした。


「ああ、ごめん!大人の風子ちゃんが抱き心地言うたから、ついそっちかと思ってしもうた!」


「大人ってわざわざ言わなくても!成人してるって意味の大人ですよ!」


 僕の住むマンションに着き、エントランスの前で降ろそうとすると、


「晴翔さん、部屋の前までですよ!私がもういいなんて言ってませんよ!」


「えっ、この後エレベーター乗るんやで。ここで終わりにしよう?」


「ダメです!部屋の前まで!」


「ほんまわがままやな。今回だけやで。夜遅いから部屋に入るまで静かにしてな」


 そう言うと僕はポケットから鍵を取り出して挿し込み自動ドアが開いて、

 彼女をお姫様抱っこしたままエレベーターに乗って僕の部屋へと向かった。


「これでエレベーターはさすがに狭いな……」


「そもそもエレベーターでお姫様抱っこはしないですよね」


「自分からお願いしといてそれ言う?」


「それは別腹ですよ!」


「別腹って、食べもんちゃうやろ!」



 僕たちの夜は始まったばかり。

 想いが重なった後、僕はどんな気持ちでこの夜を過ごしたらいい?

 感情よりも本能が動かないか心配だ。

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