第146話 『ディミトリ』


 前後からパンダとホーク、左からリュドミラがそれぞれインクブルを囲む形で戦闘が開始した。

 インクブルの標的はホーク。この中で最もインクブルの脅威となり得る魔断の射手を先に潰しておきたいのは山々だろう。

 それを阻むのがリュドミラだった。リュドミラはリスクを承知で果敢にインクブルに近接戦を仕掛ける。

 まともな地力の競い合いではインクブル相手では分が悪い。だがホークの魔断が一発でも命中すればインクブルは倒せる。リスクに見合うだけの見返りはある。


 不退転の覚悟で挑むリュドミラだが、すぐに異常に気付く。

 インクブルの動きが目に見えて鈍い。

 だがそれもそのはず。インクブルはここまで、ディミトリと戦い、リュドミラの殴打と最大威力の魔力砲を直撃し、ホークの魔弾にも被弾し、パンダのヴァルナワンドの一撃をもろに受けてしまった。

 その上で今は神器の放つ光によって全身を蝕まれている。まともな状態ではない。


 このまま押し潰すべく、リュドミラが乱打を繰り出す。

 その全てを的確に捌くインクブルだが、それをホークの射撃が援護する。

 ホークの射撃能力は大したもので、リュドミラとインクブルが激しく近接戦を繰り広げている最中でも寸分違わずインクブルを狙い撃っている。

 魔弾はともかく、魔断は一発の被弾も許されない。防御には神器を使えないため左手の直剣で防ぐしかなく、それを見て取ったリュドミラはインクブルの左側の位置を維持しそれを妨害する。


 それでもなんとか食らいつくインクブルだが、戦況は互角。その均衡をパンダが崩す。

 インクブルの背後に陣取るパンダが、ホークの魔弾の軌道を変える。

 ヴァルナワンドに引き寄せられた魔弾の軌道が曲線を描き、回避したはずのインクブルに襲い掛かる。

 だがそれは既にインクブルも既知の連携。突如として軌道を変える魔弾すらも驚くべき反応速度で回避する。


「――」

 パンダとリュドミラの目線が交差する。

 その一瞬でリュドミラもパンダの意図を察知。インクブルから一歩距離を取り、魔力弾を連射した。


「――ッ!」

 インクブルに一瞬の動揺。背後でパンダがヴァルナワンドを振るう。

 ホークとリュドミラの魔力弾がそれぞれ別方向から飛来し、しかもヴァルナワンドによってそれぞれ異なった軌道を描いてインクブルに襲い掛かる。

 さしものインクブルもこれは回避し切れず、胴体に一発の魔力弾を受けてしまう。地面を転がるインクブルにリュドミラが接近。一撃でインクブルの頭蓋を打ち砕く覚悟で飛び込む。


 咄嗟に直剣で防御するインクブル。だがリュドミラのパンチを受けた直剣は一撃で叩き折れ、剣身が宙を舞う。

 その剣身を神器で殴りつけると、上段から叩きつけられた剣身がリュドミラに向けて飛来する。

「ぐっ……!」

 咄嗟に回避するも切っ先が右わき腹を抉る。その痛みに怯んだ一瞬の隙を突いてインクブルの左腕が伸びる。

 リュドミラの胸倉を掴んで引き寄せると、リュドミラの胴体がちょうどホークが放った魔断の射線上に割り込んだ。


 リュドミラもまた魔人。魔断を受ければ即死するのは同じだ。

 焦燥感に顔を歪めるリュドミラ。しかしシェンフェルの援護が一歩勝った。

 前方に発生した魔力防壁が魔断を防ぐ。思わぬ援護に狼狽するインクブルだが、それも一瞬。左腕で拘束したリュドミラに向けて、右手の斧を振り下ろす。


 ホークが魔法銃を連射。だがリュドミラの身体が射線を遮っておりインクブルには当たらないはず。

 狙うとすれば、リュドミラを襲おうとしている右手の神器だが、この一撃だけは魔弾の直撃を受けても強行する気迫でインクブルが斧を振り下ろす。


 どうせ致命傷にはならない魔弾……そう侮ったのは、インクブルが銃という武器に関する情報に疎かったためだ。

 ホークの魔弾はインクブルの足元の地面に命中すると、そのまま跳弾した。その軌道は過たずインクブルの頭部を狙っていた。


「――ッ!」

 ほとんど反射的に回避行動をとるインクブル。思いもがけない奇襲にすら瞬時に対応できる彼の反応速度は凄まじいの一言だが――パンダは更にその上をいった。

 跳弾した魔弾の軌道を更にヴァルナワンドで捻じ曲げる。予期していなかった二段構えの奇襲に、インクブルといえど回避できるはずもなく、右肩に魔弾が直撃する。

 その衝撃で怯んだ一瞬の隙を突いてリュドミラが左肘をインクブルに喰らわせ、インクブルの拘束から脱出する。


 だがその直後、インクブルの前蹴りがリュドミラの背中の命中する。

 それ自体は悪あがきにも等しい攻撃。ダメージは皆無だったが、蹴りの衝撃でリュドミラがたたらを踏んで数歩よろめく。ちょうどホークに正面から近づき、ホークの射線を遮る。

 ホークの攻撃が一瞬封じられる。そしてこの一連の動作によって、各人の位置関係が大きく変わる。

 ホーク、リュドミラ、シェンフェルが一箇所に固まり、パンダが孤立した状態でインクブルの傍にいる形となった。


 ホークの援護も封じられた一瞬の空白時間。インクブルの標的はパンダへと移った。

 パンダもそれを察し後退。この二人ではレベル差があり過ぎる。まともに戦えばパンダは数秒も持ち堪えられない。

 パンダの後退を許さず追いすがるインクブル。パンダは懐から煙玉を取り出して地面に投げつけた。


 周囲に立ち込める白煙。煙の大きさはそれほどでもないが、インクブルの視界を数秒遮るには十分な濃度。

 しかしその程度の小細工はインクブルには通じない。

 視界にはっきりと見えていなくとも、今のパンダの位置くらいは気配で感じ取れた。


 神器が横薙ぎに振り抜かれる。間違いなくパンダまで届く軌道。しかし――。


 カン、という甲高い音が鳴り響いて神器が弾かれる。

 インクブルの一撃を以てしても突破できない防御……それは『空白地帯』に鎮座する、シラヌイが眠るクリスタルだった。


 インクブルの顔に驚愕の色が浮かぶ。

 パンダが白煙で視界を遮ったのはこれが狙い。このクリスタルの硬度は確認済みだ。一度きりの奇策ではあるが、あらゆる攻撃を弾いてくれる。

 煙幕で一瞬視界を奪ったのもこのため。他の者たちはクリスタルのことを、シラヌイを守る厄介な存在としか認識していなかったが、パンダは初めからこれが盾として使えると考えていたのだ。


 その奇策にはインクブルといえども面食らい動きを止める。

 すぐに状況を理解して、クリスタルの陰に隠れたパンダを追撃しようとするが、その時には既にリュドミラの接近を許してしまっていた。

 再びインクブルに乱打を浴びせかけるリュドミラ。なんとかそれを防ごうとするインクブルだが、彼は既に満身創痍。レベル差でいえば大きく上回っているはずのリュドミラの攻撃に対して防御に回るので手一杯だった。


 このまま押し切れる。そうリュドミラが予感した、そのとき。


「――アアアアアアアアアアアアッ!!」

 一層強いインクブルの咆哮。

 それに呼応するように神器から放たれる光が強くなる。


「くっ……! なんだこれは!?」

 湖でインクブルと遭遇していないリュドミラにとっては初見の光景。だがパンダとホークはすぐに状況を理解できた。

 神器の……あるいはインクブルの暴走だ。あのときは神器が独りでに動いたが、今回はインクブルが自らの意思で発動したらしい。

 追い込まれた彼の最後の抵抗。ここで全てを決めるという意思表示だ。


 神器から放たれる粘性の高い光はまるで無数の触手のようにインクブルの周囲を蠢き始めた。

 それらは聖属性の光であり、独立してインクブルを守護する盾にもなる。

 聖属性の光を浴びて、その場にいる魔人たちが本能的な忌避感を覚える。だがそれを中心で一身に受けるインクブルの苦痛は他の者たちのそれとは比較にもならない。


「グアアアアアアアアアアアアア!!」

 悲鳴のような咆哮をあげるインクブル。すると光の帯がずるりと形を変え、近くにいたパンダとリュドミラに襲い掛かった。


 上空から降りかかる光の帯を回避すると、光の帯が地面に突き刺さり地面に穴を穿った。

 物理的な質量を持っている。普通の光であれば有り得ないことだが、これは神器が放つ聖なる光。それ自体が一つの兵器そのものだった。


 リュドミラとホークが魔力弾を放つが、それらは全て光の帯によって弾き飛ばされた。

「チッ!」

 ホークが魔断を放つ。破魔の力であればあるいは、という期待を抱く。

 が、それは実らなかった。魔断に命中した光の帯は銃弾を弾き飛ばし、何事もなかったかのようにインクブルの周囲を泳いでいた。


 この迷宮と同じく、この光も魔力で作られた物質ではない。破魔の力では破壊できないのだ。


「困ったわね」

 インクブルから距離を離して、どうしたものかと悩むパンダ。

 あの光の帯がある以上はもう迂闊にインクブルに接近できない。あの光を掻い潜ってインクブルに一撃を加えるのは至難の業に思えた。

 唯一の救いは、インクブル自身があの光に全身を炙られて激痛により動きが鈍っていることだろうか。


 このまま持久戦を選べば、インクブルはあの光で自滅してくれないだろうかという甘い期待が脳裏をよぎるが、パンダはすぐにそれを振り払った。

 そんなことは起こりえないだろう。インクブルはあの神器を右手に握りながらこの迷宮を三〇〇年も彷徨い続けたのだ。今更多少の痛み程度で戦闘不能になるようなタマではない。

 どこかに突破口はないかと思案していると、不意にキャメルから声をかけられた。


「姐御! これ見てくださいっす、クリスタルが!」

 見ると、今まで傷一つついていなかったクリスタルに僅かだが罅が入っていた。


「クリスタルに傷が……? さっきのインクブルの一撃……いえ、違うわね」

 白煙のせいではっきりとは見えなかったが、クリスタルは完全にインクブルの斧を弾いていたように見えた。

 それに、クリスタルの罅はこの瞬間も少しずつ広がっていっていた。欠けたクリスタルの破片が地面に落ちて転がる。


 クリスタルの解れはあの一撃ではなく、現在進行形で進んでいるようだった。

「――! そうか、シラヌイ!」

 シラヌイが自分の意思で目覚めようとしている……パンダにはそう見えた。


 クリスタルの中にはシラヌイと共に、シラヌイの神器も収められている。

 先ほどのインクブルの一撃が、シラヌイの神器と共鳴し呼び覚ます引き金になった可能性がある。


 この迷宮はインクブルとシラヌイの二人の願いによって作り上げられたものだ。その法則は二人に願いと、その大きさに基づいている。

 クリスタルのあの尋常ではない硬度は、そのままインクブルがシラヌイを守りたいという意思の強さだ。本来、易々と破壊できるものではない。

 だがインクブルは今、神器が放つ光に全身を侵されまともな状態ではなくなっている。それにより一時的にインクブルの意志が弱まったとすれば、この状況は説明できる。


 シラヌイを守りたいという願いと、シラヌイ自身がこのクリスタルを抜け出てインクブルを止めたいという願い……その二つの願いの天秤が傾きかけているのだ。


「いけるわ! もっとインクブルを追い詰めて、その光をガンガン使わせるのよ!」

 パンダの指示に応えてホークとリュドミラが動く。

 魔力弾を連射してインクブルに浴びせかけると、無数の光の帯がうねりそれらを叩き落としていく。

 だがその度にインクブルは激痛に身をよじって咆哮をあげ……更にクリスタルに大きな罅が入り始めた。


「アアアアアアアアアアアア!!」

 インクブルがリュドミラに襲い掛かる。

 立っていることも容易ではないはずの激痛を全身に受けながらも、インクブルはなお戦いを止めようとはしなかった。

 迎撃するリュドミラだが、インクブルの攻勢は苛烈を極めた。インクブル一人でも互角以上だというのに、今は彼を守護する無数の光がある。


「くっ……!」

 なんとか光を掻い潜ってインクブルに接近しようにも、触手のようにうねる光の帯は独立してリュドミラを狙っており、接近できるような隙はなかった。

 インクブルはただ前進するだけでリュドミラを圧倒した。

 苦し紛れに放たれた魔力弾も全て光の帯に防がれ、他の者たちの援護もインクブルには届かなかった。


 やがて一本の光の帯がリュドミラの左腕に絡みつく。

「ぐああああっ!?」

 軽く光に接触しただけで信じられないほどの激痛がリュドミラを襲う。

 これが魔人にとって唯一といってもいい弱点属性……それも神器の光だ。こんなものを全身に浴び続けても戦い続けるインクブルはとても正気とは思えなかった。


 光の帯に引き寄せられるようにリュドミラの身体が宙を舞う。

 リュドミラが飛ばされた先には、斧を振りかぶるインクブルの姿。身動きの出来ないリュドミラを容赦のない一撃が襲う。

 ホークとパンダがなんとか援護しようとするが、全て光の帯に阻まれる。

 ――しかしシェンフェルだけは違った。


 シェンフェルが魔法を発動。リュドミラの前方に魔力防壁を作り出す。

 神器の直撃を受け止めた防壁は一撃で砕け散ったが、その一瞬が与えた猶予は値千金だった。

 リュドミラが左腕を拘束する光の帯を殴りつける。力任せに拘束から脱出したリュドミラが着地した場所は、インクブルの目と鼻の先。


 両者が同時に攻撃を繰り出す。それよりも一瞬先に、シェンフェルが補助魔法を発動。パンダとホークに回していたリソースを全てリュドミラに集中させ、リュドミラの防御力を限界まで上昇させる。


 リュドミラの拳がインクブルの鳩尾を捕え、同時にインクブルの斧がリュドミラの胴体を打ち据えた。

 『空白地帯』を揺るがす激しい振動。インクブルが地面を転げ回り、リュドミラは壁まで吹き飛ばされた。

 急いでシェンフェルが駆け寄る。リュドミラは手足をだらんと放り出して意識を失っていたが、シェンフェルの補助魔法の甲斐もあってなんとか一命は取り留めていた。


「グ……ア……ァ……!」

 リュドミラの一撃を受けたインクブルが、手足を震わせながら立ち上がる。

 これほどのダメージを負ってもまだ立ち上がるその執念には驚嘆の念を禁じえないホークではあったが、インクブルは見るからに満身創痍。もはやいつ倒れてもおかしくない状態だ。


 ――そんな状態に至ったことで、ついにインクブルの意志の灯が消えた。


 分厚いガラスが割れるような音と共に、シラヌイを覆っていたクリスタルが激しく砕け散った。


「うっ……ぅ……」

 クリスタルから神器とシラヌイが零れ落ちる。パンダの予想通りシラヌイは既に意識が覚醒しているのか、四つん這いになりながら左手で頭を抑えて苦悶の表情を浮かべていた。

 回帰迷宮のそれとは違う、本物のシラヌイ。彼女にとっては三〇〇年ぶりの目覚めだ。それでもシラヌイは懸命に手足に力を込めて身体を起こそうとしていた。


 ――そのときには既に、パンダはシラヌイに肉薄していた。

 ここでシラヌイを殺す。今まではクリスタルに阻まれその手順が踏めなかったが、今ならばそれが出来る。

 デスサイズを構え、シラヌイの首元めがけて振り下ろす。インクブルはまだ遠い。デスサイズがシラヌイの首を斬り飛ばす方が遥かに速い。


「なっ――!?」

 だがそこでシラヌイを殺すことに意識を向け過ぎたことが命取りとなった。

 まずいと思ったそのときには、インクブルから伸びた光の帯がパンダの足に絡みついていた。


 あとコンマ数秒速ければパンダの攻撃の方が先に決まっていたが、僅かの差でインクブルが競り勝つ。

 リュドミラと同様に、パンダの身体が光の帯に引き寄せられて宙を舞う。足を拘束されているため逆さ釣りの形でインクブルの元まで引き寄せられていくパンダ。


 ホークの魔法銃が連射され、パンダを捕えている光に立て続けに命中する。その衝撃で弛んだ一瞬のスキを見逃さず、パンダが身体をひねって脱出に成功する。

 しかし身体は未だに空中。緩やかに落下していく先には、斧を振りかぶったインクブルが待ち構えていた。

 リュドミラならばともかく、パンダにはその一撃を無事に受け止める術などない。


 パンダの顔が焦燥に歪む。身動きのできない空中でインクブルの一斬を迎え入れ――


 ――次の瞬間、パンダの身体が何かに引き寄せられた。

 何が起こったのか誰にも理解できなかったが、インクブルに向かって落ちてきたパンダの身体が突如、有り得ない角度で進路を変えた。

 それによりインクブルの一撃から逃れることに成功。着地して地面を転がるパンダではあったが、パンダ自身も一体何が起こったのか分からなかった。


 だがともかく起き上がろうとしたとき、身体の自由がきかないことに気付く。

 そこでようやくパンダも状況を理解した。


 ――数本の魔力糸がパンダの胴体にぐるりと絡みついていた。


「――ディミトリ!」


 その場にいる者たちの視線が、『空白地帯』の入り口に注がれる。

 そこには、壁に手をついて荒く息づきながらも、この場所まで辿り着いた、迷宮の最後の侵入者……ディミトリの姿があった。

 彼もまた深手を負っているが、それでもその指先が操る糸の冴えは失われていなかった。


 パンダとインクブルの視線が交差する。

 ちょうどシラヌイを前後から挟む位置にいる二人。

 同時に駆け出す。パンダはシラヌイを殺すために。インクブルはそれを阻止するために。

 単純な速度の競い合いでパンダが勝てるはずはない。だが背後から襲い掛かるホークの銃弾の雨がその差を埋める。


 レッドスピアとサーペント。二つの銃の弾倉に込められた弾を全て吐き出す。

 そのほとんどは光の帯に遮られたが、たった一発の魔弾が、その防御を掻い潜ってインクブルに届いた。

 右足の太ももを撃ち抜かれたインクブルが、僅かに前のめりに倒れかかる。

 だがそれを気迫だけで持ち堪え、シラヌイに迫るパンダを阻もうと足に力を籠めるが――その一瞬をディミトリは見逃さなかった。


 不可視の魔力糸が奔り、次の瞬間――インクブルの左腕と右脚を斬り飛ばした。


 一瞬のうちに二つの手足を失ったインクブルが、身体を支える力を失って地面に崩れ落ちる。

 伸ばした手はシラヌイまで僅かに届かない。右脚を切断されたことで移動もままならないインクブルは……しかし、それでも最後まで抵抗を続けた。


「アアアアアアアアアアアアアッ!!」

 地面に倒れ伏す直前、残った右手を全力で振りかぶる。

 シラヌイまであと一歩というところまで迫ったパンダに向けて、右手の神器を投擲した。


「――ッ!?」

 そこまで食い下がるとは思っていなかったパンダの足が止まる。

 ディミトリの糸が再び伸び進み、パンダに向かって飛来する神器に絡みつく。

 そのままネットのように神器の慣性を殺しにかかるが、僅かに間に合わない。殺し切れなかった衝撃がパンダに襲い掛かった。


 咄嗟にデスサイズで防御するも、圧倒的なレベル差を誇るインクブルの一撃は今のパンダにとって受けきれるものではなく、勢いよく数十メートル吹き飛ばされた。

 パンダの脅威からシラヌイを遠ざけたインクブル。何があろうともシラヌイを守り抜くという意思を示したが……同時にそれが戦いの決着でもあった。


 既に満身創痍の身体に加え、左腕と右脚を失い、神器を手放したことでインクブルを守護していた光の帯も消えた。

 もはや戦う力も残されていないインクブルは……それでも止まらなかった。


「ガアアアアアアアアアアア!!」

 獣のような咆哮。左脚と右腕だけで上体を起こし、背後へ振り向く。

 そこにはインクブルに向けて銃口を向けるホークの姿。

 距離は五メートル以上離れている。届くはずもない距離で、それでもインクブルは右腕を振りかぶってホークに殴りかかろうとした。

 もはや身を守る術のない今のインクブルにとって、魔断は不可避の弾丸。たった一発で全てが決まる必殺の一撃だ。


 だが、ホークはインクブルに銃口を向けたまま、魔断を放とうとはしなかった。

 何故なら、ホークには見えていたからだ。

 インクブルの背後から、ゆっくりと近づく一人の女性の姿が。


「――――」

 殴りかかろうと振りかぶっていたインクブルの右腕に、細く白い手が重ねられた。

 ずっと忘れていた感触と、懐かしい温もりを感じ……インクブルの動きが止まる。


「――インクブル様」

 シラヌイの優しい声がインクブルを包む。

 限界を超えて駆動していたインクブルの身体を抱きしめ、その傷を癒す。


「シラ、ヌイ……」

 三〇〇年の時を超えて再開した二人。

 生気の抜けたような面持ちでシラヌイを見つめるインクブルの瞳が……今この時、彼の戦いが幕を下ろしたことを告げていた。


「シラヌイ……俺は……」

「もう、十分です」

 インクブルの言葉を遮り、シラヌイが首を振る。愛した夫に優しく微笑みかけながら、彼の身体を一層強く抱きしめた。


「十分です、インクブル様……終えましょう、私たちの旅路を」

 キィン、と、シラヌイの神器が発光する。

 インクブルのものとは違う、澄んだ透明な光がシラヌイの身体を包んでいく。


 危篤状態だったシラヌイの身体は、神器の力によってここまで延命を続けてきた。

 ……その効力が今、消えようとしている。他ならぬシラヌイ自身の願いによって。

 それは同時に、インクブルの戦いの終わりも意味する。

 『シラヌイが静かに眠りにつくまで戦い続ける』という……インクブルの願いが果たされようとしていた。


「俺は……君を……」

「守ってくださいました。こんなにも長い間、たった一人で……。だから今度は、私が貴方を救う番です」

 そう言ってシラヌイは、インクブルの胸に顔をうずめた。


「インクブル様と共に生き、共に死ぬ……その願いを叶えてくださいました。こうして、またあなたの腕の中で眠りにつけるのですから」


 インクブルがシラヌイの元まで辿り着くことは、本来有り得ないはずだった。

 転移の壁に阻まれ、やがてインクブルが力尽きるその時までこの迷宮は続くはずだった。故にシラヌイの願いが本当の意味で果たされることは起こり得ない奇跡のはずだったのだ。


 ……しかし今、その奇跡がここにあった。

 愛する男の腕の中で、シラヌイは幸福そうに瞼を閉じる。

 痛みも恐怖もなく、ただ安堵と安らぎだけを胸に、シラヌイは全身をインクブルに預けた。


 やがて神器の発光が止む。

 それはすなわち、シラヌイが息を引き取ったことを意味していた。


「……」

 永遠の眠りについた妻の姿を、インクブルは静かに見下ろしていた。

 右腕だけでシラヌイを抱き留め、その体温を全身で感じていた。


「――終わりだ、インクブル」

 インクブルの傍まで歩み寄ったホークが、静かに宣告する。

 戦いは終わった。インクブルとシラヌイ……どちらの願いも、今果たされた。

 後はただ、この迷宮に幕を引くだけだ。


「……シラヌイは……」

 背後のホークに振り向くことなく、インクブルは掠れた小さな声で尋ねた。

「安らかな夢を……見ているだろうか」

「――ああ。お前の腕の中ならな」


 カチリ、とレッドスピアの銃口をインクブルの後頭部に据える。

 インクブルは抵抗する様子もなく、その瞬間を受け入れようとしていた。


「お前も眠れ」


 ――銃声。

 放たれた魔断がインクブルの頭部に命中し、破魔の力がインクブルに作用する。

 糸が切れたように力の抜けるインクブル。


 地面に倒れ伏した二人は……それでも互いを抱きしめ合ったまま、眠りについた。

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