第143話 『パンダ』『キャメル』


「お、見たことない人発見やわ。お初です~」

 消去法で考えて……その男がパンダの言っていた、不可抗力で迷宮に入ってきたルドワイア帝国のエルダークラスの騎士であることは間違いなかった。

 その後ろには非戦闘員と思われる少女がおり、全身を海水でびしょ濡れになりながら半泣きになっていた。


 パンダの予想通り、いきなり大荒れの海に転移させられるという散々な目に遭ったようだ。


「……」

 ルドワイア帝国は魔人にとっての最大の脅威であり、ルドワイア帝国騎士団は魔人にも引けを取らない戦闘力を持った戦闘集団だ。

 その中でもエルダークラスといえば、高レベルの魔人であっても戦闘を回避すべき最悪の相手。

 インクブルとはまた違った意味で出会いたくない相手だったが……この迷宮に入ってからリュドミラの不運は尽きる気配はなかった。


「自分ら魔人やろ?」

「……」

 単刀直入に容赦のない問いかけ。

 パンダがあれだけこの男を毛嫌いしていた理由が、リュドミラにも一瞬で理解できた気がした。


「ならばどうする? ここで私と戦い、死ぬか?」

「雑魚に用はないねんけど、まあこれでもワシもエルダーやし、人間領に入り込んだ魔人は殺しとかなあかんよなぁ」


 リュドミラが殺気を込めて戦闘態勢を整え、その後ろでシェンフェルがいつでも魔法を発動できるように構えた。


「――ま、待ってください皆さん。今は私たちで争っている場合ではないと思います」

 剣呑な空気に怯えながらミサキが声を発する。

「今は、か……せやなぁ、別にこの迷宮を脱出してからこいつら始末すればええだけの話やしな」


 挑発するような笑みを飛ばすディミトリに、リュドミラは殺気を保ちながらも押し黙るしかなかった。

 ディミトリの言葉は正しい。まさにそれと同じことを、リュドミラはパンダにもしようとしているのだ。


 パンダはその話を飄々と笑いながらしていたが、こうして自分が狙われる側になった今、リュドミラはそれがどれほど図抜けた度胸がないとできないかを痛感した。

 少なくともリュドミラは、自身にとって最も致命的なその策を語るディミトリに、「それでいいから今は協力しよう」などと声をかけられそうになかった。

 ましてディミトリに背中を預けようなどとは到底思えない。この脅威は今この場で排しておきたいという気持ちを抑えきれなかった。


「……あの騎士と一対一で戦ったそうだな」

「見ての通り無傷やで。自分らは手酷くやられとるみたいやな」

「……」


 あの騎士と正面から戦って生き延びているというだけでこの男の強さは十分に測れる。今のリュドミラ達には太刀打ちできない相手なのは間違いない。

 それだけの戦力をここまでパンダが当てにしていない理由も、リュドミラは共感できた。この男には何か、本能的に隙を見せたくないという警戒心が芽生えてしまうのだ。


「はっ、その様子やと協力はできそうにあらへんな。まあええわ。こっちもあの騎士と戦う前に余計な消耗したないしな。この迷宮が終わるまでは生かしといたるわ」

 そう言い残してディミトリは二人に背を向けて通路を歩き始めた。

 まるでリュドミラ達など眼中にないと言うかのような無防備さ。いかに相手がエルダークラスの騎士とはいえ、人間風情に侮られるのはリュドミラのプライドに傷をつけた。


「……」

 ディミトリは丸腰で背を向けている。

 今すぐ素早く魔力弾を撃ち放てば、その無防備な背を強襲できるのではないかという誘惑がリュドミラの心を逸らせる。


 たとえこの迷宮を攻略できたとしても、今のリュドミラには神器の情報を魔王城に持ち帰るという重大な使命がある。この男はそのための、最後にして最大の障害となるだろう。

 可能であればここで殺しておきたい……。

 ――意を決し、リュドミラが魔力弾を撃ち放とうとし、


「――動いちゃダメっ、糸がある」


 焦燥感を露わにシェンフェルが言った。

 魔力感知に長けた黒魔導士であるシェンフェルは、リュドミラとシェンフェルの周囲を蜘蛛の巣のように包囲している魔力糸の存在を感じ取った。


 音もなく張り巡らされた不可視の魔力糸が数十本、リュドミラ達を完全に囲っていた。あと僅かでも身動きすれば鋭利な糸がリュドミラの肌を裂き、ディミトリの指先一つでリュドミラの首を切り飛ばせる状態にあった。


「…………」

 リュドミラの喉元を冷や汗が滑り落ちる。

 ……これが、このエルダーの能力。

 視認できない無数の糸で相手を絡め取る手法は、戦闘と同時に暗殺さながらの側面を併せ持つ。一瞬でも気を抜けば即死。戦士にとっては最悪の相手だ。


 先程までは、『インクブルを相手に生き残った』ことでディミトリの力を評価していたが、それもこの瞬間で裏返った。

 ――この能力を相手に、インクブルはいったいどうやってまともに戦ったのか?


「そこの坊主に感謝せえよ。そいつおらんかったら今頃お前死んどったぞ」

 リュドミラの方を振り返ることもせずディミトリは笑いながら歩みを進めた。


「貴様……!」

「なにがキサマやねんアホ。粋がっとんちゃう――」

 ぴたりとディミトリの歩みが止まる。

 その意図が分からず困惑する面々。ミサキも「ん?」とディミトリの顔を覗き見た。


 ディミトリの視線がゆっくりと宙を泳ぎ、やがて通路の左側の壁で止まる。

 他の者たちには何も見えていないが、既に迷宮に放たれていたマッピング用の魔力糸が、その方向から奇妙な気配を感じ取っていた。


「――――しまっ」


 ――直後、迷宮が激震した。

 何かが激しく破壊される音が連続的に響き、その一秒後にはディミトリの左側の壁が突き破られた。


 反射的に魔力糸を展開するが一歩間に合わず――壁から姿を現したインクブルの斧がディミトリの脇腹に直撃した。


 咄嗟に魔力糸で防御していなければ間違いなくディミトリの胴体を真っ二つに両断しただろう一撃。

 しかし衝撃までは殺せず、ディミトリが通路の奥へと吹き飛ばされる。


 壁中に飛び散る鮮血を見たミサキが悲鳴を上げる。

 ディミトリが吹き飛ばされたことで、その場にはインクブルとミサキが残される。


「――ガアアアアアアアアアアアアッ!!」

 インクブルの咆哮。戦う術を持たないミサキに、インクブルが容赦なく斧を振り下ろす。


 ぐん、とミサキの身体が一気に通路の奥へと引き寄せられ、インクブルの攻撃が外れる。

 謎の力に身体を引き寄せられながら、見えなくともそれがディミトリの魔力糸であるとミサキにも理解できた。

 地面を引きずられながら、ミサキはやがて通路の奥でうずくまるディミトリの元へとたどり着いた。


「ディミトリさ――」

 息を呑むミサキ。

 ディミトリの腹部は大きく引き裂かれ、一目見て命に関わる重傷を負っていると理解できた。

 地面に出来た血だまりの中に、ディミトリが自ら吐き出した血の塊が混ざり込んだ。


「アアアアアアアアア!」

 インクブルが叫び声をあげながら迫ってくる。

 その場にいる者たちは誰も知らないが、湖の回帰迷宮で神器の光に全身を侵されたインクブルは、今度こそ完全に自我を失って暴れ狂う猛獣と化していた。

 神器を握る右腕だけに留まっていた激痛が今では全身を襲い、インクブルが発する叫びは今までの咆哮とは違い悲鳴のように感じられた。


「どけっ……ミサキ……!」

 血を吐き出しながらディミトリが魔力糸を展開。

 しかし深手を負った今まともにインクブルを迎撃できるとは思えない。

 ……更に、ディミトリを襲う脅威はそれだけではなかった。


「――死ね」

 インクブルを挟んだ通路の向こうから、リュドミラが右手に膨大な魔力を蓄積しているのが見えた。

 ――発射。

 瞬間的に魔力を連射していた魔力弾とは比較にならない密度の、魔力砲とも呼ぶべき火力の一撃が、インクブル諸共にディミトリを襲う。


 たっぷりと時間をかけて凝縮された魔力砲は通路を突き抜け、インクブルに命中した。いかにインクブルが驚異的な反射神経を持っていたとしても、通路を丸ごと覆うような大きさの魔力砲は回避する術もない。

 その直線状にいたディミトリとミサキまでもがその標的となり、かつてない大爆破に迷宮が地震のように激震する。


 咄嗟に魔力糸で自身とミサキを絡め取りT字路の曲がり角の奥へと放り出す。

 間一髪直撃は免れたが、地面を転げる度にディミトリの傷口から大量の血が噴き出て壁や通路に飛び散った。


 同じく魔力砲の直撃を受けたインクブルにも甚大なダメージが及び、ガラガラと崩落する通路の瓦礫の中でしばらく動けなくなっていた。


「退くぞシェンフェル」

 リュドミラは追撃せず、踵を返して通路の奥へと消えていった。

 ここでインクブルを殺すのは予定していた手順と異なる。今はこの迷宮の最奥まで辿り着くのが先決だ。


 インクブルとディミトリのどちらにも深手を負わせることに成功した。その上この二人がここで潰し合ってくれるのであれば申し分ない。

 余裕ぶっていながら今では瀕死の傷を負ったディミトリを嘲りながらリュドミラとシェンフェルはその場から姿を消した。


「ディミトリさん! ディミトリさん!」

 地面に倒れ込むディミトリに駆け寄るミサキ。

 身体を揺するとディミトリは力なく上体を起こした。


「く、そ……あのボケ……!」

 姿を消したリュドミラに向けて悪態をつくディミトリだが、遠くで瓦礫が吹き飛び、その中からインクブルが姿を見せたことでそんな余裕もなくなった。


「チッ……!」

 ディミトリが右手を振ると、通路の床に一本の赤い糸が出現した。

 その糸は地面這うように伸び、通路の奥まで伸びていた。今までの見えない糸とは違い、この糸はミサキにも目視できるように赤く発光していた。


「この糸を辿れ……パンダさんが言っとった『空白地帯』に続いとる。あの騎士はワシが抑えとく……」

「そ、そんな! ディミトリさん、その傷では……!」

「ドアホ……! 足手まといやねんボケ、はよ行けや……!」


 ディミトリはふらつく足で立ち上がると、ミサキを通路の奥へ突き飛ばした。

「グゥウアアアアアアッ!!」

 ディミトリの姿を確認したインクブルが迫る。

 ミサキは、ぐっと歯を噛みしだいて通路の奥へ駆け出していった。


「すぐに助けを呼んできます! それまでどうか持ち堪えてください!」

 走り去っていくミサキの姿も確認せず、ディミトリは眼前の騎士にだけ集中した。

 窮地には違いないが、最初にこの騎士と戦った時と同じくフィールドはディミトリに有利だ。加えてあの騎士もリュドミラの一撃を直撃し少なくないダメージを負っている様子だった。


「こいやオラ……相手したる」

 インクブルの斧が降りぬかれ、無数の魔力糸が通路の空間を切り裂いた。






 迷宮の通路を走りながら、ミサキは懸命にディミトリが放った赤い糸を追っていた。

 ずっと同じような通路が続く中で、非戦闘員のミサキが一人で迷宮を歩くのは大きな心細さを伴ったが、それでもディミトリが残してくれた赤い糸を辿って迷宮を進み続ける。

 あの騎士はディミトリが足止めしてくれているが、逆に先程の魔人二人組と遭遇したら今度こそミサキの命はない。

 そんな危険を傍に置きながらもミサキが歩みを止めずにいられるのは、やはりディミトリの件があるからだ。


 ミサキは調査仕事をこなす際のディミトリの優秀さにもちろん全幅の信頼をおいているが、それにも負けないくらいディミトリの強さを信じていた。

 そんなミサキにとって、あれほどの重傷を負ったディミトリを見るのは初めてのことだった。


「誰か……誰か……!」

 あの状態のディミトリが一人であの騎士に太刀打ちできるとは思えない。

 すぐにでも誰か応援を向かわせる必要があるが、こんな迷宮の中で狙って誰かと遭遇するのは難しい。

 ミサキにはディミトリの赤い糸を辿るしか方法がなかった。


 ――そして幸運にもそれは実ることとなる。


「――止まれ」

 T字路を左から直進した際に、右に折れている分岐路の先から声をかけられた。

「ひっ!?」

 赤い糸だけを追っていたために、関係のない分岐路を無視してきたミサキは、急に声をかけられたことで悲鳴をあげて跳び退った。


 ミサキには突然の遭遇でも、相手からすれば迷宮を慌ただしく走ってくるミサキの足音はずっと聞こえていただろう。


「貴様か。一人で何をしている」

 そこにいたのは今ミサキが最も会いたかった人物……ホーク・ヴァーミリオンだった。


「ホークさん!」

 ミサキが目に涙を浮かべながらホークに駆け寄った。

 パンダと一緒にこの迷宮に入ったはずのホークに今まで一度も会えていなかったが、ここでようやく姿を確認することができた。

 この迷宮内で味方と思える者の中では、おそらく最も戦闘力の高い人物だ。


「ホークさん、お願いします! ディミトリさんを助けてください!」

「まずどういう状況か説明しろ」

「ディミトリさんが黒い騎士に襲われて重傷を負ってしまったんです。今は一人で応戦されていますが、あの傷ではいつまで持つか分かりません。お願いします、加勢してください!」


「マッピングはしているか? 助けようにも奴までの道順が分からんぞ」

「この赤い糸です! これはディミトリさんが放った糸で、『空白地帯』までの順路を示しています。これを逆に辿ればディミトリさんの元まで行けます!」

「……」


 事情は分かったが、さてどうしたものかとホークは思案した。

 エルダークラスの騎士でもついにインクブルを倒すことはできなかったか、と改めてインクブルの力を再確認するとともに、この状況がホークにとって……ひいてはパンダにとって有益かどうかを考慮した。


 パンダからの情報によると、ディミトリはパンダが魔人であることにすら気づきかけているらしい。

 魔人であるパンダにとって、エルダークラスの騎士にそんな形で目を付けられるのは厳しい。理想としてはディミトリにはこの迷宮内で死んでほしいところだ。


 一方で、この迷宮を攻略する上でディミトリの力が惜しいというのは間違いない。

 パンダ、キャメル、ホーク、リュドミラ、シェンフェル。これがパンダが想定している、インクブルを倒す上でのこちらの戦力だ。

 そこにオリヴィアの亡霊を加えてインクブルと戦闘したが……やはりインクブルは強かった。その戦力でも相当ギリギリだったのだ。


 迷宮に戻ってきたということは、今はもうオリヴィアはいないはず。戦力は更に乏しくなっている。

 そこにディミトリを加えられれば勝機は劇的に増加するだろう。


「……」

 ……が、ディミトリはそう簡単な人物ではない。


 パンダにとっては、自身の秘密を暴かれかねない危険な人物。

 リュドミラにとっては、インクブル以外で自分たちを脅かし得る強敵。

 インクブルにとっては、一方的に狩る側のはずの自分と唯一互角に戦える相手。

 そしてにとっては、『迷わせる』という根源的な理念を真っ向から否定する、糸によるマッピングという反則級の能力を駆使する侵入者。


 ディミトリはまさにこの迷宮にいる全員……ひいては迷宮そのものにとってのイレギュラー。あるいはジョーカーだ。

 そのジョーカーをどう切るべきか悩むホーク。

 戦略に組み込めれば強力だが、最後まで手札に残られると非常に厄介なカードでもある。


「……いいだろう」

 その上で、しばらく悩んだ末にホークはディミトリの救出を決断した。

 完全な合理的判断によるものではない。強いて言うならば、という考えだった。


 パンダならばディミトリすらも己の策略の内に組み込み、迷宮攻略の鍵の一つにするだろうという予感があった。

 手札に配られたジョーカーを、危険だからという理由だけでみすみす捨てるような真似をする女ではない。


「あ、ありがとうございます! 本当に、本当にありがとうございます! 宿ではあんな失礼なことをしてしまったのに……うわーん!」

 ダバー、と涙を流しながら何度も頭を下げるミサキ。

「宿……ああ、まあ、気にするな」

 そのやりとりは詳しく聞いていないホークがバツが悪そうに相槌を返す。


「お前はこの糸を追って『空白地帯』まで行け。そこにおそらくパンダがいるはずだ」

「はい! ご武運をお祈りしております!」


 ミサキが来た道を逆走していくホークの背中を、ミサキは熱い眼差しで見送った。

 この赤い糸の先にエルダークラスの騎士が敗れる程の相手がいると聞かされれば、普通の者であれば足がすくんでそんな場所に行こうとは思えないはずだ。

 だがホークは微塵も恐怖した様子も見せずに悠然と死地へ飛び込もうとしている。


 ――これぞまさに勇者の姿。

 ミサキは憧憬を込めて呟いた。


「ディミトリさん……ホークさんが魔人の仲間だなんて、やっぱりあるはずないですよ」






「私、やっぱりディミトリって好きになれないわ」

「なんでっすか? あたしはあのおっさん大好きっすよ」


 嘆息しながら迷宮を歩くパンダとは違い、キャメルは満面の笑みでディミトリを称えていた。


「だって見てくださいよこの赤い糸。これ絶対『空白地帯』に続く道しるべっすよ。マジサイコーっす!」

「だから嫌なのよ」


 湖からこの迷宮に転移してから、パンダとキャメルは数分と経たずに合流に成功した。

 同じ場所にいたはずのホークやインクブルの姿が見えないことから、おそらく今回は全員がバラバラの場所を出発地点として飛ばされたのだろうと考えていた。

 そう考えれば二人が早くに合流できたのは幸運だった。

 そうでなくとも今回、パンダとキャメルはやけに一緒に行動することが多かった。


 森では一緒にトラップゾーンを作成し、廃虚の町では二人で探索を進めた。

 迷宮から脱出した際も二人だったし、ディミトリの事情聴取も二人で乗り切った。

 そして最後の最後……迷宮のゴールである『空白地帯』でも、どうやらこの二人で仲良くゴールテープを切ることになるようだった。


 それは別にいいのだが、せっかく最後の迷宮なのだから自力で『空白地帯』に辿り着きたかった。

 ……が、突如パンダ達の背後から伸びてきたこの赤い糸。

 魔力の波長からしてディミトリの魔力糸であることはほぼ確定で、わざわざ見えるように赤く光っていることから何らかの道しるべであることは明らかだった。


 この迷宮において辿るべきルートなど『空白地帯』までのルート以外にないわけで、パンダの思いを嘲笑う様にディミトリは迷宮の正解ルートを提示してきた。

 間違い探しで正解の箇所に赤丸を記すくらいのマナー違反だとパンダは憤慨したが、そんなことを楽しんでいるのはパンダだけなのでディミトリの計らいはキャメルには大好評だった。


 せめてこの赤い糸が『空白地帯』までの道しるべではない可能性に賭けたかったが、その祈りも途絶えることとなった。


「あ! 姉御ほら! あたしらがつけた目印っすよ!」

「あー最悪」


 赤い糸を追っていくと、パンダ達が迷宮に刻んできた目印に辿り着いた。

 この目印を辿ればいずれ『空白地帯』まで辿り着ける。その予想通り、目印をなぞるように赤い糸は続いており、やはりディミトリの糸は正しく正解ルートを示しているらしい。


「全然最悪じゃないっすよ。むしろサイコーっすあのおっさん。海で溺れたせいで地図も全部なくなったんすからね? この糸がなかったらまた一からマッピングする羽目になってたっすよ」

「まあね……」


 キャメルの指摘通り、それはパンダにとっても痛い誤算ではあった。

 大荒れの海に放り込まれたことで、キャメルは持ち込んだ装備のほとんどを喪失してしまった。

 せっかく作った大量のトラップやアイテムを失ったこともそうだが、折角マッピングしてきた地図を失ったことはかなりの痛手だった。

 しかしあの状況では仕方がない。パンダもキャメルを咎めることはしなかった。


 やがて二人は目印の先端まで到達した。

 赤い糸はまだ奥へ続いているが、ここから先は例の転移結界によって立ち入れない可能性がある。

 あの湖の一件を考えればおそらく転移結界は消えているとパンダは予想していたが、念には念を入れることにした。


「ここから等間隔で目印を刻んでいくわ。あなたも確認してね」

「了解っす」


 キャメルは短剣を取り出すと、一定間隔で壁に傷を刻みながら進んでいった。

 そうして数十個の傷をつけた頃に、T字路に突き当たった。

 そこは目印が刻まれていない分岐路だった。


「……」

 パンダとキャメルは同時に振り返り、壁につけた傷を確認する。

 傷はしっかりと背後の壁に続いていた。つまり転移は起こっていない。転移に阻まれずに、今まで到達できなかった分岐路まで進むことができたことになる。


「よし、これで『空白地帯』に突入できるわね。赤い糸を追いましょ」

「マジナイスっすよおっさん! この迷宮で死んでくれればもっと好きになれるっす!」

「それは言えてるわね。……はぁ……『空白地帯』に進入するためにいろいろと模索してたのが馬鹿みたいね」


 この転移の壁を超えるために迷宮の法則を分析し、暴き出し、策を講じてきたが……結局は普通に正解ルートに沿って進むことになるのは、なんとも言えない徒労感があった。

 だがまあそれはそれでダンジョン攻略の楽しみだと考えることにした。

 攻略に向けて三日かけてあつらえた準備もほぼ無駄になり、予定していた計画や順序も大きく狂い、最終的には最もシンプルな形で迷宮を踏破する……それもまた良し。そんなダンジョンがあってもいいとパンダは気を取り直した。


「――ついたわ。ここが『空白地帯』ね」


 やがて二人は迷宮の最奥へとたどり着いた。

 直線が続いていた通路が一気に開け、四角く開けた空間が見えてきた。

 ディミトリから聞いた通り、一辺五〇メートルほどの広さを持った空間が広がっている。


 この場所こそが、本物のシラヌイが眠る迷宮の最奥だ。


「ゴーーール☆」

 ぴょん、と両足を揃えて跳び、パンダはその場所に飛び込んだ。

 それに続いてキャメルもその場所に踏み入り、二人は晴れて迷宮の踏破を成功させた。


「姐御、あそこになんかあるっすよ」

 キャメルが指差した先。『空白地帯』の奥に何かがあった。


「神器とシラヌイでしょうね。行ってみましょ」

 遠くてはっきりと見えなかったが、他のものは何もないのでそれで間違いないはずだった。


「じゃあ後はここにインクブルをおびき寄せて、シラヌイをぶっ殺した後にインクブルを倒せば迷宮完全攻略っすね!」

「そうね。ちょっと遠回りしちゃったけど、その順序はなんとか達成できそうね」

「はぁ~長かったっす。あとめんどくさかったっすね……『シラヌイを殺す前にインクブルを殺しちゃうとマズイ』んすよね?」

「みたいね。インクブルが神器に託した願いが正しく果たされないまま強制終了しちゃうから、迷宮は消えるかもしれないけどその迷宮の中に囚われてる私達まで無事かは保証できないって話だったわね」


「はーメンドッ。まあいいっす。こんだけ散々な目に遭わせてくれた礼っす、インクブルには目の前で愛しのシラヌイがぶっ殺されるとこをバッコリ見せてやるっすよ。ヒャハハハハッ!」

「――――ん? え?」


 不意にパンダが眉を顰める。

 何事かとパンダの顔を覗き込むキャメル。パンダは『空白地帯』の奥を凝視していた。

 つられてキャメルもそこを見てみると……確かにおかしなものがそこにあった。


「……は? なんすかこれ?」

 そこにはパンダの予想通り、神器とシラヌイがいた。

 シラヌイは瞼を閉じて横たわっており、胸にインクブルのものと同じ斧を抱きかかえている。

 ……が、問題はそこではない。


 ――シラヌイは、半透明なクリスタルの中に閉じ込められていた。


「……」

「……」

 シラヌイの身体を神器ごとすっぽりと覆うクリスタル。

 キャメルが試しに軽く叩いてみるとコンコンという音が響く。音だけでもそのクリスタルが硬質なものであると察せられた。


 周囲を見回してみても、この部屋には他に何もない。

 仕掛けらしきものもなく、ただこのクリスタルだけが単独で存在していた。


「離れて」

 パンダが背に装備したデスサイズを取り出し両手で構える。

 そのまま勢いよくフルスイング。

 ガキン、という甲高い音が響き、デスサイズの刃がクリスタルに当たって停止する。


 強力な魔導具であるデスサイズの刃を以てしてもクリスタルには傷一つついていなかった。


「……姐御。これ、どうやってシラヌイを殺せばいいんすか?」

「……」

 不安そうに尋ねるキャメルに、パンダもすぐには答えることができなかった。


 迷宮を攻略するための手順として、インクブルを倒す前にシラヌイを殺す必要があるというのは確認した通りだ。

 だがシラヌイを殺そうにも、こんなクリスタルがあってはそれも出来ない。


 パンダは深く長い溜息を吐きながら、クリスタルの中で眠るシラヌイをジト目で見遣った。



「――ちょっとシラヌイ。聞いてた話と違うんだけど?」

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