第142話 回帰迷宮-2
周囲を豊かな森に囲まれた大きな湖。そこが新たな回帰迷宮だった。
その湖のほとりに、インクブルとシラヌイの亡霊がいた。
衰弱した様子のシラヌイを、インクブルが必死に看病している。
瓶に詰められた液体をゆっくりとシラヌイの口元に持っていく。
〝――シラヌイ、薬だ。これを飲めばよくなるはずだ……!〟
「ならないねぇ」
それを少し離れたところから眺めながら、オリヴィアが言った。
「その様子じゃ毒を受けたようだが、その薬はポーション系のレシピで作る回復薬さ。解毒効果はないよ」
「この亡霊に言ったって無駄よ、オリヴィア」
海水をたっぷり吸い込んだ紫のゴシックドレスをぎゅっと搾りながらパンダが言う。
あの船の上では二人の亡霊には出くわさなかったが、今度は目の前にいた。
大方、追手の魔人に受けた毒をここで治療したのだろう。あの大荒れの海とは打って変わって穏やかな場所ではあるが、二人にとっては窮地にであることに変わりはなかったようだ。
〝――インクブル様……申し訳ありません……私ばかり、こんな……〟
〝――謝るな。俺の方こそ、お前を危ない目に合わせてばかりで……〟
弱々しく差し出された手を握り返すインクブル。
こんなことは二人にとっては日常茶飯事だったのだろう。どこまで逃げても魔人の追手は各地で現れる。森ではバルブルが、廃墟の町ではテラノーンがいたように。
「よく死なずにバラディアまで来れたものね。どうやって解毒したのかしら」
「この湖の苔を見てみな。青く光ってる奴があるだろ? この苔は近くにアオネソウって薬草がないと生えないのさ。その薬草に解毒作用があるから後々見つけて助かるんだろうさ」
「そういう知識ってやっぱり大切なのね。私も勉強しとかないと」
「あんたもインクブルと同じで、魔人に命を狙われてるんだってね。何しでかしたんだい」
「自由になりたかっただけよ。あなただって遠くない未来で、自分の研究に没頭して世界中を渡り歩くことになるんだから」
「……どうだかねぇ」
未来の自分の話をされても興味はないのか、オリヴィアは濡れて蛇のようになった癖毛を解いていた。
〝――インクブル様……私は、ここで死ぬのでしょうか〟
〝――馬鹿なことを言うな。もう一度あの子に会うんだろ。それまで死ぬな!〟
〝――はい……〟
力なくそう答えるシラヌイを、インクブルは優しく抱きしめた。
今まさに死に瀕している妻に自分がしてやれることがその程度だという事実に、インクブルは悔しそうに歯を噛みしだいていた。
〝――愛しています、インクブル様。あなたを愛しています〟
〝――俺もだ、シラヌイ。君と夫婦になれたことを、俺は一度だって後悔したことはない。……今は辛いが、いつかきっとこの旅が報われる日が来る。本当だ、約束する〟
「男ならできない約束するんじゃないよ」
オリヴィアがインクブルの誓いを茶化す。
彼女は他でもない、二人の旅の終着点に立ち会った魔人だ。その未来が報われないものであると理解しながら、こうして希望を語る者を見るのは後味が悪いのだろう。
「あんたらの旅はあの薄暗い遺跡の中で終わっちまうのさ。おかしな迷宮まで作って私を巻き込んでくれてんじゃないよ」
「それはどうかしらね。まだ二人の旅は終わってないわよ」
「ふん。この迷宮がどういう形で終わろうが、この二人が報われて終わることはないじゃないかい」
「そんなことないわ……全ては、これからよ」
パンダはそう言うと、励まし合う二人の傍に歩み寄った。
〝――死は恐ろしくありません、インクブル様〟
〝――シラヌイ……〟
〝――本当です。たとえどれだけ追手の魔人たちが強くとも、私は恐ろしくありません。あなたが傍にいてくださりさえすれば……。だから……〟
シラヌイはそっと、左手をインクブルの顔に近づけた。
〝――手を……握っていてください。そうすれば、私は……〟
そこまで言って、シラヌイは意識を手放した。地面に落ちそうになる手をインクブルが握り止める。
〝――ああ……俺はずっとお前の傍にいる。お前の傍で、お前を守り続ける。どんな敵が現れても、俺がきっと倒してみせる〟
そう言いながら、インクブルは自身の無力さに涙を流していた。
追手の魔人たちはいずれも自分よりも強かった。ここまで生き残れたのも奇跡としか言いようがないほどだ。
何度も死ぬような思いをしたし、それと同じだけシラヌイを危険な目にも合わせてしまった。
ここまでの道のりは長く、険しいものだった。だが、それでも……。
「でも楽しかったでしょ?」
パンダは優しく微笑みながらそう言った。
返答はない。それでもパンダは構わず続けた。
「どんなに辛い旅だって、死の間際に思い出して、楽しかったって笑えるなら――それで最高なのよきっと」
「……」
そう呟くパンダの姿を、オリヴィアは静かに見下ろしていた。
二人の旅はまだ終わりではないとパンダは言った。二人が報われて終わる未来はないというオリヴィアの言葉を、パンダは否定した。
「この二人にはまだ救いがあるってのかい?」
「あるでしょ、そりゃ。だってこの旅を振り返って評価できるのは、この二人だけなんだもの」
「死に際に満足できればそれでいいって?」
「ええそうよ。――だからこそ、こんな迷宮は作っちゃだめだったのよ。せっかくこの旅を思い返そうってときに、水差されちゃって台無しよ」
「……」
「この二人は死によってこの旅を終える……その不自由を奪っちゃだめよ。その悲しみも、無念も、二人の大切な宝物なんだから。未練がましく回帰なんかさせたら、二人の夢を損なうだけよ。――行きましょうオリヴィア。この迷宮を終わらせないと」
パンダは二人から離れると湖に沿って歩き出した。
「不自由、ねぇ……」
パンダの言葉に何か思うところがあったのか、オリヴィアは小さく嘆息した。
「それはあんたの父親……クロードヴァイネが一番嫌ってる言葉だよ」
「待って待ってちょっとタンマ!」
不運にもインクブルと遭遇してしまったキャメルは、すぐさま立ち上がるとインクブルから距離を取ろうとした。
だが背後は深い湖。左右に逃げようにも前方に陣取ったインクブルのせいでそれもできない。
周囲に人影は見当たらない。キャメル一人でこの魔人に太刀打ちできるはずもなく、キャメルにできるのは命乞いだけだった。
「か、勘違いしないでほしいっす! さっきあんたと戦ったのは、あんたを助けたい一心だったんすよ! もうこんなことやめて余生を幸せに送ってほしいからなんす!」
「……」
「てかあたしは直接は戦ってないっすよね!? ずっと見守ってたんす、あなたのことを! あたしはむしろあなたに勝ってくれって心の中で応援してたんすよ! あたしは味方っす! 一緒にあいつらをやっつけましょうよ!」
キャメルの必死の弁明も、そもそもインクブルには正確に聞き取れているかも怪しい。
それにしてはインクブルは先程までとは違い、無条件で襲い掛かってこない。それを訝しむキャメルは、すぐにその理由に思い至る。
インクブルの視線は、地面に横たわるシラヌイに向けられていた。
「!」
キャメルはすぐさまシラヌイの背後に回り込み、シラヌイを盾にする形でインクブルと対峙した。
「ほらこいつ! 分かるっすよね!? あんたの大好きなシラヌイっすよ! あたしを殺したらこいつも死ぬっすよ! いいんすか! あんたこいつを守るために戦ってきたんでしょ!?」
「……」
「おい起きろっすシラヌイ! 起きてあんたもこいつを説得するんすよ!」
ペチペチとシラヌイの頬を叩くと、シラヌイは小さく呻きながら瞼を開いた。
「インクブル……様」
「そうっす! 愛しの旦那様っすよ! ほらなんか言うことあるっしょ! ほら!」
シラヌイとインクブルが静かに見つめ合う。
先程まで猛獣のように暴れていたのが嘘のように、インクブルは穏やかな面持ちでシラヌイを見つめていた。
シラヌイは周囲を見回し、そこが見覚えのある場所だと気が付いた。
「インクブル様……覚えていらっしゃいますか、この湖……」
シラヌイの問いにも、インクブルは沈黙したままだった。
「大丈夫、絶対覚えてるはずっすよ。こんな綺麗な湖で男女が同じ時を過ごしたら、そりゃあもう脳みその中にずっぽり永久保存っすよ」
「私が毒を受けてしまい……この湖で休みましたよね。インクブル様は薬を作るために、森に薬草を探しに……」
「感動的な話っすねぇ~。そんな思い出の場所をあたしの血で汚すなんて絶対だめっすよね! とんでもないことっすよそれは!」
いちいち合いの手を入れるキャメルだが、インクブルには彼女の声などまるで聞こえていない様子だった。
「その時に私が言った言葉を、覚えていらっしゃいますか……?」
「――『死は恐ろしくない。手を握っていてくれるなら』」
囁くような声を発したインクブルに、キャメルとシラヌイが驚きの表情を浮かべた。
理性も自我も残っているようには見えなかったが、インクブルは今確かにシラヌイの問いに返答した。
「……はい。その通りです。そしてその想いは、今も変わっていません」
「……」
「インクブル様のお傍にさえいられたなら、私は……。ですから、もう……!」
「……俺は……戦い続けなくてはならない」
「何故ですか……インクブル様がこれ以上戦う理由なんて、もうありはしないではないですか」
その問いにインクブルは即答できなかった。
既にインクブル自身も見失ってしまった答え。記憶の中にそれを探すも、悠久の歳月に埋もれた答えを探し当てることはできなかった。
「迷宮に入った者を殺す……それが、俺の願い……だった気がする」
「――違う。お前の願いはそんなものじゃない」
不意に横から声が乱入してきて、全員がそちらを向いた。
近くにある雑木林から、ホークが姿を現した。
「旦那ぁ!」
キャメルが目尻に涙を浮かべながら大喜びしてホークを歓迎した。
これで少なくとも戦闘にもならない一方的な虐殺は防げる。そう喜ぶキャメルとは裏腹に、インクブルを前にしてもホークは銃をホルスターに仕舞ったまま、あえて戦う意思を見せなかった。
「思い出せインクブル。お前は目的と手段を混同させてしまっている。お前はただ、シラヌイが苦痛なく眠りにつくまでの猶予を願ったはずだ」
「……」
諭すように語り掛けるホークの声に、インクブルもまた先程までとは別人のように大人しくなっていた。
まさにパンダが望んだ通りに、シラヌイの言葉によってインクブルの暴走が止まりつつあるのだ。
「あんたが戦い続けるせいで、シラヌイは死ぬどころかもう三〇〇年も生きまくってんすよ! もう十分っしょ!? はよ死ねよお前らよぉ!」
「キャメル、黙れ」
「インクブル様、あなたはずっと……この迷宮を彷徨っています。ゴールに辿り着くことなく、ただ同じ道をずっと回帰し続けているのです。ですが……もう終わりにしましょう。私たちは……辿り着かなくてはなりません」
「……辿り着けない。誰も、シラヌイの元へは」
「それはお前の願い次第だ。この迷宮はお前とシラヌイの望みによって生み出された『法則』によって形作られている。お前が願うのなら、神器は応えるはずだ」
「……シラヌイには……誰も近づけてはいけないんだ」
「それはもう終わりでいいじゃないっすか! あんた十分戦ったっすよ! 臨機応変! 時代は変わってるんすよ!」
「お前の本当の願いはなんだ、インクブル。この三〇〇年、お前が願い続けてきたことは」
「……俺は……」
廃虚の町で、ホークはインクブルの願いを聞いていた。
シラヌイと共に我が子に再会し、家族で過ごしたい。インクブルの根源的な願いはそれだけだったはずだ。
シラヌイが死ぬまで戦い続けるというのは、あくまでもシュティーア遺跡での突発的な願いだ。その願いだけが神器に汲み取られ、こんな迷宮が生まれてしまった。
その歪みは今日、この瞬間まで続いている。それを正さなければならない。インクブルが叶えるべき、本当の願いによって。
「俺は……シラヌイに会いたい。彼女に……もう一度」
インクブルのその言葉に、シラヌイがそっと微笑んだ。
それはインクブルだけではなく、シラヌイの願いでもある。
キィン、とインクブルが握る神器がかすかに発光する。
まるで二人の願いを聞き届けるように、小さくも確かな光がその場を照らす。
「この迷宮を終わらせて……もう一度シラヌイと会えたなら……」
そこが終着で構わない、と。
言葉にしなくともインクブルとシラヌイの思いは通じていた。
たとえそれが死による終着だとしても、二人が共にあるのならばそれでいいと。
――自分の戦いはそこで終わりだ、と。
そうインクブルが口にしようとした、そのとき。
「――その願いは、承服できない」
その声は他でもない、インクブルの口から発せられた。
次の瞬間、光が炸裂した。
発光していた神器から、夥しいほどの光の奔流が巻き起こる。
その光を浴びた者たちは、誰もが本能的な恐怖に身を竦めた。
神々しい光が、世界を穢していた。
泥のような粘着質な光がインクブルの身体に浴びせられ、四肢を這いまわる。
神器を中心に旋風が吹き荒れ、インクブルを覆う。
それは眩く神々しい光でありながら、同時に氷のような冷たさを持っていた。比喩ではなく、物理的に冷気を帯びている。
「決して踏破できない迷宮を作り出し、そこに魔性の亡霊を配置し、狩る。永久に回帰し続けるその在り方は――理想的な処刑場だ」
インクブルの声でありながら、その言葉を発しているのがインクブル本人ではないことは誰にも直感できた。
――意思を持ち、自らで所有者を選ぶとされる神器……その意識がインクブルを操っているのだ。
「――ぐっ……!? あぐ、な、なんすかこれ……!?」
突然、キャメルが頭を抑えてその場にくずおれた。
アンデッドの身体を持ち、痛覚を持っていないはずのキャメルが、何かを苦しみながら地面をのたうち回る。
同時に、インクブルの身体が徐々に焼けただれていく。
今までは斧を握る右腕だけだったはずの損傷が、どんどんと全身に広がっていく。
魔人は神器を握っているだけで耐え難い激痛に苛まれるとパンダは語っていた。その痛みが、今インクブルの全身を襲っていた。
「……この光か」
これは間違いなく聖属性の光だ。アンデッドの肉体を持つキャメルには猛毒そのもの。
この斧は、性質としてはやはり強力な神器としての格を持っているのだろう。
……だが、これが聖なる武器であるはずがないとホークは感じた。
この神器が魔人であるインクブルを所有者に選んだ理由が今なら納得できる気がした。
これは……聖属性の魔導具なのだ。
魔人を殺すための、魔人の武器。
たとえ聖なる光で取り繕おうとも、その本質は間違いなく邪悪なものだ。
「迷宮を閉ざそうとも戦いは終わらない。終わってはならない。命の続く限り戦い続け、魔を殺し続ける」
「それが……貴様がインクブルと交わした契約か」
「引き換えにこの者の願いを叶え続けてきた」
「それは貴様の目的に沿う場合だけだろうがッ!」
怒りを露わにホークが魔法銃を抜き放ち、インクブルに向けて魔弾を発砲した。
だがそれらは全て、神器から発せられる光の帯に絡めとられて無効化された。
その場から一歩も動くことなくインクブルは悠然と佇んでいる。
「貴様が本当に意思を持ち、持ち主の願いを汲み取る神器なら――貴様にはインクブルの本当の願いが分かったはずだ! だが貴様は、貴様の望む迷宮を作り出すためにインクブルの願いを利用し、三〇〇年もの間彷徨わせ続けた。違うか!」
そう怒鳴りながらホークは魔弾を連射した。
その全てが神器の放つ光によって弾かれようとも、ホークは魔弾によって怒りを表し続けた。
「何故シラヌイを延命させた。シラヌイが生き続ける限りインクブルの戦いは終わらない。こいつの祈りは果たされない!」
「適格者の命を繋ぎとめたまで」
「何故インクブルまでをもシラヌイから遠ざけた! シラヌイの願いを果たすためにご丁寧に二人の亡霊まで作るなんて回りくどい事をしたのも、こうなるのを避けたかったからじゃないのか。シラヌイの言葉でインクブルが正気に戻らないように!」
「矛盾する二つの願いの整合をとったまで」
「――違うわね。あなたはただこの迷宮がお気に入りだっただけよ」
不意に割り込んできた声の方を向く面々。
そこにはオリヴィアと、不機嫌そうな顔をしたパンダがいた。
パンダはインクブルを……正確にはその奥に潜む神器の意識を睨み付けながら、こちらへ歩み寄ってきた。
「確かにこの迷宮は、魔人を処刑するという一点で理想的な環境よ。回帰する世界には必ず二人を追う魔人たちがいる。それを好き放題殺し回って、あなたは神器としての本懐を遂げてさぞかし満足でしょうね」
怒気を含んだパンダの言葉に、インクブルは眉一つ動かさずに直立していた。
「あなたは確かに持ち主の願いを叶えるアイテムなのかもしれない。けどそれはホークが言う通り、あくまでもあなたが楽しく魔人を駆逐できるように、よ。二人の願いの都合のいい部分だけ切り取って、ツケは全部二人に押し付けるなんてズルイわ」
「契約に齟齬はない。この者は全てを承知した上で契約に同意した」
「あっそ。じゃあ好きにすれば?」
「……パンダ?」
そっけなく返答するパンダに、ホークが怪訝な表情を浮かべる。
「どうせやることは同じよ。迷宮に戻ってインクブルを殺す。それで終わりよ。こっちはもとからこの迷宮のルールに則って正面から攻略するつもりだったんだから。この神器がどんなルールを敷こうが関係ないわ」
「……」
「本当はインクブルの暴走を止めてきっちり順序を踏みたかったけど、神器が出しゃばってきた以上はそれも無理ね。まったく……ゲームの最中に審判が飛び込んできて妨害してきたぐらい白けるけど、もういいわ、サクッと攻略しちゃいましょ。この光を浴びてると気分悪くなるし」
あからさまに不機嫌な様子のパンダ。
もし神器の妨害が入らなければ、インクブルは迷宮を消滅させることに同意しかけていた。
そうなっていれば完璧な形での迷宮攻略であり、それを神器そのものに阻まれたことがパンダには気に喰わないようだった。
「シュティーア遺跡に戻れない以上、『空白地帯』から出発する方法はもう出来ないわね。でもこの神器が優先するのはあくまでもインクブルの戦闘続行だけみたいだから、インクブルが『シラヌイの元まで辿り着く』ことを望んだ以上は『空白地帯』の転移結界も消えてるでしょうから普通に向かいましょ。――じゃ、オリヴィア、死んでくれる?」
「不機嫌になると真顔になって声に抑揚がなくなるところはあの小僧そっくりだねぇ」
オリヴィアは液体の入った小さな小瓶を取り出すと、蓋を開けた。
おそらくは安楽死用の毒薬だろうということは誰もが分かった。
「――オリヴィアさん」
オリヴィアがそれを口に含もうとしたとき、シラヌイが声をかけた。
「なんだい」
「あのとき……私たちを見逃してくださって、ありがとうございました。あれから、回帰でもお会いすることはなかったので……ずっとお礼を言いたかったんです」
「……あのとききっちり殺してりゃこんな面倒な迷宮も生まれなかったろうさ」
オリヴィアは一度鼻を鳴らすと、一息に液体を飲み干した。
そのまま地面に寝ころび、肘をついて横寝の体勢になった。
「寝る。後はあんたらで勝手にしな」
「お疲れ様。飛び入り参加なのに色々協力してくれてありがとう。助かったわ」
「二度と付き合わせんじゃないよ。あと、その鎌はちゃんと未来の私に返しな」
「あら? あははっ、悪趣味とか言ってたのに、やっぱり興味あるんじゃないの。――あ、死んでる」
キィン、と斧が更に発光し、世界が光に包まれる。
オリヴィアが死んだことでシュティーア遺跡の回帰が終了条件を満たした合図だった。
「なんというか……締まらんな、お前たちは」
「なんかグダグダになっちゃったわね」
当初パンダが想定していた順序が二転三転した結果、結局最もシンプルな形に落ち着いてしまったような、そんなグダグダ具合にパンダとホークが肩をすくめた。
「ま、長かった迷宮攻略もこれで最後よ。あとはインクブルを倒しておしまい」
「パンダさん……インクブル様をお願いします」
「ええ、あなたもお疲れ様。後は私たちに任せてゆっくり休んでちょうだい」
最後まで飄々と迷宮に挑み続けるパンダに、シラヌイは可笑しそうに一度だけ小さく笑うと、そっと目を閉じた。
やがて神器が放つ光が完全に世界を覆う直前、パンダとインクブルの視線が交わる。
インクブルは感情を窺わせない無表情。一方でパンダは冷ややかな視線でインクブルを……いや、インクブルを通して神器の意識を射抜いていた。
「――願いはあるか?」
不意にそう尋ねられ、パンダは思わず吹き出した。
「まだ
気が付くと回帰迷宮は終了し、迷路構造の迷宮に戻ってきていた。
その瞬間に立ち会えたパンダ達とは違い、リュドミラとシェンフェルは状況を飲み込むのに多少の時間が必要だった。
「……回帰が終わった……? 間に合わなかったようだな」
リュドミラとシェンフェルは大荒れの海の中で予想以上に遠くへ流されたらしく、次の場所に転移した際も湖付近ではなく、その周囲を囲む森の奥深くだった。
そのためリュドミラは次の転移先が湖だったということも知らず、森の中に転移したのだと考えていた。結局その誤解が解ける前に回帰自体が終了してしまったようだ。
「シェンフェル、もう一度探知魔法を放て。全員の場所を把握しておきたい。生き残りの数もな」
シェンフェルには既に森の中で既に探知魔法を使わせていた。それで感知した情報によると半数以上が今リュドミラ達が向いている方角に二〇〇メートルほど行った場所に集結していた。
回帰迷宮の終了地点がこの迷宮の出発地点になるという話が正しければ、このまま前進すればパンダ達に合流できるはずだった。
しかし……。
「……バラバラ」
「なに?」
「皆さっきと違う座標に飛ばされてる」
「……」
聞いていた話と違う。
パンダの推測が外れたのか、あるいは先程の場所で何か不測の事態が起きたか。
いずれにせよ迅速に行動する必要がある。出来れば今の状況を説明できる人物と合流したい。
「……二人以上で行動している者はいるか。一番近い座標を教えろ」
「すぐ後ろ」
リュドミラが振り返る。耳を澄ますと、背後の通路から小さな足音が二つ聞こえてきた。
誰かが近づいてきている。二人以上で行動しているということはインクブルではないようだが……。
「……貴様は」
やがて通路の奥から姿を現した人物を見て、リュドミラは警戒心を強めた。
その二人はこの迷宮に入ってから一度も見た事がない者たちであり……消去法でその人物の素性が明らかになったためだ。
「――あー……えらい目に遭うたで、ホンマ……」
魔人にとって最悪の敵。
エルダークラスの騎士が、びしょ濡れの髪をかき上げていた。
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