第141話 回帰迷宮
インクブルが振り下ろした斧が地面に激突する。
その衝撃で粉塵が巻き上がり――次の瞬間には、その粉塵は別のものへと変わっていた。
「――ッ!? ここは……!?」
真っ先に異常を感じとったのはホークだった。
目の前に立ち上った粉塵は、いつの間にか雪へと変わっていた。
肌を刺す寒さを感じて周囲を見回すと、そこは遺跡の中ではなく、吹雪の舞う雪山だった。
「はっ!? なんすかこれ!」
「転移……? ――オリヴィア!」
「怒鳴らなくたって居るよ」
パンダが声をかけると、背後からオリヴィアが答えた。
シラヌイやリュドミラやシェンフェルも含め、シュティーア遺跡の最深部にいた者たちは全て存在した。
シュティーア遺跡の回帰が終了したのかと思ったパンダだが、オリヴィアがまだいることでその可能性を排除した。
「アアアアアアアアアアアア!!」
突然の転移に動揺する面々だが、そんな余裕をインクブルは与えない。
雪を蹴り散らしながら突撃。標的は最も近くにいたホークだった。
「くっ……!」
ホークとインクブルの目線がかち合う。
割れたヘルムの下から姿を見せた騎士の顔は、紛れもなくインクブルのものだ。
回帰迷宮で出会ったインクブルはまだ若い青年だったが、今目の前にいるインクブルはそれよりも明らかに年齢を重ねていた。
墨のように黒い髪が顔を覆い、光をともさない瞳は暗くくすんでいた。
三〇〇年という時間を迷宮で彷徨い、その果てに狂気へと堕ちた魔人の姿だった。
「インクブル……!」
魔弾を連射して迎撃する。
取り戻したレッドスピアをここで使いたいのは山々だが、今のタイミングでインクブルを殺すわけにはいかない。
魔断は一撃でインクブルを殺してしまう強力な攻撃だ。それに破魔の力をあの斧に当てると世界が異常をきたすのも確認済みだ。今は下手に魔断を撃てない。
連射された魔弾をものともせず接近するインクブル。
ホークは後退しようとするが、雪に覆われた地面は足場が悪く俊敏な動きを妨げる。
ホークに斧が届く距離まで接近したインクブルが斧を振りかぶったそのとき、その横腹をリュドミラの鋭い殴打が狙っていた。
咄嗟に斧で防御し、リュドミラのパンチを受け止める。
そのタイミングでリュドミラは魔力弾を発射。その衝撃でインクブルを大きく後方へ押し飛ばした。
「シェンフェル!」
「うん」
リュドミラが指示を出したときには既に、シェンフェルがその場にいる全員に補助魔法を施していた。
「貴様……」
リュドミラに助けられる形となったホーク。リュドミラは僅かに移動し、ホークを右手側に置いた。
「私の後ろには立つなよ。背中を預けるつもりはない」
「……ふん。貴様こそ私の射線にふらふらと出てくるなよ」
再度突進を仕掛けてくるインクブルを、ホークとリュドミラが二人で迎撃に当たる。
その二人を後ろからシェンフェルがサポートし、その更に後ろにパンダ達がいた。
「姐御、これどういうことっすか!? なんでいきなり雪山に!?」
キャメルの問いにも答えず、パンダは思考を加速させていた。
遺跡から一転して、パンダ達はいきなり雪山へと飛ばされた。平らな雪原が続いており、戦闘には支障がないが、吹雪のせいで僅かに視界が悪い。
オリヴィアとシラヌイも変わらず近くにいた。
オリヴィアは興味深そうに周囲を見回していた。
「なるほどねぇ、これが『回帰迷宮』かい」
話の中でしか聞いていなかった迷宮の実態を初めて体験したオリヴィアも、これでいよいよパンダ達の話を信じるしかなくなった。
自分が神器の作り出した亡霊であり、死ぬ必要があるというのも納得できたようだ。
「で、私は死ねばいいのかい?」
「……今は待って。あなたが死ぬと回帰迷宮が終わるはずなの。だからそのタイミングで『空白地帯』に座標を合わせたいんだけど……」
そんな場合ではなくなった。場所は遺跡ではなく雪山。正しい座標など知りようもない。
予定通りインクブルが遺跡の最深部まで来るのを待ったというのに、ここにきてまさかこんな予想外が発生するとは思っていなかった。
「――これは、おそらく斧が暴走してるんです」
シラヌイが言った。
先程までは遺跡の床に腰を下ろしていたが、今では雪の絨毯の上で上体だけを起こしていた。
「神器が暴走?」
「……いえ、もしかすると、暴走しているのは……インクブル様自身なのかもしれません」
シラヌイの悲哀に満ちた眼差しは、目の前で暴れ狂うインクブルへと向けられていた。
「インクブル様……もう終わりにしましょう……貴方のそんな姿は、もう……」
そう呟くシラヌイの声も、今のインクブルには届かない。
ホークとリュドミラを相手に戦い続けるインクブルは、明らかに理性を保っているようには見えない。ただ本能のままに動くその姿は、まさに獣そのものだった。
〝――寒くないか、シラヌイ〟
そんな声が後ろから聞こえてきて、パンダ達は振り返った。
気が付くとそこは木造の家の中だった。さっきまで踏んでいたはずの雪の感触はなく、硬い木の床の上に立っていた。
後ろには二人の男女の姿があった。
インクブルとシラヌイ。二人は一つの毛布に包まりながら、部屋の隅でうずくまっていた。
〝――はい……ですが、少し……眠たいです〟
〝――駄目だ、眠るな。もう少しの辛抱だ。この吹雪なら奴らも追ってこれない。夜明けまで待ってここを出るんだ〟
衰弱したシラヌイの身体を、毛布の中で抱きしめるインクブル。
家の外は先程と同じく吹雪いていた。雪山で追手の魔人と遭遇したことがあったのだろう。この世界もまた、そんなシーンの回帰ということか。
突如として家の中に転移させられたのはリュドミラ達も同じだった。だがインクブルを前にそんなことに拘泥している暇はない。二人は構わずに戦闘を続けた。
「ちっ……!」
「ハァッ!」
ホークとリュドミラがそれぞれ魔力弾でインクブルを牽制する。
外れた魔力弾が家の壁を突き破る。家の中に吹雪が入ってきて、パンダ達は思わず顔を手で覆った。
閉所での戦闘を嫌ったリュドミラがインクブルを家の外へと押し出す。
それを追う形でホークも外へ躍り出てインクブルを狙い撃つ。
戦闘の余波で崩れていく家の中で、シラヌイとインクブルはまるでそんなことが見えていないかのようにじっと寒さに耐えていた。
「こいつら、あたし達に気づいてないんすか?」
キャメルが二人に手を伸ばすと、キャメルの手が二人の身体を、すぅ、と通り抜けた。
「うおっ、なんすかこれ! 実体ないっすよ!」
「神器が見せている幻ね。……『亡霊』だなんて、性質の悪い言葉遊びになっちゃったわね」
「――おいパンダ! どうするんだこれは!」
家の外からホークが怒鳴る。
リュドミラとシェンフェルを合わせて三人でなんとかインクブルを押しとどめているが、それもいつまで持つか分からない。
このままじり貧になるのは避けたかった。
「……」
「死ぬ準備は出来てるよ。いつでも声をかけな」
「……分かってるわ。ちょっと待ってて」
「……それにしても、自分が死ぬって話なのになんでそう平然としてられんすか。リュドミラといいあんたといい、魔人てこんなんばっかなんすかね」
キャメルはこう言うが、もしこれがオリヴィアでなかったらまた話も違っただろう。
聡明な彼女だからこそパンダ達の話もスムーズに理解でき、今の自分が神器が作り出した亡霊に過ぎず、死ぬしか選択肢がないことも納得できているのだ。
インクブルが遺跡の最深部に到達した時点で、死ねと指示を出せば即座にオリヴィアは自殺できただろう。
……だが今は状況が違う。
雪山に転移してしまい、『空白地帯』に進入するための座標が狂ってしまっている。今オリヴィアが死ねば、どんな座標で迷宮を開始することになるか予測がつかない。
「……いえ、そもそもこんな状態で別の転移を引き起こしてもいいの……? 神器は今まともに動く状態とは……」
「パンダ、早く決めろ!」
戦闘音に紛れてホークからの声。
パンダは唇を噛みながら最善策を模索する。
〝――すまない、シラヌイ。こんなことになってしまって……〟
〝――謝らないでください、インクブル様。私は幸せです……あなたと共にいられたら、それだけで〟
〝――シラヌイ……〟
〝――インクブル様以外の人に買われていたら、私は今頃生きてはいませんでした。でもあなたと巡り合って、恋をして、子供を産んで……あなたは私に、人として生きることを許してくださいました。人として……妻として……母として〟
〝――……〟
〝――だから、この旅がどんな結果に終わろうとも、私に悔いはありません。あなたと共にいられるなら……〟
「けっ、うっせーっすよ。今はそれどころじゃないんす。乳繰り合うなら余所でやれっての」
互いを慈しみ合う二人の亡霊の会話が気に入らないのか、ぺっ、と床の上に唾を吐き捨てるキャメル。
「でもその二人の絆ってやつに賭けるしかないわね。――キャメル、シラヌイを担いでインクブルのところまで連れていって」
「は!? あたしがあいつに近づいたらすぐ殺されちゃいますよ!」
「援護するからやって。シラヌイ、あなたはインクブルに声をかけて、なんとか彼を正気に戻して。迷宮を元に戻さないと次に進めないわ」
「……はい。やってみます」
決意を込めた返答を返すシラヌイ。キャメルは心底嫌そうにシラヌイを担ぎ上げると、ホーク達と戦闘を続けるインクブルの元へと向かった。
「オリヴィア、私たちも援護に向かうわよ。ただしあなたは後方支援に徹して。今あなたに死なれると困る」
「やれやれ。私の感覚じゃついさっきまで普通の世界にいたはずなのにねぇ。なんでこんなことになっちまったんだか」
肩を竦めながら歩き出すオリヴィアと共に、パンダもインクブルの元へ向かった。
木造の家を抜けて雪原に戻ると、そこは既に激化した戦地だった。
リュドミラとホークが前後からインクブルを挟み撃つ形で位置関係を保ち、シェンフェルが二人を援護する。
インクブルは多勢をものともせず近くにいる者に襲い掛かる。近接戦でインクブルとまともにやりあえるのは、かろうじてリュドミラだけだ。
リュドミラは自身がなるべくインクブルの標的になる距離を保ちながら、しかし接近し過ぎないように立ち振る舞っていた。
「おい、結局どうなった」
余裕のないリュドミラの声。
振るわれたインクブルの斧をなんとか回避しながらパンダに尋ねた。
「予定変更よ。今はとにかくインクブルを迎撃して」
「くっ……」
魔力弾を連射。だがその全てがインクブルの斧に弾かれる。
そのままインクブルがリュドミラに突進。リュドミラが迎撃の構えを取る。
「――『グラビティ・ボム・エンハンス』」
オリヴィアの魔法が発動し、黒い結界がインクブルをドーム状に囲む。
次の瞬間、ドーム内部に強力な重力が発生。雪の絨毯もろともインクブルを一気に押しつぶす。
がくんと膝をつくインクブル。その隙に各人がインクブルから距離をとる。
だがそれも一瞬。インクブルはその結界の中で自力で起き上がり跳躍。力技で結界の外へと脱出した。
その隙に魔弾をリロードし終わったホークが、背後から魔弾を連射した。
背後から放たれたにも関わらず、まるで見えているかのように巧みに回避行動をとるインクブル。
魔弾の弾道を瞬時に見切り、最小限の動きで行われる回避は一切の無駄がなく――故にパンダの餌食となった。
「よっと!」
くるりと振るわれるヴァルナワンド。
魔力を吸い寄せる性質を持つこの短杖に引き寄せられ、インクブルのフルプレートを撫でるように飛んでいた魔弾が軌道を変える。
「ガァッ――!」
回避したはずの魔弾が右わき腹を直撃し、インクブルが雪の上を転げる。
パンダ達がインクブルと出会ってから、初めてまともに攻撃が当たった瞬間だった。
廃虚の町でヴァルナワンドの効果を目にしたリュドミラですら瞠目した。
あのときはリュドミラの魔力弾をそらすことに使ったが、今度は逆に引き寄せてインクブルに魔弾を命中させた。
神業的な技術がなければ不可能な芸当だ。
だがホークは僅かも動じない。
パンダならそれくらいのことは軽くしてのけると知っていた。そのまま手を緩めず魔弾を発射した。
直撃した魔弾の衝撃からも一瞬で立ち直り、すぐさまホークの魔弾への回避行動をとるインクブル。
――それに合わせて、再びパンダがヴァルナワンドを振るう。
「――」
「――」
その瞬間――パンダとインクブルの視線が絡み合う。
ぞわりとした悪寒が背筋を走り、パンダは咄嗟に身をかがめた。
ヴァルナワンドに吸い寄せられた魔弾が軌道を変えインクブルに命中する直前、斧がその魔弾を弾いた。
いや、正確には斧の側面で魔弾を滑らせた。ホークも得意とする跳弾。それを、インクブルは意図的に発生させた。
そうして歪められた軌道は、まさに一瞬前のパンダの頭蓋を狙っていた。
もしパンダが咄嗟に身をかがめていなければ、今の一撃でパンダは死んでいただろう。
「なっ――!?」
その場にいる者全てに戦慄が走る。
ヴァルナワンドによる奇襲を受けたその一秒後にはもう、インクブルはその連携に対応してきたのだ。
魔弾の軌道をヴァルナワンドで逸らしてインクブルを狙うパンダの技術が神業ならば、その魔弾を更に神器で跳弾させてパンダを狙うインクブルの技量は尚、パンダの上を行っている。
技術だけでなく対応力も恐ろしく早い。
同じ技が二度通じない相手というのはよくいるが、それにしても対応が早すぎた。
「――アアアアアアアアアアアアア!」
魔弾を回避したことで体勢を崩す両者。しかしその立て直しもインクブルの方が早かった。
身をかがめたままのパンダに迫るインクブル。
背後からホークが魔弾を放ち、シェンフェルが魔力の鎖を生み出し捕縛を試み、リュドミラが全力を込めたパンチを繰り出し、オリヴィアが雷撃を落とし……その全てを一挙動で回避したインクブルは減速することもなくパンダに接近し、斧を振り上げ――
「――インクブル様!」
その声にピタリを動きを止めた。
停止は一瞬。だがその隙にパンダは離脱を果たした。
「もうやめてくださいインクブル様! こんなことは……もう……!」
キャメルに抱えられたまま、シラヌイは声を震わせてインクブルに語り掛けた。
「そんな姿になってまで戦う必要なんて……もうないんです、インクブル様!」
「その調子っすよシラヌイ! インクブルを萎えさせて神器の暴走を止めさせるっすよ!」
「キャメル、茶々入れるんじゃないの」
回帰で見るインクブルとは違う……経過した時間分、成長したインクブルの姿。
それはシラヌイにとって初めて見るものだった。
シュティーア遺跡でホークが言った言葉の意味が、ようやくシラヌイにもはっきりと理解できた。
三〇〇年という時間を迷宮で彷徨い、インクブルは摩耗し切ってしまっている。
こんなことを続けてはならない。迷宮を終わらせたいというシラヌイの切なる願いと――同時に、迷宮の存続を妄信的に願い続けるインクブルの暴走が相克する。
まるでシラヌイの声を振り払うようにインクブルは斧を振り回し、その風圧で地面の雪が舞い上がる。
それが再び地面へと落ちる前に――世界は再び姿を変えていた。
激しい水しぶきと共に、地面そのものがせり上がるような浮遊感。
雷鳴轟く嵐の夜。パンダ達は巨大な船の甲板上にいた。
「ふ、船ぇ!?」
全身に水しぶきを浴びながらキャメルが叫ぶ。
全長一〇〇メートルほどの大きな船の上に転移していた。
しかも最悪なことに見渡す限りの大海原。そして天候は大嵐。甲板は荒れに荒れていた。
そんな悪環境の中でもインクブルは構わず突進を繰り出した。
その目標はパンダ。どうやら彼の直感が、この中で最も迅速に倒すべき敵はパンダだと判断したらしい。
「『ハイ・ウォーター・バインド・フォース』!」
オリヴィアの魔法。甲板上の海水がぐにゃりと動き、たちまちインクブルを捕縛した。
さすがのインクブルもこの状況では回避し切れず、高密度の水の牢獄に閉じ込められる。
「このまま海に落としちまうかい」
「駄目よ。彼を正気に戻さないと神器の暴走が止まらないわ」
「ふん。――『ウォーター・ブラスト・フォ――」
インクブルを閉じ込めた水の牢獄を炸裂させようとした瞬間、水の中から一本のナイフが飛び出してきた。
インクブルが装備していた投げナイフの一つがオリヴィア目がけて突き進む。
予想していなかった反撃に動きを止めるオリヴィア。その眉間にナイフが命中する直前、ホークの魔弾がそのナイフを撃ち落とした。
「気を抜くな愚図が」
「……私は荒事は得意じゃないんだよ」
オリヴィアが怯んだ一瞬の隙をついて、インクブルが水の檻を内部から叩き割った。
脱出したインクブルは甲板に着地し、――その着地に合わせてリュドミラが背後から渾身の一撃を叩き込んだ。
拳がインクブルの背中に命中し、同時に魔力弾を発射。
激しい爆音と共にインクブルが吹き飛ばされる。船首から一気に船の中心部に向けて弾き飛ばされたインクブルは、三階建ての船の中へ消えていった。
リュドミラが放った大威力の一撃により船が大きく傾き、全員が体勢を崩す。
「ちょっとちょっと! 船を壊す気!?」
「加減ができる相手じゃない」
「うぎゃああ誰か助けてっすううう!!」
シラヌイを両腕に抱えたままのキャメルは何かにしがみつくこともできずに甲板上を転がり回る。
その背中をホークが踏みつけてキャメルを止めた。
せり上がった船首が落下し着水。激しい水しぶきが降り注ぐ。
「この船も迷宮の一つか……?」
「はい。よく覚えています。この船に紛れ込んで東大陸まで渡りました。ですが嵐に飲み込まれて……」
「あんたらの旅、波乱万丈すぎないっすか!?」
「いろいろありました」
「いいわねぇ、楽しそうな旅で。私も見習わなくっちゃ」
「その必要はないが、ともかく今までこの回帰に飛ばされなかったのは幸運だったな。こんな狭い場所ではろくに隠れられん」
ホークの言葉に、リュドミラが苦い顔で返答した。
「……いや、むしろ逆だな。この狭さではシラヌイの転移に阻まれた瞬間、海の上に転移させられていただろう。私たちこそ幸運だった」
「それを言ったら、ディミトリ達こそ災難ね」
「……あ」
パンダの言葉に、その場にいる者たちがそのことを思い出した。
パンダと一緒にこの迷宮に潜った最後の侵入者、ディミトリとミサキ。あの二人も同じく神器の暴走でこの場所へ転移してきているはずだが……船の上にはその姿がなかった。
もし同じ船に乗っているのであれば、彼が放つであろう魔力糸をパンダが視認しているはずである。
「きっと私達から離れてたから、海の上に転移しちゃったのね。今頃ミサキを抱えてこの大荒れの海を泳いでるわよあの男。――ざまあ(笑)」
「……あのエルダー、相当パンダに嫌われたようだな」
「で、どうするんだ。ここは場所が悪すぎるぞ」
リュドミラの言葉には誰もが同意するところだった。
ただでさえ大荒れの海を進む船は上下に激しく揺れており、まともに戦える状態ではない。
今はインクブルは船内に姿を消しているが、すぐに出てきて戦闘が再開するだろう。それまでに方針を固めておく必要がある。
「シラヌイ、あなたはとにかくインクブルに語りかけ続けて。同時に神器にも。なんとかして暴走を止めないと」
「はい……」
キャメルの腕の中でシラヌイは今にも泣きだしそうな顔で俯いていた。
「私……知らなかったんです。インクブル様が……こんな……こんなことに……」
「仕方ないわ。本物のあなたは迷宮の中で眠ってるし、唯一記憶を共有してるシュティーア遺跡のあなたは、見ての通り自分で歩くこともできない状態なんだから、彼のことなんて知りようもない。どうしようもないことよ」
「……皆さん、お願いします。インクブル様を止めてください。そして……私を、本物の私を殺してください。こんな迷宮はもう……終わらせなくてはなりません」
「当たり前っすよ。容赦なくぶっ殺してやるから覚悟してろっす」
キャメルがそう毒づいたそのとき――ズシン、という強烈な衝撃が響き渡った。
同時に、ぐん、と身体が浮き上がるのを感じるパンダ達。
見ると、船首が信じられない速度で上を向き始めていた。
爆音と共に、船の中央部分が弾け飛ぶ。そこは先程、インクブルが吹き飛ばされた辺りだった。
「――奴め……!」
「あー……最悪」
「なんすかなんすか! なんすかこれえええ!」
絶叫するキャメルは、次に信じられないものを目撃した。
船が二つに割れていたのだ。中ほどから真っ二つになった船は、その衝撃で船首と船尾がまるで鋏を閉じるようにそれぞれ上に向き始め、甲板が徐々に垂直に傾いていく。
「ちょ、これまさか!」
「インクブルが船を真っ二つに叩き割ったみたいね」
「ふざけんなあのクソ野郎おおおおおおお!」
床が九〇度近く傾き、パンダ達は甲板の上を滑りながら落下していく。
「海に飛び込んで! 割れた部分にはインクブルがいるはずよ。このまま滑ればあの子とかち合うわ!」
「チッ」
「やれやれ、最悪だねこりゃ」
「シェンフェル、私の手に掴まれ」
「うん」
各人はそれぞれ躊躇なく海に飛び込んでいく。
こんな状況でインクブルの元まで滑っていくくらいなら、嵐の海に生身で飛び込む方がよほどマシだという判断だった。
だがキャメルだけは安易に飛び込めない事情があった。
「あ、姐御! あたしはどうすれば!?」
「もちろん飛び込むのよ。ほら急いで」
「いやでも、シラヌイを抱えてて泳げないっすよ!?」
「絶対にシラヌイを離さないでよね。その子が迷宮の鍵なんだから」
「パンパンの荷物も背負ってるんすけど!?」
「気合☆ じゃ、お先~」
ひょい、とキャメルを置いてパンダは海に飛び込んだ。
「――ざっけんな! いつか絶対ぶっ殺してやるからなこのクソガキいいいい!!!」
キャメルは半泣きになりながらバッグの中身を漁った。
邪魔なものは次々と外に放り出し、目当てのものを手繰り寄せる。
備えあれば憂いなし。こんなこともあろうかと三日もかけて迷宮攻略の準備を進めてきたのは伊達ではない。
水中でも呼吸可能になるマスクを取り出し、すぐさまシラヌイに装着。
「むぐぅ」
「これつけてれば呼吸できるからパニクって暴れんじゃねえっすよあぶぶぶぶー!!」
沈没していく船の上で出来たことはそこまでだった。
シラヌイと共に海の中に放り込まれたキャメルは、なんとかシラヌイを離さないように左手でガッチリと腰を捕まえる。
「ガボボボボー!」
アンデッドの肉体を持つキャメルは水中で溺れ死ぬことはないのが不幸中の幸いだった。
開いたバッグから様々なアイテムが水の中へ零れ落ちていく。
それを防いでいるような余裕はない。キャメルは素早くロープを掴むと、自身とシラヌイの身体をきつく結んだ。
大荒れの海の中はまさに混沌としか言いようのない状態だった。
全くコントロールの利かないまま水の中で振り回され、流れてきた船の瓦礫が体中にビシバシと命中する。
見上げると水面は数十メートル頭上にあった。なんとかして上がりたいが、肩に下げているバッグとシラヌイの体重でむしろ沈んでいく。
「ガンガボー!」
沈んでいく船の船体に向けてワイヤーを射出。ワイヤーが固定されたのを確認すると一気に巻き取り、それにより二人の身体がぐんぐんと上昇していく。
いくら呼吸ができるアイテムを使っているとはいえ、シラヌイは自分で動くこともできないような状態なのだ。このまま水の中にいればいつ死んでもおかしくない。
そうなればパンダからどんな恐ろしい罰が言い渡されるか分かったものではない。一刻も早く安全を確保しなければ。
「ンガー!」
ワイヤーで上昇する慣性をそのままに一気に水面まで浮上することに成功。
ガバッ、と水をかき分けて顔を水面に出すが、すぐさま高波がキャメルを襲う。
それでもめげずに浮上を試み続け――
「ぶはぁっ! ――――は?」
――気が付くと波はすっかり穏やかになっていた。
いや、それは正確ではない。
そこは海ではなかった。先程までは地平線以外に何もなかったが、そこは四方を陸地に囲まれており、嵐もなければ雷鳴もない。
穏やかな太陽の陽ざしが降り注ぐ、美しい湖だった。
「……また別の場所に転移……したんすか?」
幸い陸地は近かったのでそこまで泳ぎ、急いでシラヌイを水中から引き上げる。
「生きてるっすかシラヌイ!?」
シラヌイは呼びかけに答えない。生きてはいるようだが意識を失っていた。
「チッ、マジ足手まといっすねお前! あーもう誰か近くにいないんすか?」
パンダ達とは海で離れ離れになってしまった。
誰かと合流しておきたい。
「ん?」
キャメルの願いに応えるように、背後に何者かの気配。
ぴちゃぴちゃという水音。間違いなくあの海に飛び込んだ者の誰かだ。
「よか――――あっ」
喜んで振り返ったキャメルを出迎えたのは――墨のような漆黒に淀んだ、インクブルの眼差しだった。
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