第四章 回帰迷宮の亡霊

第99話 幕間-末期の祈り


 どくどくと流れ出る血が、自分の命が残り少ないことを教えてくれる。

 長く険しい旅の終わりがついに訪れたらしい。


 死は恐ろしくない。

 それに相応しいだけの罪を犯した自覚はある。

 俺には彼らの怒りによって裁かれる覚悟がある。


 ……だが。


 視線を横に向けると、愛しい妻の姿があった。

 弱り果て、力なく眠りにつく最愛の女性。

 彼女は俺と運命を共にすると誓ってくれた。ならばここで命尽きるのも、彼女の本望なのだと信じたい。


 ……だが、それでも。

 彼女が眠りにつくこの最後の時。その瞬間だけは平穏であってほしいと……そう願うのは罪人には過ぎた望みなのだろうか。

 これ以上の痛みも恐怖も感じることなく、穏やかな夢の中、添い遂げると誓った夫の腕の中で、静かに生涯を終える。

 そんなささやかな祈りさえ叶わないほどの罪を、少なくとも彼女は犯していないはずだ。


 人並みの幸福など望んではいない。

 天寿を全うできるとは思っていない。他者に傷つけられ、弱り、力尽きていく死に様も、いつか訪れると予想していた結末だ。

 この暗く冷たい石の床で、人知れず死を待つ運命を、俺達は受け入れた。


 その上で、最後の一時……死の間際に微睡む刹那の夢の中でくらい、愛する者に平穏があって欲しいと……そう願うことが罪だというのか。


 だが彼らは決して容赦しないだろう。

 彼らがここまで辿り着けば、一切の情けもかけず、俺達は苦痛の中で死に絶えるだろう。


 ――ああ、誰か。

 誰かこの声が聞こえるか。

 誰でもいい。この俺の……生涯最後の、たった一つの切なる願いを聞いてくれ。


 もし聞こえるのなら、少しでいい、時間をくれないか。

 生き延びるためではない。ただ妻が眠りを終え、息を引き取るその間だけでいい。


 ――彼らを、この場所に近づけないでくれ。


 そのためであれば、俺はどんな苦しみにも耐えられる。

 だからどうか……。


 ……そう祈り、俺は小さく笑う。

 この暗い闇の中で、一体誰が俺の声を聞き届けるというのだろう。

 無駄なことだと知りながら、それでも静かに祈るしかなかった。


 祈るだけならば自由だ。どうせ死ぬまでに出来ることなどもう何もない。

 ならばせめて、何か突拍子もない祈りでも捧げてみよう。


 ……そうだ、ならばこの場所が、彼らに辿り着けないほどの……



 ――広大な迷宮であれば――











 ――ああ、また誰かが来た。

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