第79話 『差』


 ラトリアが自身にいくつもの補助スキルを施す。

 そのほとんどが俊敏性を上昇させるもので、かつ『先読み』スキルも発動させた。


 ラトリアとムラマサが対峙するのはこれが二度目だ。

 ……無論、二年前のあの一幕を『対峙』と呼ぶのであれば、だが。

 ムラマサがどのような戦法を用いるか、ラトリアは十分に把握していた。


 ムラマサは今時珍しい、前時代的な剣士だ。

 昨今、剣士と言ってもバリエーションに富み、魔法剣や特殊なスキルを用いての戦法が好まれるようになってきた。

 そんな中でムラマサの戦い方は、極限までシンプル。


 とにかく斬る、だ。


 その長刀の間合いに入ったものを区別なく斬り捨てる。ただそれだけ。

 そんな時代遅れの剣士が何故魔族四天王として君臨できるのか……その秘密は、彼の持つ速度にある。

 規格外の速度で放たれる神速の一撃は、あらゆるスキルに先んじて相手を両断する。

 ただそれだけを極限まで積み上げた、斬撃の化身。それがムラマサという剣士だ。


 それに対抗するために、ラトリアもこの二年ひたすらに速度を上昇させてきた。

 今では速度で劣るはずの大太刀でもって、拳で戦うグレイベアと同等の高速戦を可能とするまでに至った。


「――行くぞ!」

 裂帛の気合と共にラトリアが疾走する。

 一瞬でムラマサに接近し、来るであろう斬撃に備える。


 ムラマサが不敵に笑い――


「――ッ」

 ラトリアの卓越した動体視力が、鞘から抜き放たれた長刀の軌跡を捉えた。

 その軌道上に大太刀を合わせ刀を弾く――そう動こうとしたラトリアの『先読み』スキルが、有り得ないものを捕捉した。


 ムラマサの放った斬撃の軌道が二つに割れた。


 ――いや、正確には二つに割れたのではなく、有り得ない速度で二連撃を放ったのだ。それがほぼ同時に思えるほどの速度だったために割れたように錯覚したのだ。


 ほとんど本能的にラトリアはそのどちらにも対応した。

 一つはラトリアの大太刀を。二つ目はラトリアの右肩を狙っている。大太刀を弾いて無防備になった胴体を狙うという、それ自体はシンプルな戦法。

 だがそれも異常な速度で放たれば、それだけで必殺。

 その斬撃に、ラトリアはなんとか食らいつき――


 ――有り得ないタイミングで放たれた三撃目に戦慄した。


 現実味の感じられない奇妙な光景。

 剣というよりも弓を相手にしているような感覚。本来一本しかない刃は、どれだけ早く剣を振ろうとも順番に、連続的にしか攻撃できないのが道理だ。


 しかしムラマサのそれは、まるで同時に放たれた矢。一撃目の軌跡がラトリアに届くよりも先に二撃目が放たれているようにすら感じられた。

 そんな二つの斬撃を置き去りにするように放たれた三撃目が、信じられないことに他の二撃よりも先にラトリアを襲った。


 有り得ない順序で襲い来る斬撃。

 時空を歪めたのではと錯覚するほどのそれらは、もはや斬撃という概念を超越している。


「ッ、――ァアアアア!!」


 ほとんど身体が動くままに、ラトリアは全力で大太刀を振るった。

 甲高い金属音。三つ鳴ったはずだが、間隔が短すぎたために一つの音となって響き渡った。

 だがラトリアの腕には確かに、三つの衝撃があった。


「おお!? やるう!」

 

 子供のようにはしゃぐムラマサ。

 それとは対照的に、ラトリアの体中から大量の冷や汗が流れ出す。


 二年前、ムラマサの斬撃を傍目で見ているだけだったラトリアにとって、今の交差が初めてムラマサの刀を体感した瞬間だ。

 ――見るのと体感するのとではこれほどまでに違うのかと、ラトリアは生唾を飲み込んだ。


 ほぼ同時と言える速度で三つの斬撃を放ってみせた神速の魔人、ムラマサ。

 だが一方でラトリアはある種の達成感も感じていた。

 為す術がなかったあの頃とは違う。自分は今、あの神業的な斬撃を凌いで見せた。


 決して勝ち目のない戦いではない。自分の剣は、あのムラマサと伯仲している――



「――



 ぶしゅ、とラトリアの身体から微量の血が噴き出した。

「……え?」

 微かな痛みを感じて視線を落とす。


 左の太ももと、右わき腹。

 そこに浅い切傷があった。


「――」

 何故そんな個所に傷を負ったのか……それを理解した瞬間、ラトリアは心臓を鷲掴みにされたような悪寒に思わず仰け反った。


 この傷は、あの三つの斬撃によるものではない。

 あの攻撃は弾いたし、そもそもあれらはこんな個所を狙ってはいなかった。


 ――ムラマサはあの一瞬、の斬撃を放っていたのだ。


 内二つは、視認すらできなかった。

 あの三連撃だけでも常軌を逸した神業だというのに、その隙間を縫って更に二発。


「……馬鹿な」

 あの斬撃に『隙間』などない。ほぼ同時と言えるほどの密度の斬撃にそんな余地はないはずだ。


 何より、『先読み』スキルですら見切れなかったという絶望がラトリアを怯ませた。


 このスキルは相手のいかなる挙動も、相手が動き出すよりも先に見切ることができる優秀なスキルだ。

 あの灰色の魔人、グレイベアの連打ですら完璧に見切って見せた、ラトリアの切り札。

 それでも見切れない斬撃など……どうすれば対処できるというのか?


「……貴様……!」

 だが、最もラトリアの逆鱗に触れたこと。

 それは、ムラマサが『手心を加えた』ということだった。


 ラトリアに刻まれた二つの切傷は、明らかに命を刈り取るためのものではない。

 視認すらできなかった攻撃だ。ムラマサがその気になればその二撃で致命傷を与えることも可能だったはず。

 だがムラマサは必殺を狙わず、ただラトリアが五つの斬撃の内、幾つを見切れるか、それを確認しただけだった。


「三つか。――じゃ、そんくらいで」

 ラトリアの力量に合わせて戦ってやる、と。

 そんな安い挑発に……それでもラトリアの脳が煮える。


「舐めるなあ!」

 怒りに任せてラトリアが突進。

 再びムラマサに斬り込む。

 先ほどの攻防を再現するかのように迎え撃つムラマサの斬撃。


 相も変わらず冗談のような速度。

 それを必死に弾こうと試みるラトリアではあったが、怒りに集中力を損なっていたラトリアは三つ目の斬撃を見逃した。


「ぐっ……!」

 右肩に刻まれた斬痕は先程よりも深い。

 痛みに気を取られたラトリアの、その一瞬を突く巧みなムラマサの斬撃。明確な殺気がラトリアの首を狙っていた。


 生存本能だけが独りでに動いたような挙動で後ろに飛び退る。間一髪で長刀の射程範囲から離脱するが、またしても両者の距離が開く。


「……はあ……はあ……!」

 焦りで沸騰しそうになる頭を何とか抑え込む。

 今ムラマサが放った連撃は三つ。

 それがラトリアが対応できる限界だと知ってか、それ以上の密度で攻撃してこなかった。


 だが実際には、その三連撃ですら必死。

 先程は奇跡的に防御に成功したに過ぎないレベルだ。

 ラトリアの持つあらゆる能力を限界まで酷使し、極限の集中力を以て対処して初めて防げるという領域。


「ちょいキツイ感じ? もうちょっと緩めの方がいいか? リクエストあったら聞くぜ」

 あくまで余裕を崩さないムラマサに、ラトリアは屈辱感に満たされる。

 歯を食いしばり耐える。心を揺らしてはいけない。そんな余分な感情にリソースを割いては、ムラマサの斬撃は絶対に見切れない。


 ムラマサは初めと同じ位置から一歩も動いておらず、攻めあぐねるラトリアに追撃しようとしなかった。

 準備が出来たら来い……そう言わんばかりの態度。


「くっ……! ――おおお!!」

 三度目の踏み込み。

 今度は不退転の心構えで突撃した。

 仕切り直しに意味はない。距離を開けることは延命に過ぎない。ムラマサを倒すには、その剣技で以て彼を上回るしか他にない。


 白刃が交差する。一瞬の内に刻まれた剣閃は合わせて六つ。

 ムラマサが放った斬撃を全て見切る。

 『先読み』はまだ活きている。極限の集中力で迎え撃てば、ギリギリ見切れる速度。

 ――他ならぬムラマサがそのように力を調整しているのだ。


「うはっ! いいねえ、ちゃんと見えてんじゃねえか! 強え強え!」

 呑気にはしゃぐムラマサ。

 ムラマサにしてみれば、彼の剣戟をかろうじていなせている時点でラトリアの実力は評価に値する。

 期待以上の獲物だ。並の者ならばその一刀すら見切れず死ぬ。


 かつてのラトリアもそうだった。

 だが今は違う。20ものレベルアップにより超人的な力を手に入れたラトリアならば、ムラマサの速度に追いすがれる。


 しかし現状、そこが限度であることはラトリアも察していた。

 ラトリアがいざ決死の覚悟で距離を詰めようとする度に、ムラマサの長刀が巧みにラトリアを牽制する。

 迎撃に徹するムラマサには、ラトリアを仕留めようという意思を感じられない。

 ただ刃を打ち合わせることそのものを楽しんでいるだけのように思える。


「……っ!」

 だがそれでいい。

 侮られている今が好機。ムラマサは確かに強い。その力はラトリアをハッキリと超えている。

 だが強者は常にその傲慢で身を滅ぼす。その緩んだ足元こそが勝利への一歩。


 ――そう信じるラトリアを嘲笑うかのように、次なる連撃が迫る。

「くっ!」

 咄嗟に防ぐ。だがその瞬間には次の斬撃がラトリアの首を狙っていた。

 既に一刀一足の間合い。相手の獲物はあの長刀だ、回避はできない。

 ならば弾き飛ばして更に前進するのみ。


 そして次の瞬間、ラトリアが待ち望んだ攻撃が来た。

 『先読み』が見抜いたその斬撃の軌跡は、ラトリアの左腕を狙っていた。

 ――これこそが傲慢。ムラマサの弱さだ。

 ラトリアをからかうような、気の緩んだ狙い。ムラマサはラトリアの気迫を侮った。


 ……腕の一本くらい、くれてやる。


 ラトリアは怯まなかった。

 その斬撃を防がず、代わりに決死の刺突を見舞う。

 二つの刃が交差し、片方は腕を、そしてもう一方は無防備な喉元を狙う。


 ――獲った!


 ラトリアが確信したそのとき。


「よっと」


 ――冗談のようなが繰り出された。


「え」

 事態が飲み込めず呆けた声を漏らすラトリア。

 刺突のために踏み込んだその右足を、ムラマサの左脚がひょい、と絡めとった。


 『先読み』は未来を視る力ではない。

 相手の微細な筋肉の動きや視線などから、一瞬先の動きを予測するスキルだ。

 今の瞬間、ムラマサは斬撃を放つつもりでいたはずだ。『先読み』は間違いなく発動し、ラトリアにはそう見えた。


 だがラトリアの狙いが捨て身覚悟の刺突であると、即座に次の攻撃へ切り替えたのだ。

 それは間違いなく『思考』に基づく判断のはず。

 だからこそ信じられない。


 相手の狙いを読み切り、対応策を考え、予定していた行動をキャンセルし、別の攻撃に切り替える。


 その判断は、ムラマサの中でコンマ一秒にも満たない神速の世界で行われているのだ。


「――」

 ……負けた。

 足払いによって態勢が崩れたラトリアは、刺突を外したばかりか無防備な身体をムラマサのすぐ目の前に晒している。

 刀鬼の魔人を前にそれは死と同義。

 ムラマサの刀がひゅん、と風を斬り――



「――ほい、俺の勝ち」



 こつん、と長刀の柄頭がラトリアの額を小突いた。


「――」

 何をされたのか理解できず、ラトリアは片膝をついたまましばし呆然としていた。

 その間にムラマサは数歩下がり、再びラトリアから距離を取った。

 仕切り直すつもりのようだが、理解不能だ。彼が何を考えているのか、ラトリアには全く分からなかった。


「……何故……殺さない」

 勝負はついた。ラトリアを生かしておく意味など何もないはずだ。

「まさか、二度も……二度も私を見逃すつもりか。私ではまだ不足だと……斬る価値もないと、侮るつもりかッ!?」


 それは敗北よりも呪わしい答え。

 汚名を被り、家から追い出され、生き恥を晒し、……それでもいつかムラマサをこの手で倒すために地獄の日々を乗り越えた。

 そんなラトリアでもまだ敵としてすら見做されないなど、あまりに残酷過ぎる。


「いや? 強えよお前。自信持てって」

 だがムラマサはあっけらかんと言い放った。


「二年前のあのへっぴり腰が嘘みてえだ。見違えたよ、お前」

「ならば……何故だ! 何故私に情けをかける!」

「いやあ、正直これは完全に俺の都合なんだけどよ」


 ムラマサはおどけるように笑いながら――懐から無造作にタバコを取り出した。


「実はよ、俺いま禁煙命令だされてんだよね」

「……?」

「仕事中は全面禁煙。たまんねえよマジで。でも、一つだけ特例を貰ってな。は吸ってもいいとありがたーいお言葉をいただいたのさ」


 ムラマサは嬉しそうにタバコを一本取り、口に咥えた。

 続いてマッチを取り出して火をつける。


「とはいえ、俺とまともに『戦闘』できる奴なんてそういねえ。だから諦めてたとこなんだが……」

 タバコに火をつけ、ムラマサは心底旨そうに煙を吐き出した。

「ほんと、よく来てくれたよ。お前みたいな騎士なら大歓迎さ。――さあ、もちっと遊ぼうぜ」


 ムラマサの言葉を理解するために少なくない時間が必要だった。

 だが要約すれば単純。


 ――お前と戦っている間はタバコが吸える。だからすぐには殺さず、もうしばらく遊んでやる、と。


「貴様は……どこまで……」

 ラトリアが立ち上がり、殺意に濁る瞳がムラマサを睨む。

 怒りに燃える拳が、握る大太刀を震わせた。


「どこまで私を愚弄するつもりだッ!」

 白刃が奔る。

 エルダークラスの騎士の名に恥じない連撃。しかしムラマサの剣技はそれを軽く凌駕する。

 ラトリアの連撃をことごとく弾き、返す刃がラトリアの首を狙って奔る。


 大太刀を上段に構えてその一撃を防ぐと同時に、右脚に痛み。

 全く気付かない内に脚を軽く斬られていた。


 脚の痛みに思わず意識が下に向く。その愚鈍を詰るように、続く刃がラトリアの右肩を狙っていた。

 咄嗟に防御するが不完全な姿勢で弾いてしまった衝撃で体が僅かに仰け反り、その無防備過ぎる腹をムラマサの前蹴りが捉えた。


 鋭い蹴りにラトリアの身体が数メートル後方に吹き飛ばされる。

「くっ……!」

 右脚も、右肩も、今の蹴りも。

 いずれもラトリアの命を狙ったものではない。明らかに意図的に致命傷を避けているその攻撃は、ラトリアへの挑発に他ならない。


「貴様には剣士としての誇りはないのか! 何故ここまで私を辱める!?」

「誇り? 悪いな、俺には無縁だ」

「っ……!」

「てかあんま気にすんなって。俺、誰に対してもこんな感じだから、俺の言うことなんていちいち真に受けねえほうがいいぜ」


 すぱー、とタバコを吹かしながら笑うムラマサ。

 確かにその姿からはラトリアへの悪意は感じられない。ただ今この瞬間を楽しんでいるだけの少年のようにすら見えた。

 だがだからこそラトリアは怒りに燃えた。この期に及んでまだラトリアを敵として認めていないのだ。


「――『エア・スラッシュ』!」

 もはや語るだけ無駄と、ラトリアは攻撃に転ずる。

 一〇メートル近く離れた距離であってもラトリアにはいくつか攻撃手段がある。

 その一つが『エア・スラッシュ』。剣から斬撃の風を飛ばすスキルだ。

 低レベルの内から習得できるスキルの一つだが、ラトリアほどの剣士が使えば大岩程度なら真っ二つに両断できる威力がある。


「おいおい」

 苦笑いを浮かべたムラマサの姿が一瞬で掻き消える。

 エア・スラッシュなど眼中にもないムラマサが一瞬でラトリアに接近。スキル使用時に発生する僅かな硬直に、ラトリアの対処が一瞬遅れる。


 普段であれば気にする必要もないほどの隙でしかないが、ムラマサほどの魔人を前にはあまりに大きな不利。


「くっ!」

 接近中に放たれた三つの斬撃を間一髪防ぐことには成功したラトリアだが、代わりにムラマサの姿を見失う。


「へーい」

 ぺしん、と背後から後頭部を引っぱたかれた。

「あぅっ!?」

「俺を前にしてなに大振りなスキル撃ってんだ。次やったらその隙にケツ揉むからな?」

「だ、黙れッ!」

 怒りと羞恥で頬を染めるラトリア。

 振り向きざまに思いきり大太刀を振るう。


「だから大振りすんなっての」

 軽く避けられ、今度はデコピンを喰らう。

 後ずさり、一瞬怯んだラトリアに追撃。絶妙な角度で振るわれた刀の衝撃が、ラトリアの大太刀を手から弾き飛ばした。


「な……!?」

 心臓が止まりかねない焦燥。

 地面に転がった大太刀。拾えるはずもない。その前にムラマサに斬られて終わりだ。


 ……ムラマサにその気があれば、だが。


「どした、拾えよ」

 ムラマサは紫煙を吐き出すと、根元近くまで吸ったタバコを地面に落とし足で揉み消した。

 続いて次のタバコを取り出し火をつける。

 目の前に丸腰のラトリアがいるというのに、ムラマサはそれよりも久々のタバコに夢中な様子だった。


「……はっ……はあっ……!」

 荒く息づくラトリア。肩が大きく上下し、肉体以上に精神的な疲労が顕著に表れていた。


 ――勝てない。

 ラトリアはそれを完膚なきまでに思い知らされた。


 この男には、何をどうやっても絶対に勝てない。

 実力が違いすぎる。まるで子供をあやすようにラトリアをあしらうその力。


 地獄のレベリングを超え、レベルを20も上げ、人類最高峰の騎士の称号であるエルダークラスを戴くにまで至ったラトリアは、自身とムラマサとの間にあった決定的な『差』は確実に縮まっていると考えていた。


 事実、それは正しくもある。レベル的にも実力的にも、両者の差は確かに縮まっている。『見違えた』とムラマサが称することからもそれは窺える。


 ――だが、それでもまだ消えずに残る、圧倒的な『差』があるというだけの話。


 今までは漠然と見上げるだけだった空。

 強く羽ばたけるようになった彼女は……今はじめて、空の高さを知った。

 計測不能だった両者の差が、今ではハッキリと感じ取れる。

 自分が今、剣士としてどれほどムラマサに劣っているかが、具体的な数字として理解できる。


「私、は……」


 ――それでも、ラトリアは大太刀を拾いあげた。


「二度と――二度と、逃げない。貴様から、二度と……逃げて――たまるものかぁ!!」

 絶叫と共にラトリアが疾走する。

 勝てなくとも、諦めない。

 負けても、逃げない。

 その揺るぎない信念だけが、今にも折れそうなラトリアの心を支えた。


「はっ、そうこなくっちゃよ」

 決死の覚悟で迫りくるラトリアを、咥えタバコのまま迎え撃つムラマサ。


 その余裕の表情を見ただけで、ラトリアは心のどこかで諦観した。



 ――自分は……ここで死ぬのだと。

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