第59話 『痛み』『恐怖』『罪』
「――なんだ……これは……」
グレイベアから受けた傷を手持ちの回復薬でなんとか動けるようにまで治療したラトリアは、そのまま森の奥へ進んだ。
あの強大な魔人が狼狽して逃げ出す程の異常。
森にあるはずのない謎の冷気を辿って二キロ程進むと、一気に異常の正体が判明した。
そこには一面氷漬けになった森があった。
半径数百メートルの範囲にあるものが残らず全て氷漬けになっている。
別世界に飛び込んでしまったと錯覚させるような、ある種の幻想的な銀世界だった。
「誰がこんなことを……」
ラトリアの呟きは、正確には『誰にこんなことができるのか』という意味合いが強い。
相当な出力の魔法だ。
この光景一つで、並の黒魔導士ではないと察せられる。
……戦ったのは、おそらくゴード部隊の生き残り達だろう。
だが追跡した吸血鬼ではない。
「誰かいたのか……あの二人以外に」
一体なにが起こっている?
あんな桁違いの魔人と吸血鬼に加え、今度は謎の黒魔導士。
本当にバラディアに戦争でも仕掛けるつもりなのか?
「ん?」
ふとラトリアの視線が何かを捉える。
「――ッ! シィム!」
そこには地面に座り込むシィム・グラッセルの姿があった。
急いで駆け出すラトリア。傍まで駆け寄り、シィムの肩を掴んで揺すった。
「シィム、聞こえるか! シィム!」
幸いにも生きてはいるようだが、シィムは身体を揺すられてもすぐには反応しないほどに呆然としたまま座り込んでいた。
やがて何度目か揺すり続けていると、ゆっくりとシィムの視線がラトリアへ向いた。
「……たい、ちょう」
「シィム。無事か。何があった」
「……」
完全に我に帰ったシィムだが、それでもラトリアの問いには答えられなかった。
まるで彼女自身が、この場で何があったのかを理解していないかのようだった。
「他の部隊員は?」
質問を変えてみたラトリアだが、シィムの反応は同じだった。
「……分かりません。ただ……」
おそらく生きてはいないだろう。
答えずとも、シィムの表情はそう語っていた。
「……誰と戦った」
さすがにこの問いには答えられるだろうと思ったラトリアだったが、シィムの答えはその想像を超えていた。
「……分かりません。あれがなんなのか……」
「……魔人か?」
「……おそらく。でも……あんなの、見たことない……」
「……」
シィムの反応はあまりにも奇妙過ぎた。
あの灰色の魔人と戦った部隊員たちですら、こんな反応は見せなかった。
シィムは今、見るからに恐慌状態にある。
魔人と戦った者は、しばしばこういう反応を見せるが……しかしそれだけではない。
シィムは本当に、意味不明な出来事に遭遇したのだ。
彼女の胸中を占めるものは、恐怖以上の困惑。理解が追いついていないのだ。
「……シィム、気をしっかり持て。君だけでもよく生き残ってくれた」
「……生き残ってなんかいません」
「? シィム?」
「あいつは……あの魔人には、敵意なんてなかった……攻撃なんてしなかった。ただ見つめただけなんです。……あの、紫の瞳で……」
「……」
語る内にシィムは恐怖を思い出したのか、両手で自らの身体をかき抱いた。
「私はあいつに背を向けていました。敵対していなかった。だから死ななかっただけです。……私は、生き残ってなんかいません。そもそも、戦闘すら……なかったんです」
言いながら再び恐怖に駆られたのか、シィムは自分の身体を抱きしめながら小刻みに震え出した。
「……分かった。一旦離脱しよう、シィム。近くに港町がある。そこで休息を取ろう」
バラディア国南方にある港町セドガニア。
そこから更に数十キロ南にある、剥き出しの岩肌を晒す小さな山岳地帯。
そこがグレイベアとマリーが事前に打ち合わせていた合流地点だ。
詳しい地形は把握していなかったので、事前に目印をつけることにしていた。
木の幹。草木の陰。岩の隙間。そういった人目に付きにくい場所に、二人にしか分からない記号を点々と等間隔に刻んでおく。
それは方角などの情報を示しており、それを辿ればいずれは合流できるという方法だ。
手段としては不確実な方法だ。その実用性を高めるためにはいくつものルールを定める必要がある。印をつける順番、優先度。印をつける位置。発見されやすい場所に印をつけると危険だが、逆に難しすぎても良くない。
が、逆に情報料の少ない暗号ゆえに誰かに発見されても危険が少ないという利点と、各所につけた目印の内、一つでも発見できれば最終地点に辿り着けるという魅力があった。
マリーはこういう類のことが苦手らしく、また隠して刻まれた記号を見つけるのも難しいということで、一先ずはマリーが印をつけベアが探すという手筈になっていた。
「……」
ベアの言いつけ通り、岩に記号を刻んでいるのを発見。
あとはこれを辿れば、マリーがミスをしていない限りは、いずれ彼女が潜伏場所に選んだ地点まで辿り着けるはずだ。
――が、その作業も二つ目の記号を見つける前に終わった。
「……」
ベアの眉間に苛立たしい皺が寄る。
マリーの結界の気配を察知したのだ。
マリーの適性は血を操る能力に特化しているが、一方でもう一つだけ習得しているスキルがあった。
それが結界型の探知スキルだ。
探知範囲こそ半径一キロほどと広範囲だが、探知能力自体は低位もいいところ。
あくまで『自分に害をなす存在を察知する』という、ある種マリーの深層心理に根付く恐怖が生み出したスキルとも言える。
三○〇メートルほど歩くと、山の影に出来た小さな洞窟を見つけた。
確かに潜伏場所としては悪くないだろう。
ベアが近づくと、洞窟の中からマリーが姿を現した。
「あ、ベアさん。よかっ――」
「結界を解除してください」
「え?」
「結界を解除してください。今すぐに」
「う、うん……」
明らかに不機嫌そうなベアの形相に、マリーは言われるがまま結界を解除した。
「今後、そのスキルは私が指示するまで決して使用しないでください」
「ど、どうして? 敵が来たらこれで分かるよ?」
マリーはどこか自慢げに自らのスキルの有用性を語っていたが、ベアはそんなマリーを横目で疎ましそうに見つめた。
「私たちは極力陰に潜み続ける必要があります。あんな稚拙な結界を張っていては、私たちがここにいると宣伝するようなものです」
「うっ……そ、そうなんだ……」
結界は様々な用途に用いられる便利なスキルだが、結界そのものは全く隠密には向いていない。
そもそも結界というのは空間に境界を刻み隔てるものだ。
あるだけで異常。その存在はむしろ目立つと言っていい。
そして魔力的なスキルである以上、多少なり心得のあるものが見れば即座に使用者の位置を看破できてしまう。
ベアもマリーの結界の存在に気づいてからは印など追わずに一直線にこの洞窟までやってきたのだ。
ましてスノウビィには、見たものの魔力的情報を暴く魔眼がある。
そんな魔人を相手に半径一キロに渡って結界を張るなど自殺行為だ。
こんなことは初歩中の初歩ゆえにベアも指摘するのを忘れていた。
マリーはあくまであの館の中でのみ生きてきた少女に過ぎないのだ。
「怪我の具合はどうですか」
「あ、うん。まあなんとか動けるくらいにはなったよ」
マリーはボロボロになったローブから、痛々しい傷跡を見せた。
バニスから受けた一撃はマリーの身体に甚大な被害をもたらしたが、あれから一時間もしない内に傷は急速に回復していっていた。
吸血鬼がもつ自然治癒力は魔人にも劣らない。
この程度の傷ならば数日もすれば完治するだろう。
「ベアさんこそ大丈夫なの?」
「?」
「その……胸のところに傷が」
言われて初めて、ベアは自分がラトリアに胸元を刺されたことを思い出した。
「ああ……別に、問題ありませんよ」
一歩間違えれば致命傷ではあったが、ベアはあっさりと言い放った。
「それよりあなたの傷、完治までにどれくらい時間が必要ですか?」
「えっと……多分二日くらいあればなんとか」
「……」
悩ましげに思案するベア。
この傷が二日で完治するのなら生物としては上出来だが、今の状況を考えれば長い時間だ。
「どうかしたの?」
「可能であれば、今すぐにこの場を離れた方がいいでしょう」
「どうして?」
この山は先ほど戦闘した森からかなり離れているし、部隊は完全に撒いたはずだ。
もう危険はないように思うマリーに、ベアはやや躊躇いがちに口を開いた。
「魔王が近くにいる可能性があります」
「え……魔王って……スノウビィさん?」
マリーの脳裏にかつての少女の姿が浮かぶ。
地獄のような日々に突如差し込んだ純白の光。
この世のものとは思えないほどの美貌を携えた魔人。
マリーに血を与え、力を与え、そして今では血の盟約で繋がっている魔王。
かつて味わった彼女の血の味が舌の上に蘇り、それだけでマリーは身震いするほどの興奮を覚えた。
マリーにとってはスノウビィは恩人であり、夢にまで見た思い焦がれる相手でもあった。
「――念のため申し上げますが、間違ってもスノウビィに会いたいなどとは思わないことです」
「……分かってるよ。さすがにそこまで馬鹿じゃないもん」
そっぽ向いてスネるマリー。
彼女を非常に低く評価しているベアではあったが、さすがにそんな愚かなことはしないだろうと思いつつ……万が一を考えて釘を刺しておきたくなった。
「彼女はおそらく大きな都市には入ってこないはずですから、そこに逃げ込みましょう。北に港町があったはずですので」
「私たちは入っても大丈夫なの?」
「大丈夫ではありませんが、仕方ありません。スノウビィに遭遇するよりはよほどマシでしょう」
強力な魔人であるベアもまた主要都市に設置された探知魔法には感知されてしまうため危険ではあるのだが、近くにスノウビィの気配があった以上その程度のリスクは甘んじるしかない。
「仮に私たちの存在が人類に知られ騎士団が派遣されても、バラディア国騎士団程度なら大丈夫でしょう」
「騎士団って、さっきの人達?」
「あれはルドワイア帝国騎士団です。バラディアの騎士団はあれよりワンランク弱いですから、あなたなら一人でも対処できるでしょう」
その確認ができただけでも、森での戦闘は意味があったと言える。
先制で探知魔法を撃たれ存在を知られてしまったとはいえ、あそこでの戦闘は今にして思えば軽率だったかと反省していたベア。
しかしマリーの戦闘力はいずれしっかりと確認しなければならなかったのだ。それを早い内に済ませられたと思えば許容できる。
「……ふふ」
マリーが小さく笑みをこぼす。
ベアに自身の戦闘力を評価されたことが嬉しかったようだ。
「さっきの人達、強かったね」
「ルドワイアにいけばあの程度の部隊はいくらでもいますよ。……ただ」
ベアの脳裏をよぎるのは、あの部隊で唯一ベアと互角に渡り合った騎士の姿。
美しい金髪の女剣士、ラトリア・ゴード。
あれほどの騎士がいると知っていれば、ベアもさすがに戦闘を回避しただろう。
「あの騎士……彼女もセドガニアにいるのなら……警戒したほうがいいでしょう」
「あの人、そんなに強かったんだ」
「彼女は間違いなくエルダークラスの騎士です。人類の中でも十数名しかいない、トップクラスの実力者です」
「でもベアさんの方が強いんだよね?」
ベアの強さはマリーの想像を遥かに超えていた。
ベアのパンチで大男たちがボールのように上空に打ちあげられていくのを目の当たりにした今となっては、ベアに逆らおうなどという気持ちはマリーの中から綺麗に消え去っていた。
「ベアさんがいればどんな敵が来ても大丈夫なんじゃないの?」
「大抵は。ですから、なんとしても四天王との接触だけは避けなければならないのです」
自分でそう言って、ベアは改めて現状の危険性を再確認した。
「やはり早急にこの場から離れるべきですね。多少無理をしても、遅くとも今夜の内にこの洞窟を出ましょう」
「まだあんまり動けるような状態じゃないんだけど……」
「血を飲めば回復も早まるでしょう?」
そう言ってベアは灰色のローブを脱ぎ、来ていた服の胸元を引っ張り右の首筋をマリーに晒した。
褐色の肌。美しい首筋のラインが艶めかしく、マリーが思わずごくりと生唾を飲み込む。
「……飲んでいいの?」
「構いませんよ。味は保証しませんが」
「……」
不味いわけがない。
マリーには確信があった。
かつてマリーを虐げた男たち。
それを救った美しい少女。
そういった過去から、マリーは男性を嫌悪し女性を好むようになった。
美しい女性からの吸血行為は、マリーにとってある種の性的な興奮すら覚える時間だ。
また内包する魂の質によっても血の味は大きく異なる。
スノウビィやパンダのような極上の魂ではなくとも、グレイベアの持つ魂の密度は他を凌駕する。
容姿と魂。二つの要素で考えると、ベアの血はマリーにとって最高級の代物だ。
――だが、マリーを昂らせるものはそれだけではない。
「……」
ベアに近づき、その首に牙をあてがうだけで、どくん、どくん、とマリーの心臓が高鳴る。
何故こんな気持ちになるのか、マリーもはじめは分からなかった。
だが……今なら分かる。
あのとき。
バニスの一撃を喰らい、マリーが敗北したあの瞬間の光景は、マリーの奥底に根付いていた恐怖心を刺激した。
マリーが痛みに呻き、それを見て男が笑う。
そんな、マリーにとっては日常のように身近にある光景。
救いはなく、男たちが満足するまで続けられる拷問。
――それを、ベアは救ってくれた。
彼女にそんなつもりはなかったかもしれない。だが少なくともマリーを庇い、男たちの暴力から身を挺して守ってくれた。
……思えば、そんな経験は初めてだった。
「……」
マリーはそれが嬉しかった。
自分を護ってくれる誰かが傍にいる……そんなこと、あるはずがないと思っていたのに。
ベアの首筋に牙を突き立てる。
そのまま血を吸い上げ、ゆっくりと嚥下していく。
「……っ、く……ぅ」
想像していた以上の味わいに、マリーは身を震わせて呻く。
ベアの肩にかけた手に思わず力がこもるほどに美味だった。
――あの日。マリーはホーク・ヴァーミリオンの魔断に撃たれた。
そのときに感じた、この世のものとは思えない激痛。
その残滓は未だにマリーの中に残っている。
仮にあの後一人で生き延びていたとしても、きっとマリーは正気ではいられなかっただろう。
それほどに、あの魔断がマリーに植え付けた
きっとこの恐怖は生涯マリーから消えることなく残り続けるだろう。
――だが、ベアと一緒なら乗り越えられるかもしれないとマリーは思った。
あれほど脅威的な戦闘力を持ち、マリーを死から救い、痛みから護ってくれる。
ベアがいれば、きっと自分は安全だ……そう感じられた。
マリーは無意識の内に体重をベアの身体に預け、正面から寄りかかるようにしてベアの身体にしがみついた。
あれほどの怪力がどこに宿っているのかと疑うほどにベアの身体は細く柔らかく、そして温かかった。
マリーはそうしてしばらくベアに身体を預け、目を閉じて静かにベアの血を啜り続けた。
――そんなマリーを、ベアはまるで生ゴミを見るような寒々しい眼差しで見下ろしていた。
「……」
頬を紅潮させ、安心しきった様子でベアの血を飲むマリーの姿。
「……」
……気色悪い。
ベアは内心で毒づいた。
まさに首筋に
――森で力を見せたことで懐かれたか?
まさかとは思うが、ベアのことを頼もしい仲間だとでも勘違いしたのだろうか?
だとすれば愚か過ぎて言葉も出ない。
「……」
――薄汚い吸血鬼め。
――貴様があの館でしたことを忘れたとは言わせない。
この女は、ベアがこの世でただ一人尊び、敬愛して止まないパンダに対して……あろうことか苛烈な拷問を施した。
かの偉大なる王が……最強の魔人が、痛みに泣き叫ぶ姿を、よりにもよってベアの前に晒したのだ。
「……」
今でも思い出すだけで憎悪で頭が破裂しそうになる。
この女が犯した大罪は、どんなことがあろうとも決して消えることはない。
本当なら今すぐにでもこの吸血鬼を殴り殺し、豚の餌にしてやりたいくらいだ。
それを堪えていられるのは、この吸血鬼が有用だからだ。
もし全てを成し終え、この女が用済みになったならば……。
――そのときは、一切の容赦なく貴様を殺してやる。
薄暗い洞窟の中……無慈悲な殺意を秘めたベアの瞳が、静かにマリーを見下ろしていた。
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