第56話 それでも、二度と逃げたりしない


 金と銀の軌跡が幾重にも交差し、太刀とガントレットのぶつかり合う金属音が森に響いた。


 ラトリアが太刀が振るう度に周囲の木々がまとめて両断され、ベアが地を踏みしめる度に大地が揺れた。

 二人にとって密集した木々などは障害物にもなりはしない。

 彼女たちにはもはや互いしか見えておらず、またそうでなければ話にならない状況。

 一撃でも相手の攻撃を見逃せばそれがたちまち致命傷になる。


 身の丈ほどの大太刀を振り回しながらも、ラトリアの斬撃の速度は決してベアに劣っていなかった。

 ラトリアはまさに騎士に相応しい正当な剣士だ。

 太刀筋には無駄がなく、牽制と必殺の中に緩急を織り交ぜ、巧みにベアの急所を狙う。


 一方でベアは、スタイルとしては格闘で戦うモンクではあるが、その戦い方は大きく異質。

 目立った戦法はなく、ただ敵の攻撃を防ぎ、隙を見て神速の右ストレートを放つ。

 有り余る膂力にものを言わせた力任せの戦い方はまさに魔人の特徴。シンプルかつ強力だ。


 格闘家がよく使うフェイントなどもほぼない。

 フェイントなどする暇があるのならその間に本命を三発放つ。そういう戦い方だ。


 武器が違う二人にとって間合いは生命線。

 リーチで勝るラトリアは僅かに距離を取りたいところだが、逆にベアはとにかく距離を詰めたい。

 故にベアはひたすらに前進を繰り返し、ラトリアはそれをなんとか追い散らすことで距離の優位を保っていた。


 だが、苛烈に過ぎるベアの連打に、ラトリアはしばしば後退を強いられていた。


「……ッ」

 ――強い。

 ラトリアも認めるしかなかった。

 この魔人は、自分よりも強い。


 速度は互角。

 しかし一撃の重みがまるで違う。まともに打ち合っていてはいずれ力負けするだろう。

 しかもラトリアの太刀筋が完璧に見切られている。いろいろと変化をつけて揺さぶってみるが一つたりとも誘導されない。

 むしろ甘えた責めを見せればその隙を即座に剛拳が狙い撃ってくる。


 おそらく、単騎の戦闘力ではこの魔人はラトリアを上回っている。

 S-81のラトリアをも上回るとなれば、魔人の中でもトップクラスの上位者だ。


 ――こんな魔人が、バラディアに来ていたとは……。


 もはや疑う余地もなく、この魔人が『バラディアに災いをもたらす何か』だろう。

 これほどの魔人がバラディア国本土に侵入でもしてしまった日には、どれほどの被害が出るか想像もつかない。


 ここで殺すしかない。

 勝算は薄いが、この魔人をここで逃がすわけにはいかない。なんとしても打倒し、この魔人の情報をバラディアに伝えなければ。


「――ハア!」

「ッ……」


 裂帛の気合を込めたラトリアの一撃がベアを襲う。

 ガギン、と鈍い音を響かせて、太刀の刃がガントレットに阻まれる。

 ギリギリと鍔迫り合うが、単純な力ではベアに軍配があがる。

 太刀を弾き力任せに突進。がら空きの胴体目がけて拳を放つ。


 その時、ぐん、と大太刀が奇妙な軌道を描く。

 両者の距離は明らかに大太刀一つ分も開いていないにも関わらず、その隙間を嘘のような緻密さで縫った大太刀の刃がベアの首を狙う。

 咄嗟に上体を逸らして回避するが、そこへ更に横一文字の斬撃。今度はベアの胴体を狙っている。


 ――違う。

 それがフェイントであると見抜いたベアが僅かに左へ身体をずらす。

 そのすぐ右横を突き抜ける鋭い剣先。

 払いに見せかけた刺突。虚を突く奇襲を看破し、一点してベアの好機――に見えるそれもまた誘いの一つだと見抜く。


 突きを外されて体勢を崩したように見えたラトリアの身体がぐんと沈み込む。

 そのまま体をコマのように回転させての回転斬り。

 本来ならば来たであろうベアからの上段突きを回避でき、かつその際に無防備になる足元を狙った巧みな一撃。


 が、ベアには通じない。

「――なっ!?」

 ガン、と鋭い衝撃。

 斬り飛ばせると思ったベアの左脚が瞬時に動き、ラトリアの太刀目がけて蹴りを放った。

 ガントレット同様に硬質なブーツの裏が大太刀の刃を受け止め、そのまま強烈な前蹴りを見舞う。


 それだけでラトリアの身体が大きく後方へ吹き飛ばされた。

 何重にも重ねたカムフラージュを全て見破られたあげくの反撃。だが距離が開いたのはラトリアに有利。

 このままでは埒が明かないと判断した両者が、この隙に自身にいくつもの補助スキルを施した。


「『ドラゴン・ブレス・フォース』!」

「『ドラゴン・ブレス・フォース』」

「『先読み』!」

「『ソニック・ブースト』」

「『ハイ・シールド・エンハンス』!」

「『バスター・アサルト・エンハンス』」


 互いに全力で能力アップスキルを使用し、短時間ではあるが戦闘力を爆発的に上昇させる。

 どちらも当然のように上位スキル、かつ『最大効果フォース』『能力追加エンハンス』などの発展形を習得しており、それを重ね掛けすることで更に高い能力を獲得した。


 ――ベアが疾走する。

 先程とは比較にならない速度。ベアが使用したスキルはいずれも攻撃特化の補助バフ。一撃の威力からして規格外だ。


 対するラトリアが用いた補助は防御寄りだ。

 物理防御の上昇と、相手の動きを先読みするスキル。

 この二つを合わせ、ベアの激しい連打を凌ぎ切るラトリア。


 攻撃力が激増したベアのラッシュに、一見してラトリアが防戦一方に追い込まれているように見える。

 速度、火力、どちらもベアが完全に上回っている。

 だが……その上でなお攻めきれないという事実が、逆にベアを焦らせた。


 ――読まれている。

 ラトリアはベアよりも遥かに少ない手数でベアの攻撃を凌いでいる。

 それだけラトリアの動きが最小限で無駄がないということ。

 いうなれば火力の差を技量の差で埋めているということだ。


 ――『先読み』を習得していたか。


 ベアが僅かに眉を寄せる。

 先ほどラトリアが自身に施した補助スキルの内の一つ『先読み』。

 これはその名の通り、相手の動きの一瞬先を予知するスキルだ。


 ベアですら習得していない上位スキル。

 『ドラゴン・ブレス』に並んで、これを習得できれば戦士として格が一段階上がるとすら言われるほどの希少スキルだ。

 とりわけ今回のような超高速の乱打戦においては絶大な効果を発揮する。


「――ハッ!」

 連打の間に生まれた一瞬の隙を突いて、ついにラトリアが反撃に転じる。

 それはラトリアの速度がベアを上回ったことの証明。

 実際的な速度で勝るベアの連打を、その一瞬先を読むことで凌駕する。


「……」

 その一閃自体はさほど苦もなく回避できたが、ベアは両者の力量にさほどの差がないことを理解した。

 このまま小器用に打ち合っていても埒が明かない。『先読み』の効果が切れるのを待つのも手だが、それでは結局ベアの補助スキルも効力を失う。


 時間をかければそれだけラトリアが有利になる。

 この場にはラトリアしかいないが、別の部隊がどこかに控えている可能性も否定できない。

 それでなくとも、バニス達を一四名の部隊だと判断してマリーをけしかけたらどこからともなくラトリアが現れたのだ。


 バニス達だけしかいないだろうという甘い見立てが祟ったか。

 もしラトリアの存在を事前に察知できていればベアは撤退を選んだだろう。


「……」


 ――使


「……いえ」

 ベアは頭を振る。

 今考えた通りだ。ラトリア以外の戦力が控えている可能性がある内はアレは使えない。


「……仕方ありませんね」

 多少強引にでも早急に勝負を決めにいった方がいいだろう。


 大太刀の腹を叩いてラトリアを殴り飛ばす。

 再び距離が開き、ラトリアが次の攻撃に備えて防御を整える。


 ――だが、次にベアがとった行動にラトリアは目を丸くすることとなった。


「な……」

 ベアは周囲に生えている大木を両手で掴むと、まるでニンジンを抜くような気軽さで大木を地面から引き抜いた。

 全長一○メートルはある大木が根元からごっそり引き抜かれ、ベアはそれを軽々と上段に構えた。


「……冗談だろう?」

 一瞬呆けてしまうほどの馬鹿馬鹿しい光景。

 だがベアは変わらぬ無表情でその大木を横薙ぎに振り払った。


 木々が密集しているこの森にそんなスペースがあるはずもないが、ベアは構わずラトリア目がけて一閃。

 全く重さを感じさせない速度で振りぬかれた大木は、ベアの力を上乗せされて周囲の木々を根こそぎ叩き折りながらラトリアに迫った。


「くっ……!」

 咄嗟にかがんでやり過ごす。

 その頭上を恐ろしい質量の物体が通過していく。木の折れる生々しい音があちこちから響き、木の枝と葉が暴風に乗って乱れ吹いた。


 身をかがめたラトリアに、大きな影が覆いかぶさる。

 頭上を仰ぐと、別の大木を手にしたベアが跳躍し、ラトリア目がけて大木を振り下ろしていた。


「このっ!」

 横に飛んで回避。

 ベアの大木が地面を叩き、巨大な地割れを引き起こして森を揺らした。


「なんて無茶苦茶な奴だ……!」

 次々と倒壊していく木々の間を縫って走りながら、ラトリアは改めてベアの恐るべき怪力を思い知った


 バニスがよく、自身の瞬間火力の高さを誇らしげに自慢しているのを聞いていたラトリアだが、彼が可愛らしく思えるほどにベアの怪力は常識の外にあった。

 ベアが新たな大木を引き抜き構える。

 次の攻撃に備えて回避行動を取ろうとするラトリアは、そこで一つの事実に気づく。


 ベアに薙ぎ倒された木が周囲に乱倒し、移動できる範囲が極端に狭くなっている。

 酷いところでは大木が三つも折り重なり数メートルの高さまで壁ができている。


「こいつ……!」

 正気か?

 素早いフットワークが生命線のモンクにとって、バトルフィールドの健全性は何よりも優先すべき事項のはず。

 動きが制限されて不利になるのは、むしろベアの方だ。


「勝負を決めるつもりか……」

 いうなれば囲いを用いた天然の決闘場。早急に勝敗を決するための背水の陣だ。


 次々と冗談のように大木が振るわれる。

 その導線にある木々は残らず砕け折られ、叩きつけられる度に地面が抉れた。

 それをなんとか回避し続けながら、ラトリアは劣勢に追いやられる。


 こんなことをされては『先読み』どころの話ではない。

 一○メートル以上離れた距離からひたすら浴びせられる意味不明な暴力の嵐は、周囲が荒れるにつれてどんどんと脅威度を増していく。


「――ハァ!」

 接近するしか手段はない。

 ラトリアはベア目がけて突進。本来距離を離すべきモンクを相手に、あえて距離を詰めるという愚行を強いられる。


「ハッ!」

 だがベアもそれを許さない。

 叩きつける予定だった大木を、今度はラトリア目がけて投げつける。

 圧倒的な大質量の大木をまるで槍投げのように投擲するベアも異常なら、その速度もまた異常。大砲さながらの破壊力だ。

 並の者ならこれを喰らうだけで木っ端微塵になりかねない一撃。


 だがラトリアは決して並の剣士ではない。

 ベアが剛で攻めるならばラトリアは技で返す。目にも留まらない太刀の連撃が、大木をバラバラに切り刻む。


 だがその一瞬の隙に、ベアが右足を大きく振り上げ、そのまま地面に叩きつけた。

 かつてない激震。まるで大荒れの海を行く船に乗っているように、周囲のもの全てが激しく揺れる。

 その中で、地面に落ちていた大木の破片や、人の頭ほどの岩片が大きく跳ね上がる。


 それを片っ端から拳で殴りつけるベア。

 殴られたものは弾丸もかくやという速度で撃ち飛ばされ、ラトリア目がけて突き進む。


「ぐっ……!」

 迫りくる木片を太刀で叩き切る。だがそれだけで手が痺れるほどの衝撃。

 ベアの拳がそのまま宿ったかのような速度と威力に思わず怯むラトリア。


 自由に動けない森の中を、必死に回避する。

 ラトリアを外した木片や岩片が周囲に激突する度に、岩や大木に信じられないような大穴が開く。


 回避に専念するしかないラトリアはその時点でベアとの距離を詰める手立てを失う。

 そうこうしている内にベアが新たな大木を引き抜き、叩きつけてくる。

 それによって更に周囲の環境は悪化し、ラトリアは更に追い詰められることになる。


「私も多くの魔人を見てきたが……貴様ほどデタラメな奴は初めてだ」


 それはラトリアなりの賞賛の意味も込められていた。

 断言できる。バラディア国にこの魔人を止められる者はいない。

 いや、現にベアはルドワイア帝国騎士団の部隊を一つ壊滅させている。

 ラトリアですら劣勢を強いられる以上、もうこの魔人は他のエルダークラスと連携を取って討伐するしかないほどの個体だ。


 ――こんな魔人を絶対にバラディアに入れてはならない。


「何が目的だ!」

「……?」

 ラトリアの問いに首をかしげるベア。


「何故バラディアを襲う! まさかそれを皮切りに、魔族は人類に攻め込むつもりか!?」

「……バラディアを、襲う……?」


 ベアの瞳が細まる。

 ベアにそんなつもりは毛頭ない。

 彼女たちはルドワイア帝国に向かうためにたまたまこの地を通っただけのこと。バラディアになど用はない。


 単なるラトリアの勘違いかとも思ったが、それにしてはラトリアの言葉はなにか確信を持っているように感じた。

 単に強力な魔人に遭遇したというだけなら、そこからバラディア国を襲うつもりだ、などと確信を持てるはずはないが……。


「答えろ、魔人!」

 ラトリアの突進。

 速い。異様な速度。

 ベアが木片を殴り飛ばす。が、ラトリアは回避する素振りをみせない。


 なるほど、とベアも合点がいく。

 損傷度外視の特攻か。もとより回避するつもりなどない。

 このままではジリ貧になると悟ったラトリアが、防御を放棄しての捨て身の突進をしかける。


 大太刀で致命傷だけは防ぎながらも、その身にいくつもの木片を受けるラトリア。

 表情を苦悶に歪めながら、しかしラトリアは彼我の距離を詰め切り――ベアの最も得意とする間合いへと飛び込んだ。


 ガギン、と太刀とガントレットがぶつかる音。

 全身に大きな傷を負いながらも、ラトリアとベアが再び交差する。


「――『預言』されていた、と?」

「そうだ! 貴様の存在は既にルドワイアに知られていた。じきにバラディアにも別のルドワイア騎士団が派遣される。貴様らが何を企ててようとも、必ず阻止してみせる!」

「……なるほど、それであなたのような騎士がこんな場所にいたというわけですか」


 ベアにしてもラトリアの存在は予想外だった。

 これほどの騎士がこんな辺鄙な森にいること自体不可解。何か別の目的があるものと踏んでいたが、まさか預言に従い行動していたとは。


「……」

 しかしそこで、新たな疑問が生まれる。


 『占星術』でベアの存在が感知されていた……それはまだわかる。

 ベアは魔人の中でも魔力に寄らないビルドを施しているが、それでもベアほどになれば並の魔人よりも魔力は高い。占星術の感知にかかっても不思議ではない。


 ――だが『預言』となると話は違う。

 ラトリアの言葉からは、『ベアがバラディア国を襲撃する』という預言があったと推測できる。

 ……だが、ベアにそんなつもりは全くない。そんなことが預言されるはずがないのだ。


「……」


 ――誰かがバラディアに攻め込もうとしている?

 ベア以外の……ルドワイア騎士団が動くほどの強力な個体が。


「……」

 ……嫌な予感がする。

 そして、そういう予感は大抵当たるのだ。


「……終わりです」

「なに?」



「――遊びは終わりです。急用が出来ましたので」



 鍔迫り合っていた太刀を弾く。

 右拳を固く握りしめる。しかしそれは今までのベアの戦いからすれば、あまりにもあからさまで隙だらけだ。


 無論、その隙を見逃すラトリアではない。

 鋭い刺突。彼女が今出せる最速の攻撃でベアの攻撃の出鼻をくじく。


 ――が、ベアはそれを回避しようとはしなかった。

 大太刀の刃が当然のごとくベアの胸部に突き刺さった。


「な……!?」

 飛び散る血潮。

 刃から伝わる、肉を突き骨を削る感触。

 初めて致命打に成り得る攻撃を与えられたラトリアが次に感じたものは――吐き気を催すほどの濃厚な死の気配。


 ベアが左腕で大太刀の刃を掴む。

 それだけで凄まじい力が太刀に加わり、たちまち動かなくなった。

 どれほどラトリアが力を込めようともピクリともしない。その圧倒的な膂力の差に一瞬の戸惑いが生じ――それが決定打となった。


 両者の距離は、互いの吐息がかかるほど近い。

 そしてベアはラトリアの攻撃を受ける前から既に右手を握り、攻撃の構えを取っていた。


 その上で一瞬という時間をベアに預けた。

 音速の攻防の中……それは許されざる失態。


 ――轟音。

 ベアの渾身の一撃がラトリアを打ち据える。

 漏れ出た悲鳴すら置き去りにし、ラトリアが吹き飛んだ。

 周囲に積み重なった大木に激突し、大重量の大木が数十本も上空に打ちあがる。その直下で、ラトリアはあまりの衝撃に意識を混濁させながら倒れ込んだ。


「……」

 必殺を逃した手応えを感じて、ベアが眉を顰める。

 直撃の瞬間、ラトリアは太刀から手を離し全力で後方へ飛んでいた。

 その上で空いた両腕で胴体を庇い、ベアの一撃を受け止めた。また事前にかけていた防御力上昇の補助スキルも幸いし、即死には至らなかったようだ。

 が、もはやまともに戦闘を継続できるような状態ではない。


「がっ……は、ぐぅ……!」

 なんとか立ち上がろうとするラトリアに、一筋の光が飛び込んだ。

 それは持ち手を失ってベアの胸に刺さったままだったラトリアの大太刀だった。


「ぐあぁっ!?」

 その大太刀はベアに投擲され、ラトリアの腹部に深々と突き刺さった。

 既に瀕死の身体への容赦のない追撃に、さしものラトリアも完全に動きを止める。


 ベアは胸元から流れ出る大量の血などまるで見えていないかのように平然としたままラトリアに向けて歩みを進める。

 それを朦朧とする意識で眺めながら……ラトリアは初めて、この魔人を恐れた。


「ば、化け物……!」

 ベアが甘んじたラトリアの一撃は、あと数センチズレていれば間違いなく心臓を貫いていた。

 いや、そうでなくてもあの傷はベアにとっても致命傷になり得る損傷だ。

 優勢だったベアがそんな博打に出る必要などなかったはずだ。

 ベアがここまで性急に決着を求めた理由は分からない。だが一つだけ断言できることがある。


 ベアは自分の命など全く惜しくないのだ。


 ラトリアとの攻防……確かにベアは様々なテクニカルな戦術をとった。

 だがそんなものは本来のベアの戦い方ではない。そんな小賢しい小手先の攻防は、ベアにしてみればのようなものだ。


 ――ベアにとっての戦闘とは、四代目魔王の敵を討つということ。

 かの偉大なる王の命に従い、王から与えられた使命を果たす。ただそれだけだ。

 たとえ心臓を貫かれようと、首を落とされようと、その一瞬後に相手の息の根を止めていれば全く問題ない。


 ――その結果ベアが生きてるかどうかなどというのは考慮するに値しないほどの些末事に過ぎない。


 重要なのは魔王からの勅命が果たされるということ。

 それがどんなに小さくとも、魔王の望みが一つでも叶うのならば、それはベアの命などよりも遥かに価値がある。


 つまり、ラトリアには初めから生き残る道などなかったのだ。

 あって相打ち。ベアがその気になった以上、どのような攻撃を繰り出そうともその直後に必殺の一撃が見舞われる。

 グレイベアと戦うというのは、そういうことだ。


「……き、さま……!」

 ラトリアは腹に刺さった太刀を抜く力もなく、ただ歩み寄ってくるラトリアを受け入れるしかなかった。


 ――死ぬ。

 その逃れようもない予感がラトリアの心を絶望に浸す。

 何の感情も窺わせないベアの無表情がラトリアを冷たく見下ろし――



「――ッ!?」



 その表情が一瞬で驚愕へと変わった。


 ベアは弾かれたように右を向いた。

 釣られて同じ方向を見たラトリアだが、そこには何もない。ただ破壊されつくした森の姿があるのみだった。


 ただ、確かに奇妙な感覚があった。


「……冷気?」

 それははっきりと肌で感じられるほどの冷気だった。

 冷たい風が森の奥から流れてきている。

 ひんやりと冷たい空気がラトリアの身体を滑る。が……それに異常なほど敏感に反応したベアこそラトリアには不可解だった。


「……この……魔力は……!」

 ベアは先程までの鉄面皮が嘘のように狼狽していた。

 この冷たい風を受けてなお冷や汗をかくほどに。


「――まさか、彼女が……!?」


 激しく揺れるベアの瞳。その視線が一瞬だけラトリアとぶつかる。

「――」

 ベアはその一瞬だけでラトリアのことなど眼中にないかのように跳躍。そのまま冷気が流れ込んできた方向とは逆に駆け出して行った。


「なに……?」

 訳が分からず困惑している内にベアの姿はラトリアの視界から消え去った。


「……」

 見逃された、とも違う様子だった。

 今、ベアは何かに怯えて逃げ出したように見えた。

 それこそラトリアを手にかける僅かな時間すら惜しいと言うかのように。


 瀕死の重傷を負いながらも辛くも生き延びたラトリアではあったが、彼女の胸中は一つの疑問で支配されていた。


 いったいこの冷気の先に何がいるというのか……?


 彼女がその答えを知るのは、これより僅かに先のことだった。











「くそ、逃がした……!」

 シィムが苦々しげに舌打ちした。

 謎の魔人の仲間と思われる吸血鬼『ブラッディ・リーチ』を追撃していたシィム達ではあったが、結局まともに追いつくこともできずに逃亡を許してしまうこととなった。


 吸血鬼の飛行速度が速く、森の中では満足に追えないというのもあったのだが、何よりの原因は彼女に同行していた他の部隊員にあった。


「……皆さん?」

 怒りと苛立ちに満ちたシィムの声に、他の部隊員たちは気まずそうに視線を逸らした。


 結局、生き乗ったのはシィムを除いて七名だった。

 彼らは一様に憔悴しきっており、先程戦った謎の魔人への恐怖が心の奥底に根付き、どうしても積極的に吸血鬼を追うことができなかった。


「……どうせ追いついても俺達じゃ倒せねえよ」

「お前は知らないだろうけど、あの吸血鬼はバニスさんを含めた一四人がかりでようやく追い詰めたんだ。こんな少人数じゃどうにもならねえよ」

「あなたたち……! ラトリア隊長の言葉を忘れたんですか!? 我々はあの吸血鬼を逃がすなと命じられていたんですよ!」

「その隊長だって今頃あの化け物に殺されてるよ」


 どこまでも投げやりな部隊員の言葉に、シィムは怒りを通り越して呆れすら抱き始めた。

「……もういいです。吸血鬼の追跡は失敗です。私たちはここでラトリア隊長の帰還を待ちます。あの人が負けるなんて考えられませんから」

「そう思えるのは、お前があのバケモンの力を知らねえからだ。正直、隊長だってまともにやりあって勝てる相手じゃねえよ」

「……それほどの相手だったんですか?」


 その言葉を聞いて彼らはあの魔人のことを思い出したのか、それだけで恐怖に顔を歪めて身震いする始末だった。


「……ではあの魔人が、預言にあった『バラディアに災いをもたらす何か』で間違いなさそうですね」

「当たり前だ!」

 呑気に話すシィムに今度は彼らの方が苛立ったのか、大声で吠え掛かった。


「あんなぶっ飛んだ魔人がいるなんて知ってたらこんな任務降りてたよ! あいつ以外にいんのかよ!? ええ!? 言ってみろよグラッセル! 『バラディアに災いをもたらす何か』なんて、あいつ以外に誰が――!」



「――まあ。よかった、ようやく人に会えました」



 それは怒りに煮えていた部隊員たちですら思わず言葉を失ってしまう光景だった。


 深い森の中に紛れ込んだ……それは有り得ない異物だった。


 いつからそこにいたのか、一人の少女がシィム達を見て嬉しそうに微笑んでいた。

 透明感のある純白のドレス。

 白に近い銀色の髪はまるで絹のようにきめ細やかで、ダイヤモンドのように陽の光を反射していた。


 まるで初雪のような、どんな不浄とも縁遠い一点の曇りもない白。

 極めて整った、人形のような美しい顔立ち。

 透き通るような青い左目。

 唯一、右目を覆っている眼帯だけがその少女に似つかわしくない装飾品だった。


「わたくし、お恥ずかしながら道に迷ってしまいまして……こちらの方で大きな音が鳴っていたものですから、人がいるのではと立ち寄らせていただきました」


 当然のように美しい声音を聞き、シィムもまた混乱しながらも我に返った。

「あ、えっと……迷子、ですか?」

「あぁ……改まってそう言われてしまいますと、とても面はゆいですわ」

 少女は僅かに頬を赤く染めながら、恥ずかしそうに両手で頬を隠した。


「大きな音っていうのは、多分ラトリア隊長のものだと思うけど……場所、違いますよ」

「まあ。それではわたくし、それも間違えてしまいましたのね。うぅ……違うんです、わたくし、方向音痴ではなくて、そのぅ……ほんの少し、うっかり者なだけなんです」


 謎の弁明を始める少女。

 ひとまず無害そうだと感じたシィムは少女に歩み寄り声をかけた。


「とにかく、今この森は危険です。我々が同行いたしますので、近くの町まで行きましょう」

「まあ。皆さんが案内してくださるのですか? ですがそこまでご迷惑をおかけするわけには……」

「お気になさらず。我々はルドワイア帝国騎士団のものです。市民を護る義務がありますので」


 真摯に告げるシィムを見て、後ろの部隊員たちは小馬鹿にしたように地面に唾を吐いた。


「まあ! ルドワイア騎士団の方々だったのですね。お噂はかねがね。とてもお強い方たちだと伺っております」

 嬉しそうに破顔する少女。同性のシィムですら思わずドキリとさせられる美しい笑みだった。


「ま、今の俺たちは吸血鬼一人追えなかった敗残兵だがな」

「……」

 背後から聞こえてきた声にシィムが顔をしかめる。

 彼らは悪態をつかないと死ぬ病に侵されているのだろうか?



「……吸血鬼?」



 不意に少女が声を漏らした。

 可愛らしく小首をかしげている。

 まあ無理もない。今の時代、吸血鬼など滅多に目にすることはない。その名を聞くことすら稀だ。

 そう考えたシィムは、しかし……


「それはもしかして、黒い髪の少女のことでしょうか?」


 少女のその一言で瞠目することとなった。


「――離れろグラッセル!」

 ぐい、と肩を掴まれて少女から引き離される。

 その時には既に他の部隊員も各々武器を構え、少女に向けていた。

 場に一気に緊張感に満ちる。


「み、皆さん何を……!? やめてください、相手は少女ですよ!?」

「あの吸血鬼もガキだった。関係ねえ、黙ってろグラッセル。……おいガキ、てめえナニモンだ? 何故やつを知ってる」

「まあ! では本当に彼女がここにいたのですね? それはとても喜ばしいことです!」

「質問に答えろ。まさかてめえ……あの魔人の仲間じゃねえだろうな?」

「……魔人? その吸血鬼は、誰か他の魔人と一緒にいたのですか?」


 噛み合わない会話に部隊員が苛立ちはじめる。

「もしよろしければその吸血鬼の方が向かった方角を教えていただけませんでしょうか。私、どうしてもその吸血鬼の少女にお会いしなくてはならない事情がございまして」

「……おい、こいつを拘束するぞ」

「な……!? 何を言っているんですか!」


 シィムが食って掛かる。

 剣呑な鬼気を放つ部隊員と少女の間に割って入り、少女を背に隠して庇った。


「どけよグラッセル。こいつは怪しすぎる」

「落ち着いてください! 何の確証もないじゃないですか」

「言ってる場合か! そもそもこんな森に一人でいる時点で臭すぎんだろ! 少なくともあの吸血鬼のことは知ってやがる。それだけで尋問する価値はあるだろ」

「し、しかし……」


 シィムはどうしてもこの少女を彼らに明け渡す気になれなかった。

 ただでさえ普段から粗暴な態度で問題視されている者たちに、こんな少女を尋問などさせていいとは思えなかった。


「私を心配してくださっているんですね、グラッセルさん」

 後ろから少女が優しく微笑みかけてきた。

「お気に止む必要はございません。皆さんもお仕事ですから、仕方ありませんものね。ですが、私は他にしなくてはならないことがございまして……本当に申し訳ないのですが、皆さんにお付き合いする時間がございません」

「なら力づくだ。てめえには聞きたいことが山ほどある」

「ええ、それがよろしいでしょう。そのシンプルなお考え、わたくしとても好きですよ」


 飄々と語る少女の姿に、さすがにシィムも何か異変を感じ始めていた。

 ルドワイア騎士団が敵意を見せているというのに、少女からはそれを恐れる気配など微塵も感じない。


「あ! そう言えばわたくし、最近新しい力を使えるようになったんです。そうです、せっかくですから皆さんで試させていただきますね」

「ごちゃごちゃうるせえ! お前ら、このガキを捕まえろ!」


 未だ決断できず迷っているシィムを置き去りに、七名の部隊員が疾走する。


「――では、少し力を貸していただけますか」


 それをたおやかな笑みのまま迎えた少女は――ゆっくりと右目の眼帯を外した。



「――『オニキス・ゴースト』」

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