第43話 断罪
「パンダ!」
ホークとマリーから同時に言葉が漏れた。
マリーはホークとの戦闘に全神経を集中していたため、侵入者察知の結界が作動していたことに気づけなかった。
ホークも、パンダはまだ都市で戦闘中だと思っていた。
どちらにとってもパンダの介入は予想外だった。
「来てくれたんだね、パンダ」
マリーの瞳が危険な熱気を帯びる。
ホークとの戦闘に予想外に苦戦したことで、都市でパンダを捜索中のグールの半数を消費することになってしまい、パンダの捜索は半ば諦めかけていた。
そんなところにまさかパンダ自ら姿を現すとは。
これでマリーの望みは全て果たされる。再びパンダを捕え、今度こそパンダに究極の痛みと恐怖を与えて支配する。
昨夜受けた屈辱を丸ごと返上できる。
「お邪魔するわ。迷惑だなんて言わないわよね」
「もちろん。歓迎するよパンダ」
「――それをよこせッ!」
ホークの怒号。
その視線はパンダの右手に収まる魔法銃に向けられていた。
回収不可能と思われた魔法銃だが、パンダの来訪で再び取り戻す好機が訪れた。
レッドスピア一つでは勝機は極めて薄いが、銃が二丁あればまだ望みはある。
「よこせって言われてもねぇ」
パンダの視線がマリーへと向けられ、彼女の視線とぶつかる。
マリーは今、ホークとパンダのちょうど間に割り込む形で上空に陣取っている。
となればホークに魔法銃を渡すのは困難だ。どうしようともマリーの妨害が入れば終わりだ。
「ふーむ」
パンダはざっと周囲を確認した。
――エントランスの延焼。出火場所は別=出火から長時間経過。ホークは館を放火後エントランスへ移動。
――マリーの帰還・戦闘――ホークは救出より戦闘を選択=救出失敗――全被害者の死亡。
――魔眼で魔石の魔力残量を測定・完全に充填済=再装填直後。
――炎の規模・大=戦闘の長期化。魔弾は再装填直後=魔弾は弾倉内のもので最後の可能性大=魔断も同程度の消費。
――マリーが展開中の血の盾・巨大。エントランス内の血・大量――想定以上の貯蔵=魔力の供給源有り――都市のグール。
――マリーは長期戦を選択。適切。魔断の残弾・小。
「苦戦してるみたいねぇ」
困ったように嘆息。
「グールが魔力源になるのね。盲点だったわ、ごめんなさい」
「貴様……」
「……」
一瞬で戦況を把握したパンダに、ホークとマリーが瞠目する。
「短期決戦しかないわね。援護するわ、ホーク」
「……ふざけるな。レベル5の雑魚の助けなどいらん。さっさとその銃を私に、」
「苦戦してるんでしょ? いいから任せときなさいって」
「……」
確かに、ここでホークに魔法銃が戻ったとしても勝算は低い。
マリーが二人の間に陣取る以上、そもそも魔法銃の受け渡し自体が困難だ。
――だが逆にパンダが魔法銃で戦闘に加わるならば、マリーを前後から挟み撃ちにできる位置関係だ。
「――あはっ。パンダも私と遊んでくれるんだ?」
だがマリーは変わらず余裕を崩さない。
挟み撃ちなどまるで問題にならない。前方だけに展開していた血の盾を後方にも展開すればいいだけの話。血の消費量は二倍になるが、その程度の余剰はある。
そもそもパンダにマリーの血の風を回避する手段などない。脅威的な身体能力を持つホークだからこそここまで食い下がれたのだ。パンダなど一撃と保たないだろう。
戦力差は歴然。勝てるはずなどない――というのを、パンダは分かっているはずだ。
その上で戦うのなら、パンダには勝算があるはずだ、とホークは感じた。
パンダは並外れた洞察力を持っている。他者の力量を見誤るような半端な魔人ではない。
「……あるんだな、勝算が?」
「そりゃそうでしょ。じゃなきゃとっくに逃げてるわ」
「……いいだろう。だが連携は取れないぞ」
「いいわよ。私のことは気にせず戦いなさい。勝手に援護するわ」
「ふん。――残弾は一八発だ、それで決めるぞ」
「りょーかい」
そうして、ホークとパンダが同時に銃を構え、前後からマリーに狙いを定める。
それを冷笑で受け流すマリー。
「お話は終わりかな?」
「ええ。ごめんなさいね、お待たせしちゃって」
「いいよ。どうせ私が勝つんだし」
マリーの周囲に大量の血が現れうねり出す。
それらはマリーの意思一つで即座に姿を変え二人に襲い掛かる。
またマリーは血の盾を扇状ではなく筒状に展開。マリーをすっぽり覆う形で護りを固める。これで背後から襲われても問題ない。
攻守共に盤石。二人には勝機などないように思える。
しかしホークの瞳は、それでも不敵に笑うパンダの姿を捉えていた。
今はその笑みを信じるしかない。
「――行くぞ!」
残り一八発の魔断。その一発目を撃ち出すべく、引き金を引き絞る。
それに合わせてマリーも動く。
血の風が幾重もの斬撃となって周囲を切り刻み、その中を一発の魔断が突き抜け――
――その全てを見切り、その全てより先んじて、パンダの魔弾が放たれた。
一発の銃声。しかし放たれた魔弾は二発。ホークにも劣らない早撃ちで発射された魔弾は――エントランスの天井目がけて突き進んだ。
「は?」
その軌道を視界の端に捉えたマリーが呆気にとられる。
それは明らかに血の盾を狙ったものではなく、
――しかし確かにマリーを狙って放たれた銃撃だった。
天井へと命中した魔弾は直後、方向転換。二発の魔弾は急転直下し、マリーの頭部目がけて飛来した。
「え」
それは回避ではなく困惑から生じた身じろぎのようなものだったが、それが奇跡的にマリーの窮地を救った。
両頬のすぐ傍を突き抜ける魔弾は、動くのが一瞬遅ければ間違いなくマリーの頭部へ命中していた。
しかしその回避すらもパンダの思い描く一連の流れに含まれていた。
マリーを外れた二発の魔弾はそれぞれ同じ座標へと収束。
一瞬先に辿り着いた魔弾が、内側から血の盾を直撃。強烈な魔力の炸裂が血の盾に拳大の孔を穿つ。
二発目の魔弾がその孔へ飛び込み、二枚重ねになっていた血の盾のもう一枚へと突き刺さる。
まるでトンネルのように開いた二つの孔から――ホークの放った魔断が姿を現した。
鉄壁の防御に護られていると信じ込んでいたマリーは、突如現れた魔断に全く反応できなかった。
魔断はマリーの左脇をすり抜け、マリーの背後にある血の盾に命中した。
「ぇ……」
「な――!?」
マリーとホークは両者とも声にならない声をあげる。
「ちょっとちょっと! ちゃんと狙ってよ、今ので決めるつもりだったのに~!」
プンプン、とご立腹のパンダ。
今の一撃、ホークはマリーを狙ったわけではない。
無論、無意識に彼女の近くを狙ってはいたが、どうせ魔断は血の盾に防がれるものと思い込んでいた。
それはマリーも同じ。単発の魔断では盾を突破できないというのはこの一戦における大前提のはずだった。
だからこそホークは連射力に劣る弓を捨ててまで銃を選んだのだから。
その大前提を根底から覆すパンダの策略。
魔弾で無理矢理に血の盾に孔を開け、直接マリーに続く道を拓くという荒業。
「今のを……狙ってやったのか」
レッドスピアの銃口から魔断の軌道を見切る。
マリー血の風をすり抜ける魔弾の軌道を見切る。
そして――跳弾。
実弾でも狙って起こすのは困難だが、魔力弾ならば更に難易度は跳ね上がる。
それを二連続。しかもその着弾点はマリーの頭部を狙いつつ正確にホークの魔断に合わせてきた。
……神業だ。
ホークが戦慄を覚える。
パンダは銃に関しては素人だと言っていた。いや、仮にかつて凄腕の銃士だったとしても、あの矮躯だ、サーペントのような怪物銃の反動も相当な負荷だろう。それだけでも驚嘆に値する。
〝――私、元魔王なの〟
「……なるほどな」
ここまでの技量を見せられては信じないわけにはいかない。
地上の支配者。超越種の頂点。
今ようやく、ホークは自身がどれほどの助力を手にしているかを理解した。
――逆にマリーは今、自分がどれほどの者を相手にしているかを知った。
「……パンダッ!」
マリーの悲鳴。
数秒前までの余裕は一瞬で消え去った。新たな血の盾を生み出し、続いて血の風をパンダに見舞う。
ホークのときと変わらぬ物量。
それを――
「わお――これかぁ! 確かに早いわね!」
紙一重ではあったが、パンダは回避した。
パンダでは躱せないと高を括っていたマリーが驚愕する。
偶然であることを期待して第二波を見舞う。
しかしそれも実らない。
パンダは床を疾走し、迫りくる斬撃の波状攻撃を躱し続ける。
血の斬撃は確かに早いが、パンダにかかれば見切るのは難しくない。後はその速度域の戦闘に身体がついていくかどうかだけだ。
パンダはレベル5ではあるが、ギルニグ戦で俊敏性を限界まで強化してあったのも功を奏した。
「このッ――」
躍起になってパンダを責め立てようとするマリーだが、ホークがそれを許さない。
魔断を二連射。
マリーまでの射線は血の盾に阻まれているが、今度はしっかりとマリーの胴体に命中するように放った。
「よいしょ」
驚くべきは、そのホークの射撃よりも一瞬早くパンダは魔弾を放っていたことだ。
血の風に追い立てられながら、ホークの射撃に合わせての四連射。
その四発はそれぞれ違った軌道を描き跳弾し、最終的には魔断が進む道を切り開く場所へと着弾する。
「ひっ――!」
咄嗟に回避するマリー。またしても血の盾を突破してマリーの傍を通り過ぎる魔断の脅威に、マリーはたまらず飛翔する。
ポジションが悪すぎる。血の盾がまともに機能しない以上、二人に挟み撃ちにされている現状はまず過ぎる。
そう思い距離を離そうとするが、二人はマリーを取り囲むように移動し、有利な位置関係を手放そうとしない。
……いや、正確にはパンダはホークに合わせて動いているのだ。
示し合わせていたのかと思うほどの巧みな連携は、その実パンダからの極めて一方的な援護によって成立していた。
「……凄い」
思わず感嘆の声が漏れる。
獲物の動きを読んでの偏差射撃は、弓術における最重要能力だ。戦場で研ぎ澄まされたホークのそれはまさに一流。達人と言える域にある。
そのホークをして、 パンダの先読みの能力は常軌を逸していた。
しかも対象はマリーだけではない。パンダはホークの動き、狙いをも完璧に見切った上で援護射撃を行っている。
自身のことは気にせず戦えとパンダは言った。その意味が今なら分かる。
それはつまりホークがどのように動こうとも、それに最適な援護を行うということだ。
ホークはただマリーだけを狙って撃てばいい。そうすればパンダが勝手に道を開けてくれる。
彼女は簡単に言ったが、そのために一体同時にいくつのことを並行して行っているのか。
「これなら」
話は全く変わってくる。
本来、魔断でマリーを仕留める算段は、さながらボードゲームの詰みに近い。
まずは血の盾を突破し、牽制し、動きを封じ、そして最後の一発で仕留める。それしか手はないと考えていた。
だがパンダの援護を得た今は、ホークが持つ残りの魔断――それが全てマリーを仕留める必殺の一撃に成り得る。
同じ理解を得ているマリーにはまさに天変地異。盤石なはずの地面が突如として崩れ去ったようなものだ。
「うああああああああ!」
赤の風が吹き荒れる。
マリーはエントランスを飛び回りながら必死に攻撃を繰り出す。
まず狙うべきはパンダだ。彼女の力はあまりにイレギュラー過ぎる。
「――」
血の斬撃が八本。全てを見切る。
パンダが睨んだ通り、マリーは戦闘の素人だ。攻撃に何の駆け引きも読み合いもない。
ただパンダが今いる場所に血の塊を叩き込む。それだけの稚拙な攻勢。
確かに驚異的な速度と物量。並の者ならば押しつぶせるだろうが、パンダには通じない。物理的に回避不可能な攻撃以外は凌ぎ切れる。
「――ク」
パンダの口角が吊り上がる。
軽く成し遂げているように見えるパンダの神業も、その実ギリギリの綱渡りだった。
血の斬撃は今のパンダが持つ身体能力、そして動体視力を限界まで酷使しなければ防げない。それに加えてホークの銃撃に合わせての援護射撃。
百戦錬磨のパンダをして極限の集中力を強いる試練だった。
見切りが一瞬でも遅れれば、あるいは回避が一センチでもズレれば、血の風は容赦なくパンダの四肢を斬り飛ばすだろう。
これほどの思考速度を強いる戦闘経験といえば、
「……ムラマサ以来かしら」
そういう戦いがパンダには楽しかった。
「――ッ!」
パンダにだけ向けられていたマリーの注意が逸れる。
ホークがレッドスピアを構えるのが見えた。それに合わせてパンダもサーペントを構える。
「くっ……この!」
何度も同じ手は喰わない。
パンダの魔弾はホークの魔断の道を開けるために放たれる。魔弾ではマリーを仕留めきれないのだ。
ならば極論、魔断さえ注意していればいい。マリーを一撃で仕留められるのは魔断だけだ。
マリーを中心に、筒状に展開していた血の護りをホークの方向に偏らせる。
一度に操れる血の量に限界があるため、前後を護るなら盾は二枚重ねが限度だが、一方向だけならばもっと何重にも護りを張れる。
ホークの魔断の射線に四枚の血の盾を展開。これならばパンダの援護があろうとも簡単には突破できない。
代わりにパンダの方向の護りは薄くなるが、どうせパンダはホークへの援護射撃しか行わ――
「? 何してんの?」
銃声。魔弾が跳弾し、がら空きになったマリーの左脚に魔弾が叩き込まれる。
「ガッ――!?」
大威力の魔弾は左太ももに大きな穴をこじ開けた。
肉片と血しぶきが飛び散る。一瞬意識が飛びそうになるほどの激痛。
一撃必殺の魔断の存在感に惑わされ魔弾の威力を甘く見たマリーだが、それは失策だ。
この魔法銃の威力は、その他の利便性を全て犠牲にしてでもパンダが拘った大威力を秘めている。
「ぐ、うぅ……!」
突如襲い掛かった激痛に、マリーの注意がパンダに向く。
しかしそれも愚策。
そもそもホークの魔断を警戒するために意識を逸らして、その結果背後から撃たれたのだ。
それを、魔断の脅威が去っていない内に再びパンダに注目するなど愚の骨頂。
「下手糞め」
ホークがマリーの愚鈍を詰る。
マリーは血の盾を一箇所に集中して増強させたが、肝心のホークを無視してパンダに気を取られているようでは本末転倒。
ホークは僅かに狙いを逸らし、防御の甘い箇所を狙い撃つ。
三発の魔断を連射。
最初の二発で血の盾を吹き飛ばし、最後の一発でマリーの脳天を狙う。
「ひぁっ――!」
咄嗟に両手で頭を抱えてしゃがみ込む。結果的にそれで魔断を躱すことができたが、その無様な姿一つで、もうどちらが優勢かは一目瞭然。
パンダを狙えばホークの魔断が襲ってくる。
ホークを狙えばパンダの魔弾が襲ってくる。
血の斬撃を見舞っても回避される。
血の盾を展開してもパンダに突破される。
「あ――う、ぐ、うぅ……あぅぅ……」
マリーの視線が右往左往する。
目に見える狼狽。マリーには今自分が何をするべきかも判断できていない。
これこそがホークやパンダと、マリーとの決定的な違い。
マリーは確かに自身の血を操るという能力を巧みに駆使している。
しかしそれが必ずしも能力を使いこなしているという意味ではない。
なまじ強大な能力を手に入れてしまったがために、マリーは苦戦することなく敵を排除できてしまっていた。
故にそれを覆す敵とどう戦えばいいかを知らない。
マリーは今本当の意味で戦いを知った。
いや、唐突に戦闘の渦中に放り出されたという方が正しい。
「うあああああああああ!!」
血の盾が一気に流動し、球状に姿を変える。
マリーを完全に覆い隠す赤い血の球体。
これならば確かに、盾の隙間をパンダの跳弾で狙われることもない。
が……
「あはは! リンゴ飴みたーい!」
「馬鹿が」
笑い声をあげるパンダとは違い、ホークはこの愚策を一言で吐き捨てる。
未だに魔断の威力が理解できていないのだろうか。血の盾がどれほど強固であろうと、それが一塊であるならば一撃で破壊できるのだ。
あんな防御の仕方はまるで無意味。そもそもあれではマリーも外の様子を確認できない。意味不明な愚行だ。
「殺るぞ」
「オッケー、決めちゃいましょ」
赤と紫の殺意が血の球体を狙う。
その気配も、今のマリーには伝わらない。
光も通さない球体の闇の中で、マリーは震える身体を押さえつけるので精一杯だった。
「はあっ……はあっ……!」
「私……」
どうして。
マリーの胸中を占めるのはそんな疑問だけだった。
「私は……!」
全てを支配したはずなのに。
誰よりも強くなったはずなのに。
もうこの館にはマリーを支配する者はいない。虐げる者もいない。痛みも恐怖も存在しないはずなのに。
「――いっ、づ……!」
左脚の痛みに眉が寄る。
痛みは消えることなくズキズキとマリーの心を抉る。
――他者に痛みを与えるとき、マリーは痛みから解放されるはず。
――他者を支配するとき、マリーは誰からも支配されないはず。
なのに……!
〝――だからお礼に、私もあなたに不自由をあげようと思う〟
一人の少女の声が蘇る。
〝――『決して私を支配できない』、という不自由を〟
「……パンダ」
〝――そのときに、あなたは知る。あなたを支配する本当の不自由を〟
そう、パンダだ。
パンダが現れたから全てが狂った。
数分前までマリーは確かにこの館の支配者だった。ホークすら打倒した。誰にも負けなかった。
――残るは、パンダだけなんだ。
〝――あなたが何に恐怖しているのかを〟
「――パンダアアアアア!!!」
血の球体が破裂する。
それは魔断によるものではなく、マリーの意志によって起こった現象だった。
瞬間、エントランス全体を覆いつくすほどの赤い霧が発生し、三人を包み込む。
「――ッ、これは!」
ホークの焦燥。これは昨夜、ホークの破魔の矢を無効化した血の霧だ。
この霧にも余すことなくマリーの魔力が流れ込んでおり、魔断が霧に突入した瞬間に破魔の力が発動してしまう。
故に、この霧が満ちている間はマリーに破魔の力が及ぶことはない。
「――なるほど」
パンダがマリーの狙いを察する。
この霧も魔断が接触すればすぐに霧散するだろうが、それでも僅かだが時間がかかる。
その間はマリーは魔断の脅威から解放され、ホークを無視してパンダだけを集中攻撃する時間が生まれる。
「リンゴ飴の中で、少しは頭が冷えたみたいね」
やっと戦術らしい戦術を取ってきたマリーに、パンダは舌なめずりを一つ。
マリーはパンダとの一騎打ちをご所望のようだ。
――上等。受けて立つ。
「アアアアアアアアア!」
獣じみた咆哮をあげてマリーが弾丸のようにパンダに迫る。
血の盾は展開していない。血の霧が数秒しか保たない以上、マリーにとっても勝機は一瞬。防御に血を回す余裕はない。
被弾覚悟の特攻。距離が詰まれば、それだけパンダも回避が困難になる。
「――」
血の斬撃が迫る。九本。多い――回避不可能。
銃声。魔弾を五連射。
五本の斬撃が弾け飛ぶ。残り四本。これなら回避可能だが――。
「――ハア!」
マリーが吠える。
新たな血の風を生み出すが、パンダとの距離が近すぎる。魔弾の脅威を考えれば丁寧に狙いを整える暇はない。
吹き荒れる血の風は斬撃というほどの鋭利さはなく、ただ血の塊を前方に爆発させたような粗雑さ。だが純粋な威力で言えば十分。
パンダから逸れた血の風が、パンダの上方にある壁に激突する。
叩き壊された壁が巨大な瓦礫となってパンダに降り注ぐ。
「お?」
一瞬の空白。パンダとマリー、両者の思考が加速する。
戦闘時における思考速度においてパンダはマリーの追随など許さない。一瞬で一〇通り以上の選択肢を網羅したパンダは最適解を選択後、マリーの次の行動に備える。
マリーの行動によっては更に七つの対処に分かれる。――いずれも必殺の方程式を組み終える。
試されているのはマリーだ。瓦礫がパンダの地点に落下するまでの一瞬の内に、マリーは自身の最適解を模索する。
落下している瓦礫の量は多く密度もある。が、パンダなら十分回避可能だろう。
ならば重要なのは次の一撃をどのように繰り出すか。
――瓦礫に合わせて攻撃……それでは今までと同じ。回避されるだけ。
――ではパンダの回避直後に追い打ち……確実性が低い上に遅い。ホークに霧が消される。そんな悠長な時間はない。
……ならば。
「――ハッ!」
マリーの血の斬撃。
それを、パンダのいる位置の左右に被せる形で放った。
パンダの後ろは壁。前にはマリーがいる。瓦礫を回避するなら左右どちらか。
そこにあらかじめ斬撃を放っておくことで、瓦礫を回避させないという作戦。
降り注ぐ瓦礫だけではパンダは仕留められないだろうが、瓦礫に埋まれば動きが止まる。
そうすればその後の十数秒間、パンダの援護なしにホークと戦える。
残弾数の少ないホークが相手ならば必勝。
ホークを仕留めれば、その後で魔断という決め手を失ったパンダを倒せる。
「――ええ。いいと思うわよ、それで」
よくできました、とでも言いたげな顔でパンダは笑い――直後、落下してきた瓦礫群に飲み込まれた。
マリーの狙い通り、パンダは左右への回避経路を塞がれ瓦礫の中に消えた。
――勝った。
マリーが勝利を確信する。パンダが身動きが取れない以上、彼女が復帰するまでの時間、ホークは孤立する。
もう反撃の機会は与えない。一瞬で殺す。
銃声。ホークの魔断が放たれ、血の霧を消し飛ばした。
これで魔断が復活。だがもう勝負は決している。
マリーが反転。ホークへ迫る。
距離は三メートル。互いに必殺の距離。
ホークがレッドスピアの銃口をマリーに向ける。問題ない。血の盾の展開の方が早い。
「これでぇ――!」
ぎゅるり、と血が蠢く。それは一瞬後には斬撃となってホークに襲い掛かる。
同時に血の盾も展開すれば鉄壁。ホークに勝ち目はない。
「――終わりだ、吸血鬼」
しかしその時、勝利を宣言したのはホークだった。
何故なら――パンダが瓦礫に呑まれる瞬間、ホークは一つの音を聞きとがめていたからだ。
それはパンダの持つ魔法銃『サーペント』の撃鉄が落ちる音。
五連射によって一つの魔石から魔力弾を撃ち尽くしたパンダが、弾倉を回転させて次弾をセットする音。
あの瞬間、パンダは回避ではなく攻撃を選択したのだ。
――その目的は、一つしかない。
銃声。
雷が落ちたような轟音は、サーペントの魔弾の獰猛な発砲音だ。
積み重なった瓦礫の隙間から放たれた魔弾の軌跡がエントランスを突き抜ける。
周囲に転がる瓦礫の一つに命中――跳弾。その後崩れた柱に命中――跳弾。
二度の跳弾を経て――魔弾はマリーの背中を背後から撃ち抜いた。
「ガッ……!」
何が起こったのか理解できないまま、マリーは口から血の塊を吐き出した。
前後からの挟み撃ち、怒涛の弾幕もなんとかやり過ごしてきたマリーだったが、その一撃は完全にマリーの意識の外からの強襲だった。
あれほど妄執に駆られた相手。狂気に染まった眼で探し続けた少女。そして、この館で唯一マリーが支配できなかった敵。
そんなパンダを、一瞬とはいえあろうことか意識の外へ追いやった。その瞬間にマリーの敗北は決定していた。
パンダも、そしてホークも。そんな温い思考を許す程甘くはない。
「――ぁ」
銃撃に見舞われ、腹部に大穴。激痛に眩む瞳が――今まさに引き金を引き絞るホークを視界に入れた。
もうマリーには銃声は聞こえなかった。ただ、銃口から迫る弾丸だけがやけにゆっくりに見えた。
不意打ちを受けたマリーに生じた致命的な空白。
斬撃も盾も間に合うはずがない。
一直線にマリーへと迫る魔断。
それを、マリーはただ見つめることしかできなかった。
「待っ――」
――とん、と小突くような感覚。
左胸に命中した魔断。その威力は、腹部を貫いた魔弾に比べればあまりにも小さい。
だがその弾丸に付与された破魔の力が、マリーの体内へ流れ込んでくるのがはっきりと実感できた。
「――あ――ぁ――」
それが何を意味するのか、正確にはマリーは知らない。
何故魔断が魔族を一撃で葬れるのか。その理由を知らない。
魔力を打ち消す破魔の力。
それを体に食らえば、マリーは戦闘不能になる。その理由を、マリーは魔力が失われるからだと思っていた。
魔力を失うのだから血も操れなくなる。生命活動も危うくなる。
結果的に、マリーは敗北する。
……それだけだと思っていた。
だが次の瞬間にマリーを襲ったもの。
「――ギ」
――それは、血と魂に刻まれた盟約がズタズタに引き裂かれる
「――ギィアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!」
どばん! と宙を舞っていた血の塊が破裂する。
マリーの支配から解放された血が雨となってエントランスに降り注ぐ。
宙に浮遊していたマリーも飛行を維持できず落下。燃え盛る瓦礫の山に墜落し、降り注ぐ血の雨を浴びた。
だがその全てをマリーは認識できなかった
今マリーが認識できるのは、ただ自身の内で暴れ狂う壮絶な痛みのみだった。
「アガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
喉が裂けるほどの絶叫。
血で真っ赤に染まった体で瓦礫の上をのたうち回り、マリーはただ泣き叫んだ。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!」
もしマリーの血の盟約が四天王という強力なものでなかったならば救いもあった。
破魔の力に耐えきれず盟約が瞬時に破壊されれば、マリーは即死していたからだ。
だが破魔の力でも破壊し切れない強力な盟約は長時間に渡って破魔の力に抵抗し、際限なくマリーに痛みを与え続ける。
「
それはマリーが生涯で味わったどんな痛みをも上回る激痛。
混濁する意識の中、走馬灯のように数々の記憶がマリーの脳内を駆け巡る。
それは当然のように痛みにまつわるものばかりだった。
――どうして。
痛みで煮えるマリーの中の脳裏に、かすかな疑問が生まれる。
何故こんな記憶が蘇るのか。
何故今更こんな恐怖を与えようとするのか。
その記憶の中の苦しみが、全てこの一瞬に濃縮されたかのような痛みがマリーを襲う。
「いやだあああ!!!! 痛いのいやあああ!!!! やめてえ!! マリーをぶたないでえええええええええ!!!!!」
恐怖は克服できたはずだ。
強者となり、支配者となり、もう恐怖からは解放されたはずなのに。何故今になって――
〝――あなたは今も心に根付く恐怖に支配され続けてる。あなたは恐怖を克服なんてしていない。目を背けてるだけ〟
そのパンダの言葉が蘇り、マリーは全てを理解した。
ああ、自分は恐怖を克服などしていなかったのだ。
いや、むしろ逆。マリーは今も尚、同じ恐怖に支配され続けていた。
傷つけられるのが怖いから、先に傷つけようとした。
支配されるのが怖いから、先に支配しようとした。
だがそれでは恐怖は消えない。恐怖から逃げるために恐怖を奮うのなら、恐怖はずっと消えずに残り続ける。
恐怖を克服するというのは、そういうことではない。
〝――そんなことに気づけなかったから……私は……ずっと……〟
「ああああああああああああああああああああ!!!!!」
炎上を続けるエントランスに、ホークが床を踏み鳴らす音が響く。
夥しい血に染まった瓦礫の上で悶え狂うマリーに向かって一歩ずつ歩み寄る。
その命を刈り取るために。
介錯のつもりはない。生きている以上は殺す、それだけだ。
死が迫るのをマリーも感じていた。
破魔の力によって体内の魔力の大部分を消し飛ばされたが、結局盟約は破壊されずに生き延びた。
しかし未だに全身に残る痛みの残滓に、マリーは一歩も身動きができない状態。
逃れられない死。だが不思議と恐怖はなかった。
無抵抗の身体に振るわれる暴力などもう慣れた。
痛みも、恐怖も……全てはいつもマリーのすぐ傍にあった。
ただそれらから逃げ続けるだけの人生だった。
世界には痛みと恐怖が満ち、世界はそれに支配されているのだということを理解するためだけの人生だった。
だからそれに倣ったのだ。
誰かを痛めつけることで救われた。
それが気休めの逃亡だとしても、その間だけはマリーは全てから解放されたのだ。
だから生贄を求めた。自分の中に蠢くこの苦しみを、代わりに誰かに少しだけ背負って欲しかっただけだ。
――それの……!
「――それの何がいけないっていうのッ!?」
血の涙を流しながら、歩み寄ってくるホークに向かって息も絶え絶えに叫んだ。
「されたことをしてるだけだよ! 私だって痛かった! 怖かった! でも誰も助けてくれなかったッ!」
ホークは黙ったまま歩き続け、やがてマリーのすぐ傍まで辿り着いた。
喚き散らすマリーを冷え切った眼差しで見つめながら、静かに銃口を向ける。
「私が痛くて泣いてるとき、あなたは私を助けてくれなかったじゃない! パンダだって助けてくれなかった! 知らないふりしてたくせに! だから私も誰も助けなかった。それのなにが悪いって言うのッ!!」
かつてマリーを嬲った男たちに。ホークやパンダに。あるいは世界に。
マリーの世界が苦痛に支配されていく様を知りもせず生きてきた者たち全てに向けて、マリーは忘我のままに叫び続けた。
「私は――!」
銃声。
魔断に貫かれたマリーは今度こそ完全に意識が途絶え、瓦礫の上に仰向けに倒れ込んだ。
ガラガラと崩れる瓦礫の山。やがて天井からも崩壊した木材が雪崩れ落ちてきて、倒れたマリーへと降り注いだ。
「……されたことをしてるだけ、だと?}
瓦礫の中に消えたマリーへと、ホークは感情のかよわない声音で声をかけた。
「ならお前も死ね」
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