第37話 妄執


 エルフ族とハシュール王国との講和が成立して数カ月後。

 血みどろの殺戮が終わりを告げ、人類からの温情による平穏を手に入れたエルフ達は、残り僅かとなった者たちで寄り添い合いながら暮らしていた。


 虐殺は終わった。

 ……少なくとも、人類の気が変わるまでは。

 それはいつ落ちてくるか知れないギロチンの刃を待つような日々。

 エルフ達は自分たちが今平穏の中にいることを信じられず、姿のない暴力に怯えていた。


 それが最も酷かったのは、ホーク・ヴァーミリオンだった。


「――お姉様! ホークお姉様!」

 部屋を出て行こうとするホークの前に、ミリアが立ち塞がる。両手を広げて道を塞ぎ、ホークの歩みを止める。


「どくんだミリア。早くしないと、奴らが来る」

「来ません! 人類はもうこの森には来ません!」

「ふざけるな……昨日もまた仲間がやられた。ルベリオが……カリアが……」

「お姉様、お気を確かに! 昨日は誰も森の外へ出ていません。誰も死んではいません! それに……ルベリオさんとカリアさんは、もう……二〇年も前に……」


 二〇〇年という時間は長命なエルフにとっても短い時間ではない。

 そのほとんどを戦争に捧げたホークの心身は限界まで摩耗していた。

 その上、戦闘での負傷を満足に治すこともできないまま次の戦場へ赴くことも常だったホークは、その無理を通すために多量の薬を服用していた。


 薬にも毒にも強い耐性を持つエルフであっても限度はある。

 ホークはもうずっと前から重度の中毒症状を発症させており、ただでさえ擦り減った精神を更に追い詰めていた。

 それでも戦場の空気……あの地獄の匂いを嗅げば、嫌でも現実を直視させられる。

 皮肉なことに、ホークは戦場にいることで、かろうじて正気を保っていたのだ。

 逆にホークは戦場という地獄から離れることによって正気を失うことになった。


 容態が急変したのはハシュール国との不可侵条約が正式に結ばれた一カ月後。

 ホークは上手く眠ることができなくなり、次第に幻覚を見るようになった。

 戦場の幻覚。敵兵の幻覚。死の幻覚。


 地獄から奇跡の生還を果たしたホークを憎悪するかのように、幻覚はホークの意識を戦場へと引きずり戻そうとした。

 ホークは夜毎、夢遊病のように戦支度を整えては、いるはずもない敵兵を探して森の中を彷徨った。


「お姉様、戦争は終わったんです。終わったんです、お姉様……!」

「……終わった? …………そうか……終わったのか……ああ、そうだ…………そうだった……」

 ホークは焦点の定まらない瞳でしばし虚空を眺めたあと、力が抜けるように椅子に座り込んだ。

「終わったんだったな……戦争は」

「そうです、お姉様。終わったんです。皆さんのおかげです。私たちは平和を手に入れたんです」


 ゆっくりと諭すように語り掛けるミリアの声だけが、ホークの心を癒してくれた。

「……私は、無能な隊長だった」

 生気の抜けきった声で、ホークはぽつりと言葉を漏らした。


「何万人もの仲間を死なせた。誰も護れなかった……カーシャ……あんな小さな女の子にまで弓を持たせて……」

「お姉様」

「最後には……部隊が魔人から逃げるために、囮にした……「お前ならきっとできる」なんて……心にもないことを言って」

「お姉様、止めましょう。お姉様は何も悪くありません」

「カーシャは最後まで魔人に立ち向かった。たった一人で。あんな小さな子が、たった一人で……どれだけ怖かったんだろうな……」


 ホークのくすんだ瞳から一筋の涙が落ちるのを見て、ミリアは言葉を失った。

 どんなときでも強く、気高くあり続けた姉が泣くところを、ミリアは生まれて初めて見た。

 それほどまでにホークが追い詰められていたことが苦しくて、ミリアもまた泣き崩れるしかなかった。


「お前のためなんだ、ミリア」

「はい」

「お前を一人にしてはいけないって……だから私だけはなんとしても生き延びなければと……そう思って」

「はい。分かっています、お姉様」


「……いや、違う。それだけじゃない。戦場に出る度に思った。もう一度だけでいいからお前に会いたいって。お前の声を聞きたいって。そう思うだけで――私は何度でも鬼になれた。同胞の命を、いくつだって犠牲にできたんだ」

「お姉様……!」

「最低だ、私は……。私は弱い……誰も護れなかった」

「私がいます!」


 ミリアは全ての力を振り絞ってホークの身体を抱きしめた。

「私が生きています。お姉様のおかげです。お姉様のおかげで私は今も生きています。お姉様は私と……お姉様自身の命を護ってくださった。――護ってくださったんです」

「……ミリア」

「戦争は終わりました。もう武器など必要ないのです。誰を殺める必要もない。お姉様が、私を護ってくださったからです」


 溢れ出る涙を止める術も分からぬまま、ホークはただミリアの温度に全てを預けた。

 身体も意識も、全てを投げ出すことでホークは救われた。


 ミリアの言葉は正しかった。

 それから五〇年、エルフは平穏を失うことなく過ごすことができた。

 その間、ミリアは常にホークの傍にいた。

 今まで失ってきた安寧を取り戻すかのように、抜け殻のように呆然と時を過ごすようになったホークの傍で、いつだって眩しい笑顔を与えてくれた。


 ホークはただ一つ護りたかったものを最後まで護り通した。

 ならばもうホークが戦場に出ることなどない。


 ――そう思っていた。

 あの日、ミリアがブラッディ・リーチに攫われるまでは。











 あまりにも悪辣な皮肉だ、とホークは自嘲した。

 今度こそホークは本当の意味でミリアを護るために戦場に出る。

 そして無事ミリアを救出した暁には……今度は魔王討伐という冗談のような旅に出ることになっている。


 あれほど憎悪した魔人と共に、二振りの銃を携えて勇者となる。

 運命はあくまでも執拗に、ホークに戦いを望んだ。平穏によって少しずつホークが戦場の匂いを忘れることを嫌い、その手が武器を放棄することを許さなかった。


 ボルクハルトが銃の整備を終えるまで半端に時間が余ったからだろうか。こんなことを考えているのは。

 ホークはパンダが取っていた宿の一室で、一人精神を集中させていた。


 今夜、ブラッディ・リーチを殺す。

 そしてミリアを救い出す。


 魔族と人類。二つの種族を相手に二〇〇年の戦争を生き延びた歴戦の戦士であるホーク。

 そんなホークをまるで歯牙にもかけず、二度も圧倒したあの強大な吸血鬼に勝てるのか……そんな不安は、もはやホークにはなかった。

 この静かな部屋の中で精神を研ぎ澄ます内に、ホークはあらゆる恐怖を克服することができた。


 五〇年という安息は、ホークの戦士としての腕を衰えさせていた。

 昨夜はホークが五〇年ぶりに弓を取った夜だった。

 体は戦い方を覚えていたが、それでもその意識はまだあの安らかな平穏の中に取り残されていた。


 だが今は違う。

 今、ホークの心は間違いなくあの戦争の日々に立ち戻っている。

 一切の無駄もなく、その身はただ敵を射止めるための兵器へと変わっている。


 ――勝てる。

 ホークは強く確信する。今の自分なら、あの吸血鬼に勝てる。


「今日のおやつは肉ま~ん♪」


 部屋の扉を開けてパンダが入ってきた。

 手には湯気が立ち上る紙袋。中身は肉まんらしい。


「怖い顔してるわねぇ。緊張してるの?」

「集中してるだけだ」

「そんなときには肉まんよ」


 パンダはほくほくの肉まんを一つホークへ手渡した。

「……朝に食べたばかりだろ」

「人間は日に三度もご飯を食べるのよ」

 パンダは間食も入れて一日五食だが。


「金はどうした。ガンショップに有り金全て払ったんだろ」

「少しちょろまかしてたの。いいでしょ、肉まん分くらい」

「別に私は構わん。それより、首尾はどうなってる」


 パンダは作戦の確認のために部屋を出かけたはずだ。

 それが肉まんの袋をもって帰ってきたことでホークに一抹の不安がよぎる。


「とりあえず、作戦に変更はないわ。冒険者管理局で情報を集めたんだけど、ブラッディ・リーチの目撃情報はなし。他の組織が動く気配もないから、今日なら誰の邪魔も入らずに戦えるわ」

「奴がこのまま館に籠ってくれればいいんだがな」


 時刻は既に陽が落ち始めている。

 吸血鬼は夜に魔力が満ちる種族だ。今まで動きがなかったからといって、数時間後もこのままとは限らない。


「仮に館にいなくてもあの周辺には侵入者探知の結界が張られてるから、私たちが出向けば戻ってくるはずよ。それにあの子はどうも私にご執心みたいだしね。歓迎してくれると思うわ」

「その後の動きは手筈通りだな?」

「ええ。あなたとブラッディ・リーチの一騎打ちよ。ほんとは私も参戦したいんだけど、武器がないしね」


 ボルクハルトに有り金を巻き上げられ、パンダもホークも見事に無一文だ。

 新しい武器を調達する余裕はない。

 が、そもそもブラッディ・リーチに対してまともに傷を負わせられるほどの武器はそう簡単に用意できるものではない。

 パンダは初めから今回の戦闘には参加する予定はない。


「無用だ。レベル5の魔人など邪魔なだけだ。――それより」

「分かってる。人質の救出でしょ?」

 ホークがブラッディ・リーチの気を引く隙に、パンダは館に囚われている者たちの救出の任を担っている。


 何人囚われているのか……そして、何人が生き残っているのかは定かではないが、とにかく全員救出する。

 パンダが戦闘から外れてまで救出を優先させるのは、最悪ホークが敗北した場合でもせめて被害者たちだけでも救出できるようにというホークからのたっての望みだった。


「後はあなた次第よ。ここまでお膳立てしてあげたんだから、あっさりやられたりしないでよね」

「あの銃の出来によるな」

「それは心配なさそうよ。さっきもう一度ガンショップに寄って確認してきた」


「間に合いそうか」

「ええ。もうすぐ完成だって。やけにはしゃいでたわ。『今までで最高の仕事だ。やべえ銃ができるぞ』って顔真っ赤にしながら言ってたわ。よほどあなたの早撃ちにようね」

 上手いこと言っちゃった、と満足そうに肉まんを頬張るパンダ。


「装備の話もつけてきた。レッドスピア用の実弾、一八発弾倉が五本。計九〇発。これがあなたが撃てる魔断の数よ」

「十分だ」

 昨夜の戦いでは三〇本の破魔の矢でも仕留められなかったが、今度はその三倍。これ以上は望めない。


「次にサーペント用の魔弾。戦闘用の魔石だけど、特殊な効果はついてないわ。本当に純粋な魔力弾ね。代わりに威力は申し分ないわ。こっちは五発を三セット、計一五発よ」

「少ないな。足りるのか」

「安心して、魔法銃の弾は一発撃ち切りじゃないわ。あの銃なら、一つの魔石で大体五発くらいは撃てるそうよ」

「なら七五発か。それならなんとかなりそうだ」


 二つ合わせて一六五発。

 ブラッディ・リーチという怪物を相手に十分な数かどうかは議論の余地が残るが、少なくとも現状で揃えられる武器の中では最上級の条件が整っていると言える。


「ただ、あなたがやったっていう、ブラッディ・リーチとの根競べはやめてね」

「分かってる」

 当初、ホークはブラッディ・リーチが操れる血の貯蔵量には限界があると踏んでの長期戦を挑み惨敗した。

 ブラッディ・リーチは体内に貯蔵しているとは思えないほど大量の血液を繰り出してみせた。

 少なくともホークの破魔の矢三〇本程度ではまるで底は見せなかった。


「想像でしかないけど、魔力から血液を作り出せるんでしょうね」

「吸血鬼はそういうものなのか?」

「さあね。私も吸血鬼には詳しくないけど、そもそも吸血鬼が血を操って戦うなんて聞いたことないわ。あれはあの子固有の能力でしょうね」

「吸血鬼の中でも特殊というわけか」


「魔王の血に適応したのよ、まっとうな吸血鬼なわけないわ。今代の魔王は最強の黒魔導士よ。……ああ、だからかしらね。あの子も黒魔導士の素質に目覚めて、魔力で血を生み出すスキルでも手に入れたのかしら。血に特化した黒魔法ってところね」

 思えば低位とはいえ広範囲に結界を張れる程度の黒魔法の素養はあるということになる。


「……クソが。なんてはた迷惑な魔王だ。そいつが気まぐれになんてやったせいでこんなことに……許せん」

「でしょ? 一緒に討伐しようね~」


 にへらと笑って肉まんを頬ばるパンダ。

 頼りになるのかならないのか心配になるホークだったが、ここまで来たら任せるしかない。


「――ん?」

 そのとき、ホークが視線を窓の外へと向ける。

「どうしたの?」

「いや……外が少し騒がしい気がして」

「そう?」


 試しにパンダも外に耳を傾けてみると、確かにかすかではあるが奇妙な喧噪が聞こえる。

 この都市において喧噪など常だが、聞こえてくるのはそれとはまた毛色の違う騒ぎというか、もっと規則性のない慌ただしいものだった。

「……悲鳴が聞こえる」

 神妙な面持ちでそう告げるホーク。パンダにはそこまでは聞こえなかったが、聴力に優れるエルフがそう言うのなら間違いないだろう。


 ホークは窓際へと歩み寄り窓を開けた。

 先ほどまでより音が大きくなり……確かに、風に乗ってかすかに悲鳴のようなものが聞こえてくる。

「これってさ」

「……まさか」


 嫌な予感。

 このタイミングでの騒ぎとなると、やはり真っ先の脳裏をよぎるのはその可能性。


 次第に宿屋の他の部屋も慌ただしい気配に包まれ、誰かが廊下を走り回る音が聞こえてくる。

 やがてパンダ達のいる部屋が勢いよく開け放たれ、外から一人の男性が顔を出した。


「おい、あんた達! 冒険者だったな!」

「ええ、それが?」

「外で何が起こってるんだ?」


 二人の声に、男性は脂汗を浮かばせながら言った。


「グールだ。大量のグールが都市に攻めてきた!」


 パンダとホークは互いに顔を見合わせ、一度頷いた。

「作戦変更ね」






 交易都市シューデリアの西門付近。

 そこで一人の女性の命が今まさに奪われようとしていた。

「あ、あああ……! あああああ……!」

 ずるり、と首筋から牙を抜き取られ、女性は地面に崩れ落ちた。

 それを見下ろす赤い瞳。


 マリー・イシュフェルト。

 ブラッディ・リーチの名で恐れられるその吸血鬼の牙から流れ込んだ血が、女性の体内を駆け巡る。

「ああ……ア、アァァ……! アアアアアアア……!」

 女性の身体は急速に生気を失っていき、目は充血し切り真っ赤に染まっていく。


 吸血鬼に血を吸われた者はグールへと姿を変え、吸血鬼の眷属となる。

 グールに襲われた者もまたグールになり、その数は増加し続ける。

 やがてそのうねりは都市中を覆いつくし、シューデリアを死の都へと変貌させるだろう。


「――行って。この都市に必ずいるはずだから」

 だがそんなことはマリーにとってはどうでもいいこと。

 こんな都市の一つや二つどうなろうと知ったことではない。

 彼女の妄執に濁った瞳は今や、ただ一人の少女の姿しか見えていなかった。


「パンダを探し出して、私のところに連れてきて」


 主の命令を受けたグールが歩き出し、やがて先導していたグールの行進へと混ざる。

 その道すがら目についた者全てに無差別に襲い掛かるグール達。

 襲われた者もまた集団の一部となり、その塊はどんどんと巨大になっていった。


 そして陽の落ちた闇の時間。

 数百にも及ぶ死者の軍勢が、シューデリアの門をくぐっていった。

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