第30話 それは脳が蕩けるほどに甘く


 ――その日は満月だった。

 数分前まで阿鼻叫喚の坩堝と化していた館は今、最後の一人をマリーが斬り刻んだことで静寂を取り戻すに至った。

 内側から身体を破裂させるのではというほどの力の奔流に、マリーはただ翻弄されるしかなかった。


 ほんの僅かな血。

 それを嚥下しただけで、マリーは今まで彼女を縛っていた支配から脱却し……同時にそれ以上の圧倒的な力に屈服させられた。


 息も絶え絶えに悶え苦しむマリーの姿を、一人の魔人が楽しそうに見下ろしていた。


 ――助け、て。


 体内で暴れ狂うその魔人の血が、マリーを際限なく責め抜く。

 助けを求めて伸ばされたマリーの手を、魔人は不思議そうに見つめた。


 魔人にしてみればおかしな話だ。

 血を飲めばこうなると分かっていたはずなのに、なぜ今更になって助けなど求めるのか?


 ――助けを求めるのは、弱者の所業だ。

 弱者であることから逃れるために血を飲み、この館の誰をも支配する強者となれた今、何故自ら弱者であることを証明しようとするのか。


 興味の失せた魔人はそのまま踵を返し、出口に向かって歩き出した。


 ――ま、待ってください……。


 血を吐くように呼び止める声に、魔人は律儀に立ち止まった。


 ――名前を……教えてください。



 その魔人は……まるで妖精のようにたおやかに微笑んで――











「……あの人のこと……知ってるの?」

 思いもしない名を聞いて戸惑うマリー。

「ええ。ビィとはかなりガッツリ知り合いよ」


 元魔王のパンダと、現魔王のビィ。

 知り合いという言葉で済ませるには二人の関係は複雑すぎる。


「……どうして、私があの人の血を飲んだってわかったの?」

「だって言ってることがあの子とそっくりなんだもの」

「……」


 それに関してはマリーも納得できる。

 今のマリーの思想は、ビィから影響を受けている節が多分にある。

 しかしそれだけでここまで断定できるとは思えない。

 その不信を感じ取ったのか、パンダは補足を加えた。


「実は一目見たときからおかしいと思ってたのよ。だってあなたの魔力の波長があの子にそっくりなんだもの。なるほど、ビィの血を取り込んだ……いえ、ビィの血に適応できたってことなのね」

「……魔力の波長?」

「ええ。そういうのが見えるのよ。ほら、この目……見おぼえない?」


 そう言ってパンダは自身の右目を指さした。

 美しく澄み切った青の瞳。その冷たい雪のような瞳は――、


「――!? ま、まさか」

「そう、これはよ」

 信じがたいことだが……確かにこの青い瞳は、マリーの記憶にあるあの魔人のものと全く同じだった。


「ビィは黒魔導士としては超がつく天才だった。その才能が魔眼として発現するほどにね。このビィの魔眼はね、 視界に入ったものなら、およそ魔力に関することを全て暴き出してくれるの」

 それは所謂、ビィの持つユニークスキルの一つだった。

 視界に捉えたあらゆる魔力の情報を瞬時に把握・解析する能力。


 大気中に満ちる魔力の量から、その流れ……果ては発動しようとしている魔法の種類すら、発動前に見抜くことができる。

 パンダがこの部屋でマリーを見て最初に感じた違和感はそれだ。

 マリーの体内に流れる魔力の波長……それが、ビィのものとあまりにも似通っていたのだ。


「ど、どうしてあなたがそんな目を……」

「あなたと似たようなものよ。私もビィと力が混じってるの。そりゃ血もおいしいはずだわ。こんなにあなたに適合する血なんて他にないもの」

「……」

「それだけなら偶然とも思ったけど、あそこまでビィと同じようなことを高らかに謳われちゃねぇ。――魔人ジョークに『血は争えない』っていうのがあるんだけど、まさにあなた達のことね」


 自分で言ってツボに入ったのか、パンダはひとしきり楽しそうに笑い倒した。


「ってことは……? ……なるほど。なるほどねぇ。つまり……ほうほう……あはっ、これはまた面白いことになってるのね!」

「……どういう意味?」

「あなたはわかってないのね。どういう立場にいるのか」


 そのパンダの言葉こそマリーには意味不明だった。

 マリーはマリー。それ以外の何物でもない。

 この館の主人であり、この館で痛みに泣き叫ぶ人形達の支配者だ。

 だというのにパンダは、自分だけにしか分からないことを何やら一人で納得して楽しんでいる。

 ……そんなことは、この館では決して許されないことなのに。


「ふふ……傑作ね。ビィったら、きっと今頃慌ててるわよぉ。ああ見たいわぁ、あの子の間抜けた顔」


 ――そこでついにマリーの怒りが沸点を超えた。


 マリーの手の平から一塊ほどもある血が現れ、パンダの左腕に纏わりついた。

 その直後、パンダの左腕が一瞬にして圧壊した。

 四方からプレス機にかけられたようにぺちゃんこに押しつぶされた左腕から、断末魔のように骨が砕ける音が響き渡った。


「づ……ッ!」

「あの人を馬鹿にしたら許さないから」

「ごめんなさいね、ツボっちゃって」

「……すぐに笑えなくなるよ。ほら!」


 既に潰れた左腕を、更に過剰なまでに押しつぶす。

 それでは留まらず、傷口からパンダの内部に入り込んだマリーの血が、内側から左腕をグチャグチャに荒らしまわった。

 筋肉を。骨を。神経を。直に握り潰し斬り刻まれる感覚がパンダを襲う。


 さすがのパンダも激痛に顔が歪む。

 食いしばった歯から苦悶が漏れ、噴き出た汗が深く刻まれた眉間の皺を滑る。


「ほら、痛いでしょ!? ほら! ほら!」

「痛い痛い!」

 そこで初めてパンダは悲鳴をあげた。それはマリーが待ち望んでいたものではあったが、しかしマリーの苛立ちは更に勢いを増していくばかりだった。


 ……何故なら、パンダが笑っていたからだ。

 耐えがたい痛みに晒されながら、パンダは楽しそうに苦痛を訴えていた。

 そのニヤケ面を少しでも崩したくて、マリーは躍起になってパンダを責め続けた。


「勘違いしないで! かわいいから優しくしてあげてただけで、あなたの命は私の気分次第なんだよ!? あんまり苛々させないでよ!」

 殴りつけた。突き刺した。へし折った。

 その度にパンダは苦しそうに喘ぎ、呻き、笑った。


「私があなたを支配するの! あなたは泣き叫んで私に慈悲をこわなきゃいけないの! わかる!? わかるよね!?」

「わかるわかる(笑)」

「……ッ!」


 ここに至ってなお余裕を見せつけるパンダに、ついにマリーのタガも外れる。

 凝固したマリーの血がナイフのように鋭利に尖り、パンダの腹部に突き刺さる。

 血はそのまま上を目指して上昇していく。途中にあった臓器だけは傷つけないように突き進み、やがてパンダの心臓に到達する。

 心臓をコーティングするように纏わりついた血液が、マリーの命令を待つ。

 もはやパンダの命はマリーの胸三寸。少し力を込めるだけで、パンダの心臓を握り潰せる。


「……っ」

 心臓を鷲掴みにされる不快感にパンダが顔をしかめる。


 そこで――かくなる上は、このままパンダを握り潰してやる……そう煮えたぎっていたマリーの心が、一瞬にして鎮火する。


「――――――――は……あはっ」


 マリーの唇が震え、色めく吐息が漏れる。

「……? どうしたの?」

「あは……あははっ!」


 マリーの頬が上気し、赤く染まる。

 三日月形に裂けた口元から、狂喜の笑みが滲み出していた。


「ほら……やっぱりあなたも怖がってるんじゃない」

「? そう? 別に怖くはないけど」

「強がらなくていいよ」


 マリーは指先にべっとりとついたパンダの血を舐めとった。


「私は今まで、何十人も拷問にかけてきた。するといつ頃からか、相手の恐怖とか絶望とか、そういった気持ちを感じ取れるようになったの」

「へー」

「だから私にはわかるの。今あなたは確かに恐怖してる。その味をこの舌に感じる」

「……んー?」


 怪訝そうに首をかしげるパンダの姿を見ても、もはやマリーの心に苛立ちは募らない。

 それが強がりであることを理解したからだ。

 相手の恐怖の味を感じ取ること……その能力に、マリーは絶対の自信があった。

 その甘露な雫を一舐めすると、マリーはいつも至高の悦びを手に入れる。

 今、マリーは確かにそれを感じていた。パンダから零れる恐怖の蜜……それは想像を絶するほどに甘美な味わいだった。


「そう言われても、ホントわかんないのよね。むしろちょっと楽しいくらいなんだけど」

「嘘ばっかり。はっきり感じるよ、あなたの恐怖の味。……とっても美味しい」

 まるで聞く耳を持たず悦に入るマリーに、パンダは半ば諦めた風に嘆息した。

 そこまで言うなら、とパンダは真剣に自信を顧みてみた。


 恐怖。

 恐怖か。パンダは人生で恐怖など感じたことはない。

 そんなものは持ち合わせていない。


 ――恐怖は執着の表れだとパンダは考えている。

 恐怖を感じる起因は数多くあれど、結局のところそれは喪失への忌避だ。

 愛する者を失う恐怖。生きる望みを失う恐怖。

 娯楽が失われる恐怖……ならパンダは理解できなくもない。


 マリーが与えてきたのは生命の喪失に対する恐怖だ。

 生への執着。それが痛みに対する恐怖へと繋がる。

 であれば、パンダに恐怖などなくて当然だ。


 パンダは自分の命に執着したことなど一度もない。

 故に痛みに対する恐怖もない。

 死を恐れないのだから、死をもたらす痛みにも恐怖はない。


 往々にして痛みは心が肥大化させるものだ。マリーの言うところの恐怖によって。

 しかしパンダにとって痛みには痛み以上の意味はない。

 痛みという情報はパンダの中で一切誇張されず、ただ痛みとして存在する。


 ――だから……。


「…………あ」


 だから、その違和感に気づけたのかもしれない。

 本来パンダの内にないモノ。

 痛みだけでしかないはずのそこに……奇妙な異物を発見する。


 臓器をむちゃくちゃに荒らされた痛みだと思っていたが、それに紛れて……なにか言葉では言い表せない奇妙な感覚が確かにある。


「……」

「わかった? あなたが今確かに恐怖してるってことが」

「…………ええ、よくわかったわ」


 パンダは自身の胸に右手を当てて目を瞑った。


「なんだか胸のあたり……ううん、お腹のあたり? むずむずする。きりきりする。……ああ、なんかある。痛み以外に……うん、何か、ここにいる」


 それは感情とは別の回路が生成した異物。

 パンダの心が生に執着せずとも、パンダの本能は生に執着していた。

 全ての生命が当然のように有している、一種の防衛本能とでもいうべきもの。


 それはやはり当然のように、パンダにもあったのだ。

 自分よりも圧倒的な強者に心臓を鷲掴みにされることを、パンダ自身は楽しんでいても、パンダの本能は危険だと判断した。

 それが恐怖の正体なのだとしたら……そう、確かにマリーの言う通り、パンダは今恐怖を感じている。それをパンダ自身も感じ取れる。


「……そっか。これが怖いっていうことなのね」

 うっとりと……まるで夢見るようにパンダは呟いた。



「そう……私にも、ちゃんとあったのね」



 ――今度はマリーが違和感を覚える番だった。


 部屋の温度がガクンと下がった。

 いや、それは錯覚だ。物理的な作用はなにもない。


 ……ただ、パンダから放たれる気配が、一瞬にして激変したというだけのことだった。


「あなたにはお礼しなきゃね」

 パンダの声はとても静かで、安らかで、優しかった。

 ――それが、マリーにはとてつもなく不気味だった。


「お、礼?」

 何よりも不気味なのは……今もなお、マリーはパンダから恐怖の味を感じ続けているということだった。


 パンダは今、紛れもなくマリーに恐怖している。

 しかし同時に、マリーを慈しんでもいる。その矛盾が、どうしてもマリーには解せなかった。


「私の悲鳴が欲しいんだったっけ? いいよ……上手くできるかわからないけど……精一杯頑張って、あなたのために叫ぼうと思う」

 ――だから、さあ私を思う存分痛めつけてちょうだい。

 まるでそう言うかのようにパンダはマリーに微笑んだ。


「……」

 なんだこれは。

 自分は支配者のはずだ。この館にいる全ての者を支配しているはずだ。


 痛みは絶望の象徴。

 故に拷問は支配の象徴だ。

 だからマリーはパンダに痛みを与えた。だからパンダは絶望し、マリーに支配されなくてはいけないはずだ。


 だが今この状況の……一体どこが、パンダを支配していると言えるのか?


「こんなの……全然違う。どうして痛いのに笑えるの? 人は痛みに支配されているはずでしょ? だから痛みを与える私は、誰よりも支配者のはずでしょ!?」

「それは違うわ。人は欲望に支配されているのよ」

「欲望?」


「欲望は人を縛り、不自由にする。あなたは他人に痛みという不自由を与えることで相手を支配しているのよ」

「……なら」

 何故パンダは今誰にも支配されないのか?

 何故パンダは今、こんなにも自由なのか?


「じゃあ、全ての不自由から解放された者はどうなると思う? 全ての生命の頂点に立ち、飽くなき欲望を全て満たした者は……?」

「……なに言ってるの? 不自由じゃなくなるんなら、自由になるだけでしょ?」

「いいえ」


 パンダはその時だけは、忌まわしいものを見る目つきで虚空を睨んだ。


「完全な自由を手に入れた者は、『もう何をしてもそれ以上満たされない』という究極の不自由に陥るの」


「……」

「おかしいでしょ? 矛盾してるでしょ? そう、私たちは出口のないパラドックスに囚われている。私たちは皆平等に呪われているの。『決して満たされない』という呪いにね。私たちはその呪いに支配されている」

「……」

「――だから、私は痛みを歓迎する。悲しみも絶望も、すべて愛おしい。それらは私を不自由にしてくれる。私を『究極の不自由』から解放してくれる」


 その時、マリーはようやくパンダという人物を理解した。


 パンダは痛みを感じないのではない。恐怖を知らないのではない。

 痛みを痛みのまま……恐怖を恐怖のまま楽しめるのだ。

 清濁含めて、あらゆる事柄が楽しいのだ。


 苦しみながら喜び、悲しみながら笑い、絶望の中で歌う。


 ――そんな者を……どうやって支配すればいいというのか?


「今日初めて、恐怖の味を知った。そんなものが私の中にあったんだって、あなたが気づかせてくれた。ありがとう、あなたには本当に感謝してるのよ。だから、これはあなたへのお礼。教えてあげる。あなたが目を背けている恐怖を」

「うるさい! もう黙って!」


 マリーは叫ばずにはいられなかった。叫んで、パンダの言葉を否定するしかなかった。

 それが逃走と同義だとしても。逃走は恐怖と同義だとしても。


「支配している間は誰にも支配されない……? 痛みを与えている間は、自分は痛みを与えられない……? ええ、確かに間違ってないわ。その時間だけは、あなたを不自由から解放してくれるかもしれない。……でも、どう? あなたは今、自由になった?」

「なったよ! 私は自由になった! 恐怖を克服した! だってこんなに楽しいんだもん! 私は誰よりも強い! 私はもう何にも支配されてない!」

「ならどうしてこんなこと続けてるの?」

「……え?」


「自由になったんでしょ? ならもう誰かを拷問する必要なんかないじゃない。そんなことをしなくても、あなたは自由のはずでしょ?」

「……それは」

「あなたは自由になんかなってない。今も。欲望は全然満たされてない。自由になりたいという欲望に支配されてる」

「……ちがう」


「あなたは今も心に根付く恐怖に支配され続けてる。あなたは恐怖を克服なんてしていない。目を背けてるだけ。気づいてるんでしょ? どれだけ血を飲んでも、その渇きは満たされない。あなたの心に恐怖がある限り」

「黙ってって言ってるでしょ!」

 右手をかざす。

 そこから現れた大量の血液が瞬時に凝固し、一振りの刃となる。それをパンダの喉元に突き付けながら、マリーは叫んだ。


「黙らないとこれを喉に突き刺して黙らせるよ!」

 その行為の滑稽さに気づけないという時点で、マリーは既に動揺により正常な判断を下せなくなっていると言う他ない。

 今更そんな脅迫がパンダに通用すると思っているのだから。


 ――ぐちゅり、と音が鳴った。


「ぇ……」

 マリーはそれを呆然と見つめるしかなかった。


 マリーの血の刃の切っ先が、パンダの喉に突き刺さっていた。


 何故。

 困惑がマリーの胸中を奔る。

 マリーは刃をパンダの喉元で止めた。確かに止めた。そこから僅かも動かしていない。


「……ッ!」

 反射的に刃を引こうとすると、その腕をパンダの右手が掴み制した。

 動きの止まった刃に向かって、パンダはゆっくりと歩き出した。


 マリーへ向かって歩を進める度に、ずるずる、ずるずる、と水気を含んだ怪音を鳴らせながら、刃がパンダの喉により深く突き刺さっていく。


「あ、がふっ……! ぐっ……ぁ、かはっ……!」

 ごぽり、と血の塊がパンダの口から吐き出される。

 パンダは苦しそうに喘ぎながら、言葉を発した。


「あなたは――私に……恐怖という不自由を……くれた。だからお礼に、私もあなた――に不自由を、あげようと思……う。『決して私を支配できない』、という不自由……を」


 自らの血で溺れたパンダの声は酷く聞き取りづらく、痛々しかった。

「な……なに、を……」

 だがそれ以上に、マリーの声の方がよほど弱々しかった。

 知らず震える喉と唇が、上手く言葉を発してくれなかった。


 パンダの歩みは止まらない。刃がパンダの喉を貫通しても、変わらずマリーに向かって歩き続ける。

「その時に――、あなたは知る。あなたを……支配する……本当の不自由、を。あなたが何に――恐怖しているの……かを」

「ひっ……!」

 たまらず漏れたその悲鳴こそが全てを物語っていた。


 痛みと恐怖で支配しようとしたマリー。

 それらを歓迎し、あまつさえ自身を傷つけて見せたパンダ。


 それを目の当たりにし、マリーが悲鳴をあげたというのなら。

 今、この場を真に支配しているのは――


「――ふふ、怯えてるのね」

「……ッ!」

「あぁ……あなた、とってもかわいいわ」


 後ずさるマリーの頬を、右手で優しく撫で上げる。

 そして喉に血の刃を生やし、吐き出した血で汚れた顔で、パンダは笑った。

 おぞましいほどの魔性を秘めて。途方もないほどに邪悪に。


 そこにあるのは……かつて全ての魔性の頂点に君臨した魔王の姿だった。



「――食べちゃいたいくらい」



 二つの絶叫が木霊した。


 マリーは喉が裂けるほどに叫びながら、ひたすらにパンダを痛めつけた。 

 パンダの身体のあらゆる個所を斬って刺して折って潰して引き千切った。

 そうすることだけが、恐怖を消してくれると信じて。


 パンダはその痛みを全身に浴びながら、マリーと同様に叫び散らした。


「痛い痛い痛い痛い痛いイタイイタイイタイィィィィ!!!!」


 部屋中に飛び散る鮮血をランプの灯りが照らし出す。

 ガクン、ガクンとパンダの手足が激しく痙攣する。

 痛みに泣き叫び、恐怖にのたうち回り――それでも、マリーはパンダを支配できない。その理由がマリーには分からない。


「怖いいい! 怖いわあ!! アハハハハハハハッ!!」


 パンダは狂ったように笑う。

 目を剥き、血を吐き出しながら、身体が痛みに満たされる時を祝福した。


 ――これが、魔人。

 吸血鬼を滅ぼし、全ての種を支配し、地上に痛みと嘆きの山を築き上げた超越種。

 『ブラッディ・リーチ』などと恐れられた吸血鬼の残虐も……今この場に満ちる狂気の前では微笑ましさすら覚える。

 魔性の格が違う。

 パンダの狂気に比べれば、マリーの拷問など児戯のようなものだった。


「あああああああああああああああ!!!!」


 その叫びは、もはやどちらのものか分からなかった。






 数十分後、部屋は静寂に包まれていた。

 誰の悲鳴もなく、ただマリーがぜぇぜぇと荒く息づく音だけが響いていた。

 返り血に塗れたその姿はまさしく『鮮血の蛭ブラッディ・リーチ』の名に相応しいものだったが……彼女の顔に刻まれていたのは、ただ恐怖の一念のみ。


 マリーはついにパンダを支配することができなかった。

 パンダは見るも無残な姿でベッドに横たわりながら意識を失っていた。もはや無事な箇所など一つもなく、どう見ても死んでいるようにしか見えない。

 パンダがかろうじて生き延びているのは、魔人としての強靭な生命力によるところが大きいが、何よりもマリーが寸でのところで踏みとどまれたからだ。


 これ以上やっては本当に死んでしまう。

 そんなことになればマリーは永遠にパンダに支配されたままになる。

 その理性が、奇跡的にマリーを最後の一線から踏みとどまらせた。


 いや、正確にはもう一つ。

 ――設置していた結界が作動したのだ。


 この館を中心に半径一キロの範囲で、侵入者を察知する結界が張られている。

 その報せは直接マリーの脳内に送られる。

 それがあったからこそ、ギリギリのラインでマリーは我に帰ることができたと言える。


「……パンダ」


 マリーは引き出しからハイポーションを取り出して、乱暴にパンダに振りかけた。

 これでひとまず一命は取り留めるだろう。仮死状態から瀕死状態になる程度だろうが、死ななければ問題ない。


 この館の周辺に侵入者がいる。

 本当は放置したいが、それはまずい。もし先程のように騎士団の部隊が派遣されたのなら、この館には入れたくない。

 パンダの拷問を再開するにもしばらく時間がかかる。

 パンダの回復だけでなく、マリーの心の問題も含めてだ。


「……必ずあなたを支配してみせる」


 そう誓い、マリーは部屋を出た。

 この憤りを誰でもいいからぶつけたかった。

 侵入者を嬲り、殺し、自らが強者であることを再確認したい。


 マリーの顔に再び笑みが戻った。

 それはまるで内に秘めた恐怖をひた隠すかのような歪な笑みだった。

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