第7話

 じわじわという音がする。足音に紛れて聞こえてくる音は、雪解けの音。本来ならば、雪鳴月にしか聞こえないはずの音が、フォルカー達の焦りを酷く揺さぶってくる。

 少し走れば、いつの間にか陽浸月になっていて、穏やかな陽光が降り注いでくる。そこでホッと速度を緩めれば、突然雲が湧き立ち、雲立月の空が現れる。かと思えば、また星飾月の空だ。

 どれだけ走ったか、わからない。どれだけの時が経ったか、わからない。季節が、空模様が、滅茶苦茶な変わり方をするために、時間の感覚が完全に死んでしまっている。

 中央の街を出てから、どれほどの時が経った? 何日過ぎた? それとも、まだ一日と経っていなかったりするのだろうか?

 ペース配分がわからない。いつ休めば良いのか。どこでもうひと踏ん張りするべきなのか。

 実際は氷響月の気候なのだから、長時間留まれば体を冷やしてしまい、動きが鈍くなる。思い出したように走って体を温めるが、走りどころを間違えれば無駄に体力を消耗してしまう。

 体の小さなマルレーネは冷えるのも早いらしく、あまり飛ぶ事はできない。ほぼフォルカーの懐に入っている。

 走って、息切れを起こしそうになったところで徒歩に切り替えて、それでも疲れたら立ち止まって休息して……。休息すると体が冷えて、また走る。それの繰り返しだ。

 何とか凍えずに眠る事ができる場所を見付けても、今が本当は昼なのか夜なのか、わからない。空の模様は、昼にも夜にも、ころころ変わる。これでは、落ち着いて眠る事も難しい。

 自然、休息の時間は減る。ならば早く目的地へ辿り着けるかと思いきや、疲労が蓄積されてペースは落ちている。そのため、思うように距離を稼げていないように感じる。

 やがて、足にも限界が来たのだろう。フォルカーは遂に、地面に膝をついた。

「フォルカー兄、大丈夫ですか……?」

 恐る恐る問うマルレーネに、フォルカーは「おう」と短く応える。大丈夫だと口では言うが、実際はギリギリだ。足はガクガクするし、脈も激しい。呼吸も、何度深呼吸しても落ち着かない。額や背から、脂汗が流れ出る。

「そういや、何度かテレーゼに休憩をおろそかにするなって説教された事があったっけな。……こういう事か……」

 苦笑し、冗談めかして言ってみる。中央の街でテレーゼと会ったのが、随分と前に思われた。実際には、何日なのだろうか?

 ふと、息を吐いて辺りを見渡した。何故だろう? 足を止めたというのに、脈が速くなっている。

 見覚えがある。この場所に、見覚えがある。

 ……いや、見覚えがあるのは当たり前だ。フォルカーもテレーゼも、十三月に備えて何度も北の霊原へ足を運んだのだから。道に迷っても良いように、様々な道を辿ってみたのだから。

 そういう意味ではなく、見覚えがある。そう、忘れられるはずもない場所なのだ、ここは。ここで、二年前に……。

 ぞくりとして、フォルカーは跳ねるように立ち上がった。

「フォルカー兄?」

 不安そうな顔をするマルレーネを、フォルカーは懐から引っ張り出した。そして、遠くに向かって思い切り投げる。

「ちびすけ! どっか隠れてろ!」

 叫び、剣を抜く。途端に、真っ黒い矢の雨がフォルカー目掛けて降り注いだ。

「フォルカー兄!」

 マルレーネの叫び声に応える余裕は無い。フォルカーは剣を振るい、襲い来る矢の雨を次々に叩き落とす。だが、猛攻は止まず、矢が尽きる事は無い。

 元々の疲労もある。このままでは、ハリネズミにされてしまうのも時間の問題だ。

「……あの時みてぇ……」

 ぼそりと、呟いた。あの時、テレーゼと二人で十三月の狩人から逃げていた、二年前のあの時もこの場所で襲撃を受けた。時間も、丁度今のように夜だったように思う。もう駄目かと思ったその時に助けてくれたのが、カミルとレオノーラで。

 だが、結局そのカミルとレオノーラが狩人の代行者だった。その記憶と、危地に追い込まれている現実に、フォルカーは唇を噛み締めた。

 あの時のように助けにきてくれるカミルとレオノーラは、醒めぬ眠りについている。共に戦ったテレーゼは、十三月に呼ばれていない。一人で戦うしかない。

 正直、一人でも何とかなると、心のどこかで思っていた。二年前はドジだったが、今はそんな事も無く、剣技の腕も上がっている。二年前の経験があり、道を調べて準備もしてあった。だから、テレーゼが十三月に呼ばれなかったとわかっても、ショックは受けても不安は感じなかった。

 なのに、今になって不安があふれ出てくる。まだ十三月を、恐らく三分の一も過ごしていない。だというのに、既にこのザマだ。こんな調子で、十三月を生き延びる事ができるのか? カミルとレオノーラを、助ける事ができるのか?

 不安と戦いながら、剣を振るう。矢の量は、一向に減らない。

 不意に、マルレーネの悲鳴が聞こえた。ハッと視線を巡らせれば、マルレーネが泣きながら上に下にと飛んでいる。どうやら、マルレーネにも矢が襲い掛かっているらしい。

 だが、飛び方がおかしい。降り注ぐ矢から逃れるのであれば、もっと前後左右にも動いて良さそうなものだが、それよりも上下への動きが多い。……という事は、上ではなく横から狙われているという事だろうか。そして、どうやら横から来る矢は一本ずつで、且つ放たれる間隔も大きいようだ。

 上から雨のように降る矢と、横から一本ずつ放たれる矢。タイミングも違う。それが意味するところとは……。

「狩人が……二人……?」

 代行者が二人いるのか。片方は本物の狩人なのか。それはわからない。だが、とにかく相手は一人ではないと考えた方が良さそうだ。

 ただでさえ疲弊していて、不安も湧き出ていて。そして、相手が一人でも苦戦しているというのに、二人。フォルカーは舌打ちをしながら、この場を打開する方法を考えた。

 何も、思い付かない。元々、考えるのは苦手で、考えるより先に体が動くタイプだ。それに加えて、疲労でいつも以上に頭は働いていない。焦りもある。とてもではないが、打開策は思い付きそうにない。

「くそっ……!」

 吐き捨てるように声を発し、剣を振る。

「くそぉっ!」

 もう一度、声を発した。今度は先ほどよりも、悔しさがにじみ出ている。叫んだところでどうにもならない事はわかっているが、もうこうなったら叫ぶぐらいしか思い付かない。例え、相手が威嚇が通じるような相手ではないとわかっていても、だ。

 一条の矢が、遂に肩を掠めた。軽傷とはいえ、傷を負ったという事実が余計に焦りを生み出す。このまま傷が増え続ければ、やがて痛みで動きが更に鈍くなる。これ以上鈍くなれば、もうこの場を切り抜ける見込みは無いに等しい。

 脳裏に、三つの顔が浮かんだ。魔道具屋の一室で眠り続ける、カミルとレオノーラ。カミル達を助けるのは、フォルカー一人にかかっていると言った時の、テレーゼの悔しそうな顔。

「ここで終われるかよ、畜生!」

 鬼気迫る表情で、怒気も殺気も焦りも懇願も、全てを内包したかのような声で、フォルカーは叫んだ。その咆哮に、空気がビリビリと震える。

 そして……不意に、矢の雨が止んだ。まさかの事態に、フォルカーは息を呑む。だが、すぐに気を持ち直すと、マルレーネの元へと駆け付けた。

「ちびすけ、伏せろ!」

 直感で、そう口走った。そのままマルレーネを抱え込むと茂みに隠れるようにして、地面に伏せる。

 マルレーネを襲っていた横からの矢は、それからもしばらく続いたが、やがて上からの矢と同様、収まりを見せた。茂みに隠れただけで襲撃を止めるとは、マルレーネを襲っていたのはあまり根性の無い代行者なのだろうか。それとも、矢が尽きたか。はたまた、フォルカー達の力量を見て作戦を立て直す事にしたのか。

 どれも、都合が良過ぎる気がして仕方が無い。そして、都合が良過ぎると言えば……。

「上からの矢、何で急に止んだんだ……?」

 腑に落ちない顔をしながら、フォルカーは辺りに視線を巡らせる。そして、ある一点を見たところで、ぎょっと目を見開いた。

 そこには、少年が立っていた。金髪で、大人しそうな少年。茶色いリボンタイを締めていて、傍らには黄緑色の光を纏う妖精を連れている。そう、二年前と、まったく変わらない姿で……。

「……カミル……レオノーラ!?」

 名を叫んで呼ぶと、少年と妖精はニコリと笑い、そして消えた。彼が立っていたのは、二年前に彼がフォルカー達を助けに現れた場所で。

「……どうなってんだ? まさか……何で……?」

 フォルカーは呆然と呟き、少年が消えた場所を見詰め続けていた。

 やがて、また季節が変わり、矢ではなく本物の雨が降り出した。空気が、蒸し暑い。

 あぁ、今度は雨呑月か、と。フォルカーは心のどこかで、そう呟いた。

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