第一章 まだキスも知らず⑤




 背後から、悠然とした靴音が近付いてくる。


 手早く仮面を着け直して後ろを振り返れば、男はすでに手を伸ばせば届きそうな距離まで来ていた。


 春の夜会に着てくるには珍しい灰色の上着。

 妖しくも艶やかな濃い群青色の仮面――子細は見えないのに、何故かリディは鼻筋の通った美麗な顔立ちに目を奪われる。


 月の化身ででもあるかのように、微かな月光を浴びた男の髪は透き通って輝いていた。


 ――白、いいえ……銀髪?


「人気のないところで待ち合わせですか? お相手が来る前に、私が連れ去ってしまっても構わないでしょうか」


 男が伸ばしてきた手に我を取り戻して、リディは素早くそれを跳ね退ける。


「人に酔って休んでいるだけなので、お気遣いなく。私では、貴方のような遊び慣れた方には不釣り合いです。早く広間に戻って、別の方とお話しになっては?」

「つれない方だ。けれど、そうでなくては面白くないですね」


 ――私は全然面白くないわ。


 男を睨むついでに、テラスの入り口に目を向ける。

 春風に揺れるカーテンの隙間から人でにぎわう広間が覗くが、こちらに気づく者はいない。 水をもらうのに手間取っているのだろうか、シアラが戻ってくる気配もなかった。


 後ろへ身を引くと、背中が手すりにぶつかった。

 逃げ道を塞ぐように、男がさらに一歩踏み出してくる。

 脇からすり抜けようとした時には、すでに腕を掴まれていた。


「少しくらい抵抗してもらえないと、手折る楽しみがなくなってしまいますから」


 肌に男の手の冷たさを感じた瞬間、体を引き寄せられる。

 暴れようとする前に固く抱き竦められ、体が強張った。

 日頃はあまり人と近くで接しない完全な箱入り王女だから、異性とこんなに近づいたことはない。


「離し……なさいっ!」


 何て無礼な男だろう。

 自分の美貌なら、どんな相手でも落とせるとでも思っているのだろうか。

 ひどい扱いに怒りが沸騰して、リディは男の顔を睨み上げた。


 近づくと、その美貌が一層凄みを増して見える。

 仮面からわずかに覗いた顔はまだ若い。


 その奥にある瞳と、目が合う。


 女性を抱き締めているというのに、その瞳には少しの昂ぶりもない。

 ただ、感情の見えない目に嗜虐の色だけが鈍く光った。


 色恋に熱を上げる男の目とは違う。

 むしろ――。


 さっきの男女の言葉が、頭に浮かぶ。



『人攫い』



 ――そんな、まさか。


 硬直したリディの首元に、青年が手を伸ばす。

 胸元で、ネックレスが微かに音を立てた。

 じっとりと背中に冷や汗が浮かぶ。


 身分を明かせば。

 いや、もしこの男がそんなことを気にも留めない人物なら?


 彼から逃れようと、必死に身を捩る。

 けれど、研究ばかりで運動をしない自分と大人の男では、力の差は歴然としていた。


 ――私にも、魔法が使えれば……!


「か弱いですね。これで精一杯ですか? ――可哀想な人だ」


 青年が耳元に唇を寄せる。

 冷たくも甘い声で、静かに囁いた。


 魔法が使えないことを見抜かれている――悔しさに、顔がかっと熱くなった。


「私はっ……」


 可哀想なんかじゃない。

 そう言い返そうと口を開いた時、青年が首筋を辿るように長い指をリディの胸元に這わせた。


「――っ」


 触れられたくない場所を撫で上げられ、不快感に息を呑む。

 けれど、それは一瞬だった。


 痛みにも似た寒気が全身を駆け抜けて、意思に反して体がびくりと震える。


 ――何……これっ。


 体から力が抜けて、頭が下がる。

 視界に飛び込んできた異変に、リディは目を見開いた。


 焼き付けたような黒い紋様が、胸元にくっきりと浮かび上がっている。

 棘のある植物が絡まり合ったような、禍々しい紋様。


 自分の知識と照らし合わせても、全く魔法の中身が理解できない。


 ということは――。


 間違いない。

 これはヴィロン国の紋様だ。

 しかも、良くない類の。


 ――でも、耳も尾もないのに……っ。


 魔法で隠しているのかもしれない。

 一時的に消すことはできると聞いた気もする。


 ライオールでヴィロン人特有の容姿はあまりにも目立つ。

 隠したくもなるだろう。


 特にこんなことをする時には。


「一体、何の魔法……をっ」

 

 息が苦しくて言葉が継げない。

 崩れ落ちた体を、男に抱き留められた。


「僕からの祝福ですよ。役立たずの貴女でも、役に立てるようになるためのね」


 男はリディの顎を持ち上げて、仮面を剥ぎ取る。

 誰何しようと震えるリディの唇に、人差し指を軽く押しあてた。


「おやすみなさい。リーデリア王女」


 ――私の、名前……知って。


 意識が朦朧として視界がぼやける。

 ただ、仮面の隙間から覗いた彼の酷薄な瞳だけはよく見えた。

 嘘のように澄んだ、曇りのない淡い青。


 綺麗で――人形みたいに虚ろな色。


 ふと、兄の言葉を思い出した。


「リディ、最も熱い炎は青白いんだよ」


 その色に飲み込まれるように、リディの意識は途切れ、やがて消えた。

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