第一章 まだキスも知らず④
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楽しい時間はあっという間。
その言葉通り、レオンとの歓談の時間は飛ぶように過ぎ去った。
それに比べて、つまらない時間はどうしてこうも長く感じられるのだろう。
「エルヴィラったら、どこに消えたのかしら」
夜とは思えないほど明るい広間の中央で、リディは仮面舞踏会の会場を見回した。
兄との昼食の後、急ぎ自室に戻って支度をし、シアラと共にエルヴィラのお忍び用の馬車に乗せられてここへ来てからまだ一刻。
けれど、もう数刻は経ったかのような疲労感だ。
仮面のせいで視界が狭く、乗り物に酔ったかのように足がふらつく。
今日の衣装は、シアラの勧めに従って決めたピンク色のドレス。
色の微妙に異なる裾が何段も重なって、清楚で美しい濃淡を作り出している。
実は自分の好みよりも一段華やかだが、しょうがないと諦めた。
仮面舞踏会では普通の夜会以上に衣装や髪型などの見栄えが要求される。
もしもの時のために、王女と身分がばれても、恥ずかしくない装いをしておかなければならない。
――勿論、誰にも気付かれないのが一番なのだけれど。
白と黒のタイルが特徴的な円形の大広間に、煌びやかに着飾った人々が群れ集っている。
春を連想させる色のドレスが方々で咲き誇り、その間を目に華やかな色合いのジャケットで洒落込んだ男たちが行き来している。
そのどこにも、エルヴィラの姿は見当たらない。
主人に言い寄る男たちを横であしらっていたシアラが、リディの腕に手を添えた。
「諦めましょう、リディ様。エルヴィラ様は最初から一人になるおつもりだったんですわ」
「でしょうね。王妃様には申し訳ないけど、少し休んだら先に帰りましょう」
――万が一何かあっても、エルヴィラは魔法が使えるし。
一度だけ、冗談と言いつつ彼女から得意の雷の魔法を撃たれた時は、腕のひりつきが三日は引かなかった。
本気を出せば、大の男でも簡単に気絶させられるだろう。
リディは異母妹を探すのを止めて、自分の逃げ場所探しに頭を切り替える。
むせ返るような人混みの大広間、その奥――大きな窓のすぐ外には人気のない広大な庭が広がっている。
庭へ出るための通路をちらりと見て、リディはシアラに目配せをした。
シアラとともに、できる限り目立たないように人の間をすり抜けていく。
酔っているのだろうか、顔の赤らんだ男女が周囲の喧騒に負けない大声で話していた。
「そういえば、お聞きになりましたか? 夜会に、人攫いが出るとか」
「恐ろしいわ。最近はヴィロン人の姿もよく見かけますし……世の中、物騒ですわね」
「大丈夫ですよ。貴女は私が守って差し上げますから……」
そう言いながら、男が女の顔に唇を寄せる。
――そっ……そういうことは、別の場所でやって!
だから苦手なのだ。
こういうところは。
リディは赤くなった顔を、白い手袋をした手で隠しながら通路に駆け込む。
カーテンをめくり、隙間から滑るようにテラスに抜け出た。
「“とっても楽しい舞踏会”ね……」
エルヴィラはこれの何が楽しいのだろうか。
内心頭を抱えつつ、外の空気を吸い込んだ。
灯りが煌々とした建物の中とは対照的に、テラスには外灯すらない。
人が来ることを想定していないのか、はたまた互いの姿などはっきり見えずとも構わない恋人たちのための場所なのか。
ただ三日月が、朧げにリディとシアラの輪郭を映し出すだけだ。
「よかった、誰もいないわね」
「今、水をお持ちしますわ。すぐに戻りますから、ここから動かないでくださいね」
「もう、動くほどの気力もないわ」
シアラを苦笑いで送り出し、リディはゆっくりとテラスの手すりに近付いた。
ふわりと漂ってきた花々の芳醇な香りに、しっとりと心が落ち着いた。
何種類もの花が植えられている立派な庭も、頼りない明かりの下では薄ぼんやりとしかその全景を見ることはできない。
春を祝う舞踏会だというのに、庭が置いてきぼりの状況に思わず苦笑いをする。
――でも、ちょうどいいわ。
辺りに人がいないことをもう一度確認してから、静かに仮面を外した。
手すりにもたれながら、疲労を絞り出すように深々と息を吐く。
気が張っていたせいか、肩がいやに重い。
視線を落とすと、手に持った白い仮面が暗がりの中でぼうっと浮かび上がって見えた。
――エルヴィラは、王女の身分を隠せると言った……けれど。
初めから、何の意味もないのはわかっていた。
これを着けて――何かで覆い隠したとしても、自分の本質は変わらない。
どんなに努力して賢者になっても、魔法が使えない王女であることと同じだ。
知識だけの、魔法が使えない――役立たずの王女。
それでも少しだけ、王女の肩書を外すというエルヴィラの言葉に、心惹かれてしまった。
一瞬だけ、王女の肩書を外せば、楽になるのかもしれない、と。
私らしくもない。
王女として相応しくあるために、努力してきたことだけが自分の証明のくせに。
だから、私は王女であることを捨てられない。
それが少し苦しくても、窮屈に思う時があっても。
――論理が破綻してるわ。
目を閉じると、にわかに瞼が重たくなった。
いつもなら、ベッドでうつらうつらしながら本を読んでいる時間だ。
リディは、欠伸のために大きく開いた口元を仮面で隠す。
「……やっぱり、部屋に籠っておくのが正解だったわね」
「珍しい方ですね。折角の舞踏会で、そのようなことをおっしゃるなんて」
ぞっとするほど澄み切った声音に、リディは危うく仮面を取り落としそうになった。
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