第一章 まだキスも知らず①





 羽根ペンを紙に滑らせる音は、何度聞いても心が落ち着く。


 ライオール国第一王女リーデリアは、充実感を噛みしめながらインクに浸したペンを羊皮紙に乗せた。


 四季の恵みを受けた農業と、交易で栄えているライオール国。

 その王都ファルサードに、荘厳な造りで名高い王宮がある。


 王族たちが住まう宮殿と、貴族たちが政を執り行う宮廷。

 その間に設けられた会議室の一つがここ、〈白の間〉だ。


 その名の通り白一色で統一された豪奢な部屋の中心には、白大理石の円卓がある。

 今、それを囲んでいるのはリディを含めた五人だけ。


 最古参の同僚である御年七十歳のイルファンが発表の締めくくりの挨拶をすると同時に、リディは羽根ペンを置いた。

 手本のような筆跡で書き終えた議事録の山を見下ろすと、満足感につい口元が緩む。


 我ながら今日も、賢者として完璧な仕事振りだ。


 けれど、まだ気を抜くには早い。

 これを書記に写させて、王宮書庫に収めてもらうところまでが〈仕事〉だ。


 破顔しかけた表情を引き締めながら、蓋をしようとインクの瓶に手を伸ばした。


 間が悪く、隣席の同僚が居眠りから飛び起きる。

 足が当たったのか、がたんと円卓が揺れた。

 一瞬力の抜けたリディの手から、掴み上げたビンが真っ逆さまに滑り落ちる。


 ――ああっ……!


 とっさに手を伸ばすが、間に合うはずもない。

 書き上げたばかりの議事録が、真っ黒に染まるのを覚悟した、その時だった。


 空を切ったリディの指先を――微風がついと掠める。


 ぶよぶよと伸び縮みするインクと共に逆さまになった瓶が、宙に浮いていた。


 中身を全てぶちまけた瓶は、くるりと一回転して卓上に着地する。

 その中に、生き物のようになめらかな動きでインクが滑り込んだ。

 駄目押しのように、ふわりと浮き上がった蓋が覆い被さり、回転してしっかりと口を閉じる。


 その間、ほんの数秒。


「リディ様、大丈夫? ドレスにインクは撥ねてない?」


 円卓の向かい側に立つ女性の声に、リディは緩慢に顔を上げる。


 豊かな金髪の美女――同僚のベルナドットが、中空に出現させた魔法の紋様を手のひらで消し去るところだった。

 ごく当たり前のように。


「うっ」


 うらやましい。

 私にもこれができれば。


 ――魔法が使えれば、人生の悩みの九割は解決するのに……!



     ◆



 ライオール国。

 海は無いものの国交が盛んで、平地の多い緑豊かな富める国。


 隣のヴィロン国と百十一年の長きにわたり戦争をしていたが、リーデリアの父、国王ゼアの提案のもと、現在の国境を維持するという条件付きで両国は講和を結んだ。


 それから二十年、治世は安定し繁栄への道を歩んでいる。


 治安や物流をはじめ、あらゆる分野でこの国の発展を下支えしているのは、魔法を操る才能を持った人々、〈魔法士〉の存在だ。


 生まれながらに魔力を持つ者――ライオールではその昔千人に一人の割合で、選ばれた才能を持つ魔法士が生まれたといわれている。


 魔法は強大な力を持ち主に与えるため、彼らは当然のように要職に就くようになった。

 魔法士同士が結婚し、その才能を受け継いだ子どもがまた要職に就き――結果、ライオール国の貴族ならほぼ半分、王族にいたっては全員魔力を駆使することができる。

 

 しかし、それには但し書きが付く。


 『第一王女リーデリア・ライオールを除いて』と。




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