プロローグ②




 そんなはずはない。


 そう自分に言い聞かせながら、ベッドに横座りしたまま伸し掛かっている男を呆然と見返して、リーデリア――リディは息を呑んだ。


 彼が王宮に相応しくない、シャツにベストという簡素な服装だったからではない。


 彼の顔立ちが、言葉遣いに似合わず精悍で整っていたからでもない。


 彼の人を食ったような笑みを浮かべた薄い唇が、妖しく濡れていたから――でもない。


 視線が、彼のただ一点に吸い寄せられる。

 

 襟足の長い暗褐色の髪、そのさらに上。

 乱雑に整えられた髪の間から覗く二つの〈もの〉。


 ふさふさとした、柔らかそうな毛並み。

 狼に似た形状の先端は、ぴんと天井に向かって立っている。

 どうあっても、見間違う余地はなかった。



 獣の耳。しかも、本物の。



 息を呑んだまま硬直したリディをしり目に、男がぞんざいに口を開く。

 その怠そうな低い声は皮肉にも、体が触れ合ったままのリディによく響いた。


「なかなか反応しねえから、永遠にキスさせられんのかと思った」

「――なん……ですって!?」


 気のせいではない。

 夢でも――ない。


 ――私、キス……したの? この、獣耳の男と……!?


 さっき感じた唇の熱さに負けないくらいに、顔がかっと火照る。

 重い体を押して、リディはベッドの上で勢いよく身を起こした。


「あっ、貴方! 何の権利があってこんな――」

「リディ様、急に起き上がってはいけません!」


 男を突き放そうと伸ばした腕ごと、横合いから抱き締められる。

 侍女のシアラが、泣き腫らして瞳を真っ赤にしていた。

 いつもは整えられた髪が、すっかり乱れ切っている。


「よかった……っ! どこか痛むところや、苦しいところはありませんか?」

「えっ、ええ。一応、大丈夫みたい……だけど」


 何が何だか、さっぱりわからない。

 シアラは目尻を拭いながら後ろに下がる。


 見渡せるようになった室内に、リディは頼りなく視線を彷徨わせた。

 深緑と白を基調としたベッドやソファ、白地に金の繊細な花模様が入った壁紙はよく見慣れた自室の物で、少し肩の力が抜ける。


 シアラの奥にある来客用の椅子で、虚脱したように兄のレオンが息を吐いていた。

 その横にある一人掛けのソファでは、父の国王ゼアが眉間の皺を解きながら背もたれに体を預けている。


 ――どうして、二人がここに? いいえ、それよりも……。


 壁際には、年を取ってやや猫背になってきたリディ付きの侍医が立っていた。

 他にも見知った魔法士が一人、二人――三人。

 人数を数える度、顔から血の気が引いていく。


 家族から同僚まで。

 老若男女総勢七名が、それぞれ複雑な表情でリディを見つめていた。


 彼らが出来事の終始を全て見ていたことは、混乱していてもわかる。


「私、もしかして……皆の前で?」


 浮かんだ予想をぽつりと呟いた瞬間、部屋に気まずい咳払いがいくつも起きた。


 枕元に佇んだシアラは、頬を赤らめながら申し訳なさそうに目を逸らす。

 他の面々も、問い詰められまいと明後日の方向を見た。


 ――うっ……嘘でしょ!?


「はっ、そんなこと気にしてんのかよ」


 ただ一人、獣耳の男だけがリディの言葉を鼻で笑った。


「もしかして、初めてだったのか?」


 もう耐えられない。


『王女たるもの、どんな時も見苦しい行いをしてはならない』


 王族の専属教師たちに叩き込まれて体に染み付いていた教えは、一瞬で消えた。


 リディは震わせていた唇を引き結ぶと、彼の頬に向かって容赦なく右手を振り下ろしていた。


 ――初めてだったら……何か悪いの!?


「この、無礼者っ!」


 上品な装飾で彩られたリディの部屋に、平手打ちの小気味よい音が鳴り響いた。


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