ケダモノと王女の不本意なキス

松村亜紀/ビーズログ文庫

プロローグ①



 あたたかいものが、そっと唇に触れた。


 静まり返っていた胸がざわりと掻き立てられる。

 沈み込むように柔らかで、蠱惑的な――こんなものは知らない。


 ――何……かしら。


 確かめたくて、しょうがない。

 けれど視界は真っ暗闇で、何も見えなかった。


 目を開けようとしても瞼はぴくりともしない。

 手も足も、指先一つすら。


 どうして。


 恐怖で漏れかけた言葉は、唇から流れ込んできた熱に押し流される。

 乱暴で乱雑な、そのくせ宥めるような、慰めるような。

 矛盾した熱に。


 何が起きているのかわからない。


 けれど、不思議ともう怖くなかった。

 その熱は胸に恍惚の火を灯したまま、心地よい疼きと共に全身に満ちていく。


 凍った体を内側から溶かすように、少しずつ進んでいくその感覚がじれったい。

 堪えかねた体が無意識に反応して――唇を開いた。


 ――欲しい。


 その熱が。


 もっと、たくさん。もっと、深くまで。

 この死んだように冷え切った体が、溶かし尽くされるくらい。


 たどたどしくも無我夢中で、そのあたたかかい何かに貪り付く。

 求めに応えるかのように、新たな熱が止めどなく体の中へと注ぎ込まれた。

 ゆるやかに火照っていた全身が、苦しいほどに熱くなる。


 初めて感じる悦楽を秘めた熱に、溺れ、浮かされて――。


 眠っていた感覚が一つひとつ、強引に呼び覚まされていく。

 さっきまで動かなかった瞼が、吐息に合わせて微かに震える。

 高鳴っていく胸の鼓動が、はっきりと感じ取れた。


 耳元で、誰かが髪をさらりと撫でる。

 優しく包み込むように、左耳にそっと添えられた大きな手。

 そのこそばゆい感触に、眉をひそめた。


 ――……誰?


 熱に浮かされてぼんやりとしたまま、どうにか目を開ける。


 覚束ない視界に、伏せられた切れ長の目が映り込む。

 長い睫毛を押し上げるようにふと瞼が開いて、その奥から艶めくような瞳が覗いた。


 澄み切った紺青色の瞳。


 底を見つめると吸い込まれてしまいそうな――。


「やっと起きやがったか」


 間近で聞こえた吐き捨てるような声に、一瞬で現実に引き戻される。

 青い瞳を細めながら男がわずかに上体を起こすと、胸にあった重みがふっと軽くなった。


 ――彼と重なり合っていた。


 そう気づいた時には、さっきまであったはずの唇の感触は、もうすっかり消えていた。


 ――ま、さか。

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