彼女との土台 1
人外と人間はどうしても相容れない部分が多々存在する。それを前提として、彼女とは暮らしていかなくてはならない――――そう思っていた時から早二か月。朝、挨拶らしき言葉は返してくれるようになった。後、出勤時にも何か言ってくれるようになった。…以上、ここ二か月分の進展だ。
スプーンを口元に運び、前方に座る彼女を見る。お互いの間にはシチューやブレッドと言った食事…シチューは勿論、私の作ったものだ。私以外に作れる者は居ない。ハウスキーパーなんて雇っていない。
幸い人間と人外の味覚は別に大きな違いは無いらしく、彼女も食べては、くれる。美味しさ等については言葉が通じないので分からない…が、一応完食はしてくれているので前向きに考えることにした。
今日も食器のカチャカチャという音だけが、この静かな空間に響く。…当然と言えば当然だ。話すことが互いに出来ないのだ。テレビも点いていないこの空間にある音なんて、この食器音と、不定期に外から聞こえる車の音だけだ。
「…―――」
音を殆ど立てず、静かに食事を行う彼女を見る――――この二か月、私はずっと監視だけをして来た訳では無い。彼女について、いくつか調べさせて貰っていた。
色々と詮索した結果、彼女はニホン、という国の出身者らしいことが分かった。何となくは知っている。人間側では中々に人気のある国であると同時に、色々と他国に勘違いされやすい所だと聞いている。
ただ、それを聞いて助かった私が居た。…理由は、"言語"にある。
さらに深く調べたところ、どうも私達の使う言語と彼女の使う言語、ニュアンスが少し似ているようなのだ。単語一つ一つも、似ているものが多々あるらしい。人間側は場所によって使う言語が違うと聞いていたので、もし私自身が発音できないようなものであれば…という不安があった。ニュアンスが似ているということは、決して発音不可能な言語では無いということ。もし仮に、人間と人外の声帯の仕組みが違えば、出来なかっただろう。
人外になれば体のつくりは私と殆ど同じになる。声帯云々の心配も無い。外見だけでなく、内面的なものも自動で切り替わるからだ。…が、それがいつになるか分からないというのが問題だ。彼女が人外化する経過は、前と違い今では大した変化が見られない。写真でも撮って比べれば違いは分かるかもしれないが、どうも気が進まない。…カメラはあるが、別に監視条件については特に上司から説明されていないので、今まで一枚たりとも彼女を撮ったことは無い。―――と、話を戻すが、つまりは彼女が人外と化す前に、私が彼女の言語を覚えた方が早いかもしれないということ。このままジェスチャーだけで暮らしていくと、どうしても不便な部分が出てくるのは辛い。
『……ん…ああ、終わったか』
彼女の食器の中身が全て無くなったところで、私は立ち上がる。彼女の分の食器を自分の物に重ね、台所へと持っていく準備を始める。…彼女もそれに倣い、別の食器を纏め始めた。
当初は別に私がするからやらなくていい、という意思表示をしようと思ったが、彼女の行動は基本、明らかに危険と分かるもの以外は邪魔をしない方が良いという考えに至った。彼女の"やろうとする"意思、それを否定するようなやり方は(例え私なりの気遣いだったとしても)此方としてはあまり気分の良いものでは無い。
軽い水洗いを済ませ、洗剤をつけたスポンジで食器を洗う。泡を水で流して隣に差し出せば、彼女が受け取り、食器を拭いて重ねていく。―――彼女はこういった感じで協力してくれる。行動自体には段々と積極性が増してきた。そして私の普段の様子から判断したのか、直接危害を加えようとする相手では無い、ということも、分かっているようだ。―――だからと言って完全に警戒を解いてはいない筈だ。警戒は、あくまで"緩んでいる"だけで、何時でも"張り直せる"状態に保たれている。
信用は出来る。だが"信用"はされていても"信頼"の領域には達していなさそうだ。…それでも、信用だけでもされていること、それが私にとっての大きな一歩であることに、違いは無い。私自ら手を下した訳では無いが、彼女からしてみれば、見知らぬ家に無理矢理連れ込まれたようなものなのだから。
洗い物を終え、食器棚に全てしまい込んだ後は互いに自由な時間だ。彼女は本やテレビ、私は日記や趣味に没頭する。彼女と話すことは、無い。
『…―――』
気付かれないよう、軽くため息をつく。こう、どこか距離があるのには色々と要因があると思うが、どう考えてもその中には、確実にコミュニケーション不足が含まれていると私は思う。軽い雑談でも出来れば、多少は関係も好転に向かうだろうと思う。…しかし現状、彼女と出来るコミュニケーション手段は身振り手振りのジェスチャーだけだ。
彼女とはジェスチャーで、それでいて適切に思っていることを伝えなくてはならない。…決して楽観視していた訳では無かったが、意外と大変だ。何か間違った解釈をさせるようなことをしてしまうと、危険な目に遭う可能性があることが無くは無い。携帯機器でのやり取り以上に、身振り手振りでの伝達手段には誤解が含まれやすい。もっと簡単で、確実な意思疎通が出来れば良いと本当に思う。
せめて彼女の扱える文字を覚えることが出来れば、伝達は少なからず楽になるだろう。
(…やっぱり取り寄せるか)
最近、本格的に『教材』を買うことを検討しようかと悩み始めた。取り寄せるのは人間の言葉に関する教材で、彼女の出身国にも関する物だ。今は何でもいいから基礎的な言葉だけでも覚えておきたい。勉強自体は―――まぁ、暇な時や手が空いている時にでもするつもりだ。
『…』
何となしにソファへ目を向ける。そこにはクッションを抱き、テレビに集中する彼女の姿があった。此処に来た当初より伸びた髪の毛を、鬱陶しそうにしている。―――私の目線には、気付いていない。
(これは…どっちだ?)
これも、関係が数歩前進した証拠、と言えるのだろうか。今までの彼女は、少し私が目を向けただけで直ぐ私の方へ振り向いて来たように思うが、今は、こうして"何も"反応しない。
彼女がこうして反応しないのは、警戒心が薄まった証拠だと考える。当初は―――当然のことだが―――私の気配に対し敏感だったのだ。だから目線に直ぐに気付いたのではないだろうか。やはり、私の"緩んでいる"という認識は間違いないかもしれない。
―――結局、私の方が目線を逸らすまで、彼女が此方を振り向くことは無かった。椅子から立ちあがり、そのまま風呂場へと向かう。目的は、言わなくても分かるだろう。
――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――
少し距離の離れたベッドに彼女が潜り込む。その身体には、少し前に買っていた薄ピンクの寝間着だ。
警戒が緩んだ御蔭か、今まで以上に私の買ってきた服に手を出してくれるようになった。正確には生活に必須な下着系統には手を出していたが、衣服も同様に最低限の物にしか手をつけていなかったのだ。というのも、気に入らない云々より、怪しいから着れない、が強く彼女の中にあったからだと思う。それについて不満を唱えるつもりはない。【何があるか分からない。だから怪しむ】、生き物として当たり前の行動だ。
私も彼女に倣い、電灯の紐を引いて灯りを消すと、布団を被った。―――枕に後頭部を埋め、暗闇の中で物思いに耽る。内容は…まぁ、彼女についてだ。
既に随分と、私の中に"彼女"が浸透してきた気がするのだ。いつの間にか、彼女の存在が、私の生活の一部と化している。外出時も、今頃どうしているだろうかと気になることもある。前に一度、危険な目に遭わせてしまった負い目があるせいか。あくまでこれは監視という"仕事"だからか……妙に思考が彼女に偏るのは、このどちらかが根底にあるからだろうか…私は最近、そんな疑問で溢れている。
(だから……いや、それだけで?)
果たしてこうして固執する理由は、自分の仕事だから、なのか。…自分の心情すら不明瞭な状況だ。嬉々として、という程では無い。ただ、"苦"というものでは決して無いこと。それだけは確かだった。現に今も、何かを考えれば直ぐ彼女に関連したものが、ふつふつと浮き上がって来ている。
目を開けて彼女の方を見る――――が、直ぐに寝返りをうって顔を逸らす。
(……それより…優先することがあるだろうに…)
自分自身に向けた言葉だった。こんな内容でうだうだ悩むより、私には考える必要がある件が一つあった。…これからの私と彼女の"関係"についてだ。
ここ何日か、私は互いの関係の『土台』を作りたいと思い始めていた。理由は、一ヶ月以上経過した今も、彼女の心から警戒心が完全に消えていないからだ。信用はある程度、得られていると思う。しかし、信頼はまでは達していない。私は彼女の行動を監視、つまり強制している存在であり、そんな者に対し"信頼"を寄せられるとは思えない。ただこの境界線をどうにか出来れば、もっと色々と楽になるかもしれない。――――結論を直球で言えば、互いの境界線を解消する方法が無いかと、模索している最中だった。
現時点で彼女との間にある、わだかまり―――のようなモノ―――を、全て取り除けるなんて、微塵程度…には期待しているが、そんな簡単に行くほど、甘い問題でないことは良く知っている。それでも、どんなものでも良いから、何か手助けになってくれれば良いと思うのは確かだ。
―――彼女のことを一度、よくよく観察する必要がある。そう区切りをつけて、私は目を閉じた。
いつものように睡魔が私を覆うまで、時間は掛からなかった。
――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――
「…で?なんか良さげな案は出たのか」
『出ていたら相談なんてしていないだろう』
「それもそうか」
歯を剥き出しにしたまま、蝋燭頭がキシッと笑う。―――相も変わらず、特徴のある笑い方は変わっていない。……そんなことより、今重要なことは彼女に与える"何か"についてだ。
出勤し、午前分の仕事を終えて今は昼休み。その時間の間を縫うようにして、私はこの友人に相談を持ち掛けていた。
零れ落ちないよう、歯で煙草を押さえて煙を吐く。ガラス張りの喫煙所は、相談事をするのには中々の好条件だ。私達以外の喫煙者など、片手で数える程度しか、少なくともこの社内には居なかった。
『人間は…色々と大変だ』
「大変な代わりに面白味も強いだろ。寿命が短いってのは技術を発展させるのに一役買ってるんだよ」
『人間について調べたことでも?』
「…いや、ただの受け売り。確か…何かの本に書いてあった」
『そうか』
―――しかし進むのは雑談ばかりで、これといった打開策は一向に生まれない。唯一生まれたのは、贈り物―――試しにそれを渡してみる、ということだけだ。そして既に、友人と"贈る"ということを前提として話し始めていた。
「ちょっとしたモンで良いんじゃないか?服とか指輪とか凝ったもんじゃなくて…、あれだ、普段の生活で役立ちそうなヤツだ」
『…普段の生活』
「男女両方が使えるモノでも良いと思うが、出来るなら女性特有の物が良いだろーな」
…彼女の日常を思い起こせば、読書家、という言葉が真っ先に浮かんでくる。それなら人間の言葉で綴られた本でも渡してみようかとは考えたが、如何せん、人間側から"直接"仕入れたものは価格が高騰するのが常識だ。本も、その例外ではない。金札数枚では足りないくらい、値が張る物もある。仕入れも不定期なので、予約も出来ない。
服も買ったばかりで、今このタイミングで渡す物かと自問すれば首を傾げる。でも私に女性が好む物なんて分からない。挙げろと言われても思い浮かぶのは、化粧品・服…この二つで突っかかってしまう程度には分からなかった。あと挙げられるのは、本当に日常的に使う物ばかりだ。
軽くため息をつき、かくんと肩を落とす。――――隣から笑い声が聞こえて来た。
『……あまり笑うな』
眉を細めながら横を見る。短く途切れ途切れな笑い声は、この蝋燭頭のものだ。
少し不愉快な私の顔を見て、軽く謝罪を入れてくる。…笑いながら。
「ッ…――…――……あー…悪い」
『そんなに可笑しなことか』
「いや?ただ、丸くなったと思って」
『何が』
「性格だよ。昔と今のお前を比べてみろ。天と地ほどの差、と言っても過言じゃない」
『…そんなことない』
「ある。物凄い変化だ。昔なじみが見たら誰か分からなくなりそうだ。…これも、あの人間の御蔭か?」
『………』
一本目の煙草を吸い殻入れに捨てる。再び一本だけ取り出し、ライターで火を点けた。
黙ったままの私に「でも、」と前置きして、友人は続ける。
「あまり深入りし過ぎると、後が面倒だ。ほどほどで止めとけよ」
『……』
その言葉が一体、何を指しているのか。予想はつく。十中八九、監視対象である彼女のことだろう。深入りという言葉を聞き、それ以外に連想出来ない。
『情が湧くからか』
「お前は【一時的】にあの人間の世話を頼まれているだけだ。どうせ、いつかは研究会とかに引き取られるんだろ」
情が湧いたら終わり、とでもいいだけな口調に、自然、険しい顔になる。
『………分かってる』
「それならいいが」
『……――ん』
「……」
『…………』
「…」
―――妙な気まずさが残る中、先に口を開いたのは彼が先だった。
「まぁ、なんだ。持論だけど、結局はソレに含まれた想い的なモノが一番大事なんじゃないか?」
無言の私に向け、先の灰を落としながら友人が言う。―――それで済ませれれば、ここまでの苦労は無いのだ。女性との関係なんて、碌に私は持ったことが無い。大した物が思い付かないのも、そのせいだ。
『…簡単に言うな』
「何言ってる。あまり深く考えすぎて何も渡せないってなったら本末転倒だろ。テストプレイ感覚でいいから、あまり煮詰めないでやればいい」
『……』
「…性格上、難しいだろーけどな」
『よく分かってる』
「何十年一緒に居ると思う。慎重過ぎるその性格にはもう慣れたよ」
友人が肩を竦め、煙草を捨てて立ち上がった。
「じゃあ、先に戻ってる。そろそろ休憩終わりだから急いだ方がいいぞ」
『分かった』
「ん」
シガレットケース片手に、ガラス戸を開けて友人が退出する。―――――その姿を見送ると、喫煙所に取り残されたまま、だらりとしたまま、考えに耽る。優柔不断という言葉が最も今の私には似合う。考えが全く固まらない。
やがて二本目も、寿命が近付いてきた。
自分以外への贈り物 想いを込めた贈り物 不安だ
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