12.ハルの一歩
「ぶさいくな顔」
「…………」
とてつもなく失礼な事を笑いながら言ったグレイさんは、親切にもウェイターに頼んだ新たなナフキンを渡してくる。
もう私が使っていたナフキンは涙と鼻水でぐちゃぐちゃで使い物にならないから、ありがたく受け取ることにした。
「……ありがと」
グレイさんのニヤニヤとした顔を見て、今更ながらに羞恥心が込み上げてくる。
私食べている最中、ずっと泣いていた。
食べれば食べるほどに涙が止まらなくて最後の方なんて鼻が詰まって味が分からなくなってきたのに、それでも食べる事を止められない。
もうコントロールなんて効かなくて、周りの人間がドン引きしてこっち見ていたのにも関わらず一心不乱だった。
おかげで完食。
ついでにナフキンは酷い有様に。
そういえば、グレイさんは笑う事はしても、ドン引きする事はなかったな。途中で、水を勧めてきてくれたりもした。
「満足したか?」
グレイさんは頬杖をかきながら聞いてくる。
私は、顔をナフキンで隠しながらそれに素直に頷いた。
「美味しかったか?」
これにも頷く。
何かもう、捻くれた事を言う気力もない。
ただただ気が抜けたように、あのステーキの美味しさに感激する事しか出来なかった。
「よかったな」
笑顔でそう言ってくるグレイさんの言葉が、剥き出しになって無防備な心に酷く滲みわたる。じんわりと、温かく。
だから私はまた、先ほどよりも大きく首を縦に振ったのだ。
「ちょっと支配人と話してくるから待ってろ」
私は鼻をズビズビ鳴らしながらそれに頷く。
入り口近くに常時待機している支配人のおじさんのところに向かって行ったグレイさんは、何やら話し込み始めた。
……もしかして、私をお店に無理矢理入れた事、謝りにでもいったのかな?
結構強引だったから、今回は料理を出したものの今後入店禁止って事もあり得るのかもしれない。
大丈夫かな? ここ行きつけだって言っていたのに。
自分の事でいっぱいいっぱいで気付けなかった事に冷静になった今だからこそ気付く。
さすがのエリート様でもあの所業はまずかったのだろうか。二人の様子を所作なさげに見守った。
でも途中で店の客たちがチラチラとこちらを見ている事に気が付いた。
不愉快そうに顔を歪める人、興味本位で私の顔を見ようとする人、嘲笑ってひそひそと話す人。元の世界ではこんなの自意識過剰だって一蹴されるけれど、ここでは違う。
……居心地悪い。
さっき人間に戻れたって思ったのに、また最底辺に戻った気分になる。
嫌だな。
上げてまた一気に地面に叩き付けられた感じ。高低差が酷い。
馬鹿みたいに脈打つ鼓動と広がる不安感にぎゅっとナフキンを握り締める。
こういう衆人環視の下に晒されるのはずっと避けてきた。どうしてもあの会長に土下座した時の事を思い出して、怖くなってしまうから。
落ち着け、大丈夫。
「どうした? しかめっ面して」
いつの間にか話を終えてきたのだろう。グレイさんが戻ってきて、目の前に座ってこちらを窺い見てきた。
私の様子を不審に思って訝し気な顔をしているけれど、私はそれを見てすぐに取り繕った。
「別に。それより、もしかして支配人の人に怒られたりした? 強引にお店に入ったりしたから」
そしてすぐに別の話題に移る。それも気になっていた事だったからね。
「全然。むしろまたご一緒にどうぞって言ってたぞ。やっぱあの店とは全然違うな」
「石七つの威光を振りかざして入ったからね。でも、石の数で自分の価値は決めないとか言ってたくせにちゃっかり石の数は利用するんだね」
「使えるものは使う性質なんだよ。俺がどう思おうと周りはこれに平伏す連中ばっかりだからな」
それを賢いと言うべきか、ずる賢いと言うべきか。
「でも言ったろ? 俺自身はそれにはこだわらないって」
あくまでそのスタンスは変わらないようだった。
自信満々に、強い信念をもって不遜にそう嘯く。
けど、その言葉に説得力があるのはエリートだからっていうのもあるけれど、何より彼に何一つ迷いがないからだ。本当にそうである事を信じている。
今の私には、そんなグレイさんが酷く眩しく見えて、直視することが出来なかった。
そろそろ行くか、ってグレイさんが言ったので、立ち上がってレジを探す。
でも、どこで会計すればいいのか分からなくてグレイさんに聞こうと思ったら、もう店から出るところで慌てて入り口付近に立っていた支配人にどこで会計すればいいのかを聞いた。
「もうグレイ様からお会計は頂いております」
支配人はニコリと朗らかに笑って言う。
はぁ?! どういう事?!
私がグレイさんの姿を視線で追うも、もうすでに店の外に出ていて文句の一つも言えない。
やられた……
悔しい思いをして取り出しかけた財布を仕舞った。
そして支配人に頭を下げて『ごちそうさまでした』と礼を言う。
「……とても、美味しかったです」
「それはありがとうございます。またお越しくださいね」
面映く、そして嬉しかった。
『また来てください』なんて言ってくれる店がある事に安堵を覚え、そして私は小さく頷く。
支配人はまた優しい笑みで私を見送ってくれたのだ。
「グレイさん!」
外で待っていてくれたグレイさんが私の顔を見るなり、悪戯が成功したとばかりに子供のような顔で笑った。
そこまで悪意のない顔をされて私は言葉に詰まり、結局苦々しい顔して彼の目の前に立つことしか出来なかった。
「さっき『ぶさいくな顔』って言ったお詫びな」
子供にするように頭をポンポンと撫でられる。
お詫びとかもっともらしい理由をつけて、結局彼は私にお金を出させるつもりはなかったんだ。もう、してやられた感が半端ない。
「……お金なら、あった」
「だな。でも今日は俺に奢らせてくれよ。お詫びだよ、お詫び。――――いろいろ辛い思いをさせちまったからな」
バツの悪そうな彼の顔を見て、あぁなるほどと気が付いた。
驚いた事に、先に行った食堂での事や昔の話を私にさせた事に彼は罪悪感を持っていたようだった。あれは私が勝手にした事だというのに、それでもグレイさんは気に病んでいたのだ。私を傷付けたのではないかと。
……本当、この人、馬鹿だよなぁ
呆れながらも、それでも先ほどのような意固地な気持ちは出てこなかった。
まぁ、私も今日の食事のお礼に少しは歩み寄りの姿勢を示してもいいのかも。
「……じゃあ、ごちそうになります」
そのたった一言なのに気恥ずかしくて頬が赤らむ。
グレイさんは嬉しそうな顔をして、私のそのパサついた髪をぐしゃぐしゃにしながらまた頭を撫でた。
あぁ、もう。ぐちゃぐちゃ。
乱れた髪を手櫛で直す。
「じゃあ、明日はお前の奢りな」
「はぁ?!」
いやいや、ちょっと待って。明日って何?!
明日も行くとか聞いてないし行くつもりは微塵もありませんけど?!
慌てる私の言葉など関係ないとばかりに、グレイさんは手を振って去って行った。
行きも帰りも驚くほど自分勝手な人だ。
私は、その小さくなる背中を見送りながら深いため息を吐いた。
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