11.ハルの価値、レチカルーヴェンの価値


 ど、どしよう……。

 私を食事に連れて行けるものならやってみなと挑発して、あっさり食事の席に座らされた事もなかなかの恥ずかしさというか悔しいものだけど、さらに大きな問題にぶち当たってしまった。


 ……メニュー表が読めない。


 おそらく険しくなっているだろう自分の顔をグレイさんに見せないようにメニュー表で隠しながら懸命にその文字を読んでいるけれど、如何せん幼児程度の知識しかない私には、ここに書いてある記号の羅列を解読するのは無理だった。

 というか、ところどころ文字なのかも危うい様なものが出てきて若干混乱中。

 さすが高級レストラン。

 安易な名前はつけてくれないのは、元の世界でもここでも同じらしい。


 かと言って、目の前のグレイさんに文字が読めないから教えてと言うのもこれ以上恥を晒したくなくて憚れた。


 多分、グレイさんの中で私は物凄く可哀想な人間になっている。

 それは、自分から身の上話をしたから当たり前と言えば当たり前なんだけど、まさかあんなに怒りを顕わにするとは思わなかった。

 あんなに意地になって私にご飯を食べさせようと張り切るとも思っていなかった。

 だって、『じゃあ、しょうがねぇな』って言ってあっさり諦めるものだと決めつけていたから。誤算もいい所だ。


 だからこれ以上同情的な目で見られたくなくて一人で頑張っているんだけど……。


「何がいいか決めたか?」


 残念ながら、グレイさんがウェイターを手で呼びながら私に聞いてきた。

 合図に気付き素早くこちらにやってくるウェイターの姿を見て焦ってしまう。

 どうしよう。全然読めないのに、注文なんか出来るはずがない。


 メニュー表の裏で冷や汗をかく私の事などお構いなしに、ウェイターが丁寧な口調で注文を聞いてきてグレイさんが答える。

 正直それを聞いていても何が何だか分からない。『ピエピエのムニエル』って何? というかピエピエって何?

 今までパンとイーゼルに与えられるものだけを食べていた私は、この世界の食材の名前すらも知らない。それが肉なのか魚なのか野菜なのか果物なのか、名前だけではその判断さえできないのだ。


 ……惨めだ。

 物凄く惨めな気分になってくる。


 この世界では私が惨めな存在であるという事はもう嫌というくらいに思い知らされたけれど、何故か一番初めにこの世界にやってきて惨めさを感じた時のような気持ちが甦ってくる。

 グレイさんもウェイターもこちらを見ていて、まだ決まらないのかと窺う。

 何故かメニュー表を持つ手が震えてきて、焦りばかりが募った。


「お前、肉と魚どっちが好き?」

「……え?」


 唐突なグレイさんの質問に、私は目から上だけをメニュー表から出して彼を見る。


「お前、初めてだから何がいいか分かんないだろ? ここはメインは肉か魚なんだ。だからどっちがいいかなって」


 肉か魚かというシンプルな質問なら答えられる。ピエピエなんてよくわからないものじゃなくて、それなら。


「……お、お肉!」


 答えは決まっている。絶対にお肉だ。

 いつもひもじい時、元の世界を恋しがる時に私の中にはお母さんが作ってくれたハンバーグが頭の中に浮かんでいた。

 お肉が食べたい。一口だけでもいいからお肉が。

 この一年ずっと願ってきた事だ。

 さすがのイーゼルもお肉なんて高級品を分けてくれるほど気前がいいわけではないので、いつか味わった味を思い出し涎を啜るだけだったんだ。


「この店で一番のおすすめの肉料理を」


 そうスマートにウェイターに言うグレイさんは、いつの間にか私の分の注文もしてくれていた。ウェイターはメニュー表を回収して去って行く。


 もしかして私が文字が読めなくて苦戦していたのが分かったのかな? それに気付いていたのにも関わらず問い質すわけでも茶化すわけでもなく私の食べたいものを聞き出して、そして私が恥をかかないようにしてくれた、とか?

 ……そこら辺の真意は分からなけれド、取り敢えず私は感謝すべきなのだろう。


「ありがと」


 ちょっと癪だけど。

 私の小さな感謝の言葉はグレイさんの耳にしっかり届いていたらしく、彼は目を眇めて肩を竦めただけだった。


「……一応先に行っておくけど、自分で食べたものは自分で払うから」


 こんな高級そうな店、いくらかかるか分からないけど。

 この蔦の刺繍がされてある絹のような滑らかな手触りのテーブルクロスや、天井からつり下がっているシャンデリアとか、絶対ドレスコードあるでしょって感じの雰囲気から察するに、絶対にお値段が高いととは分かっているけれどもそこは譲れない。


「何で? 俺が出すから別にいいって。俺から誘ったんだし」


 でも、そう来ると思ったから先に牽制しておいたんだけど、グレイさんは『何言ってんだ、お前』って顔をして即座に却下してきた。


「言ったでしょ。金はちゃんと貰っているんだって。ただ、それを使う機会に恵まれなかっただけで、出せるだけのお金はあるの。何ならグレイさんの分も出そうか?」

「必要ない。俺の分もお前の分もな。大人しくここは奢られとけよ」


 そう事も無げに言ってくれるけれど、冗談じゃない。

 私だってそこまで可哀想な子じゃないんだ。


「施しでもくれてやってるつもり?」

「あぁ?」


 私が鼻で笑うような声で問うと、グレイさんも鼻白んだような顔をする。


「別に自分で払うって言ってるのに、何でグレイさんが払おうとするのよ。確かにここに連れてきてもらった事には感謝しているけど、これ以上世話になるつもりはないの。……それに返せるものもないしね」


 これは私の意地だ。

 そして自衛。


 彼の目的は最終的に私の血を貰う事だから、それを達成するためにはどんな事でもするんだろう。

 けど、そんな気がない私はどれだけよくしてもらっても彼に返せるものがない。この血以外に価値のあるものをもってはいない。

 だからこそ、借りを作るわけにはいかなかった。


 はぁ、と重苦しいため息が聞こえてきて、目線を上げるとグレイさんは前髪を掻き上げていた。

 あれ、癖なんだろうか。何かある度に掻き上げているのを見ている気がする。


「まぁ、あれだ。施しとかじゃなくて、……これからよろしく、みたいな?」


 そんな疑問符付きで言われても反応に困る。

 私が戸惑った顔をすると、グレイさんも唸り声をあげてしばしの間考え込んだ。


「なんつーか、お前を太らせるためってのもあるんだけど、……多分俺はお前に信用されたいんだな」

「信用……?」

「おう。だから『これからよろしく』っていう意味でまずは俺が奢るって話。別に義理で何かを返して貰おうとも思ってないし、ましてやこれに恩義を感じて血を寄越せって強要するつもりはない。まずは俺を知って、俺を信用してもらう。そこから始める」


 会ってからずっと不機嫌そうだったグレイさんが、歯を剥き出しにして笑う。にっこりと。それこそ、老若男女皆が見ほれるほどの顔をくしゃりと崩して。

 そんな事をしても美しいその顔を見て、私は唖然とした。


 この人、何言ってんの? 石なしの私に『信用してほしい』って本気で思っているの? 本当にそんな地道な努力をしていくつもりなの?

 自分の耳も、この目の前にいる人も疑った。


「私がグレイさんを信用したところで何の得があるってのよ」

「そりゃあ、あれだ。友達になれるだろ?」

「はぁ? 友達?!」


 ますます理解不能だ。

 私と友達? 何考えてんの?


 私は狼狽して、顔を赤く染めた。


「べ、別に友達とかならなくてもそんな回りくどい事しないで、強制的に私からぬを抜き取ったらいいじゃん! 何のための魔法なわけ? 勝手にやったらいいじゃん!」


 もう訳が分からな過ぎて、私も思ってもみない事を口走る。

 そんな強制的に血を抜かれるなんて真っ平だけど、でも本当にグレイさんが私と友達になりたがっているとは思えずに試すような事を言ってしまったのだ。


「いいだろ? 俺もどうせ友達いねぇしさ。いないもの同士ちょうどいい」

「はぁ? 友達いないって、……本気で?」


 今度はグレイさんのボッチ発言に戸惑う。

 エリートのくせに友達いないの? それって石七つもあるから? それとも性格に難あり?

 疑いの目を向けて睨み付ける私に、グレイさんは不貞腐れたかのようにそっぽを向く。


「お前の言うエリート様にもエリートなりの苦労ってもんがあるんだよ」


 何か、深く突っ込んじゃいけない感じ? 若干その言葉に疲れみたいなのが見えるけど。

 まぁ、エリート様には周りの人間の妬み嫉みなどの負の感情は金魚の糞みたいについて回るものよね。私には分からない苦労だ。


「そんな事言われても私たち、相容れないと思うけど。片や『神のいとし子』と片や最底辺。無理でしょ」

「いい加減そこにこだわるのやめようぜ。そんな事言ってたら何も前に進まない」

「一番こだわっているのはこの世界でしょ? 私はそれに従っているだけ」


 私だってこだわりたくない。けど、ここがそういう世界なのだ。郷に入れば郷に従えって教えが元の世界にはあって、私はその先人のありがたい言葉に従う大切さをこの世界で学んだのだ。


「まぁ、な……。でも、俺はこの世界の人間でこの世界で育ってきたけど、石で人間の価値を決めるって事自体馬鹿げてるけどな」

「それなら、グレイさんのその七つの石にも価値がないっていうの?」

「周りの奴ら、国とか聖教会とかにはこれは物凄く価値のあるものなんだろうよ」


 グレイさんは自分の額の石を指さす。


「けどな、俺の中にある俺の価値と周りから見る俺の価値には齟齬があって、それは石の数には縛られないものだ。俺はこの石で自分の価値を測ろうとも思っていない。……実際この石のおかげで得られた価値は、俺にとってはどうでもいいものだ」


 そう胸を張って言われて、私の心は揺らいだ。


 石の数で決まる人間の価値。

 私はその常識をこの一年で必死にそれこそ身体に叩き込むようにして理解してきたというのに、ここにきてグレイさんがそれを壊そうとする。

 ようやく見つけた心の落としどころをことごとく踏み荒らそうとするのだ。


「だからさ、お前が石なしだろうが俺が七つ持っていようが関係ない。俺はそれでお前と友達になる事を躊躇いたくなんかないんだ」


 やめないか? と言われて、そうだね、って言えるほどこの世界での苦労は容易なものじゃなかった。

 関係ない、って言われても、嘘じゃん、って否定したくなるくらいに疑心暗鬼になった。


 でもさ。

 でも、何でかな。

 ……私、その言葉を腹立たしく思いながらも、どこかで嬉しいと思っている。

 馬鹿みたいだって思いながら、心のどっかで……


「お待たせいたしました」


 込み上げる熱いものを飲み下そうと必死になっている時に、ウェイターが注文した料理を持ってきた。

 私の前にソテーされた野菜が乗っているステーキが置かれた。魔法で熱を入れているのか、普通の皿なのに今も焼かれているかのようにジュウジュウと音を立てて、湯気を燻らせている。お腹を刺激する懐かしい匂いがして、目が釘付けになった。

 ちなみにグレイさんの前にはピエピエのムニエルが置かれた。どうやらピエピエは魚だったらしい。白魚であれも美味しそう。


「とりあえず、まだ話も長くなりそうだし、冷めないうちに食べるぞ」


 そんな事をグレイさんは言っていたけれど、私はもう先ほどの話などどうでもよくなっていた。目の前のステーキにしか目がいかない。


 どうしよう。

 本当にお肉だ。

 夢に見たお肉だ!


 口の中で溢れ出る唾液を呑み込んで、私はその震える手を合わせた。


「……い、いただきます」


 ナイフとフォークを持って、慎重に切り目を入れていく。

 脂と筋が少なく柔らかいためにすいすいとナイフが入っていって、凄く美味しそう。かかっているソースもいい匂いを醸し出している。

 ドキドキしながらお肉をフォークに刺して、落とさないようにゆっくりと口の中に運んで行った。


 そして、一年ぶりのお肉をこの舌で味わったのだ。


「…………っ」


 それは美味しかった。

 言葉に出来ないほどに、今まで生きていた中で一番と言っていいほどに。


 お肉の風味とソースの濃厚な香りと、噛めば噛むほどに溢れ出る肉汁。やっぱり高級肉なのか口の中で解けそうなくらいに柔らかい。

 でも、待ち望んだ味だった。

 ずっとずっと渇望していた、普通に暮らしていた頃の味。


「……ふっ、うぅ」


 それを懸命に噛み締めた。

 涙をボロボロ流しながら。


 流れ落ちる涙が口の中に入っても、涙を止めることが出来なかった。

 目の前にグレイさんがいても恥ずかしいとか見られたくないとかそういうのにも頭が回らずに、ただひたすらに咀嚼をし続けた。


 ――――私は、初めてこの世界で人間に戻れたような気がした。


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