7.ハルは信じられない
「終わったか?」
「…………」
茜が窓から差し込む頃、仕事を終えた私をグレイさんが呼び止めた。
本に熱中しているようだから邪魔しないように……もとい、関わり合いにならないようにこっそりと帰ろうとしたんだけど、それは叶わぬ願いだったようだ。
有無を言わさぬような強い視線で私を貫いた彼は、こっちに来いと手招きをしてきた。
用事があるならそっちから来なよ。
などと思う所はあったものの、ここで逃げても無駄な事を知っている私は渋々彼の目の前へと足を運んぶ。
私があくせく働いている間につまらなそうな顔で本を読んでいるなと思ったら、どうやらアルバートさんの本を読んでいたようだった。
幼児書程度の識字力だけれども、この本だけは誰が書いて何について書いているかは知っている。散々見ているからね。
私が本に注視している事に気が付いたグレイさんは、こちらに表紙を見せて
「特に面白くもなかったぞ」
と言い放った。
知ってるよ。多分私が文字をしっかりと読めるようになったとしても、絶対に面白みの欠片もこの本から感じる事が出来ないだろうから。書いている人が書いている人だからね。
でもまぁ、そんな事はどうでもいいんだよ。
肝心なのは、こんな暇潰しまでしてグレイさんが私を待っていたその理由だ。
「……私に、何の用?」
私はむっつりとした顔で問う。
いや、分かっているんだよ? 彼の目的なんて。
でもあれは私の中で終わった話だから、こちらから『私の血が欲しいんですよね?』とか切り出すなんて癪じゃないか。私のなけなしの意地がひょっこりと顔を出す。
もちろん、『血が欲しい』と口に出した時点で私は即刻お断りしてそのまま帰るけど。念のために二度とここに来ないように約束を取り付けてね。
ほら、言ってみろよ。
腕を組んで踏ん反り返った私は、グレイさんの言葉を待った。
グレイさんは私のその期待に応えるかのように、おもむろに立ち上がり私を睥睨する。
身長が150cmしかない私は、恐らく180cm以上背があるグレイさんに見下ろされると威圧感が半端ないが、こっちも負けやしない。めいいっぱい胸を反らして威嚇をした。
すると、グレイさんは言う。
「――――メシ、食いに行くぞ」
私の期待外の言葉を。
「は?」
思わず素っ頓狂な声を上げて目を瞠ったけれど……、何だって? メシを食べに行くだぁ?
本気? 本気なのか? この人。
エリート様が石なしを食事に誘うとか、何の天変地異の前触れよ。この世界ではあるまじき事でしょうに。頭大丈夫? って疑われる発言だよ、それは。
「冗談とかそんな顔で言われても反応に困るんだけど」
「冗談じゃない。本気だ」
……それなら尚の事悪い。
真摯な顔をして、冗談にしては質の悪い言葉を吐く彼の脛を蹴り上げたくなる。
つまりは、なりふり構わなくなったという事か。このエリート様は。
進退窮まり苦肉の策って? 馬鹿にするなよって思う。
ご飯に誘ってそこで説得したり、食べ物を与えるから血を寄越せとでも言うのだろうか。
確かに毎日ひもじい思いはしているけれど、食べ物で言いなりになるほど落ちぶれちゃいない。そんなんで懐柔できると思っているのだとしたら、随分と舐められたものだ。石はないけれど、動物とかじゃないんだぞ、私は。人間だ。あんた達からすれば違うのかもしれないけれど。
私は顔を思い切り顰めてグレイさんを睨み付けた。
「魂胆が透けて見えるわよ。餌付けでもしようって? 随分と高慢な考えです事。やっぱりエリート様はどこまでいってもエリート様よね」
何か、泣きそうだ。
私、この世界にいるとだんだんと人間じゃなくなっていくような気がしてくる。時折ゴミ以下の扱いをされているんじゃなかとさえ思えてくるんだ。
帰りたい。
何度そう思っただろう。
自分の尊厳を踏みにじられる度に、強くそう望んだ。
けれど誰もその願いを叶えてはくれなかった。誰も私の願いを聞いてもくれなかった。それだけがこの異世界の真実だ。
「エリート様って嫌味臭く言われるのは不本意だな」
「石七つ持っていれば立派なエリート様でしょうよ」
「まぁ、真実である事には違いないからそう言われても仕方ないけど……、けど、餌付け云々に関しては完全に否定しておくぞ。俺はそんなつもりでメシに誘ったわけじゃない」
嘘だ。騙されないし。
グレイさんの言葉が信じられなくて私は睨み付けるのを止めない。そんな私を見て、グレイさんも顔を顰めて前髪を掻き上げた。
「じゃあ、何だって言うの? 底辺の私に施しをくれてやろうって?」
「あのなぁ。俺はただメシを食いに行こうって言ってるだけだぞ。何でそんなに勘ぐるんだ」
「だって嘘くさいし、裏がないとか信じられない。昨日の今日でただご飯を食べるだけとか、誰が信じろって? 無理でしょ。まだ『奢ってやるから血を寄越せ』って言われた方が真実味があるわ」
まぁ、それでも断るんですけどね。
けれど、いつまでも頑なな私の態度に焦れたのか、グレイさんは忌々しそうに眼を細めて舌打ちをした。
はぁ?! 何で舌打ちされなきゃいけないわけ?!
頭に血が上ってぶち切れそうになって一言物申そうとした時、グレイさんがビシリと私に向けて人差し指を向けてきた。
「だったら太れよっ!!」
そう訳の分からない事を言って。
目の前で大きく映るその褐色の指を見つめて、私は固まってしまった。
それからグレイさんは堰を切ったかのようにしゃべり始める。
「太れよ! ちゃんと太れ! 俺が罪悪感を抱かないくらいにムチムチに太れ! 何だそのガリッガリの身体は! ちゃんと食ってんのかよ! いいや、絶対食ってないだろ! じゃなきゃそんな折れそうな身体になっているはずがない! 俺はさっき焦ったんだからな! あの男がお前の腰に手を回していた時、本気で折れるんじゃないかってずっとハラハラしてたんだからな! だからなぁ! 俺が血が貰っても一切罪悪感を抱かないくらいにお前を太らせるって言うんだよ!!」
鼻息荒く、我慢ならないといった感じで。
はぁ? 太れ? 太れって言った?
しかも『俺が罪悪感を持たないように』とか言った? そのために太れって。
女性に向かって太れとか言うなんて言語道断なんですけど。ムチムチにってどれだけ太らせるつもりでいるのか知らないけれど失礼な話だ。
それに私だって好きでガリガリでいるわけではないし、私だってお腹いっぱいにご飯食べたいしちゃんと健康的な身体でいたい。肌も爪もボロボロじゃなくて、髪も綺麗に整えて。
――――私だって、私だって
そう口々に反論したかったのに、全然できなかった。
言葉が咽喉につっかえたかのようにただ肩を怒らせているグレイさんを見上げて困惑するしか出来ず、唇を噛んだ。
「お前が『殺す気か』って言った時、素直に『そうだよな』って思った。このままお前から血を貰ったらお前死んじゃうかもしんねぇなって。そう思ったらとてもじゃないけどお前から血なんか貰えるわけがないって思ったんだよ。それを抜きにしても、お前をまず太らせなきゃダメだって思ったんだ。血がどうこうって話はまずはそれからだって」
「……な、に、それ。馬鹿みたい」
「うるせぇよ。俺がそう思っちまったんだから仕方ないだろ」
何、この人。
信じられない。
本気で言ってるの? 私を殺さないようにまずは太らせるって。これって怒るべきところ? ふざけんなって。それとも感謝するべきなんだろうか。よくわからない。
私の中に込み上げてきた熱いような冷たいようなこの気持ちもよくわからない。
「――――だからメシ、行くぞ」
そんな事を石なしの私に真面目な顔をして言ってくるこの人が、私の目の前にいる事が一番信じられなかった。
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