5.ハルは現実主義者である


 あー……、膝と腕と腰が痛い。

 そんな年寄りのような事をぼやきながら今日も起きたくないけれど頑張って起き上がる。よくちゃんと起きられたなって自分を褒めたいところだけど、昨日の長時間労働の後遺症でそれどころではない。身体中が痛くて仕方がない。

 こういう時、元の世界の利便さを痛感する。あっちなら湿布とか貼れば多少は痛みがまともになるのに、その湿布すらこっちにないだなんて。こっちの人は皆魔法で身体の治癒力を上げて治療するから、そもそも薬をあまり必要としないんだって。ことごとく石なしには住みにくい世界だよ、まったく。


 顔を洗いに鏡を見たら、今日は珍しく悪戯されてはいなかった。どうした、ポルモーポルども。

 ……と、思ったら洗面台にある洗濯済みのタオルがなくなっていた。

 あいつら空気読んで今日は悪戯を控えるとかという労りは出来ないわけ? 腹が立つ。

 何故かキッチンの下の扉の中に隠されていたタオルを回収して顔をガシガシと洗い、なけなしのドライフルーツを口に放り込む。出来れば食べるのを我慢して取っておきたかったけれど、いかんせん空腹が過ぎて気持ちが悪い。

 今日遅刻したらさすがに折檻だけじゃ済まなくなりそうなので早めに家を出た。行儀が悪いけれど、口の中にドライフルーツを含みながら。何だかもったいなくて飲み込むことが出来ないんだよ。多分、お昼もまともに食べれないだろうからね。


 案の定、私はお昼をまともに食べる事が出来なかった。

 と、いうのも、面倒な事に今日も『招かれざる客)がやってきたからだ。


「また下働きか、ハル。お前も飽きないな」


 私が本の装丁修復が終わったので作業台を綺麗に掃除をしていると、ねっとりとした声が聞こえてきた。私の機嫌とやる気は一気に急降下する。

 ああ、そうだよ。私はこの声の主が嫌いだ。話すのも嫌だし声を聞くことですらごめん被りたい。

 が、非常に残念な事に彼はこの資料館の大事な大事なスポンサー様で、館長の言う『己の石を投げ打ってでも尽くすべきお客様』である。私には投げ打つ石なんかないけど。

 なので、どれだけ嫌でも最上級のおもてなしをしなくてはいけない。


「いらっしゃいませ、デヴォン様」


 そしてこのまま失せやがれデヴォン様。


「いつも言ってるだろう、ハル。俺の事はカルバート様と呼べって」


 鬱陶しそうな前髪を掻き上げながら格好つけてデヴォン様は言う。

 嫌だよ、めんどい。ファーストネームなんかで呼んだら大きい顔されるに決まっている。


「そんな畏れ多い事は出来ませんよ」


 と、まぁ、本心はひた隠しにして建前だけで話せる私って本当大人だよね、とかたまに思ったりする。面倒な事になりたくないというのが大きいんだけど。

 作業台の掃除を粗方終わらせて道具を片付けにその場から、というよりもデヴォンから離れようとすると、彼は何故か後ろから着いてきた。ツカツカと二つの足音が資料室に響く。


「いい加減色よい返事が聞きたいんだが。考えてくれたかい?」


 用具箱の前で私の足は止まった。それに合わせるようにデヴォンの足も止まる。

 バックヤードまで着いてくるなんてはた迷惑な客ではあるが、もうそれは今更な話。デヴォンは何を言ったって『俺が金を出しているんだから俺の好きにしていいはずだ』と突っぱねる。そんな常識は彼には通用しない。


「前回言ったはずですけど。何度聞かれても答えは同じです」


 その鳥頭に頑張って刻んでほしいものだよ。私の回答はどれだけ聞き返しても同じだって何度言ったら理解できるのか。


「そうつれない事を言わずに真剣に考えてくれよ。俺の愛人になるって事」


 どや顔で言ってるけどね、いくら口説かれようともお断りだっつーの。まじで、そっちも諦める事を真剣に考えてよね。


 この男、カルバート・カルシフォン・デヴォンは(一応石四つ持ってる)、資産家の御曹司だ。土地を貸し出して不労収入を得ながら暮らしている。それが随分と実入りがいいらしく、そのおかげで羽振りも大層いいのだとか。

 その象徴としていろんな所に愛人を何人も囲っていて、その群れの中に私を加えたいらしい。


 石なしを愛人にとか随分と酔狂だとは思ったが、どうやらこの世界には石なしと交わると超絶気持ちいいという迷信がある。デヴォンはそれ信じて私を愛人にしようとしているというそれこそ超絶馬鹿みたいな話。

 いやさ、正直な所考えたよ?

 この世界で辛酸を舐めているのは確かだし、床を這いずり回って生きるのも苦しいだろうって。愛人になれば取り敢えずの所衣食住は保障されるし生きるには楽なんだろうなぁって。

 でもそれだけなんだよね。多分、その生活は数年しか続かない。

 実際迷信はあくまで迷信で、やってみたら全然だったっていう結果もあり得るわけだし。その場合は私は間違いなくポイ捨てされるだろう。

 今はまだ19歳と若いけれど、数年経てばデヴォンも飽きるだろうしおばさんなんか抱きたくもないだろうし。

 そう現実的な事を考えると若いからといって、今の生活が苦しいからといって軽率な事は出来ない。だからこそ慎重になるべきだと、今がボロボロだからこそそう強く思う。

 単にデヴォンが好みじゃないし、ぶっちゃけナルシストは嫌いだっていうのもあるんだけど。


「お断りします」


 だから、何と言われようと私は断る。断固断る。

 そして態度で早く帰れと訴えかける。お呼びじゃねぇんだよ、と。


「どうして? ちゃんと食事もあげるよ。そのガリガリの身体じゃ抱き心地悪そうだし。綺麗に飾る事も赦すし、むしろ俺のために綺麗になってほしいんだけどなぁ。俺を身体以外でも楽しませてほしいし」


 だからさぁ。そういう所だよ、そういう所。

 この人の発言は、全部私の事を所有物扱いなんだよね。格下に見ているのがありありと分かる。


「実際楽しいと思うよ? 俺の女達は少なくとも今のハルよりは毎日笑って過ごしている。ただ俺のために美を磨いて綺麗に着飾って、俺が来たらその全てでもてなす。俺を楽しませてくれたらそれでいい。まぁ、途中で逃げたり他の男を家に連れ込むことはダメだけど、それ以外だったらいくらでも自由にしてていいんだ。いい子にしていたらご褒美もあげる。どう? 悪くないでしょ?」


 そんなどや顔で嬉しそうに言われてもね。

 『今の私よりは』とか本気で余計なお世話なんですけど。


 つまりはさ、四六時中デヴォンの事を考えて過ごせって事なんだよね、それって。デヴォンのためだけに自分磨きをして、デヴォンのためだけに自分の全てを捧げる。

 囲われる愛人ってそういうものなんだろうけど、そんな自由がないのやっぱり私には合わない。嫌っている相手なら尚の事だ。

 私はいいよ、この仕事で。最初は文句言ってたけど、案外性に合ってるみたいだからさ。


「もう一度言いますけど、お断りします。私ごときがデヴォン様のお側に侍るなど恐れ多いです」


 皮肉を込めてへりくだって言ってみるも、残念ながら彼にはこの手のものが通じない。この言葉が嫌味とも気付けない鈍感なデヴォンは額面通りの言葉の意味に捉えて、『そんな事ないさ』とまっとうな返事を返してきた。

 天然なのかな? とも思ったけど、多分自分以外に然程興味がないのだろう。

 チェルシーみたいに敵意剥き出しなのも腹が立つけれど、鈍いのもそれはそれで腹が立つ。


「お前が石なしだからって他の女と区別したりはしないさ。平等に皆を愛せる男だからね、俺は。でも、まぁお前の顔自体は余り好みじゃないからなぁ。もしかすると他の女よりも会う回数が少ないかもしれないけど、そこは我慢しておくれ。その分好きなものを買ってあげるから」


 いやいやいや。そういう問題じゃないでしょう。

 しかもデヴォンに好みじゃないとか言われるのは物凄く不本意なんですけども。何度も言うようだけど、パトロンとしても男としても心の底からお断りだっつーの。

 本当、自然体で腹が立つな、この男。

 人の話を聞かない所とか特に。


 少しイライラし始めた私はもう付き合っていられないとばかりにバックヤードから出て表の作業台の方へと向かおうとすると、それをデヴォンが止めた。あろうことか、後ろから私の腰に手を回してだ。

 面白いほどに身の毛がよだって、不快感が私を襲った。

 耳元で『ちょっと待ってよ』って囁く彼のねっとりとした声が、耳に張り付いたような気がしてさらに気持ち悪さが倍増する。


「いい加減観念しないか。――――それとも、力ずくじゃないと俺の言う事をきけないのかな?」


 背中に張り付くデヴォンがここに来て不穏な事を言い出す。

 今まで散々彼の誘いを断ってきたけれど、いつも鷹揚に構えて物騒な事を言う事はなかった。という事は、彼も彼なりにいい加減腹に据えかねた状態なのかもしれない。そろそろ我慢も限界だぞ、と。

 きっと彼が金と石の数にに物を言わせて私を愛人にするなどさして手間のかからない事なのかもしれない。

 一応名目上は政府の保護下にあるとされる私を個人がどうこう出来るのかは分からないけれど。多分、あのやる気のない私の世話役をしてくれた役人なら気にもかけないかもし、むしろ厄介払いとばかりに喜んで差し出す事も十分にあり得る。


 まずいなぁ……。

 今ここでデヴォンを怒らせるのは得策じゃない。力ずくで来られたら私は頼るべき人はいないし、私の力など微々たるものだ。とても敵うものではないだろう。


 さて、ここはどう事を荒立てずに断るべきか。

 少し身を捩り逃げ腰になりながら考える。


「――――デヴォン様、あの、離してくれますか?」

「いやだね。ハルが了承してくれるまで離さない」


 うわー……、強引。

 本当に力ずくで来るつもりだよ、この人。


「仕事が残っているんです。館長に見つかったら怒られるんです! 怒られるんですよ、私が!」


 昨日もあの人を怒らせて床掃除したばかりだからね! まじで大変だったんだからね! 実際昨日の後遺症で足腰が今も痛いんですよ! 貴方が掴んでいるその腰ですよ!


 デヴォンの勝手な言い分にイライラを募らせながら彼の腕の中で本格的に暴れる。

 冗談じゃない。無理矢理愛人にされた上に館長から折檻も食らうとかどんな拷問よ。


「大丈夫。そこは俺がちゃんと館長に言うからね。俺の愛人になったって知れば彼もハルをそうそう無下に扱ったりはしないさ」

「そんな事ないです! いいから早く離してよ!」


 いやぁ、あの館長は本当に陰湿だぞ。見えない所で事ある毎に私を抓るくらいに性悪爺だ。デヴォンの愛人になろうとも私が石なしである限り扱いは酷いに違いない。


 そのちっとも安心できないデヴォンの言葉に、必死になって離れようと手を突っ張る。

 悔しいけれどこっちがどれだけ頑張ろうともデヴォンとの距離は全く広がらない。もう、嫌になるこの状況。


 そんな私がもう少しでぶち切れそうな時、この張り詰めた怒りを一気に萎えさせるような声がここで聞こえてきた。


「あー! 何か二人でイチャイチャしてるー。もしかして私達ってお邪魔ですかね?」


 気持ち悪くなるほど甘ったるい。いつもだったら私には聞かせないようなその猫なで声は、受付で仕事をしているはずのチェルシーのものだった。

 普段なら歓迎はしないけれど、いいタイミングとばかりに私はその声の方に視線を向けた。


「どうしますか? このまま二人の邪魔をするのも申し訳ないんで、私達は一緒に外で待ってます?」


 けれども彼女は一人じゃなかった。

 もう一人客を引き連れていたのだ。


 まさか、昨日の今日でやってくるとは……。

 思わぬ客の到来で、私はデヴォンへの怒りなど一気に頭の中からすっ飛ばして二人の姿を見た。


 ――――何でここに居るんですかね、エリート様。


 驚きのあまり、目を丸くして固まってしまった。



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