4.ハルはやはり何かと忙しい
業時間内に終わらせた私は、閉館時間になって帰って行く双子たちの背中を見送り、用具箱からせっせと雑巾とバケツを取り出した。
水道に魔石をかざして水を出しバケツに汲む。薄汚れている雑巾を洗って絞り、バケツと共に展示室に運んで行った。
展示室は意外と広い。学校の体育館ほどの広さがある。
毎日こまめに私が掃除しているおかげかそんなに目立った汚れはないものの、それでも土足ではいる場所だから細かい所で目に付くものはある。
館長はこういうのに目敏いから、ある程度ピカピカにしておかないと無慈悲にやり直しを命じられるのだ。だから適当に拭いて終わるとかは出来ずにしっかりと磨く必要がある。
バケツを邪魔にならないように隅っこに置いて跪き、端から順に床を磨き始めた。
目の前で左右する自分の手を見て、随分とみすぼらしくなっている事に気が付く。
この異世界にやってきていろいろと苦労はしてきたし自分の身体が痩せ細っていっている事も自覚はしていたが、こんなに自分の指や手首はこんなに細かっただろうかと驚いてしまった。
爪はボロボロだし皮膚がカサついている。年に合わないくらいの皺も刻まれて、一年前の私とはまるで別人だ。ネイルをしたりハンドクリームを塗ったりとかも出来ていない。
自分の惨めさに唇を噛んだ。
「居残り? また館長の怒られたの?」
カツンとヒールの音が響いて、少し甘みのある声が聞こえてくる。
その声はいつもはもっと甘みがあるはずだけれども、私の前では違う。剣を帯びていて少し低い。
展示室の入り口に立つ彼女、チェルシー・サレィビアは床に這いつくばる私を見て愉快そうに笑った。
「あんたも毎度毎度馬鹿よねぇ。何したか知らないけれどすぐ館長を怒らせるんだもの。学習しない」
『学習しない』って、結構館長も理不尽な所あると思うんだけど。え? こんな事で怒られるの? って事で酷い目に遭う時もある。多分あれは私を使ってストレスを発散していると思われる。
けれども、このチェルシーにはそういう不都合な部分が見えないらしく、館長に怒られるのはいつも私が悪い事になるらしい。私が馬鹿で愚図だから館長を怒らせるのだと。
彼女はこの資料館の受付嬢で、私にとっては天敵だ。彼女も彼女で私を目の敵にしている節も見受けられるしまず間違いないだろう。多分、元の世界にいても仲良くはなれなかっただろうなぁ。
彼女はいわゆる『女の敵』の典型的。親のコネでこの仕事に就き、『エリートと結婚することが最終的な目標でぇす』とか言ってはばからない腰掛タイプの彼女は、こっちが床に這いつくばって掃除していてもそれをせせら笑って自分はサボるような女。実際にそういう事は幾度となくされてきたし、今もそのつもりで来たのだろう。私のこの姿を笑い、そして邪魔をするために。
「あ、ほらぁ、ここまだ汚れちゃってるんですけど」
そう言って足元をちらりと見た彼女は、こともあろうに近くにあったバケツを蹴った。中の汚水が勢いよく床に零れて広がる。
「床、濡らしておいたからしっかり磨きなよ。汚れが残ってるとか職務怠慢なんだから」
クスクスと馬鹿にするように笑う。
けれどもここで激高するほど馬鹿な私ではない。こういう手合いは淡々とした態度で接するのが一番であると知っているし、それにもう今の私には怒る気力さえ残ってはいなかった。ただ、音を立てて転がるバケツを眺める。その視界にある彼女の足も。
綺麗なヒール。赤くてエナメル質のピンヒール。しかも新品っぽい。
あぁ、いいなぁ。私なんて、いまだにこの世界にやってきた時に履いていたローファーを使っているっていうのに。もう踵部分が削れて穴が開く寸前のボロボロのやつ。
今は床を汚された事より、そっちの方が無性に悔しい。
「ぼさっとしてないで早く拭きなよ!」
彼女の所業に何も反応を返さずにヒールだけをじぃっと凝視している私に痺れを切らしたらしい。ヒールの踵を蹴り上げるように大きく鳴り響かせる。あぁ、せっかくのヒールが傷ついたらどうするんだ。もったいない。
「拭くからさ、そこどいてよ。邪魔しに来ただけなら本当に邪魔だから帰ってほしいんだけど」
面倒な客はお断り。その基本姿勢は変わりはしない。仕事は嫌というほど残っている。いちいち相手するのも面倒だ。
そう口と表情で示してあげると、チェルシーはその綺麗な顔を歪めて、赤い口紅を引いた口元を真一文字に引き結んだ。
「あんたって本当に生意気。石なしのくせに」
「石なしと私が生意気な事って関係ある?」
「うるさいなぁ。石なしは石なしらしくへこへこしてればいいの」
自分だって石三つしかないくせに、何を偉そうに。昼間、石七つの大物を見たからか何故か彼女がちっぽけに見える。
しかし何か機嫌悪いなぁ、チェルシー。
いつも面倒な女であることは変わりないんだけど、今日は嘲笑って済ますところをムキになって言い返してくる。虫の居所が悪いからって八つ当たり。本気で迷惑。グチグチと私への文句を上げ連ねているし。
「何よ! 石なしのくせにあんないい男と知り合いとか! 信じられないんだけど!」
かと思ったら、どうやら彼女の機嫌の悪さは私に原因があるらしい。『あんないい男』というキーワードを聞いて、ようやく心当たりに行き当たった。
この女、『夫にするならば石5つ以上!』を信念に絶賛婚活中だった。
そんな彼女からすればグレイさんは上物も上物、最上級の優良物件。涎を垂らしてとびかかるほどの男だろう。出来れば、お知り合いになりたいし、二人で将来の話でもしたいところだ。
けど、そんな上物が訪ねてきたのは石なしの私。チェルシーにとって業腹以外何物でもない。
「別に知り合いとかじゃないんだけど」
「じゃあ何であんたなんかを訪ねてきたわけ?」
「あんたに話すようなことじゃないから」
「はぁ?! 意味わかんない! 二人だけの秘密って事?! 馬鹿じゃないの?! 本気で意味わかんない!!」
「二人の秘密とかそんなんでもないんだけど……」
別に二人っきりで会ったわけでもないし、それに私が秘密にしたわけでもない。館長が今日の事は口外しないようにと言ってきたから言わないだけだ。多分、石なしがエリート様の頼みを素気無く断ったなど外聞が悪すぎて、外に漏らしたくはないのだろう。私もこれ以上面倒な事になるのは嫌なのでそれに関しては賛成だ。こんな風にトラブルになりかねない。
「それにあの人達もう来ないと思うよ」
「何でよ! 来てくれなきゃ私が会えないじゃん! 役立たず!」
「何それ。本当、あんたの言ってる事、いろいろ理不尽過ぎて逆に笑えるんだけど」
私に会いに来るって言えば生意気だと鼻息を荒くし、会いに来ないと言えば役立たずと罵る。どうしろっていうんだ。もう自分で探して会いに行けばいいじゃん。
呆れてこれ以上何も言えないし、何より相手をするのがだんだんと面倒になってきたので、私は理不尽にぷりぷりと怒っているチェルシーを尻目にまた床掃除を再開し始めた。いつまでも油を売っていたら家に帰れなくなっちゃう。
「今日のあの石七つの人って『神のいとし子』って言われてる人でしょ?」
「へぇー……、そうなんだ」
「この国で石七つなのは『神のいとし子』しかいないはずだからきっとそう!」
さすが、石狩りハンター。ちゃんと石の多い優良物件の情報はインプット済みですか。
「名前は? 名前はなんて言ってた?」
「グレイさん」
「ファーストネーム?」
「違う。 そっちは長くて忘れた。なんとかかんとかって」
「役立たず!」
いいじゃん。別に名字だけ覚えていただけでも大したもんでしょうよ。名前が長ったらしかったんだよ。
けど、その情報を得てある程度満足したのか、チェルシーは帰って行った。もちろん最後に置き土産とばかりに『馬鹿!』と罵っていってくださっていたけれども。
毎度毎度の事だけど、嵐のような女だ。言いたい事だけ言ってすっきりしたら帰って行く。付き合わされるこっちは堪ったものではないけれど。
まぁ、これで床掃除に専念できるというものだ。
幸いな事にこのフロアにポルモーポルの気配もないので、私を邪魔する奴は誰もいない。この分だと夜中前には家には帰れるかな。
でもそうなると夜ご飯は抜きになる。
家にはまともな食料が残ってはいなかったから、今日の帰りにイゼールの店に行って調達しようと思っていた。帰る頃には店はやってはいないだろう。
あ、でも、ドライフルーツだけはあったかな。今朝、一週間分あるなって確認したばかりだからそれは覚えている。でも、そうなると一週間分持たない計算になる。どうするかな……。
そんな事を悶々と考えながら、手はせっせと床を磨く。
食べ物の事を考えていたせいでお腹が盛大に鳴ったけれど、グッとお腹に力を入れて耐えた。
一食抜くくらい、大したことではない。もっと食べられなかった時もあったし、明日にはイゼールの店に行けば新たに食料を得ることが出来る。それまでは我慢だ、我慢。
それにしても腹立つなぁ。
今日私が残業になったのって、どう考えてもあのエリート様たちのせいじゃん。
まったく、碌な事が起きないからチェルシーには悪いけど二度と私の目の前に現れないでほしい。
どうぞ、この世界を救うならご勝手に。私を巻き込まないでね。
私は私で自分を救うので手一杯なので。
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