彼岸の夜に咲いた


 現世に四季があるように、三途の川野にも四季がある。

 それでも、シーズンでもないのに彼岸花は一年中咲いている。彼岸花畑を目指して、俺は三途の川を『お客様』と共に船で渡っていた。

「船頭さんは、サンタクロースを信じた事があります?」

「はあ、サンタクロース……」

『お客様』の話の途中、そんな話題を振られた。現世と冥界では、季節が少しずつずれているので、まだそんな季節では無いと思うが、まあ所詮は、死人の話だ。突拍子もない話題も少なくない。

「子供の頃の事なんて全然覚えてない。でも馬鹿な子供だったから、信じてたんじゃないかな」

「けっこう、純粋な子供だったんですね」

「なんだ、信用ならないか」

「そりゃ、船頭さん。あなた僕が言うのも難だけど、ずいぶん瞳が濁ってるからね」

 言われて、返す言葉も無かった。その通り。三途の川の船頭は、死人の私情に首を突っ込んではならない。ここはあくまでも、天国か地獄かの通過点でしか無い。

 公平、平等。だからサンタクロースが居ると目を輝かせてもいけないし、実はコッソリ親が用意していたものだったと落胆して涙を流してもいけない。

「心はあるかも知れないけどな。感情、っていうものは無いと思う」

「大変なお仕事ですねえ」

 仕事なんて別に誰がやっても一緒だ。ただ、記憶の始まりに、この船と一緒に居た。突然現れたお偉いさんと、天国と地獄の友達に言われて――この仕事に就いた。ただそれだけの事だ。仕事に矜持や誇りがある訳ではない。あるとすれば、船への感謝と少しの疑問だろうか。

「で、何だいきなり」

 少なくとも、『お客様』がサンタクロースにプレゼントをもらうような年齢でない事は分かる。

「死後の世界に季節があるのも驚いたけど」

 言って、船の船首にぶら下がっている灯りを指示した。

「まさか、こんな和風な空間にクリスマスがあるとは思ってなくて」

 灯りには確かに、クリスマスのリースがちょこんと付いている。冬になって、初めて気付いて貰えた事に少し笑みがもれてしまった。

「彼岸は過去じゃない。確かに天国と地獄は時間の概念が無いけど、ここは時間が曖昧なだけで四季もあるし、街もある。外国の文化も、食べ物の流行りもあるぞ」

 自称、オシャレ女子とか抜かしてる天国の使いによると、今年のクリスマスケーキはフルーツ系が売れているんだと。別に甘い物に興味は無いし、確かに、あの女料理の腕は立つから良い肴と酒さえあればば充分だ。

 地獄の悪魔と飲み比べ勝負なんて二度としたくないけれど。

「死んでるのに、人間らしいですね」

「まあ、そこそこ楽しませて貰ってる」

「いいなあ。僕ね、おこがましいかも知れないけど、ロクな人生じゃなかったんだ。これからの生活が楽しみだよ」

「そうか。楽しんでくれ」

 向こう岸で、『お客様』の行く末を見守る。

 残念ながら彼は地獄行きで、地に足を付けた瞬間彼岸花が枯れて地獄の入り口に飲まれて消えた。時間が巻き戻るように、花は元の色を取り戻していく。

 弔いの花、死人への旅立ちの花と呼ばれるこの赤い花は、一番最初に覚えたものだった。曖昧な記憶と心の中で、船頭として過ごすなかで道しるべになってくれた花だった。

 そうして、思い出す。いつの冬だったかは忘れたけど、この花がよく似合う子の生き様を。まあ、三途の住民だから、死んでいるのだけど。


 俺が三途の川の船頭になりたての頃は、ほとんどが夜勤だった。

 夜は、月が出ることは滅多に無い。星の光なんて尚更だ。真っ暗な川を、船首に付いた灯りひとつで運ぶ。『お客様』の顔なんて見えやしないし、「目を遭わせるな」とも、お偉いさんから注意されていた。

「仕事です」

 夜の『お客様』は、必ず『迎え衆』という役職の兵が付く。身なりこそ地獄の連中に近いものがあるが、船頭と一緒で三途の死人で構成されている。俺の『迎え衆』は、珍しく女だった。

「了解」

 いばらで両手を拘束され、黒いボロ布を頭巾のように被せられた『お客様』の顔は見えないが、歯を立てているのか時折ガチガチと聞こえてきた。今でこそ平和的な仕事だけど、当時は物々しい仕事だった。いくら兵が付いているといえ、拘束され抵抗して来ないとはいえ。少しでも気を抜けば、喉元を喰い殺されてしまいそうだったから。

「怖いですか?」

「いいや」

「船が、ふらついていますけど」

「運転に不慣れなんだ」

 迎え衆の女に訊ねられて、言葉を返すのが精一杯だった。見えているのは頼りない光が照らす手前だけ。向こう岸にたどり着くのに、後は風の向きと水の音だけが頼りなのだ。

「もしかして、殺されると思っているの」

「かも、知れない」

 そう考えれば、あの頃のほうが今より感情があったかも知れない。お偉いさんの説教が嫌だったから仕事を早く覚えようと思っていたのもあるけど、この重圧感から解放されたかった一心もあったんだろう。

「大丈夫。私もあなたも、三途の人間だから」

 自分の背後で、獣のように低く唸る『お客様』を迎え衆の女は示した。船の上にまで灯りが届いていないせいで、夜に慣れた目では輪郭しか掴めなかった。微かに、血のにおいがした。

「死なないからか」

「もうずいぶん前に死んでるでしょ」

「確かに」

「死んだ時の事とか、どうして三途に住まうようになったのか、分からないでしょ」

「……分からない」

「でしょ。分からない事を考えても、余計な不安が出てくるだけ。技術が鈍るよ」

「そうか」

 少しだけ交わした女との会話で身体の緊張がほぐれたのか、その日は調子が良くなって予定より早めに向こう岸に着いた。ここから先は自分に仕事は無い。強いて言うなら、迎え衆の女と『お客様』を最後まで見送る事だろうか。

「それじゃあ、頑張って」

 迎え衆の女がねぎらいの言葉を掛けてくれた、その時だった。ちらり、と『お客様』がこちらに首を向けて、気まぐれに吹いた風が、頭のボロ布をさらっていった。


 目が、遭ってしまったのだ。


 月のない夜にギラリと映える、金色の瞳に真ん丸く底の見えない黒の瞳孔。

 夜に慣れてしまったせいで、口から覗く赤茶色の牙がガチガチ、ガチガチ鳴っているのも分かってしまった。口が開く度に、血の臭いが漂ってくる。そのせいもあって、牙が誰かの、何かの血で染まっているのも分かってしまった。

 同じように、鋭い岩石のような血の塊が全身にこびり付いている。ぼろい服の隙間から見える素肌に、そこかしこが破れている草鞋に。

船と一緒に居た事しか、船頭の仕事だけをすればいいだけの事しか分からないはずの記憶が警鐘を鳴らした。お偉いさんの言葉を、初めて信じた瞬間だった。

 思い出すな。理解をするな。目を遭わせるな。

「あ」

 情けない声が、吐息のようにもれた。久方振りに感情が戻って来た。

 恐怖で張り付いた喉の代わりに、船底が悲鳴のように軋んだ。

『お客様』が声にならない唸りを挙げると、拘束していたはずの棘を貫くように赤茶色の塊が貫通した。一つ、またひとつ。流れたばかりの赤い血が、棘に染みてくる。ぼたぼたと地面に水たまりを作った。拘束が外れ、自由を取り戻した『お客様』が船を揺らした。

 咄嗟に手にしていた櫂を構えようとしても、錨のように沈んで動かない。運よく、血の塊で不自然に伸びた爪は自分に届く事は無かったが、船首の灯りを壊され、唯一の光は底の見えない川へ落ちていった。


 光を失った世界にある、二つの目に睨まれて息も出来なかった。

 もう死ぬはずは無いのに、その恐怖に駆られた。足掻きに走った。何度も櫂を振りかざそうと強く握った。夜の中で、船が感情の重みで沈んでいくのではないかという妄想に苛まれた。余計な恐怖心を振り解こうと目を瞑る。研ぎ澄まされた聴覚が『お客様』の唸りを掴む。近付いてくる。運良く外れたいびつな爪が、今度こそ自分を引き裂きにくる。恐怖心の先にあるのは、死んでいるのに殺されるという可笑しな真実だった。

 ふと、視界の隅に光が届いた。

 目を瞑っているのに、分かる赤い光。けれどもそれは、小さな点がぼんやりと浮かんでいるだけの頼りないものだった。明らかな変化に恐るおそる目を開けてみる。

 

 一寸先の見えない夜が世界を覆っているのに、そこに点々と存在する赤い光。一つひとつは仄かで小さいのに、風に吹かれる度に、皆一斉にさざめいた。

 それは花だった。赤い彼岸花が、仄明るく光って照らしている。

 夜の中を蠢くのは、『お客様』だったはずの、亡者だった。地獄の境界線を破り、現世に這い出ていこうとした者。それこそ、冥界の番人たる『迎え衆』が戒める罪人だ。

 俺に向かって来ようとしているはずの亡者の足下に、彼岸花と同じ色の鬼火が渦巻いている。いびつになった爪は空を裂き、牙を鳴らして呻いていた。

 相対しているのは、墨染め色の着物を朱色の紐帯で締めた迎え衆の女。暗闇の中にいるのに、存在が、はっきりと見えた。赤いリボンで結った髪を揺らして、亡者に赤い鬼火を振りまいては踊っている。

 目の前の幻想に、ただ、ひとりの観客のように。ちっぽけな船頭は、見惚れるしか無かったのだ。


 女が纏っていた鬼火が帯に変化して、亡者を雁字がらめに捕縛した。はじめ、両手を拘束していた棘に変化すると、地獄の入り口が開く。

「終止符を打ちなさい」

 地獄の入り口へ、亡者は引き摺り込まれていく。いびつな爪を地面に突き立てて、何とか留まろうと叫びを上げている。金色の瞳が俺と迎え衆の女――三途の人間を捉えているのが分かった。

「そうだよね。終わりに出来ないから、這い出てきたんだよね」

 女はため息を吐くと、自分の懐から銀色に鈍く光る拳銃を取り出して、躊躇いもなく一発、亡者の喉を撃ち抜いた。

「私が打つよ」

 喉を破壊された衝撃も相まって、亡者は言葉もなく、地獄へと消えていった。亡者の足下で遊んでいた鬼火は、いつの間にか帯に変化して、名残惜しそうに散らばっていた。


「無事?」

 目の前の幻想が終わっても、彼岸花は夜を照らしていた。迎え衆の女の心配そうな表情が良く見えた。

「何とか」

「良かった。亡者に襲われるのは初めてだったみたいだね」

 迎え衆のほとんどは男だ。この女も例に漏れず、迎え衆の制服を着ているらしく、墨染めの着物はその上から着付けていた。地面にあぐらをかいて、船上の俺と向かい合う。

「三途の人間は、公平で平等が鉄則でしょ。生きている人間に一番近い存在なのに、一番人間らしくない。死んだように生きてるフリをする。それが亡者にとっては、恨めしくて、堪らないのよ」

「成る程。喰い殺されるかと思ったのは、そのせいか」

「馬鹿だなあ、死なないよ」

「じゃああのまま、俺はお前が居なかったらどうなってたんだ?」

 女はううん、と顎に手をついて考える。

「多分亡者になってたんじゃない? 死なないクセに死にたくないから、現世に這い出ようとして」

 末恐ろしい話だ。思わず心臓があった部分に手を当ててしまった。そんな俺を、女は楽しそうに笑った。

「面白いよね。冥界も、現世も分からない事だらけなのに、たった一つ、分かっている事が確実にある」

「私たち『迎え衆』の主命は、終わりに導く事。やり切れなかった命にエンドマークを打つ事。でも亡者達は、地獄での日々が続くのよ。終わりって何なんだろうね」

 分からないね。そうやって言う女の指先からふわりと小さな帯が赤い光を放ちながら、夜に消えた。ふ、と、船首に目線が移ったらしく、ああ、と慌ただしくなった。

「そういえば壊しちゃった、ごめんね。代わりの頼んでおくよ」

「悪い」

「いいやとんでもない。元々は私の落ち度でもあるんだし……」

 腰の巾着から取り出した帳簿に手早く何かを書き込んでいく。

「ねえ」

 途中、女が声を掛けてきた。

「名前、何て言うの?」

 何とも返しにくいものを聞かれて、答えに迷った。あの頃は今に比べて鈍い奴だったから、相当考え込んでしまった記憶がある。

「一応、船の船頭だし。船頭とでも呼べば」

「オッケー。船頭。今日はお疲れさま。これも何かの縁だし、仲良くしよう」

「そうか。分かった」

「カタいなあ」

「で、俺はお前の事何て呼べばいい」

「私は『迎え衆』がひとり、ルイキリ。ルイは涙って意味。キリは、断ち切るとか、そんなところ。別れの涙を断ち切る者って意味」

「そこまでは聞いてないんだけど」

「兄貴に似て出しゃばりなの。ごめんね。ルイでもキリでも何とでも。ああでも他の『迎え衆』にもキリって居るからなあ」

「じゃあルイキリ」

「はい!」

 ルイキリの手元で折り鶴が完成して、ふわりと空へ消えた。見上げた先の空は、もう白く明らんでいて、冴えない朝日が少しだけ、射していた。夜明けだった。

「また今晩ね。来れるかどうか、分かんないけど」

 言って、ルイキリも俺に背を向けて朝もやに姿を消した。彼岸花の仄かな光も収まって、ルイキリの残していった帯は、赤い彼岸花に姿を変えていた。


 現世でも冥界でも、分からない事は山ほどある。しかし分かっている事も多くある。その中でも、ひとつ、どんなに曖昧に生きていたとしても、しっかりと刻まれているものがあった。

「いらっしゃい、『お客様』。向こう岸まで、渡っていくか」


 命にしても、旅にしても。いつか「終わり」がある事。俺の船旅にも、必ず終わりがある。例え俺が三途の川の航路を間違えて散々さ迷ったとしても、終わりにあるのは、あの夜に見た花だ。ルイキリが示してくれた花の美しさを忘れない限り、心が永遠という迷いに閉ざされる事は、無いだろう。

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