デッドマンウォーキング

 文字通り身も心も融けてしまいそうな炎天の中、身体を引きずるように歩いていた。最後に覚えているのは、彼女が必死に涙を堪えこっちを見て、

「さようなら」

 と言った事。何に対してのさようならなのか、それが本当にさようならなのか、彼女が本当に言いたかった事なのか。今では分からない。

 ただ、その記憶が映画の番宣のように脳裏で繰り返し流れている。

 自分が一体、どこを歩いていて、何時間、あるいは何日歩き続けていているのか。そしてどうしてこうなったのかも今は考えられなかった。


「熱い」

 まるで全身を業火で焼かれているような、と言いたいが、まず業火で焼かれた経験がないのでちょっと安っぽい表現になるが、石油ストーブに磔にされている気分だ。

 ボロいアパートに住んでいた頃、今とは真逆、真冬の寒さで震えていたら大家さんが情けで古い石油ストーブを置いていってくれたのだ。

 そうだ。あの頃は幸せだった。


 今にも壊れそうな古くて狭いアパートなのに、彼女はよく遊びに来てくれた。近くに川が流れていて、春になると桜が綺麗だった。別に名所でも何でもない。でも、春が来るたびに彼女と川辺を散歩した。飽きるまで話をした。

「桜の木の下には、死体が埋まっているんだって」

「有名なヤツね」

「わたし、どんな人が埋められてるのか、考えた事があるの」

「へえ。不思議な事考えるな」

「きっと、冬に死んだ人だと思うんだ」

 さあっ、と、彼女の髪と桜を風が撫でる。

「冬に?」

「そう。冬を越えられなくて、その先にある桜を見たくて、でも時間が残されていなかった人。だから自然に還る事にした人」

「なんだかロマンチックだな。死体になって埋まってるなら、みんな骸骨だと思ってた」

「夢がないなあ」

「夢も未来もない男に構う暇があれば他所に行ったらどうだ」

「やだー」

 自由奔放な子だった。悪ふざけで上流のほうまで行き『心中ごっこ』をした時、必死になって止めた事もある。

 彼女が死のうが死ぬまいが、気には留めなかったけど、あのまま、知らない所へ行ってしまうのが怖かった。

 知らない場所で、知らない世界で、赤の他人と。

 それらと関わっている彼女を見るのが嫌だった。

「いくなよ」

「あはは、やーいチキン」

 笑いながら岸辺に戻ってきたとき、堪らず抱きしめた。彼女の顔を、怖くて見れなかったけれど細くて折れてしまいそうな腕で抱き返してくれたのだけは、わかった。

「他所に行けなんて言うのに、離さないんだね。意地悪」

「意地悪で、いいよ」

 白いロングスカートがびしょびしょで、春なのに石油ストーブで乾かした。   

 石油ストーブのついた春の狭いアパートは、地獄のように熱かった。


 ああ、そうだ。

 今の熱さは、あのときに似ている。


 久方ぶりにまともな思考が戻ってきて、ふと顔を上げる。

 辿り着いたのは殺風景な川野で、かたちこそアパートの近くにあった河川敷に似ていたが、鉄橋も無ければ桜も無かった。ただ、灰色の景色が広がっていて、ゆるやかな川が流れているだけだった。

 あのときは川の遠くに街が見えたが、今は遠くに赤い花畑が見える。あの花は何て名前なのだろう。

「リコリス・ラジアータ。日本語だと彼岸花」

 親切な誰かが教えてくれた。

 見上げた先に、一匹の悪魔が笑っていた。お前が言うには、少し綺麗じゃないかと言いたかったが、他に誰も居ない。親切なのは悪魔だった。

「オウ、お前さんよ。よく地獄から這い上がってここまで来たな」

 何の事だ。言葉にしようとして、ならなかった呻き声を上げる。

「オレはぁよ、地獄から逃げたお前さんを追い掛けて連れ戻そうとしたんだけどヨ。どうして、ここまで逃げられたお前さんが面白くてな」

 先程まで歩いていたのは、地獄だったのか。

 つまり、俺は。

「ナアよ。オレとちょいと手を組まねえか。そうしたらたぶん、その冴えない顔も少しは良くなると思うナ」

 そんなに非道い顔をしているのか。潰れた喉では言葉にならなかったが、悪魔は楽しそうに笑って頷いた。

「ジャ、訊くぜ。亡者」


「お前さんよ、どうしたい?」


 ――俺は悪魔の問いを最後に、目前の川へ倒れるようにして飛び込んだ。

 少しぬるいような気がするけれど、水の独特な感触は、どんなものよりも気持ち良かった。

 死んでしまってもいいと思えた。もう、死んでるけど。


 現世に四季があるように、三途の川野にも四季はある。

 今ちょうど、洒落でもないけど、彼岸花のシーズンだった。

 きっと現世なら、桜のシーズンだろう。

 無邪気な笑顔で心中する彼女の背中を幻想して、向こうに目線を移すと、白装束の『お客様』が待っていた。


 仕事だ。

 俺は船に乗ったまま、『お客様』に声を掛けた。






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