第6話

 街の片隅にある、瓦斯灯ガスとうとの取り合わせがいかにもハイカラな赤煉瓦造りのその店は、守永家の庭番、須賀の甥っ子夫婦が経営するカフェだった。倶楽部は毎週、この店の奥で密かに開かれている。

 店に入ると珈琲の良い香りが哲子を包んだ。

 カウンターの向こうにいた店主と夫人が微笑み、いつものように、いらっしゃいと声を出さずに言った。哲子は深くお辞儀をした。本来、学生だけでカフェを利用するなど褒められたものではない。こっそり場所を提供してくれている夫婦には頭が上がらない。

 背の高い観葉植物の後ろ、籐衝立とうついたての裏に四人掛けのテーブル席が隠れている。ステンドグラスが彩り豊かな光を落とすその席の一つには、やはりいつものように、緩く波打つ金髪を紫のリボンで括った碧眼の海老茶式部えびちゃしきぶが座っていた。

 哲子に気付いたシャルロッテが本から顔を上げた。先に来たはずの千世子が入っているのだろう、ちらりと手洗いのドアに青い視線を走らせ、片目を細くして微笑んだ。

「喧嘩でもしたの?」

「ちょっとね」

Mon Dieuあらまあ

 シャルロッテ・ラブーシュ・ド・ラモンは、外交官を務めるフランス人の父とドイツ人の母を持つ、同性の哲子から見てもたいへん美しい娘だ。学年は一つ上だが、親同士に共通の知人がいた関係で千世子と知り合い、今は哲子もこうして頻繁に顔を合わせる仲となった。

 この倶楽部のことを、哲子たちは単に『読書会』と呼んでいる。主宰のシャルロッテが次から次へと持ってくる雑誌や書籍を皆で回し読みし、感想を語り合うというだけの集まりである。

 多言語話者ポリグロットであり、自他共に認める愛書家ビブリオフィリアであるシャルロッテは、洋の東西も書の分類も問わず、本なら何でも手に入れて片っ端から読んでしまう。この頃は特に日本人の性愛に関する論考を好むらしい。

 これまでに哲子たちが読んだ本――、『青鞜』や『ホトトギス』、『婦人公論』といった雑誌類も、今日は欠席の久里子を蝸牛かたつむりの交尾の挿絵で大いに赤面させた『恋愛革命』も、いずれもシャルロッテの蔵書だった。

 荒々しく戸の閉まる音がした。千世子だった。

 床を踏み抜きそうな勢いで手洗いから戻って来たかと思うと、彼女は物も言わずに哲子を抱きしめた。当惑しきりの哲子が話しかける前に、千世子はやはり無言で身を翻し、何やら開き直った様子で椅子に腰掛けた。目元が少し赤かった。

「ええそう。はいはい。認めます。認めますとも。私、守永千世子は確かに冷静じゃありませんでした。ロッテから借りたこれを読んでました!」

 言いつつ自分の手提げから取り出した本を、千世子は押し付けるようにシャルロッテに渡した。

 表紙には、乱れる髪の渦の中、恍惚とも苦悶ともつかない表情を浮かべた女の横顔。それを囲ったハートの意匠を斜めに貫く赤い矢と、そのやじりから吹き出た三輪の花。滴る血のような題字。ああやっぱり、と哲子は思った。与謝野晶子の『みだれ髪』だった。

 英明なシャルロッテには、それだけでもう大方のことが飲み込めてしまったらしい。Que tu es mignonne.かわいいんだからと皮肉っぽく笑った。

「アキコに感化されてたっていうわけね。日本の恋する乙女は大変ね」

 影響も受けようというものだった。与謝野晶子は、哲子が思うに、自分で決めた男性を一途に愛するということの実践者だ。世間の目など気にもせずに。彼女が詠んだ歌の一つひとつにその強くしなやかな意志がはっきりと表われている。もちろん、哲子には不倫をとする考えなどまったくないのだけれども。

「笑い事じゃないの」

 千世子の顔はいつになく真剣だった。

「私、したくもない見合いを強いられるかもしれないの。自分で見つけた恋に走りたくなって当然でしょう」

 憤然とそう言い放った。哲子は耳を疑った。思わず側に寄って膝立ちになり、袖を掴んで揺さぶった。

「本当なの? お見合い? いつ誰と?」

「それほど先じゃないと思う。関連会社の社長の息子さんと。父様と母様が話しているのを偶然聞いたの」

「おじさま、私にはそんなこと一言も……」

「いくら哲ちゃんにだって言うわけないない。私にも言わないんだから。お見合いは家同士のことだから本人の意志なんかどうでもいい、なんて考えてるのよきっと。父様は私の気持ちを汲もうなんて少しも思ってないの」

 やっぱり絶対に負けられない、と千世子は噛み締めた歯の隙間から言った。

「自分の気持ちに真っ直ぐ生きなきゃ。私、お見合いなんてしない。『緒恋来しょこら』を渡して晴馬さんと結ばれてみせる。哲ちゃんも、十四日は私や母様のことは気にしないで勝手にやっちゃって良いんだからね?」

「冗談言わないで」

「冗談でこんなこと言わない。あんなだけど、好きなんでしょう? うちの父様のこと」

「千世子!」

 耳まで赤くなった哲子の慌てように、シャルロッテが軽薄な口笛を吹いた。  了

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哲子の緒恋来(しょこら) 夕辺歩 @ayumu_yube

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