第4話

「だから今朝は二人ともあんなギリギリの登校だったわけか。けしからんな」

 音を立てて箸を置いたのは級長を務める江崎久里子えざきくりこだ。白い指先で眼鏡のつるに触れた。

 品行方正がしま銘仙めいせんを着ているような彼女は、意中の男性と行き逢ったせいで動悸が乱れて遅刻しかけた、などという話に純愛の香りなど欠片も感じないらしい。たとえそこに喘息の発作が絡んでいようと容赦しない。

たるんでる。嘆かわしい。いつも言うけれど、千世子はもっと心身を律した方が良い。淑女然しゅくじょぜんとした振る舞いを心がけて」

「心がけてますう。久里ちゃんこそ、その話し方は少しも女の子っぽくないから止した方が良いと思いますう」

「私のこれは別にいいんだ。級長としての自覚がなさしめるところさ。統率し、牽引する役目を負う身だからね」

 そうした職責を果たすためにはいくらか男性的な方が望ましいという、陸軍の偉いさんを父に持つ久里子なりの考えだ。

 ほわほわおっとりの千世子ときびきびきっちりの久里子は、これでいて哲子がいてしまうほど馬が合う。

 三人は教室ではいつも一緒。昼食の時間も、こうして机を合わせて共に過ごすのが常だった。

 そういえばその彼、と久里子が腕組みをした。

「カツカレーさんは確か、医学の道を志しているとか」

「カミツレさん。久里子、ほら、千世子がにらんでる」

「さっさと大成して、喘息を治す薬でも造ってもらいたいものだな」

「いいんですう。お薬ならもう教えて頂いたんだから。すごく効くんだから」

 などと言いつつ、千世子は寒暖壜かんだんびんに持参したカミツレ――、カモミールティーを口に運ぶ。確かに、と哲子は思う。千世子の喉と心にはこれが何よりの薬かもしれない。

 明寺晴馬との最初の出会いは昨年の八月だった。浴衣を着て夏祭りに出かけた哲子と千世子は、日頃から気がけて距離を置いている蒸気機関車の線路にうっかり近付いてしまった。はしゃぎ過ぎて失念していたのだ。

 気付いたときには遅かった。背を向けて逃げた二人の後ろを機関車は轟音と共に駆け抜けた。煙を直に浴びることこそなかったが、すぐに千世子が発作を起こした。道端にしゃがみ込んだ彼女たちの前に、そのとき現れたのが晴馬だった。

 二人の側に片膝を突いた晴馬は提げていた荷物の中から寒暖壜を取り出し、中身を上蓋に注いで千世子に差し出した。ゆっくりお飲み、と言った。まるで歳の離れた妹に接するようだった。

 彼が千世子にかけてくれた優しい言葉を、その柔らかな物腰まで、哲子は今でもはっきりと覚えている。

『ゆっくりお飲み。カミツレ。喉が落ち着くよ』

 カミツレ? と小首を傾げた哲子の方を向いて、晴馬は頷いた。照れ臭そうに笑った。

『カモミールティーというのかな。僕は喘息持ちで、小さい頃から咳が酷くてね。今も毎日、こうして祖母が持たせてくれる』

 礼を言って別れた後も、千世子はしばらくその場に座り込んで動かなかった。哲子が呼んでも揺すっても呆けたままでいた。頬を染めた彼女の目に、去って行く晴馬と彼を取り巻く景色はどのように映ったか。赤に黄に艶やかな寄裂模様よせぎれもよう、輝く金泥きんでいの雲、花の海。何であれ眩しいばかりに見えただろうことは想像にかたくない。

 守永邸で家政婦の佐藤に尋ねたところ、薬とは言えないまでも、ある種のハーブティーが喉に良いのは本当とのことだった。青年の風貌を伝えてみると、ああ明寺さんとこの晴馬さん、と彼女は即答した。やっぱりね、とまで言った。地元の名士の長男坊で、医学の道を志す、誰に聞いても評判の良い立派な若者だという。案に違わず妹もいた。

 千世子は晴馬に恋をした。通学路で擦れ違い、挨拶を交わすたび軽い発作を起こしてしまうほど熱烈な恋を。哲子にも気持ちはよく分かる。メルヘン過多なあの巡り会いに運命を感じなかったはずはない。おまけに時期が時期だった。哲子はそのことを苦々しく思い出す。彼女自身からの又貸しで、千世子は『』を読んだ後だったのだ。

「ところで哲子」

 ふいに久里子に呼びかけられて、哲子は我に返った。

「何? 卵焼き?」

「いらないよ。そうじゃない。私に言うべきことがあるんじゃないか?」

 さっぱり分からない。哲子は首を傾げた。

 久里子が眉間に皺を寄せた。いかにも腹に据えかねているという様子だ。

「流行りの『バレンタインデー』のことだよ。仕掛け人は君だと聞いたぞ」

「誰から聞いたの? まさか」

 千世子を見ると、彼女は目を見開いて首を振った。事は守永家と哲子だけの秘密。周囲には伏せている。

 久里子がやれやれとばかりに溜息をついた。

「父の知り合いの、財界にも顔が利く将校さんだよ。シャルロッテから聞いた話を、君が守永製菓に流したんだろう?」

「ちょっとそんな、流しただとか、悪いことみたいな言い方をしなくたって」

「悪いことじゃないとでも? 残念だよ。君ともあろう者が、まさか進んで世の風紀を乱す不良少女に成り下がるとは」

「待って待って」

 哲子は慌てて久里子を遮った。周囲を見回して声を潜めた。

「私は、いつもお世話になっている千世子のお父様に恩返しがしたかっただけ。新商品を売るための助けになればと思って、バレンタインデーのことを教えて差し上げただけ。風紀をどうこうだなんて、そんな大それた事、一度も考えてないから」

「それでも充分に罪深いと思うね。あちこちに広告を打ったんだろう? お陰で世のご婦人方は『緒恋来しょこら』に夢中。殿方は貰えるか貰えまいかと戦々恐々。十四日に起こるかもしれない混乱や暴動に備えて、各政令指定都市に軍隊を配備しようという話も出ているとか」

「冗談でしょう?」

「だといいけれどね。私の父の冗談はちっとも冗談に聞こえない。まったく。とんでもない社会問題だよこれは」

「社会問題おおいに結構。心のままに動いて、たとえそれで不良少女呼ばわりされたって、構うもんですか」

 突然そんなことを言い出したのは千世子だった。ぎょっとした哲子と久里子を尻目に、令嬢は澄ました調子で続けた。

「少し前に流行った歌にもあったじゃない。『命短し 恋せよ乙女 赤き唇あせぬ間に――』って。あれって本当だと最近しみじみ思うの。私、この場で宣言します。きっと晴馬さんに『緒恋来』を渡してみせる」

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