第2話
「どうだね、全国紙。感想は?」
からかうような太一郎の声に、哲子は唇を尖らせてみせた。
「下の句が不満です。今更ですけれど。『
「これくらいの方が心に残る。広報部の連中も君を褒めていたよ。目の付け所が良いと言って、手放しにね」
「恐縮です。先に他の大衆紙や雑誌に載せていた広告については、どうでしょう、成果は出てきていますか?」
「ああ。『バレンタインデー』の認知度は大いに高まっている。
よほど機嫌が良いとみえて、まるで娘の
十五の女学生以上のことをしてのけたつもりでいるのに、幼い頃と変わらない扱いを受けている。しかもそれを嬉しいと感じている自分がいる。哲子は頬を染めて俯いた。可笑しいような、少し物足りないような、複雑な心持ちだった。
十年前に交通事故で父親を亡くした哲子にとって、その父の朋友、守永太一郎は重恩の人だ。彼は大黒柱を
かねて太一郎への恩返しを考えていた哲子に天啓をもたらしたもの。それがある友人から聞いた『聖バレンタインデー』の話だった。二月十四日はウァレンティヌスなる聖人にゆかりの記念日で、西欧では、男女分け隔てなく、近親者や恋人に対して贈り物をすることがあるのだという。
かかる異邦の慣習を取り入れた大々的な新商品販促活動を展開してみてはどうか――。哲子の提案は、それが大衆向けの新聞や雑誌の爆発的普及という社会の流れに着目したものだったこともあり、太一郎の面白がる所となってすぐさま企画会議にかけられた。
様々な媒体で広告を打つという基本的な方針はそのままに、会議では想定購買層を女性に限定するという大胆な案が出された。明治の末頃から都市部を中心に高まり続ける風潮、『女性の地位向上』を強く求める気運に乗じようというのだった。
会議室に、太一郎は度々哲子を同伴した。大人たちと真っ向から意見を交わし合う中で、哲子は協力して一つのものを作り上げる楽しさを知った。認められることの悦びを知った。
「次は『大好評につき売り切れ店続出』とでも打たせてみるか」
腹に響く太一郎の声が哲子を幸福な回想から引き戻した。
「品切れの報告が上がってきているのですか?」
「いいや? 何、構わんだろう。『人気だという情報が人気を呼ぶ』。……それはそうと」
哲子の側を離れて、太一郎が窓の方を向いた。逆光の中、彼は少しく肩を落とした。
例のあのことに違いない、と哲子にはすぐに察しがついた。国内でも指折りの菓子製造会社の社長も、愛娘の初恋のこととなると頭を抱えてしまうらしい。
「分かるだろう。『カミツレさん』とやらの件さ。返す返すも気がかりだ。君と違って、うちのはどうにも子供だからね」
「千世子は聡明です。私などよりもずっと。おじさまの前では
「『緒恋来』を売る会社のトップが言うのも何だが、『それはそれ、これはこれ』だからね。利用価値があるからといって全面的に賛成というわけじゃない。『自由恋愛』なんぞ退廃の極みだ。公私混同するつもりは無いんだ私は」
きつい言葉に、哲子は思わず顔を伏せた。眼前に途方もなく高い壁を見たような、足元に奈落へ通じる穴が口を開けたような、寄る辺ない思いに心をひどく
それはそれ、これはこれ。よく分かっている。行動力と冒険心に溢れた立派な経営者である反面、私生活における太一郎は古例を尊ぶ保守的な人物。分別のある、線引きをきちんとする人だ。
項垂れた哲子の真後ろに太一郎が立った。
「いつか教えてくれた例の『読書会』は、まだ続けているんだね?」
「はい」
「書物に触れるのは良いことだ。私も邪魔はしたくない。ただここ数年、ほら、女流作家の醜聞は多いからね」
諭すような太一郎の声が胸を刺して痛かった。
「良からぬ影響を受けて、あれが若さ故の過ちを犯さんように、富士谷君、どうか君も気を付けてやってほしい」
頷いた哲子が口を開くより先に、部屋の扉を叩き、返事も待たずに開けた者があった。
「おはよおございまぁす」
噂をすれば影だ。太一郎の悩みの種、一人娘の
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