哲子の緒恋来(しょこら)

夕辺歩

第1話

 ある英国人貿易商が好物のウイスキーボンボンをイメージして建てさせた――。

 嘘か誠かそんな噂のまつわる異人館に、今は国内でも有数の菓子製造会社の経営者一家が暮らしている。

 何だか微笑ましい話だ。哲子てつこはこの洋風建築を見上げるたびにそう思う。遊び心があって良い。好感が持てる。

「おや、おはようございます」

 声のした方を振り仰ぐと、木斛もっこくに立てかけた梯子の高み、緑の陰から庭番の翁が手を振っていた。

「朝のお迎えご苦労様です。哲子お嬢様、いつにも増して早うございますな」

「おはようございます。須賀すがさん『お嬢様』は止して下さい」

「お寝坊な千世子ちよこお嬢様とは大違い。どれどれ」

 剪定鋏を腰袋に仕舞った須賀は傘寿さんじゅ間近とは思えない身軽な動きで芝生の上へと下りてきた。

「佐藤の婆さんに言うてお部屋の戸を叩かせましょう。哲子お嬢様はどうぞ食堂でお待ちを」

「須賀さん。『お嬢様』は」

「旦那様が新聞を読んでおられましたよ」

 そう言ってすれ違う間際、豆絞りで赤ら顔を拭く須賀がパチリと片目を閉じたのは偶々たまたまか、それとも底意そこいがあってのことだろうか。いったい何をどこまで知っているのやら、まったくもって食えない老人だと哲子は肩を竦める。

 吹き抜けの天井から下がる豪華なシャンデリア。隅にはオルガンと蓄音機。テーブルの上を彩る盛り花は、家政婦の一人、最年長の佐藤が生けたものだという。優美な曲線を描く飴色の階段を脇目に玄関ホールを奥へと進む。

 哲子は一家が以前暮らしていた都内の純日本家屋を思い出す。あの閑雅かんがな佇まいとは大いに異なる美、瀟洒しょうしゃな、かつて彼女には触れ得なかった新しい美がこの屋敷には満ちている。

 食堂の扉は半開きだった。寄り添うようにして中を覗くと、背の高い窓からレースのカーテン越しに降り注ぐ朝の光が、十二人掛けのダイニングテーブルに複雑なしまを落としているのが見えた。

 火を入れたばかりらしい暖炉、白いマントルピースの前に屈んでいた初老の男が立ち上がった。屋敷の主、守永太一郎もりながたいちろうだ。出勤前らしく既に背広姿の彼は、何気ない様子で振り向き、哲子の姿に気付いて、太い眉をひょいと跳ね上げた。人好きのする柔和な顔に満足そうな表情を浮かべた。

「また富士谷ふじや君が私の持論を裏打ちしてくれた。『物事を慎重に運ぶ者は足音を立てない』」

「こんな毛足の長い絨毯の上を、足音を立てて歩く女はおりません。おじさま、おはようございます」

 頷いた太一郎はすぐ側の椅子を引き、片手でテーブルの上を示した。扉を閉めた哲子は促されるまま席に着いた。

 開かれた朝刊の片面、全五段の記事下広告の左上辺り、いわゆる突き出し部分にそれはあった。

 守永製菓の新商品、チョコレート菓子『縁結び緒恋来しょこら』の宣伝広告だ。

 間もなくバレンタインデー! と太文字で記された下に『二月十四日は気になる男性にチョコレートを贈ろう』と端的な文言が続いている。妙齢の美女が面映おもはゆそうにハート型の菓子箱を差し出す可愛らしい挿絵も描かれている。女性の横には『一口でほころぶ顔が結ぶえん は来たるべき恋のいとぐち』の歌。哲子がんだものだ。

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