御徒町駅(JR線)
何故、敢えて御徒町駅を選んだか…。
本当ならば目と鼻の先にある上野駅を選んでも良かったのだが…理由は単純。単に上野駅にしてしまうと、乗り入れ線があまりにも多い為、タイトルが大変な長さになってしまうからだ。
その為、今回は御徒町、上野界隈という事で話をしようと思う。
江戸時代、この上野界隈というのは主に寺社町。
今でこそ随分と減ってしまったが、文久年間の古地図を見ると、非常に多くの神社仏閣が立ち並び、あとは下級武士の暮らす町屋がひしめき合っている。
御徒町という駅名も、現代では町名として存在せず、駅に名を残すのみとなってしまったが、その由来はこの一帯に
ほぼ長屋住まいなのだから、時代劇に登場する浪人や貧しい町人達の暮らしを想像して貰えれば、あれに近いものがあると思って頂いて良いだろう。
この上野界隈で最大の仏閣と言えば東叡山寛永寺。
幕末維新にかけては、新政府軍に抵抗する彰義隊が立て籠り、この上野戦争によって寛永寺伽藍の多くは焼失している。
東叡山寛永寺は言わずと知れた徳川将軍家の菩提寺として、寛永2年(1625年)に建てられた。
これは江戸城から見て北東…つまり鬼門を守護する意味で建てられたもので、京の都から見て北東に位置する比叡山延暦寺を模倣したもの。それ故、東の比叡山という事で東叡山の名が付けられた。
少々話は脱線するが、平安の頃から江戸時代になってもなお、都市開発というものは多くの場合、陰陽道で言われる様な吉凶に沿って作られている。
この江戸城の鬼門を守護する寛永寺のみならず、江戸城を取り巻くお堀の形も、地図を見ると、江戸城から渦巻き状に伸びている事がわかるが、これは気の流れが外から内へ流れ込む様に、この様な形で掘られたとも言われている。
余談はさておき、寛永寺に程近い場所に不忍池が現代でも残っているが、この池は寛永寺を建立した天海和尚が琵琶湖に見立てて作らせたもの。
池の中程に小島があって、そこに弁財天が祀られているが、これも琵琶湖の竹生島を模したものだ。
今でこそ蓮の名所となっているが、当時はここで蓮の実や蓮根の栽培をする目的もあったのだそうな。
桜の名所としても江戸の昔から、この上野は有名で、季節になると庶民が花見にやって来る事もあった。
しかし、前述にもある様に、東叡山寛永寺は徳川将軍家の菩提寺。
当然、庶民の出入りに関しても厳しく制限されていて、夕刻になると門は閉じられ、庶民は追い出されてしまうから、花見をしながら酒を飲んでどんちゃん騒ぎ…とは行かなかったようだ。
とはいえ、不忍池は年間通して人気の行楽地であったから、池の近くには出合茶屋と呼ばれる男女の密会所があったり、「けころ」と呼ばれる私娼も多く居たとか。
非合法とはいえ、短時間で二百文という安価だから、さぞ客も多かった事だろう。
花の山 鬼の門とは 思はれず
鬼門であろうと人気の行楽地であった事には違いない。
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