両国駅(JR線、都営大江戸線)
南北に延びる隅田川に架かる両国橋。
この両国橋名物と言えば、現代まで続く隅田川の花火である。
花火の掛け声でお馴染み「玉屋、鍵屋」はともに江戸の花火師であるが、庶民から評判が良かったのは玉屋の方だったという。
この玉屋、鍵屋が花火を大々的に打ち上げたのは、隅田川の川開きの時で、玉屋は両国橋の上流、鍵屋は下流で打ち上げるのが定番となっていたそうだ。
しかしながら、天保十四年(1843年)、玉屋は火事を起こしてしまい、町の半分近くを焼いてしまった。
当時、江戸の街における致命的な弱点は火災であったし、当然、火事を出した家は重罪。
それ故、玉屋は家財没収のうえ、江戸払いとなってしまった為、一代限りで潰えてしまった。
この江戸にとって火災は天敵という繋がりになる話ではあるが、ここ両国広小路は火除け地とされていた。だから道幅も広く、いざ火災が発生しても隣町まで燃え移らない様な作りになっていた訳だ。
その為、両国は見世物小屋やら食べ物屋が建ち並ぶ、江戸でも有数の盛り場ではあったものの、それらの店は全て仮設小屋。火除け地に常設の商店は建てられないからだ。
もう一つ…両国と言って誰もが想像するであろう名物と言えば、やはり大相撲。
現代は国技館もあり、相撲の聖地と呼んでも良い町であるが、そのルーツは浄土宗の寺院である回向院にある。
天明の頃から、この回向院の境内で勧進相撲が行われていて、それが現代まで続く大相撲の起源である。
それが由来で国技館(先代)も両国に建てられた。
ちなみにここで少しだけ相撲に触れておこうかと思う。
今でこそ相撲の番付に於いて最高位は横綱であるが、江戸時代、力士の番付で最高位は大関である。
勿論、横綱もあったにはあったのだが、当時の横綱は東西大関から一人ずつ選ばれ、上様の前で形を披露する特別な力士に与えられた称号であった。
それ故、天下無双と言われた伝説の大関、
さてさて…この両国という地名の由来となったのが実は両国橋なのだが、両国橋が最初に架けられたのが万治二年(1659年)で、隅田川で最初に架けられた橋でもある。
それまで橋が架けられていなかったのは、徳川家康が戦略上の理由で架けずにいた事による。
名前の由来は、下総国と武蔵国の両国を繋ぐ橋だから。
橋杭で 国と国とを 縫ひ合せ
文字通り両国を繋ぎ合わせた事で大きく発展した町だったと言えよう。
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