駅で辿る江戸文化
夏炉冬扇
日本橋駅(銀座線、東西線、都営浅草線)
日本橋と云えば、ご存知の方も多いだろうが、江戸時代から存在する五街道の起点。
即ち、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つ。
最初の日本橋が架けられたのは1603年、家康が幕府を開いた頃。明治に至るまでに大火などで焼け落ち、10回も作り直されていて、当然の事ながら、現代の石造りの日本橋は明治に入ってからのもの。ちなみに大阪にある
五街道の起点であるから、当然の様に全国各地の物がここに集まる様になる。江戸一番の繁華街で、庶民の街でもある訳だ。
歌川広重の『東海道五十三次』にある日本橋の浮世絵をご覧になった事がある方も多いと思う。
あの絵には日本橋の上を通る大名行列が描かれているが、実際に大名行列があの場所を通る事は有り得ない。
考えてみれば分かる事だが、日本橋界隈は江戸一番の繁華街であり、庶民の街なのだ。そんな場所を大名行列が通ったりでもしたら、どうなるだろう?
大名行列が通る際には、庶民はずっと地面に頭を擦り付ける様に平伏していないとならないから、商売なんてオチオチできたものじゃない。
さすがに幕府も「それじゃあ、庶民の生活が成り立ちゃしねぇよ」という訳で、諸大名には日本橋を通る事を禁じている。と言うよりは、大名行列はあらかじめコースが決められていたそうな。
では、広重は何故、日本橋の絵に大名行列を描き込んだのか…。
それは『東海道五十三次』の絵が今で言う旅行ガイドの様な物であり、また、写真が存在しなかった頃の江戸土産として人気があった為だ。
広重は江戸が日本の中心であり、諸大名がこの江戸に集まるのだという事を五街道の起点である日本橋の絵で強調したかったのだろう。
江戸本町一丁目にあった大店と言えば現在の三越の前身である三井越後屋。江戸でも有数の大呉服屋は金座付近にあったのだから、現在の日本銀行に近いという事になろう。また、他にも海苔で有名な山本山があったのもこの辺り。故に現在も老舗が多い。
この一帯は上方などから海運で物資が運ばれて来て、荷揚げされた場所でもあるし、魚河岸があったのも日本橋の北側であるから、かなり騒々しい場所だった。つまり、現在の築地の様なところが日本橋にあった訳だ。
また、江戸初期の吉原も日本橋人形町にあった遊廓で、新吉原として浅草の方に移転されたのは1657年、明暦の大火で焼失した事による。
三ヶ所へ 千金の降る 繁盛さ
こんな川柳からも当時の賑やかさが窺える。
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