その時地球が少しでも揺れたらいいのに
どん、と遠くで音がして小さな揺れが伝わってきた。
志村香里は蛇口をひねって皿を洗う手を止めた。水音が止まり、しんと静まり返るが、もう音はしなかった。上の階の住人ということはない。香里はこのマンションの最上階に住んでいるからだ。
地震だったかもしれないと思い直して、改めて部屋を見渡した。やっとのことで洗い物を終わらせたが、目に入る散らかった部屋を片づけきるにはかなりの時間を要するだろう。
でも今日で終わらせてしまわなければ。何と言っても今日一日、やっと取れた休みなのだ。何日振りかも定かではない。会社から告げられて突然空いた休みに、予定を入れることもできず、溜めに溜めた生活を片付けている。
しかし一度息をつくと、香里はそこから手が止まって動かせなくなってしまった。長い間床に座り込んで明滅する小さな画面を見つめていると、気が付けばカーテンの隙間から差し込む光が茜色に色づいていた。
重い腰を上げてゴミ出しに行くと、丁度大家と出くわした。ここに住んで長くなるが、口をへの字に結んだ常に機嫌の悪いこの男が未だにあまり得意でない。だが、香里はプラスチックばかりのゴミ袋を詰め込むと、ふと思い直して大家に話しかけた。
「…あの、さっき、揺れませんでした?」
大家はまっすぐこちらを見て眉をひそめる。一歩踏み出すと、ため息とともに口を開いた。
「またあんたか。困るんだよ、ここに花は」
視線の先にはキャリーケースを抱えた黒いスーツの男が立っていた。香里と同じ歳か、少し下くらいに見える。香里はその猫背で眼鏡の俯いた姿に見覚えがある気がしたが、どうしても思い出せなかった。
男はしばらく黙ってそこに居座っていたが、やがて花をもって帰っていった。部屋の窓からその後ろ姿を眺めながら、香里はその花を持って帰らないでほしいと思った。
完全に姿が見えなくなると、香里はなぜか悲しくてたまらなくなった。何かとても大切なことを忘れてしまっている気がしてならないのに、何を忘れてしまったのかどうしても分からない。誰かに何かを伝えないといけない気がする。そうだ、溜まったLINEも返さないと。そんなことより、そうだ、部屋の片づけも終わってないんだった。ベランダに引っ掛けちゃった洗濯物も頑張って救出しないと…明日も帰って来られるかわからないし。
だんだんと夜の青が空を覆っていくにつれて、香里のこころもゆっくりと暗く閉じていくようだった。あの音は何だったんだろうか。遠くで鳴ったような、すぐ近くで聞こえたような。あの低い音と振動と、夕暮れと一瞬香った優しい沈丁花の香り。香里はその花が好きだったことを思い出した。あの花を置いていってほしかった。
花が思い出させたのはそれだけだった。香里はもう間違えることなく、最後の日を正確に繰り返すだけだ。
せめて彼に、あの揺れが伝わっていたらいい。
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