午前四時の光
味気ないシャッターが降りた駅の前。そこには日中の暖かさの痕跡はもうない。始発を待つ人々の様子は様々だ。何が面白いのか、スマホを食い入るように見つめる人、くっつきすぎてもはや体がひとつになっている淫らな恋人たち、アスファルトにキスするくたびれたジャケットの若者。いつの日か今日のことを思い出して青春だったよな、なんて聞くに堪えない青臭い台詞を語り出しそうな青年たち…。その誰にも、明け方の冷えた風は等しく吹き付けている。もちろん俺にも。
しかし、時間は平等ではない。当たり前だ。朝家を出る前の三十分と、会社の昼休憩中の三十分と、始発を待つ三十分では過ぎる速度が全く違う。そして、駅前の広場で始発を待つ人間たちにもその三十分は不平等だ。ここで始発を待つ誰よりも俺が長い三十分を過ごしている自信がある。携帯は充電が切れ、寒空の下一人で白い息を眺めるしかやる事がない。何てこった。斜め上から彼らを見下ろしていた筈の俺が、一番長く不平等な時間を享受しているとは!
吹きさらしの中で待つのをやめ、風を凌ごうと駅を跨ぐ地下通路へと向かった。刺青の主張が強い若者たちや、n次会を終えても名残惜しそうな中年サラリーマンたち。人間が点在する通路を進むと、急に音楽が響いてきた。トンネルに入った時には気付かなかったのに、近づくとその歌声は力強い。
「兄さん、初めてかい?こいつは歌姫さ」
「姫だって?」
歌っているのは巨体の男だった。俺が一生着ないようなサイズの服は首元がくたって着古しているのが分かる。重量級の存在感はあるが、その分厚い肉に威圧感はない。しかし彼の存在を認識するまでは、落書きされた壁の一部かと錯覚するくらい背景に溶け込んでいた。話しかけてきたのは隣の寒そうな格好の女だ。傷んだ金髪と、できるだけ開けられたピアス。
「姫なもんか」
「馬鹿だね。見えるものしか見えてないのさ」
「おい、姫でもピザでもなんでも良いんだよ。こいつが歌姫って言うならこいつにとっては歌姫ってだけだ」
巨体の男を取り巻く群れから、床に座り込む背の低い男が口を挟む。
「なんだよ、会話してるだけだろ?突っかかるなよ」
「ハハッ」
別の痩せた男がその言葉を聞いて吹き出した。釣られて取り巻きたちは含みのある笑いを漏らす。笑い声はすぐに収まった。
「…何を歌ってるんだ?」
「愛さ、当たり前だろ?」
「当たり前なもんか」
背の低い男がしっしっと手を振る。
「帰りな」
「帰るなよ」と、寒そうな女。
その場の全員がこちらを見てニヤニヤと口角を上げる。苛ついてその場を離れようとすると、男は歌い出した。その歌声は低くて、重くて、そして耳障りがいい。さっき歌っていたのとは全く違うテイストだ。言葉は少ないが、これは「俺」の歌だ。「私」を、「僕」を歌っている。愛については歌っていない。
歌い終わると誰もこちらを見ていなかった。互いに誰のことも見ていない。俺は歌姫を見つめていた。愉快そうに体を揺らし、指でドラムを叩くようにリズムを刻んでいる。その場の者たちはただ、次の歌を待つ。あとは、たまに現れる参加者と、意味のない言葉を投げ合うだけだ。
頭の上の地面を揺らす車両の音と、増えた人通りで時間の経過に気がつくと、その集いは瞬く間に形を失った。俺も帰路に就く。取り巻きから出てきた二人組の男たちが話している。
「ああ、寒い。あんなところで歌っても一円にもならねえな」
「お前が払えば一円にはなるぜ」
「牛丼でも食べた方がマシだな。そもそも歌わない時間がいらねえんだ」
「そう思わない人もいるのさ」
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