水に沈む町

 遥香が目を覚ますと、水位は急激に増していて、もうぎりぎり鼻と口が水面に出ているのみになっていた。いつのまにここまで水浸しになっていたのか。水に浸っている部分は、体温でぬるまった水に揺られて非常に重く、動かせなかった。これは、あと一度目を閉じると全身が水に沈んでしまうだろう。

 一瞬目を閉じたが、すぐに思い直して重い体を起こした。ベッドは完全に水没しているが、体を起こせばまだ水は膝のあたりである。ひとまず水没を免れた遥香は息を吐いて、部屋の外を見渡した。

 遥香の寝室は2階なので、1階に続く階段は水の中だった。窓から見える景色は、大体どの家も1階あたりは水が登っているようだ。水が音を吸収するのか、今朝の町は静かだ。


 さて、これは夢である。遥香が朝実際に目を覚ます少し前に、いつも見る夢。遥香しかいない町で、ベッドの上で目が覚める。少し前からこの夢の町は水に浸っている。はじめは玄関から先が大きな水溜りになる程度だったのが、毎日だんだんと水位を増していき、気付けばもう水があるのが当たり前になっていた。

 水中というのに物は浮かない。1階の台所の小物も全て、キッチンに接着されたように身動きを取らない。昔は自由に町を散歩もできたが、今は、コーヒーが飲みたければ1階まで泳いで行くしか方法はない。しかし最近は無理して水に逆らわず、行動可能な範囲だけで過ごしていた。寝室でできる行動は限られるが、遥香はとりあえず読書をして過ごしていた。


「高橋さん、ねえちょっと」

 ぼんやりしていたようで、声の方を振り向くと、上司の女性がげんなりした顔でこちらを待っていた。「あ、すみませ…」最後まで言う前に、女性は書類を遥香の机に雑に置いた。

「お願いした資料、数字が変なんだけど。確認したの?適当に仕事しないでね」

 早口でそれだけ言うと、ため息混じりに女性は去った。遥香は返事をするタイミングを逃し、後ろ姿に向かって頭を下げた。

 夢のあと、再び現実のベッドで目を覚ました遥香はいつものように出勤した。遥香は社会人になってから、毎日夢で目を覚まし、その後現実でも目が覚めるという2度朝を迎える生活を送っていたが、目が覚めても夢を覚えているのはそのうち数回だけで、起きてしばらく経つとその記憶もぼんやりとして忘れてしまった。それでも今日の夢の印象は強烈に残っていた。夢で目が覚める時は、必ず2階のベッドで横になって始まる。次に目が覚めた時は、完全に水の中になっているだろう…


 終業時間になり、ぽつりぽつりと人が減っていく。夢見も良くないし、今日は早く帰って休もう。遥香が帰り支度をしていると、ふと、後ろに人影を感じて思わず声を出して驚きそうになった。かろうじて我慢して振り返ると、そこに立っていたのは昼間の上司だった。

「高橋さんもう帰るの?帰り支度だけは早いのね」

 上司は目が合うとそれだけ言って、手に持つ新しい書類に目を落とした。つられて遥香も目をやると、視線に気づいた上司は皮肉そうに笑った。

「これはいいわ、私がパッとやっておくから。その方が早いし」


 家に帰ると遥香は夕食をとる気にもならず、母親にもう寝るとだけ声をかけてから、仕事の服のままベッドに直行し横になった。目を閉じると夢の町が脳裏に浮かんだ。町はしっかり水に覆われていて、屋根まで上らなければ水を回避することはできなかった。屋根から見渡すと町を一望できる。小さなこの町は山に囲まれていて、川もなければ海もない。一体この水はどこから来たのか。初めは地面から染み出して湧き出していたかすかな兆しに過ぎなかったのに。


 このまま眠りに落ちれば目が覚めた時は水の中かもしれない。そう考えると恐ろしくて、遥香は長い間眠れなかった。身動きも取れず、スマホをいじって何の連絡もないSNSを確認する。体を動かすと、ベッドの脇に積まれた本が目に入ったが、今は読む気にもならなかった。

 頭では眠るのが恐ろしいと思いつつも、どんどん瞼は重くなっていき、次第に眠りに落ちた。手からはスマホが滑り落ち、しばらく光っていたがやがて画面も暗くなった。暗い部屋で、カーテンを閉め忘れた窓から月の明かりだけが差し込んでいる。




「…!!……っ!!」

 目を覚ますと水の中だった。肺に残った空気は瞬く間に無くなっていく。苦しみながら水から逃れようと窓を叩いて、遥香は驚愕した。町の外に、住人がいるのだ。犬の散歩、近所の小学生たちの鬼ごっこ…町は明らかに活気付いており、そこには一滴の水も無い。

 水中に沈んでいるのは遥香だけだった。

(お母さんは…?)

 1階はどうなっているのだろう。町に人がいるのなら、お母さんは無事だろうか。そう思うと、遥香は急に苦しみよりも悲しさが増して、どんどん泣きたくなってきた。もっとお母さんと話しておけば良かった…

「はるかー?」

 意識が薄れ、体の力が抜けてきた時だった。扉の向こうから、温かい声がする。必死に扉に近づこうともがき、水中で力を振り絞るが、もう彼女の体力は尽きていた。

(ごめんなさい、)

 諦めて眠りにつこうとした時、扉が開いた。水は勢いよく流れ出し、部屋の物も、遥香も、全て押し出されて世界は空気を取り戻した。


「遥香、起きた?化粧も落とさないで寝たらダメよ。それに、体調が悪いなら無理しないで休んでいいのよ」

 月明かりで照らされる母親を見て、遥香はぼろぼろと泣き出した。

 翌日、遥香は職場を休んでゆっくりと町を散歩して過ごした。母親とたくさん話をして、久しぶりに心から笑った。翌日以降、職場に復帰できるかは本人にも分からなかった。母親はそれに対して何も言わなかった。それでも、明日が明確に決まっていた頃より、今の彼女は自由に息をしている。

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