死にかけの吸血鬼の話

 地下鉄に揺られるのは今にも死にそうな吸血鬼だった。青白い顔の男の頬はこけていて、目の下のクマは暗く、不摂生を体現したような身なりだ。吸血鬼と言っても、身にまとうのは黒いマントなどではなくどこにでもいる会社員と同じスーツで、見た目は体が細すぎて不安にはなるが清潔感のある中年男性であった。しかし、今日ひとりの血も吸えなければ彼は、もう命を保つことはできなかった。

 電車は短い間隔で駅に止まり、人は自らベルトコンベアーに乗る部品のように同じ速さで詰め込まれていく。吸血鬼はただその人の流れを見つめていた。目の前に立つ男性は律義にリュックを手前に背負い、額に浮かんだ汗を拭っている。いくらか脂が乗りすぎだが、警戒心は少ない。その隣は化粧の薄い筋肉質な女性だ。何なら今の吸血鬼くらい撃退できそうだが、スマホに夢中で気付かないだろう。多種多様な人間が身動きの取れない状況で密室にいる。だがこんな人目にさらされた中では、吸える血も吸えないだろう。彼はどこでどう人の血を吸うべきかなど知らない。彼はこれまでひとりの血も吸ったことがなかったのだ。

 地下鉄を下りた彼が最後にやってきたのは小さな銭湯であった。まだぬるまっていないお湯から白い湯気が上がっている。がらんとした風呂場には、彼一人しかいない。そこは通い慣れた銭湯のようで、吸血鬼は勝手知ったる手つきで体を流すと湯舟に入り、待った。次に入ってくる人間が誰であろうと、もう意を決するしか道は残っていなかった。

 すると、いつの間にか一人の老人が体を流し終えていたようで、吸血鬼のいる湯舟にやってきた。少しの物音でも響く浴室にも関わらず、老人はほとんど体重がないとでも言うのか、全く存在感無くお湯に入ってきた。背は低く、少し曲がった背中には贅肉はない。老人は無表情のまま彼を一瞥して、そのまま背を向けて息をついた。この好機を逃さず、お湯を波立たせないように吸血鬼がそっと老人に近づき、息を殺し、その牙が老人にまさに差し掛かろうというその時!…急に老人がお湯を勢いよく波立たせて素早い動きでこちらを振り返り、まっすぐと彼の目を見つめて驚くほどの笑顔で挨拶をしたのだった。

 「それにしても…」

 その場で固まってしまった吸血鬼は老人の笑顔に毒気を抜かれ、後ずさるように数歩下がり、そのままお湯の中に腰を下ろした。

 「今日は熱くて中々良いお湯だな」

 老人は満面の笑みでしゃべり続ける。この手の老人は相手が誰でも、自分より若ければ当然話を聞くものと思っているものだ。陽気なしゃがれ声は二人しかいない浴室にひびきわたっている。吸血鬼は血を吸うのをやめることにした。そして、そこで彼の運命は決してしまった。

 なおも老人は話を続け、だんだんと吸血鬼の意識が薄れてきたころ、しかし老人は驚くことを口にした。なんと老人は自分が死神だと言う。吸血鬼はあっけにとられたように何も言わず死神の話を聞き続けた。

 「どうやら今日お前さんが死ぬ予定だというのが向こうでは話題になっとった。どれ、ひとつ迎えに行って顔を拝もうと思って俺はわざわざやってきたんだよ。それにしても、本当に最後まで血を吸わないとはなかなかの根性じゃあないか。お前は今まで一度も殺生をせずここまで来たのだから、そうだな…」

 死神は考えるそぶりをして元気よく湯から立ち上がり、ずんずんと吸血鬼に近寄る。

 「なにか一つだけ願いを聞いてやろう。もちろんなんでもいいぞ、地獄にかけてケチな事は言うまい。人間に生まれ変わることだってできる。どうする?」

 老人はしわしわの目を輝かせて、吸血鬼の生気のない目を覗き込む。「なんでもですか」つぶやいて考えだした吸血鬼をにこにこと見守る。あたりは湯気がいっそう濃くなったようで、二人の周囲は白く曇りきっていた。今誰かが風呂にやってきても、壁の富士山はもちろん、湯舟に誰かがいることすら見えないだろう。

 「では、このまま死ぬ運命を無くしてほしい」

 その回答を聞いて死神は目を瞬いて固まり、口を開けたまま沈黙してしまった。さっきまで生き生きとしていた死神は本当の老人のようにぎこちなく顔を傾げ、ようやく言葉の意味を理解したように急にまくしたてた。

 「そんな馬鹿なことを言いなさんな。お前はもし今日の死を逃れても、この先血を吸わなければ、そう遠くないうちに同じ運命を辿るだけだと分かっているんだろうな?…ああ、まさかとは思うが正気でそんな選択をするというのかい、お前は?命は救えても、病んだ体ものどの渇きもおなじ地獄が続くだけだぞ」

 「ケチな事は言わないのでしょう」

 吸血鬼はそれでも譲らなかった。立ち込める湯気がとうとう意志を持った煙のようにうごめいて二人を包み、老人はいなくなった。


 深い青色に男と書かれた暖簾をくぐり、死にかけ「だった」吸血鬼は風呂から出てきた。瓶の牛乳を一気に飲み干すと、吸血鬼に気付いた中年女性が「あら来てたの」と声をかけた。いつも受付にいる女性である。口を拭い、軽く頭を下げると女性は「いつもありがとね」と言って通り過ぎていった。何の変哲もない男の日常である。吸血鬼は自分の運命が変わって帰ってきたのだと思い知る。…束の間のボーナスタイムではあるが。


 あの世に戻った死神は、別の老人に声をかける。老人はどうだった、と聞くと死神は首を振って、肩をすくめて見せた。そのしぐさを見て老人は絶望したような表情に変わる。

 「あいつは吸血鬼のまま、死にかけのままで生きる事を選んださ」

 「そんな救いのないことはあるか。何のためにお前に頼んだと思って…」

 死神は眉毛を思い切り上げて老人を見つめ、大げさにため息を吐いた。

 「そもそもお前がやつを吸血鬼にしたのが原因なんだろうが」

 吸血鬼が前の人間としての生を終えた時に、この老人が吸血鬼としての生を授けたのであった。老人は稀代の吸血鬼として世に悪名を轟かせていたが、彼と出会ったその時、命を奪って生きるしかない生き方が嫌になり、彼の血を最後にすると決めた。そして、人間を吸血鬼にしたのも彼が最後となった。人間として死にかけていた彼は吸血鬼になることで救われたが、恩人と慕う師が血を吸わずに死にゆくのを見送った。

 「命を奪う事を否定して死んでいったのに、お前が吸血鬼にしたものが命を奪っては元も子もないとさ。お前はあいつを救いつつ、呪いをかけたのさ」

 哀れで可笑しくなった死神は、苦しむ老人を見て息を引きながら笑った。

 「この際こっそりやってくれてもいい。彼を人間にできないのか」

 「そりゃあ悪魔にでも頼むといいさ」

 吸血鬼は、自分を救った吸血鬼を否定もできず、同時に吸血鬼の生き方を否定する生きながらの地獄を選んだのだ。彼にこの呪いを与えた老人自身は、彼が生きている限り自責の念で苦しみ続けるのだが、彼はそれを知ることはない。すれ違って苦しみ続けるが、死神は彼らに互いの本心を伝える手助けをすることはないだろう。稀代の吸血鬼でも関係はない。どんな者であっても、死者の想いを生者に伝える術はないのである。

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