夏の落とし物
優柔不断な半袖の隙間から、冷たくなった風が吹き抜ける。見た目は全く変わらないのに、ここにはもう夏はいない。あんなに煩わしかった蝉の声も、いつから聞こえなくなったのかはっきりとは思い出せない。
それでも習慣は体からなかなか抜けないもので、今日も斎藤彼方は海へやってきた。大学が夏休みに入ってから毎朝のように通っていた、家から自転車で30分ほど走るとある、人のいない海岸。ここは夏でも人がほとんどいないから、8月の間でものびのびと海水浴のできる穴場スポットである。9月に入った今、もはや貸し切りのプライベートビーチである。浜辺は嘘みたいに綺麗だ。ゴミはあっても漂着物だけ。ただ、人がいないということはつまり特別な景色は無く、走り回るとすぐに一周できる大きさしかなく、すぐ目の前には白い煙を吐く工場地帯がそびえていて、ビーチに異世界を求める人々には満足されないのである。それでも、彼方はここに来るのが好きだった。
彼方はさらに、自転車を浜辺に乗り捨てて坂道を登り奥へ奥へと進んでいく。つい最近までは、蝉の声が頭にわんわんと響くほどの大喝采だったというのに。今日はいやに静かで頭の中がクリアに感じた。
次第に緑が深くなり、石畳の狭い道を抜けると、そこには小さな灯台がある。深い緑から覗くように現れる白い灯台は、夏みたいに太陽の光を浴びてきらきらと光をこぼしている。
ここに来るのも、今日で最後かな。そう、ちいさく声に出すような、頭のなかでだけつぶやくような、そんな言葉をこぼすと、急に強い風が木々を揺らしだした。静かだった辺りを突風は巻き上げながら、ごうごうと勢いよく空に吹き上げた。思わず瞑った目を開くと、灯台の側にしゃがみこむ小さな女の子がいた。おかっぱ頭の、小学校低学年くらいだろうか。いつからそこにいたのか、その子は強い風で乱れた髪を困ったように直している。
「君…一人?お母さんと来たの?」
思わず声をかけて、彼方ははっと気が付いた。顔を上げた少女は、灯台と同じように太陽の光を体いっぱいに浴びてきらきらと光をこぼしていた。その瞳はまるでこの夏をため込んで閉じ込めたみたいに、虹色の光がパチパチと揺らめいている。モネみたいな白いワンピースは周りの色を反射して淡く彩られている。
(この子は…まるで夏に置いていかれたみたいだな)
こちらを見つめて何も言わない少女を見て彼方は、今度は声に出さないようにそう思った。白いワンピースと海と灯台という組み合わせが、冷たい風と静けさと絶妙な違和感を生んでいて、そう思わされたのである。
「お兄さん」
少女に呼ばれて彼方はハッと息を飲んで固まった。
「お兄さんはサボりなの?」
思いもよらない質問に破顔し、彼方は少女の側に腰を下ろした。
「お兄さんは大学生だからまだ夏休みなんだよ。君こそサボりだろ」
「あかりはサボりじゃないよ」
どうやらあかりという名前らしい少女は、彼方の柔らかい話し方に気を許したようで、二人はしばらくそこで話していた。
「大学生は部活もないの?お母さんが言ってたよ、大学っていうのは他の学校と違って、すご く難しい勉強をするところで大変なんだって。お兄さんすごいんだね」
「あはは…そうかも、しれないね」
「ちがうの?」
「うーん、思ってたのとは、ちょっと違うかも…」
「あかり」
急に二人の世界に割り込んできたのは男の声だった。声の方を振り返り、彼方は思わず口を薄く開き、
「パパ」
と、声に出したのは少女の方だった。
少女は父親に駆け寄り、二人は言葉を交わしてから父親の方が彼方に小さく頭を下げた。少女は父親の手を握ったままこちらを見つめていたが、「帰ろうか」と父親に言われて、彼方の元に小走りで駆け寄ってきた。
「あのね」
こいこいと手で招いて、彼方の耳元で少女が言葉を残す。
「お兄さんに会った時、あかり、夏の妖精さんかとおもったの」
そのまま照れたように目を合わさずに、あかりは父親と去った。
夏をため込んで、置いていかれていたのは、どうやら僕の方だったのか。彼方はしばらくその場で海を眺めていたが、間もなく肌寒くなり帰ることにした。最初に言ったように、彼方がそこに通うのはその日が最後となった。やがて大学でも居場所を見つけて来年は海に来ないかもしれないが、本人にとってはその方が幸せかもしれない。
夏が終わっても、変わらず人のいない灯台と海はそこにあり、たしかに孤独で美しい思い出があったことは変わらない。願わくば、置いていかれた彼らを迎えに来てくれる人が現れんことを。
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