泥の池
佐野太一は不思議な体験をした。
新卒で入社した広告代理店で働く彼は、いつもの終電を目指して渋谷を歩いていた。上司の怒鳴り声が耳の中をぐるぐると回り続けているようで、耳がじんと痺れているような気がしたが、冷え込んだ夜の冷気がそう錯覚させたのかもしれない。もう何度も繰り返した毎日は、学生の頃よりも夜は長く、憧れをもって上京した当時と比べて重苦しいものとなり、佐野の体に澱のように堆積していた。自分は入社してから、止まることのできないマラソンに参加したのだと、寝不足の頭で考える日々だった。
その日、佐野が電車に乗り込むと、愉快な酔っ払いと疲れたサラリーマンに紛れて、この場に似つかわしくない真面目そうな制服の女子高生が乗っていた。彼女の両脇には生気を搾り取られた中年男性が鎮座し、目の前にはアルコール漬けの学生が、床になだれ込むようにして重なっていた。喧噪にも動じずに沈黙する少女のその姿は、屍の山に取り残された生贄のようでもあり、魑魅魍魎を従える百鬼夜行の主にも見えた。佐野は少女に見覚えがあると感じたが、とうとう終着駅まで思い出すことはできなかった。
ホームへ下りると、そこは毎日通う駅とは異なり、東京のくせにやけに静かで暗かった。違和感はあるものの、どこか懐かしい掲示板、向かいのホームへ渡る踏切、二つしかない自動改札機…。まさに、佐野が高校時代に通っていた地元の駅そのものではないか。しかし改札を出ると地元の街並みではなく、見たことのない風景だった。夜を遮る商業ビルやコンビニのような明りはなく、駅を出てすぐ目の前を横切る通りには、橙色の優しい明りの街灯が等間隔で並んでいる。東京にはない夜の帳は、眩しいほどの月を写す巨大なスクリーンのようだ。しかし白く光る月よりも、佐野が目を引かれたのは、通りの向かいに広がる大きな蓮の池だった。暗闇に月の光をうけて、中央で一輪の蓮が輝いていた。それは息を飲むほど美しく、ためらいつつも、佐野は蓮に引き寄せられるように、通りへ足を踏みだした。池を覗き込むと、蓮の葉に覆いつくされた水面には自分の顔すら映らなかった。突然大きな衝撃があり、佐野は沼の底へと滑り落ちていった。
頭まで入ってしまうと、池の中には少しの光もなく、すぐそこが水面かどうかさえも分からなくなった。必死にもがけばもがくほど、手足はだんだんと重くなり、佐野は足を動かすことを忘れ、腕もそのまま力なく投げ出された。鼻や耳から泥が流れ込んできて肺を満たすと、佐野はついに呼吸を忘れ、池の中は静寂に包まれた。そのうち皮膚の感覚も消え、泥と体の境界線が曖昧になると、ただ心臓の音がどくん、どくん、と池全体となって脈動した。
佐野は最後に、さっき電車で見た少女が、彼の高校時代に心を寄せていたクラスメイトだったことを思い出した。思い出の中で彼は、彼女と同じ電車に乗り、通い慣れた駅から帰る。おなかが空いてたまらない佐野は玄関で靴を脱ぎ捨て夕食の匂いを探って台所に走る。カレーの匂いにたまらなく嬉しくなった佐野が視線を上げると、手を洗ったかと小言を言いながらやさしく微笑む母親が言う、「おかえり」…そして、その記憶を掘り当てた所で思考を止めた。彼は考えることを忘れた。
深夜1時、駅前の大通りで、佐野は車道に投げ出されて血の海に顔をうずめていた。彼の命はまだかろうじてそこに留まっていたが、その魂はすでにそこになかった。
彼は苦しみのない池の中で眠っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます