缶ジュース
穂積薫には3歳年上の兄がいる。薫が中学に上がる時には兄は中学を満喫し終えて高校に上がり、薫が高校に上がる頃には兄は高校生の青春を十二分に吸い尽くしていた。兄は天真爛漫で、思ったことをすぐに口にする。ただ空気を読めないだけでなく、なぜか居るだけでその場が和む。対照的に、薫は寡黙で感情を表に出さなかった。
薫は今生まれて初めて怒っていた。同時に、大学のゼミで出会った女の子を家に連れてきたことを後悔していた。リビングでソファに深く沈みながらスマホをいじる兄を見て、これまで兄として一種の尊敬の念をもって見ていた男が、まったく別人のように感じられた。この獣のような男の精子が昨夜彼女を汚したと思うと、頭に血が上って目の裏がちかちかとした。
兄がトイレに立った隙に、机に置かれた缶のコーラを見てとっさに強く振った。これまで大きな感情の揺れを経験せず、反抗期もなく「善良な人間」として生きてきた薫は、他人に感情をあらわにすることがなかったため、一見稚拙に見えるその行動は、穂積薫の怒りを表出する語彙の貧困さを物語っていた。音もたてずに缶の中で爆発を控えているそのコーラを元の場所に戻した時、薫はだんだんと冷静さを取り戻してきた。もはや薫の中には怒りではなく、後悔だけが残っていた。そして、一度自分から出した怒りというものは、自分とは別物になって現実に残り消えないということを思い知った。薫の中で沸き立っていた感情は今や落ち着き静かな流れを取り戻していたが、缶の中でぐるぐると廻った勢いは変わらず爆発を控えていた。
戻ってきた兄がコーラを飲もうと缶のツメに指をかけた瞬間、薫はそれを制止した。「兄貴、それちょうだい」兄は困惑した。これまで弟が自分の物を欲しがることなどなかったし、ここまで飲む直前に要求するなんて、誰だってしないだろう。少し考えたが、兄はコーラを投げ渡した。昨夜弟が手を付ける直前の女の子を取ったようなものだから、これくらいはあげてもよいと考えた。
薫は受け取ったコーラをその場で開けた。躊躇なく溢れるコーラは薫の上半身を汚し、薫が予想した通りの大惨事を生んだ。薫は驚きもせず残った飲料を飲み干し、缶を片手で潰した。その間、ずっと兄弟は目を合わせていた。
兄は弟の姿を見て、自分がこれまで弟に与えたものは、彼にとって「与えられるもの」ではなく「奪われるもの」だったのだと訴えているのだと確信していた。それから半月のうちに兄は家を出て、その後弟と連絡は取り合わなかった。兄弟の関係が崩れたのは女性を取り合ったあの日ではなく、きっとコーラを被ったあの瞬間だったであろう。
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