目覚め

目覚め①一人の世界


 フライパンに敷かれた油が勢いよく飛び跳ねる。綺麗に二分割された卵の殻を流しに放ると、私は手際よく塩胡椒を振り、蓋を乗せた。ジュワーという音がこもった音へと変わる。

 目玉焼きは塩胡椒派である。若干残した半熟の黄身に、薄口しょうゆを垂らして食べる。

 出会って日が浅い人との会話に困ったときによく使われる話題だが、目玉焼きに何をかけて食べるかというのは、一度も意見が満場一致したことがないから不思議だ。

 ワンルームのこのアパートで、自分が恵まれていると感じるのは、同居人も塩胡椒/醤油派の一人であることだ。もちろん調味料はそれぞれかければ済む話だが、朝目の前で食事をする人間が、自分と同じものを食べているとなんだかうれしいのだ。

 目玉に白いもやがかかった頃が火の止め時である。黄身が固まりきらないうちに皿にあげ、手軽な野菜で彩りを与える。

 「あれ」

 室内は静まり返っていた。

 テレビはついているが音はない。

 換気扇を止めたとたん、すべての音が消えてしまった。

 どうして私は一人なんだろうか。

 床がゆっくりと傾いていくので、用意した朝食が次々と落下してしまった。

 硬い音がして目を落とすと、足元に転がる赤と緑の中で、割ったはずのまっ白の卵がくるくると回っていた。




目覚め②他者の存在


 流しの角に一度だけぶつけてヒビをいれる。経験上、何度も打ち付けてしまうと大抵殻が混じってしまうので、思い切りたたくようにしている。

 味噌汁も手軽なものだが用意できたし、冷蔵庫には週末に買い溜めておいた納豆のパックが2個残っているはずだ。あとはこの卵をベストな焼け具合にできれば最高の朝だ。

 毎日朝食を作るほど丁寧には生きていないが、休日くらいはこうやって、二人分の朝食を作る。大抵は同じメニューだが…。黄身が白く覆われたころに鉄板から救い上げ、レアを残すのが職人の技である。

 換気扇を切ると、いつのまにか同居人が味噌汁をつぎに台所へ来ていたことに気が付いた。てきぱきと仕事を進める彼は、にこにこしながら納豆の賞味期限を探していた。

 「お待たせ」

 ご飯を前にして両手を合わせる同居人に醤油を渡そうとして手を伸ばすと、いつのまにか彼の皿の上の目玉焼きは調理前の楕円の卵になっていた。

 「あ!」

 声を上げた私を見る。「どうしたの?」

 「目玉焼きってしょうゆ派だったっけ?」

 私の差し出した醤油に手を伸ばし、「ああ」とうなずくと、

 「うん。一緒でよかったよね」

 彼は回転する卵に醤油をかけた。

 いつのまにか私の皿の目玉焼きもまっ白の卵になっていた。




目覚め③他者は他者なのか、私が作った他者なのか


 毎日作っているわけではないのに、目玉焼きは目を瞑っていても作れるほどだ。焼き具合も勘で何とかなる。慣れとはそういうものだ。

 「うん。一緒でよかったよね」

 そう言って醤油を手に取る同居人の言葉だって。もうずっと朝食をともにしているのだ、予測することは容易い。

 なのにどうして卵は割れていないのだろう。白い皿に盛られているのはなぜいつまでも白い卵のままなのだ。

 言葉が間違っているんだろうか?

 私はもう一度彼に聞いた。

 「目玉焼きってしょうゆ派だったっけ?」

 「うん。ずっとそうだったじゃん」

 「いや、本当はソース派なんよ」

 「特に意識してないなあ」

 どの言葉でも卵は割れない。

 握った卵を思いきりたたきつけると、大きな音と共に家がぐらんと揺れた。もう一度。卵を割ろうとするたびに地面は揺れて、私はだんだん酔ってきて胃がぐるぐるした。

 どうしても卵は割れない。

 割れる言葉は私にはわからない。わからないのだ。




夢の終わり


 フライパンに落ちた卵には白い殻が混入していた。

 まあ、取り除いてしまえば同じである。

 鉄板から救い上げた目玉焼きは、鮮やかな黄色の目をした見事な固焼きとなっていた。

 まあ、現実なんてそんなものである。

 慣れとはそういうものだ。

 換気扇を止めると居間から声がした。

 「おはよう」

 つい今しがた起きてきた同居人は、大きなあくびをしながらカーテンを開けていた。

 ああ、カーテンを忘れていた。部屋は急に明るくなり、ついさっき見たばかりの夢がいかに現実味のないものだったのかを思い知らされる。見ている時は、夢だと思わないんだけれども。まあ、夢とはそんなものだ。

 朝陽は世界の隅々まで照らしあげ、木の葉の影を部屋へと映し出していた。

 「いただきます」

 両手を合わせる彼はまだ少し眠そうだが、いそいそと箸へと手を伸ばしている。

 私は聞いてみることにした。彼に、

 「ねえ、目玉焼きって―――」




おわり

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